cover
Kampung Naga Tasik

パンガンダランから10;00過ぎに出発、このまま帰るには早すぎるし、途中どこかに寄りたいと思いながら、タシクマラヤだがガルットの近くに非常に伝統的で閉鎖的な生活を未だに守っているカンプン ナガという集落があることを思い出してタシクマラヤの町中で道を聞いたら、警官も含めて数人が集まってきて、皆でわいわい言いながら、地図を書いて道を教えてくれた。そこから、ガルットの東南方面で、40Km以上あると聞かされた。寄り道は最初から決めていたことなので、行くことにした。

以前ガルングンへ行った時、途中にあったような気がしていた、伝統的な部落へ寄ってみることにした。タシクマラヤ側から道は単純で殆ど一本道に近かった。途中、ウェブサイトでも紹介済みのガルングンは右折という看板をいくつも見ながら、真っ直ぐのガルットを目指した。そにて、到着した。  外国人はガイドを使わなければ部落へ入れないことになっているらしい。駐車場着いたら、係りの人が、直ぐに、何語のガイドが希望か聞きに来た。日本語、といったら、いないと言われた。それでは、何語でもいいよ、と言ったら、インドネシア語しかできないガイドを連れてきた。出身がこのカンプンナガで、家を継ぐ人は長男と決まっているし、男がいない家は部落の中の長男以外から婿をとる。それ以外の人は部落から出なければならない。そういう人に一人で、今ガイドをしている、と、言っていた。

電気もガスも来ていないし、引いてもいけない、ガスボンベを使ってはいけない。燃料は木や草、竹を乾燥したものか家畜の糞を乾燥して使う。灯りは灯油。テレビアンテナが見えたので、どうしているのか聞いたら、バッテリーだという。チャージは部落の上の家のコンセントを借りてする。三日間チャージするとフルになる。フルの状態なら、昼間付けっぱなしにしても一週間もつそうだ。切れたら、三日間見ないのか、と聞いたら、そうだという。予備は持っていないのかと聞いたら、そんな金は無いし、どうしても、どうしても見たければ、二軒でもっているので、見ることが出来る家に行ってみればいいらしい。回りに棚田があって、米の収穫は自給するのに十分らしい、収入は竹で編んだ、色々な道具類、ザル、箕、笠、色々な容器をスーパーへ卸すし、部落の中でも観光客に売っている。

2009年、8月だったと思う。政府からインドネシア全体の方針として、灯油の使用自粛と二倍に値上げの方針が示されて、LPGに切り替えるように勧められた。前にも書いたが黄緑色の小型携帯ボンベを大量に生産し、最初は電気が無く灯油ランプを使っている田舎の家にはそのボンベが只で配られた。その時、この部落をそれを拒否した。どうしても灯油しか使わないといって、政府に特例を要求したが、受け入れられなかった。そこで、部落で相談した結果。ピケを張って、観光客の受け入れを拒否した。困ったのは観光省でした。

超原始生活?の意地

部落は車の通りから50m以上下にある。そのため、車の通りの脇にバスや車の駐車場を作り、その周りには地元をはじき出された人の仕事を作るために、駐車場係とか、ガイドとか土産物売りの店やレストランも観光省が与えた。

せっかく、インドネシアツアー中の外国人が、知らずのこの場所を訪れて、一悶着起きる、皆さん、せっかく、期待してきたのに、部落へ入れない。外国から大コンプレン、政府も困ってしまった。特例中の特例として、灯油を安く、十分な量を供給するという回答を半年後に獲得した。直ちに解放した。そういう一騒動が在った。

 部落へ下りる階段は大変急で、帰りが大変だった。一息には登りきれない、途中で休憩が必要だ。部落の面積や家の戸数は増やさない。10年に一度作りかえる、部落民総勢で手伝い一週間で作ってしまう。材料は骨組みが木、壁や扉は竹を色々な幅で手くられていた。屋根は、昔、日本でも箒の材料になっていたので見たことがあるシュロを使って葺く。ところどころに50cm四方のガラスが埋められていて太陽光を部屋の中に入れる工夫をしてある。勿論、電気器具はまったく置いてない、そりゃそうです、電気を使っていません。

金持ちも貧乏人もいない。完全共産主義だと思う。

当然ながら学校や診療所はない。上の道沿いの学校へ行っている。人員構成は、非常に巧みに調整しているらしい。妊婦も生んだばかりの女性も表に出ている。外で、おっぱいを飲ませていた。老人も大変多い。長生きの部落だという。聞くと、80位に人も多いとか、外へ出て、女性の観光客に話しかけられて、一緒に写真を撮るのが楽しみだという。

生活のストレスが少ないと思う。そういう状態に部落じゅうが一致しているのです。結婚式や葬式もお互いの食べ物や衣装を貸しあう、そして、何週間後には、手伝いありがとうパーティーをするとか、とにかく、和やかに、喧嘩は全く無く、全員が家族のように暮らしているという。私には、とても我慢できない世界ですが、なんとなく、ずっと昔の日本の山村の部落に似ているような気がして懐かしい。田んぼのあぜ道も何十年振りかに両手を広げてバランスを取りながら歩いた。

 白川郷のミニ版といったところか、こちらの方が大分知恵が遅れていて、何もしない、何も進化を望まないという風である。欧米人にこのまれそうな場所である。

  場所的にはパパンダヤンからか知らないが、有史以前に流れた幾筋かの溶岩流が在り、それぞれの尾根に主要道路あり、谷間の底に川が流れ、集落が続いている、その中の一つがカンプン ナガである。向こうの尾根とこちらの尾根に挟まれた谷間のそこの川に向かって広大な棚田の景色が素晴らしい。何キロも続く。インドネシアらしい風景である。この棚田で二期作、三期昨をするのですから、日本の棚田の風景などは規模的に100分の1も無い貧者なもので、市場開放をしないというのは全くナンセンスです。話は別の方向へ行ってしまうが、全く太刀打ちできない物を太刀打ちできるようにと補助をするのはどんなものか、永久に自立が出来ないとわかっていて、金をそそぎこむのは如何なものか。

 カンプンナガを出て、ガルットに向かった。10分ぐらいでガルットに入り、町はずれの道を通り抜けると、バンドゥン方面になる。二十分くらいでチパナスの入口が左にある。この付近洒落たレストランヤ土産物屋が新しくできていて、賑やかになっている。
 タシクの西はずれを目指すが、途中から、出来上がったばかりの西方向一方通行の道に入る。山を削って作ったインドネシアデは珍しい道理である。三角形の一辺で、それも新装開店の道、バンドゥンのすぐ手前で行くときに使った道と合流した。まったく、登る下りの激しい以前の道が使わなくなって、30分以上の短縮だし、事故や故障車と出合うことも無くなった。途中の道の両側に何十軒と並んでいる焼き芋屋の向かい同士で、売り上げにおおきな差が出来てしまうことは必至である。