南北の地球に跨る
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今どこにいるかというと、西カリマンタンのポンティアナックにいる。朝、03:00起きでスカルノハッタに向かい、05:00着06:00出発のはずが、07:15発になってしまった。バタビアでした。インドネシアでは、どの会社でも同じこと、一時間や二時間の遅れは常識の範囲内です。いちいち、腹を立てていたら、インドネシアでは暮らせません。
何の事前調査もしていなかった、だだ、まだ、行ったことがなかったので来てみた。何がどこにあるのか全く知らないで、行きあたりばったり立ったが、一応、空港の観光案内所でパンフレットを貰った。
09:30に到着、すぐに北に向かいシンカワンへ行った。何もないところで、西の海岸を見ただけで、ポンティアナックへ戻った。この地帯も、雨季になれば至る所が水浸しになるのでしょう、どの家も、30Cm以上床を地面から上げていて、所要道路までその高さの板敷きの橋が渡してある。
Sn.Kapuasカプアスという100m以上の幅がある川が街を縦横無尽に流れている。典型的な扇状地というのでしょうか、いくつもの川に次から次へと出会い、それを渡って移動した。その川の名前が全て、カプアスと言うらしい。何々カプアスという言い方をしている。ホテルも、カプアスの名前が付いているものが多いが、やはり、カプアス何々という名前になっている。ドライバーにカプアスホテルといっただけではどこか分からないようだ。
思いもよらず、不思議な場所に出会った。またこの町の北に赤道の記念塔というか、北半球と南半球をまたがるようにムニュメントが作られている。北と南にまたがって西に向かい、左足は南、右足が北半球という状態で写真を撮った。こんな経験ははじめてだった。赤道の通過は数え切れないほどしているが、飛行機で通り過ぎていることが殆どで、地上で超えたのは多分初めてだと思うし、もし、今まであったとしても、川を船で通過したか、車で、街の中ではなく、森や林や田舎の道を通過している時で、気がつくことは無いし、それを、意識したこともなかった。今回は大都市の郊外ということで、立派な記念碑があり、名所にもなっている。欧米人も何人か来ていた。地元のデートスポットになっているようだ。
ジャワでは今でも毎日、スコールがある。異常気象で雨季が終わっていない感じがするが、ここは、完全に乾季になっているようで、入道雲が低い位置を覆っていて、流石に赤道直下、頭の真上からじりじりと太陽光が暑い。パラボラアンテナが完全に真上を向いている。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
仕事のことが頭から抜けない、心からエンジョイ出来ない。それを、見ていたら、閃いた。月曜日に早速やってみることが二つ浮んだ。
Singkawangへ行く途中の海岸で。
ポンティアナック市内にとどまる。旅の疲れと睡眠不足で、体が自分の間のではないように、筋肉がぴくぴく勝手に動くし、脳の中のここかしこで、クラックラとなにかが動いている、眠りにつくのか、意識を失うのか自分では判断できない変な状態になって,はっとして正気になるのか、目が覚めてしまうのか、これも分からずに自分に戻る。こんな状態を一日中繰り返しながら、何ヵ所か、めぼしいところを訪問した。夢の中で一日が過ぎたような気がするが、今は、正気に戻って書いている。
東へ向かって内陸に入るとイスラムの影は薄くなってクリスチャンの雰囲気になってくる。ルマーパンジャンといって長屋の伝統的な家屋が多くなってくる。完全にダヤック族の集団家屋で、私が訪問した家屋はそこの長のような人が出迎えて、説明してくれたが、200年前から6世代が住み続けているという、この長屋には250人住んでいて、結婚もこの中同志で結ばれると言う。全員が親戚関係になっているという。近親結婚で弊害は無いのでしょうか。その長屋の道を挟んで向かい側に一戸建てや二三軒がくっついた家があるが、これらの家の人たちも親戚関係らしい。本当に、山の中の部落というより、孤立した集団の長屋で、住む家が足りなくなれば継ぎ足していったという。緩やかな坂道に沿って立っているので、どこから立て始めたのか知らないが、高床式の床の高さが殆どないところから、3mくらいまでの高さまである。弥生時代の遺跡の高床式倉庫の丸木をくり抜いて作った梯子と同じ梯子で家の前の廊下のような処へ上るとそこは下が見える隙間が空いている板敷きの道のようになっていてどこの梯子を上ってもその家の前の廊下を通ってどの家にも行ける。長屋の入口がいくつもあって、どこでも入ると、また、3mくらいの廊下がある、其の廊下に各家の人が出てきていて、あちらこちらで話をしている。そこから、各家々の扉が等間隔であるのが見える。
その端の部屋が図書館と民芸品の展示場所になっていてそこに案内された。子供たちがぞろぞろ付いてくる。こういう現象は、昔のままの家を訪問するとどこでも同じである。誰もが人懐こい。
同じダヤックでもマハカム川沿いの、観光省の援助を受けて近年作り返したロングハウスに比べると本当に何の観光援助もなく自分たちだけで作ったようで、 本当に200年過ぎているとはこんな貧弱な建物で、とても思えない、せいぜい5~60年だと思う、また、釘が使われていた。外の廊下は、朽ちかけていて、怖くて歩けなかった。これらの多くは数年も使い続けられないと思うが、最近修復したような新しい材料を使っている場所も見当たらなかったのが不思議である。
こういう場所を訪問すると、自分の生活や仕事や人との係わりあいは何の意味があるのかと考えさせられる。生き方を考えさせられる。10年くらい前からの訪問者の記帳を見せてもらったが、日本人は一人も来ていない。ここの責任者も日本人に初めて会ったと言っていた。観光ツアーなどあるはずがない場所です。
Sehaという峠の茶屋の風景。
KUCHING KOTAKINABALU BRUNEIからのバスが来ていた。マレーシア領まで近いところは300Kmくらいです。一番近いマレーシアの町はクチンと言います。多くの欧米人観光客はコタキナバルとクチンをセットで訪れるそうです。私は時間が無くて国境を超えることはしなかった。
最終日、ポンティアナックの町を縦横に流れているカプアス川から街の様子を観光しようと思っていたが、生憎の大雨、屋根付きの大型ボートを見つけることができずに断念した。フェリーボートの発着場所はそこかしこにあるし、大型の貨物船が横付けされる港も沢山ある。観光船の港は少ない、そこへ行くアクセス道がまた目立たない狭い。地元の人が遊覧船や納涼船を楽しむという習慣は内容で、場所も船も少ないから外部からの観光客もその機会を探すことが難しいようです。在りそうな岸辺に行ってそこら辺の人に聞いても、あるかないか、あってもどこなのか知らない人がほとんどである。
市内観光をすることにしたが、それも、美術館や博物館もなく、車を使って巡るところもないときき、することが無くなってしまった。ショッピンギセンターでも行ってみるかと思ったが、時間が早く、開店していない。
そこで、その辺りにある土産物の店を見て回ることにした。アロエ関係の飲み物やお菓子、薬、が氾濫していた。アロエの形が似ているのでしょう。リダー、ビヤワッといって、トカゲの舌、という意味です。その他はインドドネシアならどこにでもあるクルプック(上げ煎餅)、乾燥魚、乾燥果物などが並んでいる。煎じ薬の元になる植物や木を乾燥したものも売っている。蜂蜜もどこでも売っている。
私が求める土産物というか記念品はTシャツです。その土地の名前が入っていて、その町の有名な建造物の写真がプリントされている物を必ず手に入れることにしている。今回は、赤道を表すモニュメントとポンティアナックが印刷されている物を買った。三万から五万Rpが相場です。サイズや生地の厚さで値段が変わるようです。Tシャツは何枚たまったでしょうか、数えたことが無いので沢山だということだけです。
今回の旅は、気分転換と新しいひらめきを求めようとしていて、旅そのものは殆ど上の空だった。こんな旅は初めてであった。
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それでも、ゴムの木から採取したゴムを板状にして天日干しにし、ある程度水分を抜いてからゴム工場に出荷するということを、道端に広げて、天日干しをしていた人から聞いた。得も言われぬ臭さで二度とかぎたくない臭さだった。
イカンサルジュといってまっ白い肉の淡水魚、価格はこれで1500円くらいする。かなり高い。15Cmくらいの厚さで胴体を輪切りにしてホットプレートのような状態で出てきた。タイを柔らかく似たような感じで皮の内側にこってりと脂が乗っていて、大変おいしかった。綺麗に平らげた。このポンティアナックのカプアス川にしかいないという魚。
20:00に家に戻っている。