住環境を変えてみよう 1
私はインドネシアで四箇所に住みました。24日に五箇所目に引越しをします。96年、初めてインドネシアへ赴任してきた時はリッポチカランのクラウンコートというアパートの8階でした。ジャカルタではありませんでした。全て、赴任前に時の社長が手配してくれ私たちのために準備しておいてくれたところでした。家賃は、1ジュタRp(5万円くらい、当時にレートは20Rp=1円でした)でした。殺風景な二部屋にシングルベッドが一つずつ、シャワー室とトイレが一緒、台所が着いていて、ガス、水、は供給されていた。印象としてはこんなところに放り込まれたと思った。現在は、大変にぎやかになっていて、おおきなスーパーや日本食レストランも大丈夫かと思うほどあるが、同時は、殺風景で、食事をするにはショッピングモールのインドネシアンレストランでするしかなかった。いい悪いではなくて、選択の手段が無かった。テレビはインドネシアの何チャンネルしか写らないので、時間の過ごし方にも困った。三人別の部屋だったが、良く集まって、インドネシアの生活について仕事について、愚痴を言い合ったり、聞き役をしたりだった。
二三ヶ月もしないうちに、日本人の住環境がどんな物か分かってきた。皆さんジャカルタの高級アパートに住んでいる。チカランやブカシの工業団地に比較的近いところへ住んでいる人たちも、私たちよりはるかにグレードの高いところに住んでいることが分かった。
8月に赴任だったので、11月くらいから雨季に入った。湿度が大変高く洗濯物は乾かない、部屋の中に干すしかないので、部屋の全体がじめじめした。トカゲの小さいチチャックという動物がそこかしこと徘徊しだした。今はなんとも無いが、当時は非常に気になった。寝ている最中にベッドに潜り込んできたりした。そのうちネズミが徘徊する光景を良く見かけるようになった。
今でもこのアパートは韓国の人たちが多く住んでいる。日本人は住んでいないと聞いている。だから、日本人にこの話をしても、何処のアパートなのか知らない。カラオケの女性を連れ込むには大変便利と聞いている。それがらみの殺人事件や飛び降り自殺事件もあった。
住環境を変えてみよう 2
半年で、クラウンコートから出た。その時、一緒にいた日本人の若者の一人は奥さんと子供と一緒にジャカルタへ住むようになった。もう一人は、独身だったが、活動的で環境に溶け込みやすい人だったので、彼女を作って、別の一軒家に住むために出て行った。私だけ残ったが、警備がしっかりしている外国人向け集合住宅がチカランの北のほうにできたと言う話を聞いて、下見に行き、気にいったのでそこへ移ることにした。家賃は2ジュタで10万円くらいだった。しかし、支払うのは使った電話代だけで、水や電気代は含まれていた。そこが、グラハチカランでした。結局、ここは出たり入ったりで、合計6年以上は住んだでしょうか。この住宅は当時新築で、奥にはインドネシア人のための分譲住宅地も広がっていた。塀や鉄条網で囲われた外国人専用の住宅地は中に広い日本食レストランもありテニスコートやスイミングプールもあり、ドライビングレンジも工事中だった、結局それは完成しなかったが、100人近くの日本人が一時期は住んでいた。カラオケまで開業をした。1998年の暴動の前がピークだった。その時、帰国した日本人の半数ほどがここへは戻ってこなかった。ジャカルタからとおいことと、周りがあまりにもローカルだから治安的に心配したのでしょう。50人ほどになり、それから増えることは無かった。私が帰国した、1999年夏には30人ほどになっていた。
最初、二年半ほど住んで、仕事が終わり、日本へ帰った。
2000年夏、再びグラハチカランへ戻った時には20人ほどだった。レストランも営業をしなくなっていた。ミニスーパーも休業になった。寂れる一方になった。新しい人は入ってこない。家賃は4.5ジュタだった。その時のレートが90Rp=1円だから、5万円くらいと、住環境は変わらないが、新たに入る人がいないので、円で換算すると半値になっていた。経営も苦しくなり、事務所やレストランを閉鎖し、日本人向け弁当の配達業も始めた。経営も今までの持ち主から、ユディさんに売られた。ブカシ警察のトップに近い人で、それ以後、警察が仕事をするためなのか何か良く分からないが、部屋を借りるようになった。おかげで、ユディさんとはココを出て、帰国するまで親しく付き合うようになった。一年経過し、田舎暮らしがつづいたので、ちょっと、皆のすなる、ジャカルタ暮らしをしたくなった。
インドネシアで楽しく暮す 12-3
住環境を変えてみよう 3
中央ジャカルタの中心、スマンギ交差点のアストンホテルに引っ越した。大変目立つホテルで三本のピンクのノッポビルディングで構成されていて二棟はアパートメントになっている。日本人や欧米人が多く入っている。なんと、1500US$である。当時のレートで約20万円だった。一日7000円である。何がいいかというと何もない。17階で景色がいい?それだけ、通勤がまた大変。出勤は高速道路にすぐは入れたが、帰りは一方通行とスリーインワンを避けるために大回りをしなければならなかったし、渋滞が酷かった。3時間かかる。出勤は1時間だった。我ながら、とんでもない状態を選んでしまったと大変後悔した。しかし、半年の契約で、前払いしたので、出てしまうわけに行かないし、何かいいことがあるかもしれないと期待した。
しかし、何を期待するのか、考えてみれば期待する事柄がない。その通り、何も起きない。一回、洪水があって、地下駐車場に置いてあった車が移動できなくなったことぐらい。水が引いて外に出すことが出来たが、高速道路が洪水で冠水し、通行止めになっていたが、構わず進入して走って会社に向ったが何とか通ることが出来た。その時は只だった。其れが良いことだった?
おおきな損をしたと感じ、期限どおりにそこを出て、また、グラハチカランへ舞い戻った。今度は3.5ジュタになっていた。住人は私を含めて4人である。五列並んでいる長屋の一番手前の入り口に一番近い場所に入った。そのほか二列目の一番奥に日本人、一列目の一番奥にオーストラリア人、そして、私の部屋の下に持ち主(大家さん)になったユディさん夫妻(子供はいない)それだけである。
三列めより奥には人は誰もいない。ゴーストタウンの様相である。新築から7年過ぎていた、手入れをしないので、朽ちかけ始めていた。
住環境を変えてみよう 4
そこに2006年のパニック障害帰国まで住んでいたのだが、大変快適だった。もう、近所の人とは顔見知りになって、近所では有名人になっていた。危険など感じようがない。そうこうするうちに、マリアさん問題が深刻になってきた。彼女のために大変気分は疲れた。日本人が出て行った。そして、オーストラリア人も出て行った。管理人家族と私たちだけが残った。だからと言って、出て行こうとは全く思わなかった。
マリアさんがらみの事件が色々あって、そのうち、無くなって来て、落ち着いて、やれやれのころから、社長が交替し、会社で私に対する虐めと、排除手段が強烈になってきた。かなり、会社でストレスが増してきた。それに、帰国も近くなって、あちこちへ無理をして旅にも出ていた。その結果パニック障害になってしまった。私のウェブサイトで確認してもらえばいいと思いますが、酷かった。それでも、住環境には満足していた。病院アニッサも近かったので、何回か病院にも世話になった。
その間、大家さんのユディさんと奥さんは私のことを大変心配してくれて、良く何度も見舞いに来てくれた。大変感謝している。
やむ終えず、無理やり、帰国してしまったが、改めて、帰国の整理をするためにインドネシアへ来た時も、今度来たらまた、住むように言われた。私も,そのつもりにしていたし、実際、現社長にも頼んだ。
都合、7年間ぐらい、ここに住んだが、いい思い出が一杯の場所だった。多くの日本人の入居者とも親しくなった。再び訪れることは無いと思うが、今行けば皆さん大歓迎をしてくれるでしょう。しかし、私は、その地では死んだ人間だ。色々な場所で死んだうちの一箇所になった。
住環境を変えてみよう 5
そして、日本の一年は東海道“鞠子の宿“とろろ汁の丁子屋で名の知れた静岡の丸子の家で自宅療養と洒落込んだ。
休養、療養、栄養も充分で太ってしまって、これではいけないとまた、インドネシアで一仕事をする画策を錬った。
そして、現在の会社で働くため、再び、インドネシアに住むことになった。最初の住処はデルタマスの一軒やというか、つながった一軒やというか、家賃1.5万円くらいの家だった。現社長があてがってくれた家である。1996年の時もそうだったが、自分で見て確認した家ではなかった。どの道、一般の日本人が住む住宅地でも住宅でもない。私でなければ絶対逃げ出すような環境である。私は入った当初は何の不自由も不満も感じなかったが、次第に、近隣に対する不満が出てきた。と言うのも、私が入った一角は、インドネシア人にしてみれば高級住宅地である。入居できるインドネシア人は中流以上の小金持ちの人たちである。一種のプライドがある。車もある。駐車場も屋根をつける家が多い。そういうわけかどうか分からないが、態度が総じて横柄である。お手伝いさんの扱いも横柄である。使い慣れないインドネシア人がお手伝いさんを使い始めたという感じで、スマートさに欠ける。
隣近所の迷惑をあまり、考えなくてもいいところに今まで住んでいたのでしょう。私のホームページの引越し、に詳しく書いてあります。多分、皆さん、驚くことでしょう。
住環境を変えてみよう 6
二年契約をしたので、ここがインドネシアでの終の棲家になることでしょう。今のところ、1週間程度の住み心地ですが、居間が1階に、二階に寝室や風呂場があるので、階段の上り下りをしないと生活が出来ない。その点、いいのやら悪いのやら、まだ、結論を出すのは早い。とにかく、家賃の割に豪華な邸宅である。
ガロンボトルをひっくり返して使う。日本語の名前は知らないがこちらではウォーターディスペンサーと言います。一般的には熱湯と冷水が出るようになっています。勿論スイッチを切れば普通の水になります。何処にでもあります。会社にも家にも、これがないと生活できないと言うくらいの必需装置です。
これだけに構造の家で、もし、ジャカルタのポンドックインダーの一軒家なら十倍はします。そして、1500US$も払ってジャカルタの高層アパートに住んでも、これほどの構造の部屋はありません。
こういうところへ住める条件は、インドネシア語が普通に出来ること、ジャカルタから40km以上離れていても大丈夫な人、日本人が近所に住んでいなくても大丈夫な人、ほかの日本人と条件が同じでなくても構わない人。たったこれだけの条件でこういう住宅に格安で住めるのです。
もうひとつ、ちょっと、気合を入れて自分で探すことが出来る人。他人の情報ばかりを待っていては見つかりません。
私の住んでいる町というか新興住宅地もそうですが、インドネシア人のための(当たり前)分譲住宅地はあちこちにあり、そこのすべてで、売りたい、や、貸したい、のビラが貼られている家が沢山ある。連絡用の電話番号も必ず書いてある。
是非、自分で探してみてください。それがまた、インドネシア馴染む手段の一つになるでしょう。そういうことが出来ない、人は馴染むのが遅い人でしょう。会社の社長さんも、おおきな背もたれの椅子に踏ん反り返りたい気持ちも分からないわけではありませんが、その実、田舎でインドネシア人に混じって住んでいるなどと言うのは、もっと、いい気持ちになるし、インドネシア人も親しみを感じます。
住環境を変えてみよう 7
その時の会社から、追い出された後、タマンセントサに引っ越した。マリアさんも、家に帰した。それから、グラハチカランに再度、戻り、現在の場所にいる。引っ越しは、20年間で9回、今の場所は、8回目の場所だ。今のところが、インドネシアで最終かと言えば、そうでもないかも知れない。