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EssayⅠ

2008年5月12日インドネシアで楽しく暮す 1-1

インドネシアで仕事をする日本人は、会社の規則で、安全のため、責任のため、車を運転してはいけない事になっています。ですから、当然、車と運転手は会社持ちで与えられます。日本では想像できないほど運転マナーはでたらめだし、技術も低い。運転免許を取得するための試験はない。誰でも、18歳以上なら買うことができる。それも、日本で言う大型車ライセンスも、である。免許を買ってから、自分の責任で練習をする。子供がバイクを運転しているし、無免許運転も普通である。かく言う、私も無免許運転は何ヶ月かしていた。こちらは、国際免許は通用しない。

バスでもトラックでもタクシーでも外国人が使う運転手でも、雇う方の責任である。インドネシアに一時停止やどちらが優先などという規則は無い。

 ちょっと込み合えば、ファイティングの始まりです。信号などは関係ない。譲り合いの気持ちのかけらも無い。そこで日本人はそのファイティングに割り込む必要は無い。運転手に任せるのは当たり前である。

 ところが、私は変です。運転手に任すことができないのです。自分なら、もっとうまく割り込めるし、もっとうまく先頭に出ることができると思うからです。

 また、車の中の温度や風向きを自分の気持ちだけで切り替えたいのです。いちいち、運転手に命令したり、頼んだりするのがいやなのです。また、頼んでも、自分の思うようにはなりません。

渋滞なら、自分で進路を選びたいのです。運転手任せだと、遅い車線でのんびりと運転したがるような気がするのです。他の車線のほうがどんどん進んでいるような気がするのです。自分で運転なら納得します。

見知らぬところへ、自分で探しながら、聞きながら、運転して出かけることが好きなのです。変わった出会いや、思わぬ景色に触れる事があるからです。

私が、日本人の中でインドネシアでの運転走行距離はずば抜けて長いでしょう。一年三万キロ以上、10年で三十万キロメートル以上は運転しています。

13日 インドネシアで楽しく暮す 1-2

インドネシア車事情 2

車の運転の心構え、一般の日本人は、自分で実行することはありませんが、後の座席でふんぞり返って居眠りをしていないで、インドネシア語の単語のひとつ二つ覚えるとか、運転手がどんな運転をしているのか、チェックするとか、道端の様子はどうだとか、たまには、何かをしてほしいと思う。車は日本と同じ右ハンドルの左側通行です。

運転のコツ1 インドネシアはどんなことが前方であったとしても、インター閉鎖や通行止めにはなりませんから、必ず通過できます。

前方が渋滞していると分かったら、中央よりでなく、路肩よりの車線に移る。最終的には路肩まで行って走る。絶対にはやい。なぜか、路肩を走る車は少ない。また、割り込み側の方が先に出やすい。事故なら、例外はあるが、路片側の車線を塞いでいることが多い。だから、路片側は割り込み側である。中央車線側が塞がれている時や事故や故障ではなく、車線が減る前もとにかく渋滞はすぐ路肩を選ぶこと、

2 料金所の手前の渋滞はやはり左側、左端が、流れが速い。なぜか、料金徴収ゲートは左側に広がっているからです。三車線、四車線から直進するゲートは行列が長い、その行列の手前から、運転に慣れた人の車は左側に移動する。この時も割り込み側になる。だから、料金所の何百メートル手前では中央車線が早い、百メートル手前辺りから左側に割り込んで、最左にでる。この方法が一番早くゲートを抜けることができます。ただし、左側はウアンパスといってお釣りを要らない丁度の料金を払う車だけが通ることができるゲートになっていることが多い。そうなら、ぴったりを用意しておけばなお早い。持っていないときは、そこの手前の最左を選ぶ。しかし、そこはインドネシア、ぴったりのお金が無くても、ずうずうしく通過する車もある。長距離バスは特にそうだ。

3 一般道で二車線を走るときは、やはり、左側が追い越し車線になる。左側は荷車やバイクや人を避けなければならないので、のろのろのトラックは中央寄り車線を邪魔者無く走りたい。トラックが左に寄ってくれることを催促して、パッシングをしても無駄である、さっさと、左から追い越せばいいのです。日本とは全く逆です。

4 一般道、一車線対向車車線との分離帯が無い、普通の一般的な道で、長い渋滞になったらどうしますか、渋滞の原因は全く分かりません。

対向車線を進みます。どんどん行きます。前後の自分と同じ考えの車が走っています。前の車が速度を落としました。対向車が前方に来たからです。にらめっこです。より、右の路肩が空いていればそちらによけて対向車をやり過ごします。あるいは、左に割り込んでやり過ごします。また、対向車線を走ります。何回か繰り返し、渋滞原因の手前で、元の車線へ割り込めばいいのです。そこには必ず、何人かの整理屋さんがいて、ちゃんと得割り込ませてくれます。500(7円くらい)ルピア払います。

14日 インドネシアで楽しく暮す 1-3

インドネシア車事情 3

5 信号のある場所は赤でも左折はOKと書いてあるか、何も書いてなければ左折はOKです。だから、左折車線で止まっていれば、後ろからクラクションを鳴らされます。間違って直進したいのに左折車線を塞ぐことになってしまった場合は、警官がいなければ前に出て道を明けてやることができますが、いる場合は、左折するしかありません。また、ぐるっと回って戻ってくることになります。

基本的、一般的には警官がいなければ、自己責任でどこを走ってもいいのです。右折車線、直進、左折車線もマークはどうでもいいのです。右折車線に直進車がいて直進車線に右折車がいた場合、面白い。どちらかが勝つわけで、負けた方は腹を立ててクラクションを鳴らす。一般的には直線車線にいた右折車が勝つ。割りこの側は強引に入るからです。自分の方が前にでる自信があれば、車線はどこを走ってもいいのです。

6 前方になにかがあって、万が一通行止めになった時(洪水や交通事故)もし、対向車線に出ることができれば、対向車線を走っていいのです。病院や空港へ行くときなど緊急を要するならなおのことです。勿論、誰かが入っていけばそれに同調して言いし、誰もいなくて、自分が開拓すればいいのです。その後ろに必ず同調者が付いてきます。警官がいれば、対向車に注意を促してくれます。そこら辺りに住んでいる人も、道案内にでてきます。

7 信号は消えていることが多いので、それは無いと同じだから、自己責任でどうにでもはしればいいのですが、信号が生きているとき、青なら、前方が渋滞していてもどんどん詰めて交差点に入っていいのです。そのうち、前が赤になり脇の青信号からクラクションを鳴らしながら、入ってきます。無視していいのです。進めないものはどうしようもない。また、そのうち、反対車線が青になります。右折車がこちらへ向かってきます。直進車も動けません。卍固め状態に絡み合い、解けなくなります。そうなれば、交通整理屋さんが登場です。信号の変わり方は一本の道だけが青になります。四差路なら、四回信号が変わります。赤が消えると黄色になります。その後すぐに青になります。黄色に変わったとき、必ず誰かがクラクションを鳴らします。

今日はゴルフ無しで、今から、ジャティルフールというところへ出かける。日帰りである。

15日 My Profile 3

中卒や高卒の先輩で部下の人たちに金型の解体整備組み立ての方法を教えてもらいながら、製品化の訓練をした。夜勤中、上司の直接の目が無いのでいたずらが自由にでき、一番、能力を鍛えることができたと思う。半年もしないうちに、テクニック的には皆さんを追い抜いてしまった。樹脂から出るにおい、燃やしたときのにおいと煙の様子で大体樹脂の種類は判別が付いたし、チューブなどの肉厚0.1mm単位で、見ればわたる。径も0.1mm違えばわかる。出てくる樹脂をつまめば、経験したことがない樹脂でも、温度条件が、適切かどうか判断が付く。どの成形方法が最良かも瞬時にわかるようになっていた。現有する装置を一番使いこなせるようになっていて、生産開始を私のシフトから始めることが多くなり、後のシフトに引き渡す。途中でトラブルが発生し再立ち上げができないときは、寮によく呼び出しがかかった。技術導入した装置の改善にも取り組み、特に、素材生産ラインの圧力調整弁に画期的な改良を加え、劇的にロスを少なくしたことは、労働協約改定交渉でも有効だった。         

 その頃、入社して二年半、皆さんからおだて上げられて、自分も嫌いではないので、組合の執行委員長をやっていたこともあって、仕事は頭を使うのは当たり前だが体力勝負だと感じた。その点でも負けることは無かった。仕事も趣味のひとつになった。その気持ちは独立してからより強く感じ、今でもその気持ちは変わらない。独立してから、本人に聞いた話ですが、その人は、会社が休みの日、機械が運転されていない日に、新しい機械の据付とかメンテとかの工事をする業者でした。「工事に入った日に、必ず、現場にあの若い人が仕事をしているけれど、あの人はどういう人?」と変に思ったとか。

1970年三交替勤務を卒業し、日勤になったと同時に係長補佐、71年(28歳)には係長になっていた。そのころは押出機を使う現場すべて、丸棒、板、チューブ、プロファイルとガラス繊維強化ペレットの製造の責任者で部下が36人いた。実質は押出製造課長のようなもので、責任は非常に大きいと感じていた。このころ以後、現在でも、私がいる環境では、技術的にも価格的にも能力を示す意味でも、私ができるといえばできたし、それに取り組んで、その環境にも客先にも迷惑をかけたことはないし、これからも無いはずだ。私が難しい、無理といったことを、自分にやらせてほしいといって、名乗りを上げ挑戦したものも無かった。本当はそういう人間が登場するのを期待しているのだが。それほど皆さんが二の足を踏んでしまうもの、できるかできないか自分でも判断しにくいもの、それらは、ほとんどできるといってしまって、結局何とかしてしまった。

そんな感覚と、同時に、自分の将来像について考えに変化があった。上の方たちは相変わらず2年周期くらいで入れ替わる。そのたびに、状況を説明しなければならなかったし、まじめに、聞いてもらったという印象は無かった。残念ながら、その人たちにとっては望んで来ているわけではないので、半分腰が浮いてしまっていた。仕方が無いと同情もしたが、そういう私の先に出ない人達が私を評価するというのは、不合理に感じた。次第に将来の自分像がこの会社では描きにくくなってきた。誰に相談することも無く、その頃やめる決心をした。辞めた後どうするかは決めていなかったが、まず辞めることが先決だった。とりあえず、辞めてしまって開放感がうれしかった。1972年3月末だった。 

 辞表を提出する一年前の三月末日、28歳のとき、時の工場長に自分の立場について説明した。押出部門はすべて私に任せてもらうこと、出向の上巳は工場全体の製造部長以上にしてほしいこと、一年待って、今のままの状態のときは私が会社をやめること、今考えれば、かなり、無茶だったと思うが、その時は心底そう思って訴えた。しかし、聞いた側はそれほど深刻に受け止めなかった。

それから一年後、状況は全く変化なかった。私の立場について何の説明も説得もなかった。言った以上、ぴったり一年後の三月末日に辞表を提出した。翌日から出社しなかった。7年のサラリーマンでした。それから、説得が始まった。すでに遅い、予告をしてまで自分で決めたこと、いまさらの説得が効くはずはなかった。それでも許可が出なかった。結局、半年後9月末、30歳目前に離職票をもらうことができた。一生の問題について打ち明けているのに何の手も打たず、辞表を提出されて意味不明な説得をする会社や上巳のあわて具合が護身の姿勢が露骨で気の毒に見えた。今から考えても辞めたことは正解だったと思う。当時、一緒だった皆さんは定年を向え、自宅にいる人、自分で会社を息子さんと始めた人、色々な人がいます。今は、皆さん懐かしい。

16日 突然の訃報  寂しい

外国にいるとこんなこともあります。突然、大変悲しい話が舞い込んだ。

 

私にとって貴重な先輩を亡くした。一昨日、訃報を日本の元私の会社から受け取った。静岡県吉田町の南部化成()の田中牧さん65歳である。もう、日本へ帰っても会うことができない。死因は聞かない。

殆どインドネシアにいるので、今は年に一回か二回しかあっていなかったが、インドネシアで仕事をする前は、田中さんが会社の事情で、出社することができなくなり、私のところへ逃げてきたというか、朝、家を出て行くところが無いので、太田化工の第二工場にいた私の所へ出勤してきて、一日中、私の前の空いていた机で書き物をしていた。半年近く続いたでしょうか。

田中さんは、南部工業という沼津にあった会社に勤めていた。しかし、倒産してしまい、現会長の佐々木さんらと何人かで吉田工場だった現地に南部化成を作った。大番頭として、大車輪の活躍、会社が成長するにしたがって、英語が堪能なこともあり、上海やフィリッピンの工場をリーダーになって立ち上げた。その活躍は一静岡の小さな会社の社長としては、傍目で見ていてまぶしかった。

しかし、会社が大きくなりすぎて、本社に戻ったとき、経営という点では、やはり技術者であった。それを一番知っているのは彼自身だった。社長の大番頭として大きな会社のナンバーツーには向かなかった。やさしさだけでは無理だった。悩んで、私の所へきたのでした。すでに社長をやめていた私は喜んで迎えた。同じ、一技術者として、十分、気持ちを理解できたからです。

酒が好きで、タバコはすわなかった。私とは全く逆で、食事を共にするときは奇妙な光景だったと思う。しかし、よく、一緒に食事をし、将来を語り合った。同じプラスチックの押出の技術者としても、人の使い方にしても、考えるレベルが同じだった。それが、心地よかった。新潟大学の機械工学科卒である。

インドネシアで貴重な人の訃報を受け取るのはつらい、悲しみを分かち合う人がいないからだ。このことで、誰にも話ができないからだ。インドネシアは今朝も大雨。

ご冥福を遠くから祈ります。

 

17日 インドネシアで楽しく暮す 1-4

インドネシアの車事情 4

 日本人が使う車は会社から与えられるはずですが、私は、運転手を使わないで自分で運転する特殊な人ですから、車にもこだわりました。会社から当てえられる車はマニュアル車のセダンが多い。自分で車を買いました。キジャンのオートマ、2Lです。インドネシアの一般的な道にはセダンは向かない。深さや広さが想像を超える凸凹、そして、洪水、それを乗りきるには高床式で無ければならない。渋滞がおおいし、ゴルフの帰りに足がつるから、オートマでなければならない。想像を超える急な登り坂が多い、登れないトラックが立ち往生している。超のろのろの大型車が道を塞いでいる。どんどん、追い越さなければならない。高速道路も急勾配が多いので急加速が必要だ。

2001年に購入したが、その時点で、インドネシア産では最高級車だった。キジャンは国民車の感が強く、公式な高級な場所でもキジャンなら胸を張って、参入することができる。ホテルでのパーティーでもキジャンなら問題ない。現在は四回目のフルモデルチェンジのスタイルで、キジャンイノファ(KIJANG INNOVA)(250万円)という。やはり、インドネシアで一番売れているし、日系企業の大半は日本人にこの車を与えている。私の車はその前のモデルだが、すでに18万キロ走っているが、まだまだ、健在である。

そのほかで人気のある車は、ダイハツのゼニアとトヨタのアバンザが最近急に増えたようだ。価格は130万円ほど、日本の小型車の大きさ。日本より30%ほど高いと思う。輸入者は倍の価格になるという。

人気はやはり現地生産の日本車、日系で、80%以上閉めているでしょう韓国車は10%程度、その他、アメリカ、ヨーロッパをたして残りということでしょうか。

 

トラックは国産ではHINOが圧倒的、MITSUBISHIFUSOがあるがあまり見ない。

バスも似たようなもの、古い、何十年も前のトラックやバスはどこ製か分からない。路肩で、修理をしながら今でも使っている。ベンツのバスもずっと昔のタイプで今も走っている。なんといっても日本からの中古輸入トラック、排気ガス規制で日本では使えなくなったものが、大量に只同然で、輸入され、幅を利かせている。あたかも日本ではないかと思わせる日本の運送屋の名前が入ったトラックが私の周りを囲んでしまうことがある。他の外国のトラックは無い、日本のトラックだけである。

 

 車検が無いので、点検は自己責任である。私はしっかりと5000Kmごとに点検やオイル交換をしている。

 

ちなみに私の技術は車関係ではシートカバーやヘッドレストカバーのトリム(PP異形品)とウインドヲッシュ液を送るチューブ(軟質PVC)と各種操作のワイヤーが走るライナーチューブ(架橋HDPE,高潤滑POM)でお手伝いをしている。全て、日本から輸入していたものの現地調達に協力した。

 

18日 インドネシアで楽しく暮す 1-5

インドネシアの車事情 5

日本ではバイクというオートバイ。最近殆ど見ないようだ。駐輪場は各地にあるが、駐バイク場は目立たないような気がする。間違いでしょうか。

インドネシアには自転車は無いといっていいかもしれない。日本のメーカーは進出しているのでしょうか、聞いたことが無い。

スペダ モートル(sepeda motor)(バイク)これを省略して単にモートルという。日本のモートルメーカーは軒並み大規模で進出している。全てである。ほぼ、100%日系のバイクが占領している。価格は安くて12万円平均で15万円というところでしょうか。若者の月給が約3万円くらいですから、日本人の若者が車を買う感覚でしょうか。

すごいの一言、いたるところ、バイクの洪水である。ここ数年は300万台以上のバイクが増えている。来年は400万台を越えるといっている。車、バイク屋さんと関連会社はおお忙しで、フル操業、工場拡張や移転が盛んに行われている。私の会社も関係がある。

しかし、このまま、どんどん増え続けるはずがない。今は車、バイクバブル期であろう。間もなく、いつか、がたっと売れ行きが止まることでしょう。私がバブル崩壊の心配をしても仕方が無いことですが、大企業はとにかく作れ、作れの大増産中です。

巷はバイクであふれ、交通事故も毎日見ます。もっとも、処理時間の関係で、トラックがひっくり返っている現場を見ることの方が多い。

50~120CCが主流でちょこまかどんどん割り込んでくる。とにかくバイクには油断がならないが、いい事もある。割り込みに便利、左右に割り込むとき、バイクがいるところで入ることができるからである。

道の両脇にはバイクが駐車している。日本ならさしずめ駐輪場の問題でしょうが、こちらはバイク駐車の問題が大きい。歩道は少ないがあればそこはバイク駐車場である。改めて自転車はない。

自転車屋は見かけるが、子供、幼児用の補助車輪付きが大半で、その他は郊外レジャー用の高級自転車である。たまに見かける自転車は、ブレーキがないような、壊れかけたようなものである。

車、バイク関係のメーカーには申し訳ないが、後10年と、このバブルは続かないでしょう。賢い経営者なら、他の市場に目を移すでしょう。

 

今は通勤に高速道路しか使わないので、バイクに気を使う機会は少ないが、長い間、カリマラン川の土手通りを使っていたので、毎日、30分間はバイクとファイトをしていた。しかし、一度も事故にあったことはない。勝手にバイクがぶっつかって来てひっくり返ったことは数え切れない。

 

19日 インドネシアで楽しく暮す 1-7

インドネシアの車事情 7

車はとにかく自己責任である。事故が起きた時、人命に関係なければその場で示談で和解しなければならない。喧嘩を始めれば、見る間の周りに人が群がってきて収集がつかなくなるどころか、誰かが、暴力を振るえば、ただ事ではすまなくなる。

私自身で運転していて、割り込みあいや抜きあいのような、競り合いをしたことはないが、よくそういう風景を見かける、ぴったり後ろにつけてパッシングを繰り返し、やられた方が、逆に後ろについてやり返したり、抜き返して急な割り込みをしたりする。完全に喧嘩運転だが、双方とも、それほど速度が速くない、せいぜい100k前後である。笑っちゃいます。それを横目で見ながら、120kくらいで、さっさとその二台を私は抜きさっていきます。あいつら、あほか、と思いながら。一回だけ、抜き去った後、その二台がドカンという音とともにクラッシュしているのをルームミラーで見たことがある。

そう言えば、間一髪の事故には二回遭遇している。

一回目は、2002年11月のこと、ジャカルタ、ブロックMのカラオケを00:00過ぎに出てチカランの家に帰る途中、真夜中でもあり120kくらいの速度で高速道路を走っていた。突然、バンという音と共にフロントガラスがすっ飛んだ、と感じた。一瞬、真っ暗になった。目を瞑ったからです。高速で走っていたが急ブレーキを掛け止まった。路肩に止めてハザードランプを点けて前に回って車を点検した。フロントガラスの助手席側の真ん中に何か10cmくらいの石が勢いよくぶっつかったようにへこんで、真っ白に細かいヒビが入っていた。左のサイドミラーが割れていた。ボンネットは無数の傷があった。運転席の前のガラスは無事で前が見えたので、そのまま、その日は、家に帰ることができた。私は全くの無傷でした。でも、周りの状態によっては、最悪,大事故になっていたかもしれない、思い返すとぞっとするので、あまり思い出しことはない。

二回目は2005年でした。ジャカルタへ向っているブカシバラットを過ぎた辺りで、四車線の三車線目をトラックの後ろを80kくらいで走っていた。四車線目に入って、追越をかけて追い越したか追い越さないかの、その時、そのトラックがドンと大きな音と共に、私の車側に急に寄ってきた。急ブレーキの音がした。その次にドカンと中央のガードレールに激突した。右のサイドミラーでそのトラックが反対車線の乗用車と接触するのを見ながら、遠ざかった。これも、間一髪だった。もし、一瞬、パンクが早かったら、私の車の横っ腹にぶっつかって一緒にガードレールにはさまれていたでしょう。何事もなかったように過ぎ去ったが、おそろしい話しです。これも、殆ど思い出すことはありません。

これらは、自分が運転していたからではなく、後ろで、ふんぞり返って、居眠りしていても起きる事例です。安心はできないのがインドネシアの交通事情でした。

 

20日 パンガンダラン 4

海から半島を見る

西海岸の砂浜へ出れば、直ぐに写真アルバムをもった若者が、ボートに乗らないかと勧誘に来る。東海岸まで往復約二時間半10万ルピア程度、半島の先端、滝の辺りまで往復なら7万ルピアくらいです。船が海岸からスタートするとき、インド洋の2Mくらいの高い波を乗り越えなければならない、タイミングが難しい。舳先が上がり直後ドンと落下する、大変危険である、要注意。

 タマンラウト(Taman laut)(海の公園といわれているが、ちょっとした珊瑚の海岸を右に見てゆっくり通過。次第に三角波が大きくなってくる、流れに逆らって進むので、船は上下左右にかなりゆれる、海水を頭から何度もかぶる、びしょぬれは当たり前になる。遠くから見ていると、どの船も波間に見え隠れしながら進んでいる。普通でそうだから、天候次第ではひどい状態になる、私はそれほどでもないと思っているのですが、中には私をコンナ目に合わせて、ひどいやつと真剣に言った人もいた。また、雨がざんざん降る中、波をかぶり、一時間半ほど下を向いて耐えた人曰く、なんでもないよ、このくらい、といってくれた人もいる。人さまざまである。

 断崖に打ちつける波、大きな洞穴、すくっと直立している徳利のような岩、夕方なら森の一角から無数のコウモリ飛び立つ。滝の辺りまでが海が一番荒れる、過ぎて東側にまわれば波に乗るように進むので、ほとんど揺れなくなる。西海岸に戻る人はあまりいないようだ、東海岸で上陸して森の中に入ったり、海岸で泳ぐ。西海岸まで戻りたければ、200Mほど歩くだけである。

初めて来た時に経験しただけである。ヌサカンバンガン島へ行くときに西海岸から出れば、ほとんど半周して先端付近から島に向かうので、同じ風景は飽きるほど見ている。 

で見るとよく分かるが、ジャワ島の中南部、半島全体がジャングルに成っている。

パンガンダラン 5

  21日ジャングル

Cagar Alam(チャガールアラム)という。国の自然保護地区、基本的には一般人は立ち入り禁止らしい。入り口は東西の二箇所、西は車は入れないひとり1900ルピア、東入場料(キジャン4000、一人1900ルピア)を払い誰でも入ることができるが、仕切られたほんのわずかなスペースを散策するだけである。

何種類かの石灰岩の洞穴(鍾乳洞)があり、名前がついている。日本軍が立てこもったという、ゴアジェパン(友達のガイドがこの辺りで待機し、お客さんに呼びかけている)というのがあり、其の前がちょっとした広場になっている。ここで、テレビドラマ(人間が空を飛ぶ不可解な時代劇?)の撮影現場に出会える。今でも真夜中に日本軍の亡霊が何かをしゃべりながら行進をするという。

野生の鹿、猿、牛(特に夕方)が目に付く、たまに、親指がやっと入りそうな小さな穴が地面に開いている、椰子の葉のヒゴ(何本かを束ねれば箒にる)を穴に差し込むと、黒光りをした10Cm程のサソリが釣れる。

一般の人は入れないジャングルに,ガイドを頼んで、分け入り、半島の先端近くにある滝を目指す。保護地区の手前は、森林が切り払われ、見通しが良くなっていて、見張り櫓が三つ立っていた。

年前は見張りがいた。其のときは見張りが見ていない時ちょっとした茂み伝いに入った。まるで達磨さんが転んだ状態でした。しかし、その後、10回ほど入ったが、見張りの人はいない。逆に見張り櫓に登って周囲を眺めながらくつろぐこともできる。これでは誰でも自由に入ることができる。切り払われた森林も今は背丈ほどの植物が生い茂り、人間が隠れることもできる。インドネシアらしい。

急な登りから、ジャングルに入る。普段運動をしていない人でも大丈夫。生い茂った木立は、雰囲気満点。これがジャングルだ。ターザンが出てきそう。

猿がまず出迎える、サルは物を奪うばかりでなく噛み付くので油断しないように。鹿、牛などの野生動物は夕方出会うことができる。運がよければオオトカゲやサソリにもあえる。毒蛇はミミズサイズのものでも一人前に飛び掛ってくるので、近づかない事。雨季が終わった頃は蝉がうるさい。オオムや啄木鳥は鳴き声はするが、なかなか見つけることはできない。島のいたるところでコオモリやツバメの姿は見られる。

ガイドがいなければ迷うだろう道を半島の先端近くの滝を目指す。部分的だが、入る度に道の状態は変化している。約1時間ほどで滝ノ上に着く。滝つぼまで蔓をつかんで降りると目の前にインド洋が広がる。ちょっと汗ばんだ体を滝壺で泳ぎながら流す。沖を漁船や半島観光の小船が通る、手を振れば答えてくれる。まったく贅沢な景観である。ここまでの疲れがいっぺんに吹き飛ぶ。西海岸の賑わいはうそのように、ここまで来る人はほんのわずかである。

ほぼ垂直に見える崖をのぼると、滝の上に出る。ここからも同じ景観を見ることができる、違った高さから見る景観はまた一興である。今まで一緒に来た日本人すべてが来てよかったといってくれた。誰も寄せ付けない、怒涛の波がごつごつした断崖の岩に押し寄せている、波頭が砕け散る。海からは上陸できない、遠巻きに眺めるだけである。

 ここからは入り口方面に別の道で向かう、途中運がよければラフレシアに会える。蕾には30%、開花した状態には30%の確立で会えた。7~8月に会える確率が高いようだ。大きさは最大で50cmほど、それほど大きくない。ここの種類はこんなものらしい。地元の人は感じるというが、臭い匂いは私や他の日本人には感じられなかった。匂いで探すので、咲いていればどこにあるかすぐわかるという。

  咲いているのは三日程度、満開になると同時に腐食が始まる。最後は真っ黒になってしまう。その前に、小動物に食べられてしまう。すばらしい形のラフレシアに会えた人は本当に運がいい。

途中、沢歩きがあり、コケの石を歩くので、足元がふらつかないように注意が必要。分離地帯を通り、東の入り口に向かう。鍾乳洞を通り抜けたり、その水で洗った体の部分が改善されるという泉に寄ることもできる。女性は顔を丁寧に洗っているが効果はほとんどないように見える、それとも効果があって今の・・になっているのか。ジャングルから出てしまう前に、元気が残っていればちょっと一泳ぎすることもできる。大体、普通は4時間のコースである。

私は午前中ヌサカンバンガンで昼食後ジャングルにはいるが、明るいうちに戻ってくることができる。ちょっと慣れない人にはハードかなと思う。

いずれにしても天候次第である。

22日 インドネシアで楽しく暮す 1-6

インドネシアの車事情 6

ジャカルタは超大都会です。東京よりはるかにしゃれたデザインの高層ビルやアパートメントが林立している。しかし、不都合な都市である。このような無秩序な都市は知らない。

  交通機関については私のホームページに書きましたが、ジャカルタで今、注目はトランスジャカルタといって、バス専用通りを走るバスです。2005年、メイン通りのブロックMのバスターミナルからスディルマン、タムリン、ガジャマダ コタまで最初運行された。今では主要道路にバスレーンが作られているが実行しているかどうか、わからない。一般の車も普通に走っているからだ。効果のほどが、実証されないまま、バスレーンを増やす工事をしたが、逆効果という批判もあり実施には踏み切れないようだ。もし、実施しなければ大きなムダ使いになる。

もともと、ジャカルタ市内の渋滞を解消するために、3イン1の制度が定着していた。効果についての評価は今一だったが、効果が全くないということは無いように思う。朝07:00~10:00と夕方16:30~19:00今でも実施されている。スディルマン、タムリン、ガトゥットゥスブロト通りである。

そのほかにもさまざまな案が浮かんでは消えた。シンガポールのように時間有料にする、車のナンバーで乗り入れていい曜日を決める。モノレール建設、是は実際、工事に入ったがどういうわけか中断して長い。こんな大都市で、地下鉄が全然ないのもここだけだと思う。

すでに何年か前から、車の渋滞は有名。それなのに有効な手段がない。車やバイクはどんどん増える。このまま、10年後はどうなってしまうのでしょうか。

 

気の毒なくらい、鉄道網が全く発展していない。日本がお手伝いして、一応ジャワ島には路線があるが、列車の本数は極端に少ない。機関車、車両とも骨董品である。ジャカルタに通勤列車らしきものがあるが、車両は京浜東北線や山手線の中古車である。自動ドアは壊れて修理できないので、ドアは開いたままである。

屋根への無賃乗車は絶えず、対策に頭を痛めているらしいが、妙案はないようだ。

原因の全ては汚職である。予算や援助金が何処かへ消えてしまうからだ。

 

Mariaさんの誕生日

今日は、お手伝いさん兼運転手兼付き添い婦のMariaさんの24歳の誕生日。昨日は寝ずに0時まで起きていた。カウントダウンをし、今日になって、ケーキカットと誕生日の歌を歌った。スラバヤにいる彼女の夫からおめでとうの電話が入った。

01時就寝、日本時間は03時である。彼女の学生時代の友達のIkaさんと Ndaさんが祝福に来ていて,泊まっている。

23日インドネシアで楽しく暮す 2-1

インドネシア語を覚えましょう。1

インドネシア語は日本語とよく似ています。RL, NMの使い分けが日本人にとって難しく、できないとあきらめれば、その他は、非常に簡単です。ただ、記憶をするだけです。文法など全く必要ありません。

記憶力がだめな人、記憶する気がない人、この種の人は、インドネシア語に限らず、仕事もだめな人です。ですから、仕事がだめでない人にとっては日常の生活の中で覚えてしまうのです。日常の生活の中で覚えられない人は、何年過ぎてもだめです。

学校へ何年も通ったり、通訳に頼ったりしている人で、日常会話が普通にできるように自立した人に会ったことがありません。覚えないからです。それが、分からない人は、何をやってもだめです。

仕事とインドネシア語は共通しています。その言葉の土地にいて生活しながら、仕事をしながらなら完全に共通である。両方ともセンスの問題である。

 

覚えること、覚えるとは自分で覚えるのです。他人に教えてもらっているときは覚えている時ではありません。覚えている時は一人でいる時です。他人がいれば邪魔です。それを、学校通ったり、家庭教師を読んだりして勉強しても、その人は、時間を浪費しているだけです。その時間、単語を覚えればいいのです。この考えに賛同しない人は、インドネシア語ができるようにならない人です。

インドネシア語がなかなかできるようにならない人で、仕事はできると思っている人は、思いが間違っています。他人から評価すれば仕事もできない人です。他人はそういってはくれませんが、腹ではそう評価しています。自分がなかなかインドネシア語が上達しない人は、仕事に関して他人からの評価も低いと自覚してください。

逆にインドネシア語の上達の早い人は、仕事もできると自覚していいのです。もっとも、ろくに、インドネシア語がブロークンなのに、通じると誤解し、自分はインドネシア語がうまくなったと思っていて、仕事もできると思っている人は何を言わんやです。

 

外国で住み、そこで仕事をしている人はその国の言葉を早く覚えた方が、自分の住み心地もよくなるに決まっています。現地人からの見る目が違います。ぜひ、外国語は早く覚えることが出きる人であることを祈ります。

 

ちなみに、私は半年で日常会話はOK一年で仕事に関する専門的な言葉表現もOK,二年以内には、冗談や駄洒落をいいながら、どこへ一人で行っても、心配することはなくなりました。

 

 

24日インドネシアで楽しく暮す 2-2

インドネシア語を覚えましょう。2

 最近は日本も同じだと思いますが、テレビドラマやコマーシャルなどで表現される言葉が流行り言葉になっていて、それは、勿論移り変わります。

 例えば、Tuh KangとかCapek Deh~~~などのようにジャカルタ付近で特に流行っている一種のジャグ言葉です。

 そこまでは覚えなくても、誰もが、ふつうにしゃべる言葉については、楽しみながら、間違えても、冗談のような振りをして、どんどん使うことです。間違っていれば、必ず直してくれます。インドネシア人も日本人が一生懸命、思い出しながらしゃべろうとしていれば何とかしてあげようと思うはずですし、親しみを持ちます。

そんなことを交えながら、私のインドネシア語講座に単語を並べています。どんなものか一度覗いてみて下さい。きっと、なれない、耳障りのない言葉ですが、覚えやすいと思います。

昨日、2年、こちらに住んでいる人とジャカルタで食事をしました。カラオケでにぎわうブロックMの外にある、通称、連れ込みホテル Hotel Merawaiにある日本食レストラン”力士“でした。初めてでした。アンコー鍋を突っついたが大変おいしかった。しかし、満腹で2時間近く運転士住処のデルタマスに戻るのは大変だった。

前置きは長くなりましたが、その食事をしながら工業団地の話しになり、その人がKarawang Barat(西カラワン)というべきなのに間違えてKarawang Berat(重いカラワン)と言ってしまった。本人間違いに気付いていない。私は間違いにすぐ気が付いたが、だまっていたら、その人の連れの女性が大笑い。真剣に言った言葉で大笑いされて、本人何事かときょとんとしている。しかし、そのあとすぐに間違いに気付いた。そして、なんだったけと聞いた。教えられて、彼はその言葉は絶対に忘れないでしょう。

私も以前、雨が降り出したとき、小雨の意味で、Gratis(只、無料)と言ってしまった。本当はGrimisと言わなければならなかった。その人たちに、今でも小雨の時はグラティスといわれる。絶対に私も忘れない。

他のもこういう例は山ほどある。

バリへ観光力する人も、買い物をする時の言葉くらいは是非飛行機の中で覚えていただいて、実際に使ってみれば絶対にその言葉は忘れないでしょう。それが、覚えるこつです。

只ひたすら覚えること、そして、使うこと。覚えない人はそれをやっていない人です。

25日こんな人シリーズ 1★

三連休(バリのNypi)を利用して、今、スマトラのブキットティンギ(Bukittingi)“高い丘”という意味の町に来ています。この旅行のことは後日、投稿します。

あちこち、旅をし、ブログやウェブサイトも毎日、大体決まった時間に書いている。日本時間03:00ジャカルタタイム01:00 これにも投稿をしている。土日には買い物、ゴルフ、ドライブ、たまには休日出勤、平日は勿論仕事、こんな調子で、本当にちゃんと仕事をやっていけるのか疑問に思う人もいるかもしれません。ちゃんとやっています。それも、他人より頼りきられて、私でなければできないことを引き受けてやっています。私がいなくなったり、放棄したりしたら、たちまち多くの人の仕事も止めてしまいます。責任重大です。それに、技術を教えて後継者を作らなければなりません。私がいる時間は限られています。誰かに、引き継いでやってもらわなければ、また、多くの人に迷惑をかけてしまいます。

その対象人物をやっと見つけ出した。4月から、その人に教える時間がまた必要になり、今よりもっと忙しくなります。こんな生活をしているから、パニック障害にかかって、大変なめにあったにもかかわらず、すっかり、よくなったと自分では判断しているし、動いて何も心配事がないので、また、元の無茶な生活に戻ってきてしまっています。医者に報告したらとんでもないと言われそうなので、黙っています。

今度三月二十日から十日間日本に滞在ですが、その間も大変忙しい。その合間をぬって静岡県立総合病院へ行きます。パニック障害のチェックです。何をチェックするかというと、世間話をするだけです。それでも、医者に会って、お互いの顔を見れば安心です。

とにかく、その医者に、薬を飲むのを止めていいといわれるまで、薬を飲み続けている病人です。何にも具合が悪いところがない病人です。

                     http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage051.html

 パニック障害にご理解を!!!!! 

貴方の身の回りにも悩んでいる人がいるかもしれません。

 

26日 こんな人シリーズ 2 ★

インドネシアにも多くの日本人がいます。多くの独身者もいます。インドネシア人の女性と結婚する人も目立ちます。

この人は、カラオケで知り合った女性と結婚した。(好くあることですし、いけないことではありません)子供を二人儲け、幸せな家庭を営んでいた。仕事の方も、ほどほどうまくいっていて、本社からの評価も高かった。

ところが、魔がさしたのでしょう。会社の自分の秘書と男女関係になってしまった。それが奥さんに感づかれ、挙句は別居ということになってしまった。離婚をせまられ、条件が折り合わずにずるずる日々は過ぎ、その間は決まった金額を満足する程度送っていた。

また、本人余計なことをしてしまった。まだ、離婚が成立していないにもかかわらず、元秘書と家族から責められて、結婚式を挙げてしまった。それだけなら問題ないが、家族が結婚届をしてしまった。明らかに二重結婚の状態にしてしまった。

前の奥さんは、それをどこからか知り、警察に訴えた。そして、今ままで、分かっていた住所からも引っ越してしまい。子供達に会わせないようにしてしまった。

本人、警察から呼び出され、逮捕され、今は裁判になっている。その間一週間ほど留置場に拘束されもした。まだ裁判は結審していない。

ところが、今度は、子供に会わせないので、仕送りを打ち切ってしまった。そのことに対し、前妻はまた、警察に訴えた。今度は別の警察である。

こちらの方の裁判はまだ始まっていない。本人大変忙しい。会社では社長をしているので気ままな出勤で、平日は二分に一以下の出勤率だという。

本社の方も、知らん顔で、手を下しようがない。また、交代の人物もいないらしく、応援をよこさない。

結末やいかに、半年くらい先にならないと終わらないようだ。終わった時の状態はどうなっているでしょうか。

 弁護士や通訳に払う金額も馬鹿にならないし、裁判の時、裁判官や検事にも支払うらしい、その金額が多い方に有利な判決が出るとか、収監されるか、されないかの判断にもおおいに関係があるとか、もう、日本円で何百万円も使っているでしょう。終わるまで、その倍以上は見込んでいるらしいが、それで済むのでしょうか。

 前妻の方も、示談の話しを持ち出しているらしいが、その金額が一千万円以上と膨大のため、もう、何日かかろうが,いくらかかろうが、裁判で決着をつけるしかないと思っている。

外国で、特にイスラム国家で仕事をする人はくれぐれも、魔がさしてしまった、というようなことが無いように、ご用心、ご用心。イスラム裁判というのは非常に分かりにくいし、他の宗教者には厳しいので、なお、ご用心。

 

 27日 チラチャップ(Ciracap)とヌサカンバンガン(Nusakambangan)

チラチャップは中部ジャワの最南西部の小工業都市の印象、主要道路からかなり南に外れたインド洋に面するので、かなり行きにくい場所だ。ジャカルタからはパンガンダランへ行く道と途中Banjarで右折しないで直進する。(右折はパンガンダラン、直進はジョクジャカルタ方面))一時間後ほどで、南(右)方向へ、一路Cilacapへ行く。ジャカルタからは、10時間以上は充分掛かってしまう。私はジャワ島中部から東部の三分の二周した時、ジョクジャカルタのほうからだったが、ジョクジャから6時間かかった。途中道が非常に悪い、車のダッチロールは数キロにわたって続く、コンテナ車とすれ違う時怖い。多分、バスより船で行き来した方が便利ではないかなと思う。陸上では孤立した感があった。

ヌサカンバンガンはチラチャップの海岸から一番近いところは150mくらいしか離れていないのではないかという印象である。刑務所の塀の一部が見えるくらいだ。そこは東の端で、ここと、私がよく行く西の端では10Kmの距離は充分ある。

1 Cilacap
 観光地ではない。平面的な広い町、町へ入ると道は広いし、出会う人が少ない。インドネシアのごちゃごちゃした感じがない。広い道を真っ直ぐ、行くと、漁港にぶっつかった。良くある風景だが、違うところはもう目の前150m先に大きな島が横たわっている。それがヌサカンバンガン島だという事は直ぐにわかった
 海岸沿いに北に向かうと今度はおおきな規模の工場群が出てくる。製紙、製缶、食品などの工場が並ぶ、製品の積み出しの為の岸壁が広い道を隔てた目の前にある。立地的にはレイアウトを良く考えた新興工業地帯といえるでしょうか。
 島流しというには近いが、重罪犯の監獄島が目の前にあるとは知らなければ思いも寄らない、のどかな町である
 
2 Nusakambangan
 ヌサカンバンガン、ご存知ですか。インドネシアでは有名なスハルトの息子トミーや政商ボブ、ハッサンが収監されている、最近ではアムロジ(バリ爆弾事件の首班)が移送された監獄島、中部ジャワ、チラチャップに属する。そうとは知らずに、ガイドから無人島と聞かされ、行ってみたのが始まり。すでに10回以上行っている。一緒に行った日本人も10人になった。

 本当は上陸禁止なのかもしれないが、見張りや看守がいるわけでもなく、それらしき看板や柵などなく、誰でも自由に上陸できる様子である。しかし、観光客は誰もいない、私たちだけである。もっと広いパンガンダラン西海岸のあの芋の子を洗うような賑わいとは全くの対照的に人っ子一人いない、たまにロブスターの漁師に会うだけ。何かを恐れて誰も近づかないのでしょうか、でもそんな恐れるようなこともない。不思議である。

 
 その付近のどこからでも船さえあれば行けますが、一般の観光客が行くルートは三通りある。パンガンダラン西海岸から小船で半島を半周して先端から東に向かう。一時間半ほどで、ヌサカンバンガンの西海岸に着く。二番目のルートはパンガンダラン東海岸から東に向かう、1時間で着く、三番目はパンガンダランから車でバンジャール方向に戻って右折すると、30分ほどでPelabuhan Majingklak(マジンクラック港)に着く、そこから小船で、15分で着く。いずれも、自分で値段交渉しながらチャーターしなければならない。ヌサカンバンガン行きの定期便のようなものはない。
 

東西は、10kmほどはあろうか、島の東側は川のような狭い海を挟んでチラチャップの町である。監獄は島の東側である。西海岸は広大で真っ白、長さは4kmはあろうか、塩が引けが100m以上の幅になる。潮が満ちれば海岸は無くなる。振り返ればパンガンダランの半島が見える。左右で浜の状態が異なる。 

 向かって、浜辺が広い右側方面に上陸するが、こちら側に川(乾季は消滅)が流れ込んでいるし、満ち潮の時は逆流するが引き潮の時はすごい勢いで流れる。端の岩場からは清水が湧き出し、小さな滝が海に注いでいる。体を洗うのに最適、インドネシアでは珍しく、飲んでも問題ない。泳ぐには最適、ボディーサーフインにはうってつけの波。

 左方面は珊瑚の岩場が海岸付近ににあり、満ち潮の時でしか上陸できない。ダイビングやシュノーケリングに最適。引き潮の時、岩に張り付いた貝を剥ぎ取って焼いて食べるとおいしい。漁師が泊り込む椰子の葉の屋根だけの小屋が風景に溶け込んだかたちでぽつんと一軒だけある。

 海岸からすぐ後ろはジャングル、まだ入ったことはないが、入ってみる気にはなれない。道はないし、聞くところによると、野生のトラがいるという。時々海岸でも散歩をするという。これは、そこで、ロブスターを釣っている漁師の話、近くに寄ってきて魚をやると、くわえてジャングルの中に消えていくそうです。私は一度もあったことはない。

 その漁師から、ロブスター(伊勢えび、1kg5万ルピアほど)や他の魚を分けてもらい、枯れ木や葉を集め火を起こし、焼く。時間あれば自分で釣ったり銛で突いたりすることもできる。椰子の葉っぱを皿にして、食べるワイルドなバーベキューはちょっと他の日本人は経験できないと思う。まったく、爽快である。もともとないストレスが、もっとなくなる。幸せの極みである。バーベキューの道具を持っていくのは野暮である。ただし、水と万が一魚が取れない場合の予備に魚介類をパサールイカンで仕入れていったほうがいいかもしれません。

 戦後間もない、1950年ごろ小学校の2年生のとき、同級生のお父さんが、外国航路の船長さんをやっていて、椰子の実を土産に持ってきて、クラスのみんなに、遠い南の島の話とともに、見せてくれた。その時、想像した風景が50年後の今、現実に目の前に広がっていると感じた。

 アナッククラカタウ、カタウ(両方とも山頂まではいけない、上陸し中腹から見る景観も絶品、しかし、ここも本当は許可がいるらしい)やウジュンクロン(事前に許可を取るのが本当だが、上陸してから許可をもらうこともできる、ジャングルの中より海の色に感激)もすばらしいが、それ以上に感激である。今まで訪れたインドネシアのどこよりも好きだ。何度行ってもいいと思う。ダナウトバの焼畑の夜景、ディエンやブロモの日の出やパノラマ、コモドの海と島と空と雲と遠いスコールとのコントラスト、すばらしい、それぞれ感激だがここには風景プラス自分で行動し楽しめるというプラスαがある。

 ただし、どこもそうだが、天候により大きく印象は変わる、恵まれている人とそうでない人では雲泥の差がある。海はインド洋なので、海岸のひっくり返る波は大きい、船で沖へ出発するとき波に持ち上げられ、次に叩き落とされるので特に注意である。沖へ出ればうねりが高い、小船はうねりの間に見えなくなってしまう。天気が悪い時はもっと状態は過酷になる。一緒に行った日本人で、途中で悲鳴を上げてやむなく引き返した人もいた。私は、雨が降ろうが風が不幸が、平気なので、自分から止めた事はない。

 

27日インドネシアで楽しく暮す 3-1★

私は旅行が大好きです。私のウェブサイトにはインドネシア内の旅行記を大々的に取り上げています。言葉に不自由しなくなったのが、一年ぐらい滞在後でしたから、その前には、ジャカルと付近の観光スポットへ同じ赴任してきたばかりの仲間達と土日に何もすることがないので、暇つぶしに、出かけました。その時は、車運転もドライバーを使っていた。まず、タマンミニ(Taman Mini Indonesia Indah)通称、TMIIやアンチョール(Ancol)

ジャカルタの北の海に面するアミューズメントスポット、公園の中には水族館(Sea world)や遊具(Dunia fantasi)があり、社員旅行で出かけたこともある。コンサートも盛んに開かれて、ジャカルタ唯一の総合公園である。

 Sunda Kerapa,Monas,National Musiam,Kota,Pulau Seribuの島々など皆、一度は行ってみた。しかし、赴任して約二年後のは,全く行くことはなくなった。初心者コースは卒業した。車の運転も言葉も心配することが全くなくなったので、より遠くへ遠くへ出かけるようになった。

 何か一つ、お余り他人がやらないことで、他人に気を使ったり、顔色を伺ったりしないで、個人でやることができるようになることが、インドネシアで楽しく暮らせる極意だと思います。当然、皆さんとお付き合いも肝心ですが、なにか、一つ持っていれば、ストレスがあるなら解消してしまいます。

 仲間と一緒に何かすることのほうが好くな人はそうすれば良いと思います。ただし、そのために無理やり人を誘うことはやめて欲しいし、それをしなくても十分、ほかの事で満足しいる人はいるからです。

まず、車でジャワ島の西の端の海岸にいきました。ジャカルタを過ぎて高速道をを西へ西へ、タンゲランを過ぎて、チレゴンを過ぎて、高速道路の西端まで、Merakというところでした。ここから、スマトラ島までのフェリーボートが次から次へと出ていた。そこの北に小さい半島があったので、一周してチレゴンへでて、帰ってきた。たった半日のドライブだったが、かなり疲れた印象が残っている。

しかし、自信は付いた。インドネシア人の高速道路での運転は速度を出すのが怖いのでしょうか、車自体が速度が出ないのでしょうか、100Km/H以下でしか走らない。自分の車は100Km/H程度だが、ものすごく高速に感じるし、120Kも出せば心配になる。日本では感じない高速感である。

ちなみに、速度制限は60K~100Kだが高速は守っているが低速の方はまめれないトラックが多い。また、日本のようにオービスはない。スピードチェッカーもない。低速でつかまるトラックはあるが、高速で捕まる車はない。

28日インドネシアで楽しく暮す 3-2 ★

自分で運転してあちこちへ行ければ、大変楽しくなります。勿論、お望みなら、若い女性に声を掛ければ飛びついてきます。

カーナビはありません。輸入車に標準で付いていても使えません。最初は地図を頼るしかありませんが、このインドネシア産の地図が当てにならない。地図上ではあるが、まだできていないとか、全くその気配がないとか、地図上ではないが実際にはあるとか、地図は計画道路まであるように書いてあるし、新しくできてしまった道路を書いてなかったりする。日本では恥ずかしくて売りだせない地図である。それでも、それを頼りにするしかなかった。

ジャワ島内はその地図を頼りに、尋ね尋ね走り回ったが、その尋ねが、また,当てにならない。大体、知っているのか知らないのか、とにかく教えてくれる。教えてくれるがそれを鵜呑みにしてはならない。信じるか信じないかは自己責任です。間違ったことを教えられてことが分かっても、憤慨してはいけません。彼は彼なりに教えてくれたのです。

また、インドネシア人は地図を見る習慣がありません。学校で、地図のことを勉強しないのです。地図の見方が分かりません。だから、地図を見せて、指差して、ここへ行きたいが、本当にこの道でいいのか、この道は状態はどうなのか、尋ねても、全く,見る気がない。これなんだという感じ。頭の中と地図の道が全く一致しないのだ。

彼らが見る地図は結婚式の案内地図だけだと思う。そこには目標となる、モスジッドとショッピングモールと大きな会社が書いてあり、川を書いてある、勿論道が主だ。その道の幅と距離が全くのでたらめ。方向もでたやめ、よくこの地図で皆さん分かるなと思う。私は、何回間違えたことは、別の結婚式場に行ってしまったことさえある。車が当然通過できる幅のはずがバイクがやっと通れる幅だったり。一番目の四差路で左折になっているのに、実際にはその前に四差路があり二番目の四差路で左折しなければならなかったり、もう、頭がパニックになりそうな、嘘ばかり書いてある地図が多い。

こちらの人は、それでも、だれも文句を言わない。地図を当てにするほうが間違っているのでしょうか。

横道にそれたが、また、インドネシアの道に道の名前や何号線とか、今走っている道が正しいのか、間違えているのか道端の標識がないので確かめようがない。方向の標識は大きな交差点の手前にある。まず大きな交差点が間もなくあることを感じなければならない。感じたら、左側のちょっと高いところを注意しながら進む。木の葉の影に隠れて見えないときがあるからだ。確認して道を選ぶ。確認できなくて、勘で方向を選んだときは、必ず一旦車を止めて、振り返り標識を見る。そこの行きたい方向が書いてなければ、私が選んだ道は正しかったことになる。

 

29日 インドネシアで楽しく暮す 3-3★

旅をしよう 3 車を自分で運転してゆければ、近場で一泊程度や10時間くらいならスマラン(Sumarang)、ディエン(Dieng) 6時間半なら、パンガンダラン(Pangandaran)

やバトゥルラデン(Batueraden)2時間から4時間なら、アンニョールからタンジュンルスンそれからプラブハンラトゥ、へ、行くことができます。ジャティルフールやチパナス、チボダス、プンチャック、タンクバンプラフもそんなもので行けます。

思い切って、13時間ならジョクジャ、ボロブドゥール、チャンディプランバナンへ行けます。24時間でなら、途中一泊しますが、スラバヤ、スマトラのブンクルやパレンバンです。もう6時間タせば+すればバリ島まで行けます。また、パダンにも行けます。

しかし、一般的には車で10時間以上のところなら、列車か飛行機でしょう。

また、しかし、です。列車はお勧めできません。危険、汚い、臭い、本数が少ない、などなど、日本の列車からは想像がつかないほど、ひどいものです。それでも、列車で旅行マニアの人はどうしても、利用しなければ気がすまないでしょう。どうぞ、そういう人は仕方がありませんが、一般旅行者には難しいです。

その分、飛行機は日本より、アクセスは発展しています。家庭電話より携帯電話のほうが先に普及している状態と同じように、列車より飛行機の方が発展しているのです。航空会社の数はどんどん増えていて、私は数え切れません。価格もピンきりです。安全性は列車や車、バスに比べれば死亡率は断然少ないというより仕方がありません。インドネシアですから。

私は今年だけでも国内便で12回離着陸しています。一度も危険だと感じたことはありません。確立から言って当然です。ガルーダは高いので使いません。ムルパティ、アダム、ヴァタビヤ、ライオンだったでしょうか、行きと帰りが違う航空会社を使うことも多々あります。日本へ行く時はガルーダを使います。直行で一番安いからです。

 

30日 こんな人シリーズ 3★

太っている人の特徴か、そうでもないと思うが、この人はとにかく座りたがる。そして、必ず踏ん反り返る。

会社内では疲れるほどの仕事はやっていないし、移動でも、車の後ろで居眠りしているだけなので、(単語を覚えれば今ではかなりの数覚えていると思うのだが)疲れるわけがない。現場で、従業員と話すわけでもなく、冷房の効いた部屋で、ふんぞって座り込んでいるだけ。

 周りに誰がいようとお構いなしにふんぞり返って座る。事務所では誰が前に立った時でもそっくり返りながら話す。前社長と大違い。前社長の時は、いすを前において、座ってもらって話しをしたが、H社長はそんなことは思いつかない。立たせたままである。

サンヨーMさんが私の客としてみえた時、呼ばれてロビーに向かった、そのとき見た光景が、ソファーでH社長がふんぞり返って、新聞をかぶるように大きく広げて読んでいる。 その後ろで、Mさんが、見本パネルを立ったまま見ていた。ひどい構図だと思った。挨拶した後の構図とは考えられない。平野は無視している構図だ。Mさんに声をかけ、応接室に移ってもらった。5分ほど後、工場を案内するために応接室を出た。平野は全く同じ構図で新聞を読んでいる。恥ずかしくて、紹介し、工場に入る許可を取る雰囲気ではない。「あの人は社長?」と聞かれたが、「お客さんでしょう」と返事した。

松下さんが帰って、しばらく後、H社長、私に近づいてきて「部外者を工場に入れる時には、私の許可を取ってください。K本社社長からも言われているから」といってきた。自分の態度は棚に上げて、言ってくるだろうなと予想していたので、「そうですか」と返事して終わりだった。

「社長なら、また、営業の仕事をしてきたなら、知らない顔をしていないで、せめて、挨拶して、パネルの説明をするとか、私が来る前に応接室で待っているように案内するとかしなさいよ」こういうことが出来ない人が、状況に気が付かないで注意するという、頓珍漢にも呆れる。一事が万事ということでしょう。態度のでかさだけが目立ち、気遣いは無い。サラリーマン社長の悪い見本、権力に対するゴマすりの気遣いだけだ。「首をかけてでも、やらなければならないと思ったことはやるから」と威勢のいいことを最初だけ言ったが、首をかけるほどのことは何もやっていない。それに近いこともやっていない。せいぜい、事務所内に似合わない壁を作っただけ。何もしない、できないから、首になるのではないかなと思わされる。ロビーで来客(何人であろうと)にたまたま会ったときは、挨拶か自己紹介ぐらいしなさいよ。ふんぞり返ったままでいてもいいとK本社社長が言ったのですか。

病院へ私を見舞いに来た時も、私が起きて立って応対しているのに、彼は、私より10歳も若いのに、いすを探し出して、どかっと踏ん反り返りながら、保険が利かないインドネシアの病院へなぜ来るの、早く日本に帰りなさいよ。と、のたまった。もう、あきれて返事ができなかった。

自分より位が高い人の前ではそういうことはないでしょう。自分より位が低いと思っているからふんぞり返るのでしょう。多分、親の育て方が悪かったのでしょうか、それとも、遺伝でしょうか。こういう人を治療しようがないと思う。

 

2008年5月31日インドネシアで楽しく暮す 3-4★

運転手を使うことは、違和感はないし、当たり前のことです。私のように運転手を使わない方が、違和感があると思います。

運転手は、一般公募で職業紹介所のようなところへ張り出せば直ぐに多くの応募者があります。運転技術や車の知識については当然ながら、性格や住所が、自分が住んでいるところに近いかが審査の基準になります。運転技術については助手席に座って、テストを必ずしてください。

運転技術というより、自分の運転感覚に近い人がいいと思います。それも、最初の一人二人で決めてしまわないことです。最低、五人はテストしてください。運転経験や勤めの経験は全く関係ありません。また、運転手を正社員にする必要は全くありません。契約社員でいいのです。もし、気に入っていても、期限が切れたら、あっさり、交換した方がいいのです。その運転手にとっても、別の会社の運転手になった方が、報酬が上がる可能性が高いのです。

運転手派遣会社からの派遣運転手を使う手もあります。しかし、これも、気に入らなければ,我慢して使わないで、遠慮なく別の人に変えてください。気に入るまで変えたらいいと思います。

一番注意しなければならないことは、車が込み合った場所での技術をみることです。性格が現れます。私が運転手を使っていて気にしたことは、車内の温度と風向きにどう気を使うか、それから、アクセルとブレーキを踏む感覚、もうひとつ、直ぐ前の車ばかりでなく、数台以上前の車も見ているかどうかでした。10人以上試したり、会社から押し付けられたりして試しましたが、全て、不合格でした。気に入った人は誰もいませんでした。だから、やはり、自分で運転した方が安心できるのです。普通の日本人と違うと思いますが、高速度や路肩を走るなどは気にしません。

住所は自宅に近いに越したことはありません。せいぜい5km以内でしょう。大概、バイクで通ってくるはずです。真夜中過ぎに家まで送ってもらって翌朝、出勤前に来てもらい洗車や点検をしてもらわなければなりません。

運転手は使う人にもよりますが、酒好きで、女好きで、仕事嫌いの人の運転手になれば、その度合いが大きければ、オーバータイムが多く、疲れる仕事です。その代わり、給料も一般社員よりはるかにおおく稼げます。

フィーリングが合うドライバーか会わないかは生活するに当たって大変重要です。運転を任せてストレスが増すようなことは決してないようにしてください。

2008年6月1日こんな人シリーズ 4★

滅茶苦茶怒りっぽい人、普段は温和な顔をしてニコニコしているが、ひとたびプッツンになると、是がまたすごい。突然大声を上げて怒り出す、周りは予測していれば飛び上がらないが、予測していないことが多いので、びくっと飛び上がってしまう。

話しを聞いていて、その内容によって、そろそろプッツンするかなと感じるように次第になってくる。そうなれば、そばにいる時は、顔を伺う。若干、おでこの筋が盛り上がってくる。そうなると引っ込むことはない。必ず、大声が発せられ、青筋の数が増え、太く出っ張る。ひとしきり大きな声が続き、だんだん収まってくるが、怒鳴られた相手はもう完全に萎縮してしまい。口を利けなくなる。私にも一度「余計なことをいうな」大声を上げたことがあった。「余計なこととは何事か」と怒鳴り返したのは私だけです。他の人は、勢いでも理屈でも負けるので、納得いかなくても引っ込むしかない。

その人はまた、海外での工場立ち上げの経験が豊富で、なんでも自分の言うとおりにやれば成功するんだという、仕事に自信を持っている。英語が達者。外国人に英語で怒鳴りつける。外国人も、意味が分からなくても、その勢いに飛び上がってしまう。

その人に、いつも怒られていた、日本人の若者で私は見込みがあると思っていた人は、怒られすぎて、登社拒否に、インドネシアでなってしまい。挙句は強行帰国をしてしまい。会社に居づらくなって、やめてしまった。その人がもし優しく指導していたら、今頃は、今の踏ん反り返りの仕事嫌いの社長の変わりに社長になっていたでしょう。人生とは人との巡り会わせで、大きく変わるものだと思う。

怒りっぽい人を見ると気の毒になります。人生が楽しくないのではないかと思う。体にもよくない、血圧も上がってしまうでしょう。

あの人に会ってよかったと思われるようになるには怒りっぽくないことが第一条件だと思う。

 

2日こんな人シリーズ 5 ★

サラリーマンの本人の評価のことを考えるのでしょうか。とにかく製品の見積を高く高くしようとする人がいる。見積の計算式というものがある。その最期に、利益率という講がある。そこを50%とか、100%とかにしたい人が少なくない。それが通れば儲け物、通らなくてもともとということらしい。

私からすると良心的ではない。見積明細書を要求されれば、利益率は低くし、加工費や原料費率を多くしてごまかす。しかし、ちょっと賢いフと人なら、無理な数字だということを見抜くでしょう。説明を求められて、しどろもどろに成り、結局、安値ぎりぎりで、引き受けざるを得なくなる。良心的でない人の多くはこんなものです。

私が追い出された会社の人達のことです。欲の皮が突っ張った人たちの顚末記です。

それにしても、とんでもない間違いをしたものだ。多分、提示価格を一桁少なくして、十分の一の見積を出してしまったのでしょう。

以前も同じことがありました。私が一年居なかった時のS君が同じことをした。リマテクノ向けの塩ビのパイプでした。塩ビで引き受けること自体が間違いでしたが、欲張りさんの本人、原料費の10倍の価格を出そうとし、実際に提示する時、一桁間違えて、原料価格で出してしまった。私が再赴任した時、直ぐに変だと思ったが、価格を変えるわけにいかなかった。そこで、原料を変えた。比重が低く価格も安いHIPSに変更した。価格は据え置きでした。原料費を半値にすることができましたし、リマテクノも塩ビより、HIPSのほうが良かったのに、SくんがPVCを勧めた、といっていた。

今回も同じ過ちでした。運賃、シボ加工機の償却を含めて原料費の十倍で見積を計算したが、実際に出した価格は一桁間違っていたのでした。

この、PVCはPT.KGS内では使えないということを、知らなかったが、知って、これを理由に早速、生産中止の話しをしに行ったのでした。作れば作るほど損を重ねる商品を断わる理由が見つかって多分、勇んで、Pasuranまで行ったのでしょう。その光景を想像すると面白い。大男が二人と小男の三人で、無責任な会話をしたのでしょう。大男お二人さんはこの価格の間違いについて本社に報告してあるのでしょうか。

どこの会社が、PT.KGSに変わって、今の価格より安くやりますか、PT.KGSに供給責任が永久にありますし、それを避けるなら、メーカーを紹介する責任があります。シボ加工機もその会社に無償で貸与しなければなりません。ですから、他メーカーを紹介できないのもわかります。

また、今更、やはり自分のところで生産し続けます、とも言えないし。

私がいなくなって、H君、I君の能力を結集して獲得した唯一の仕事でした。PVCの仕事を取ることがそもそもの間違いだったし、価格はもくろみの十分の一で出してしまうし、加工速度が遅いシボ加工機はASKAで100万円もかけて作らせるし、(私なら、今の速度を三倍にし、近くの鉄工場で、30万円で作ります)運賃は着払いにしないし。価格明細(原料費、加工費、運賃、装置償却費、諸経費、管理費、利益)の提示をしなかったようだし。(もし、していればこんな間違いは起きない)。

まともに正直に、余計な色気を出さずに、自分の能力に合った見積を出す事です。まともな仕事をして、地道に利益を上げることです。

             

2008年6月3日パニック障害 3★

翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師でした。「とにかく、あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90-100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、

1 息苦しい呼吸困難

2 目眩がする 

3 頭痛がする 

4 頭が重い  

5 動悸が気になる 

6 胸が痛む 

7 目の乾き 

8 唾液が減少(口の渇き) 

9 寒気 

10手足がしびれる 

11 体のあちこちでちくちく感じる 

12気絶はしないがしそうになる

13死の恐怖を感じる 

14他人と話しをしている時は症状が現れにくい 

15一人でいるのが怖い 

16それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。

17 音に敏感に反応する。

続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。

全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。大分、症状が改善されていますが、息苦しさが若干残っています。1日今の薬の確認をしてもらい、改めて、処方をしてもらうことになった。

発病、一ヶ月にして、やっと、ここまでたどり着いたと言う感じですが、もうしばらくで何とかなりそうです。コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。

現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。

 ほとんど発病前にもどっていますが、医者からも強く、一年近くはのんびりしなさいといわれているので、発病前と同じような行動は取らないように心がけています。ぼちぼちやろうということです

  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KIIと完全に切れた。三人のPDの元で9年間非常に充実していたが、四人目のPDが着任してからは最悪の最後の一年でした。

現在、飲んでいる薬はコンスタン0.4mg一錠トパキシル10mgを二錠夕食と睡眠までの間に飲んでいる。胃液の具合が不安定なので時々、タケフロン15とドグマチール50mgを一錠ずつ朝飲んでいる。

インドネシアで仕事を再開し、5ヶ月経過、パニックになったことは一度もない。いま、私と一緒に居てくれているマリアさんが子宮筋腫の治療のため郷里に帰っていて、私一人で、家に居る。ちょっと前なら、不安で仕方がなかったでしょうが、今は一人でも大丈夫と自分に言い聞かせている。

 

4日パニック障害 4その後 ★

薬を飲んで治ったが、20ヶ月経過、薬を飲み続けている。医者から、もういいというまで、飲み続けるように言われている。

この薬は、神経を使わなくする薬、頭を使わなくさせる薬、サボらせる薬である。だから、ずっと、体が重い、だるい。運動をするのも頭を使ってなにか考えたり、コンピューターに向って文章を書いたり図面を書いたりすると直ぐ疲れるし、止めたくなる。眠くなる。いつもあくびをしている。注意していないとつい、他人と話しをしている時でも大あくびが出てしまう。

体も頭も休めなさいという薬です。この薬のせいかどうか、体重が二年弱で12Kgも増えてしまった。食事を増やしているわけでもない、むしろ、ダイエットのため食事を減らしている。それでも、体重が落ちない。

ほどほど、運動はしている。ゴルフは月二回以上、山の中に入るハイキングも月に二回、工場を歩く時は、早足で歩いている。

40年一日40本吸っていたタバコをきっぱり止めたからが、最大の太る原因になっているかもしれない。コーヒーも好きで一日最低三杯飲んでいたのを止めた。これも原因かもしれない。

酒は飲めない、タバコは吸わない、コーヒーも飲まない。仕事をしていても、頭を使っていても疲れる。是では太らない方がおかしいかもしれない。

ともあれ、現在は、こうしてインドネシアで仕事を続けている。パニック障害も引っ込んでしまっているが、なんとなく、だるいのは薬のせいでしょうか、年のせいでしょうか。

 

 死ぬと何回も思った。インドネシアでも日本でも医者にこんな状態の患者を放っておくなと、叫んだ。看護婦に何とかしてくれ、早く医者を呼んでくれと何回も頼んだ。マリアさんには夜中に何回も病院まで連れて行ってもらった。日本でも救急車は呼ばなかったがタクシーで数回、大きい病院の救急センターに飛び込んだ。その都度、ただ事ではないパニックになった。いつくるか分からない恐怖は、なった人でなければわからない。

 それが、今は、ケロッとなくなってしまっている。しかし、何処か、以前と違う。このままでいいのでしょう。なにも、今は他人の世話になっていないのだから。

 

5日インドネシアで楽しく暮す 5-1★

私のように熟年の単身赴任の人は、一人暮らしはいけません。ですから、私は独り暮らしではありません。

日本にばかり住んでいる人にとってはぴんと来ないでしょうが。インドネシアでは当たり前のように外国人は、お手伝いさんを使います。インドネシア人もお手伝いさんや運転手を使うことはステータスですし、ベビーシッターを使うことも金持ち仲間に入った気持ちにさせるのでしょう。

お手伝いさんの仕事はいろいろの種類があります。どこまでやるか、それぞれがどの程度上手かで評価が変わります。掃除と洗濯は最低です。それだけなら、月給は8千円くらいでしょう。料理は程度で評価は変わります。インドネシアの一般的なものができるか、中華料理や日本料理ができるかで判断します。日本料理ができれば2万円くらいです。

一般的には、そこまで止まりでしょうが、特に若くて、かわいくて、仕事だけで何もしないのはもったいないという日本人は、合意の元に、インドネシアの奥さんになってもらう人もいます。そうなれば、5万円くらいになります。

しかし、特殊な例として、お手伝いさんは独身の振りをしているが、すでに結婚していて、子供もいるというのもありです。だんながいつの間にか転げ込んできて、一緒に住んでしまっていることがある。昼間は、家にいない日本人は其れに気がつかない。

もっと極端な場合は、寝室に踏み込まれる場合もありますから、くれぐれも注意、もっとも、これは、お手伝いさんではなくて、カラオケの女性の場合が大部分です。

 

6日インドネシアで楽しく暮す 5-2★

ひとり暮らしの熟年男性の一人暮らしは危険です。自分の体に突然、何が起きるか分かりません。心臓や脳などの突然の異変は防ぎようがありません。その時、誰かがそばにいてくれれば、助かる確率は大きいし、他人に迷惑をかける確立も少なくなります。

私は、パニック障害で実感しています。また、なんでもなかった人がある日突然亡くなった事実もこちらで数多く知らされてきました。亡くならなくても、しばらく、自宅で寝ていなければならなかったり、入院しなければならない例も沢山見てきました。そういう時、一人でなければどれだけ心強いか分からない。そういうときがあってはならないが、万が一のために、また他人に迷惑をかけないために一種の保険として必要です。

1で書きましたが、お手伝いさんは、住み込み出なく通いの人もいますし、寝る場所は一種の隔離場所、お手伝いさん部屋があって、トイレも別が普通です。これでは、万が一の時を察知してもらえませんし、呼んでも、叫んでも聞こえない場合があります。ですから、付添婦という考えで、自分とできるだけ側にいてもらうために、隣の部屋とか、近い部屋にいてもらうことです。また、風呂場での事故が多い、こちらの床は大きいタイル張りが普通です。ちょっとでも濡れていると非常に滑りやすい。ゴルグのドタキャンの理由として、シャワーや風呂を使っている時コロンで怪我をしたというのが意外に多い。

お手伝いさんという扱いでなく、同居人として扱える人を見つけることが大切です。

私は、お手伝いさん兼運転手兼付添婦としてMariaさんに同居してもらっています。私はまた、旅行が大好きですから、旅行にも同行してもらいます。それらが条件で、月4万円支払っています。それでも、高くないと思っています。

結婚してまだ、一年過ぎていませんが、夫の方はスラバヤでDHLの仕事をしていて忙しい、奥さんが私と同居していることを認めていますし、一度、新婚旅行代わりに私の家に一週間ほど泊まったこともある。私が、日本へ帰っている期間とその前後一週間ずつは夫の元に帰すことにしている。帰れば、必ず彼女の方から、決った時間に電話が入る。電話を取って、ちょっと世間話をして切るが、それが、無事の確認である。日本にいるときは彼女からの気使いは必要ないので、気が向いた時私から電話をすることにしている。いい関係だと思う。

早く妊娠してもらいたいと思っているし、本人もそう思っている。

私のように、他の日本人はできないと思う。というのは、全く魅力が無い女性でなければお手伝いさんとしてだけにしておけないからです。ちょっと魅力にある女性なら、一緒に住んでしまえばどうしても、他の女性を連れ込めなくなるし、その女性に男女関係を持ちかけてしまうからです。其れが、正常に男というものです。

大使館の人でも、JICAでもJODCなどの税金を使ってきている人たちも同じことです。私のような人は全体からみると一種の欠陥男性なのです。

7日インドネシアで楽しく暮す 4-1★

インドネシアの通信事情 1

 インドネシアは家庭の据付電話(ホームテレフォン)が普及する前に、携帯電話(ハンドフォン、HP)が普及してしまいました。固定電話を知っている人のほうがはるかに少ないのです。わたしの住んでいる住宅分譲地には電話回線は勿論、光ケーブルなどは来ていません。その計画もありません。ですから、HPを使うしかないのです。

ネットやメールもHPを使います。今時、土日や旅先でネットやメールができないなどはストレスがたまりますし、だいたい、ブログの投稿やチャットもできない。

HPならどこでも使えます。常に、普通の会話のためのHPとネット用のHPをもっています。電話番号を二つ持っているのです。ネット用はソニーエリクソンの3Gを使っていますが、2万円くらいでした。一般用はノキアの一番安い電話をするだけの機能を持った、4千円ほどで買いました。

HPの画面で、ネットやメールもできますが、そこまでは使っていませんし、それを使うには日本語バージョンを日本で買うしかないのです。インドネシアには英語バージョンしか売っていないので、日本語の通信はできません。今度帰国した時買ってこようと思います。

とにかく、子供の時では夢のようなことが、日本でなくて、インドネシアでいきなりできるのです。私は、たまに帰る日本ではこんな便利な機能を使っていません。私のような年の人も、是非使いこなしてもらいたいと思います。別の世界が開けてくることは必定です。是非是非、お勧めです。日本なら、速度もこちらでは考えられないほど早いし、色々なサービスが請けられる。

残念ながら、一昨日から、テレコムフラッシュが使えなくなっているのです。以前のフレクシも同じでした。地域によって電波の強弱があって、私のいすみかは電波が弱いのです。結局、二日間、メールを開けずブログに投稿できなかった。外へ出て、テストしましたが、原因不明で使えないままです。今日、月曜朝、会社でテストしたが使えませんでした。会社ではCBNプるロバイダー(電話回線)とLANの両方が使えます。今日は両方とも良好です。

インドネシアでは、何かの事情で、突然、使えなくなってしまうことがよくあるのです。本当は、そのために二種類か三種類のサービスと契約しておけばあっちがだめならこっちを使うということができますが、それだけ、出費がかさむ。

会社では、一般のプロバイダー契約とワイヤーレスランまた、HPと三段階でバックアップしている。電話回線が切れることはインドネシアでは珍しくないし、シンガポールとの海底ケーブルが切断して、他の回線に負担がかかり通信ができなくなるとか、日本国内ではおよそ考えられない原因で、使えなくなることがある。怒っても仕方がありません。自分で、対処するしかありません。

ということで、投稿ができませんでした。

日本滞在、十日間 1★

インドネシアの四連休を利用し、今日、23:59ジャカルタ発で成田そして静岡の家に20日、昼過ぎに戻ります。早速、パニック障害の診断の予約とコンピュター修理の依頼をします。インドネシアでウイルスにぼこぼこにされ、色々な機能が回復されていない。特に音が出ないし、LANや電話回線が使えない。日数が限られているので、直してくれるかどうか、分からないが、とにかく頼むしかない。

しかし、そこは、抜かりなく、バックアップはしているので、もう一台が健康ですから、仕事や通信にはんなんら問題はありません。

29日まで滞在の予定です。インドネシアでは花粉症に悩まされることはありませんが、日本ではシーズンは終わりに近いですが、若干心配です。桜が早く咲きそうだという予報を聞いています。期間中満開の桜を見ることができればラーッキーかなと思います。開花予想では、静岡は毎年、日本で一番早く咲くことになっているので、期待します。

何年か前に、桜の蕾の枝を濡れた布で包んでインドネシアへ持ってきたことがあったが、

半日で満開になり、散るまで、三日と持たなかった。気温は25℃の雰囲気でした。

ということで、また、一日二日投稿はお休みになります。

こんな人シリーズ 6

一見普通の若者で、体つきはスポ-ツマンタイプ。しかし、話しが変なのです。こういう人を変な人といわないで、誰を変な人といえるでしょうか。普段、向うから話をしてくることはない若者で、話題がつかみにくい。でも、なんとか話しをしないと、仕事で他人と話しができないと思い、訓練のつもりで、私のほうから話しかける。

技術指導以前の問題である。

月曜の朝、出勤してきた若者に「昨日、何処かへ食事にでも行ったの?」と会話の口火を切った。「はい、鳥勝へ行ってきました」(鳥勝とはブロックMの中の日本食レストランだが、串物が評判)「どう、おいしかった?」と聞いた。「おいしかったです」と返事、「何が,おいしかったの?」と聞いた。「しゃぶしゃぶ」と答えた。そこで、私に?マークが灯った。「鳥勝にしゃぶしゃぶがあるの?」と聞いた。「丸福です」(同じブロックMでもちょっと離れた日本食レストラン、ここなら、しゃぶしゃぶはやっている)と言った。「じゃ、昨日丸福へ行ったの?」と聞く。「土曜日です」と答えが帰ってきた。私に??が点灯した。

気を取りなおして、「土曜日だれといったの?」「一人です」「一人で,よく行ったね、昨日は誰と行ったの?」と聞く。「Wさんと」と答えた。「Wさんは、何を食べたの?」と聞く。「しゃぶしゃぶを、一緒に食べました。」もう、私の頭はパニックになりそう。話をしていて、答えを予想します。しかし、予想が全く外れてしまうのです。思わず、笑ってしまいますが、本人は、どうして、私が笑うのか分からないから、また笑ってしまう。

この人の話は、嘘のような本当のはなしです。これからも話しの種が見つからない時は、つなぎに使います。

 

2008年6月9日こんな人シリーズ 7

話しが変なのはこれだけではない。シャープのスリーブという製品もどうも変。PT.K社との話しが途絶えてしまっているので、私の会社との話しに載ってきた。二種類の見積を提出したところ、高いので、目標価格を示しますといわれ、示された。ところが、二種類の価格のバランスがまったく変。重量比が1対2なのに提示された価格比は1対5だった。5の方の価格はこちらから価格の0.8×になっているが、1の方は安すぎる、原料価格以下の値段になっていた。USD0.17なら納得できるがUSD0.07になっていた。是は1を0に間違えたのだとおおもう。

そして、私の憶測、もうひとつ第三種目の製品は試作を終え、OKが出ているが、第一回目の見積から若干の値下げをシャープが要請しているのだと思う。それに対し、PT、KGSのほうから価格を示さない。そして半年過ぎているのです。こんな理解しにくい話は無い。試作品が全項目で合格になり、量産をしてもらいたいと思っているが、当の試作をした方は量産をしたくない。話しもしない。

多分、PT,K社は第一回目の見積で間違ったとんでもない安い値段を出してしまったのでしょう。其れに気がついたのでしょう。だから、PT.Kはだんまりを決め込んでいるのでしょう。この製品も、表面抵抗測定器という35万円位する帯電しやすいか、しにくいかを計測する装置をPT.K社、自身で購入済みで、帯電防止についてもサンプルはOKになっているが、PT.K社は不思議なことに、量産をしたくない状態になっている。

府に落ちないことを、本社の知り合いに話したら、その知り合いが、そのことを当の本人達に確認した。それを請けて、本人達は、会社の秘密を誰かが漏らしたと怒り、従業員に対し、漏らした人間を徹底的に調べて、割り出し、本人にペナルティを科すとミーティングで宣言した。従業員が漏らしたのではなく、私が客先の購買担当のインドネシア人から得た情報から、推測したのです。それが、当たっているのでした。

まったく、お馬鹿さんである。自分達が会社に大きな損失を蒙らせ、従業員にムダ働きをさせているから、反省し、告白し、自分にペナルティを科すべきである。

こういう、サラリーマン経営者がインドネシアにはいるのです。

コンナお馬鹿さんたちが、インドネシア人は何も知らない、何もできないと、文句を言っているのが現実です。あきれてしまいます。

10日日本滞在、十日間 2★

20日、13:00 静岡、丸子の自宅に着いた。早速、近くのヤマダデンキへ行ってラップトップの修理を依頼しに行った。休日とは知らず、平日で空いていると思っていったら,とんでもない、春分の日だった。15日はかかるという、いつも決った返事、なんとか29日までには直して欲しいと頼み込んだが、後で連絡するとのことで、確約は得られなかった。

ドイツの孫に送るDCDドラえもんシリーズを5枚,一枚三千円もする。馬鹿にならないが、孫が必死に見ながら日本語を覚えてくれれば、只みたいなものである。

また、コンピュターのキーボード保護用の透明シートも買った。以前、餅に醤油を付けながら、操作していて醤油を一滴落としただけで、20万円パーにしたうえに貴重なデータが全滅してしまったことがあったので、必ず、シートの上から操作をしている。やはり、結構汚れるもので、シートの上とキーボード側の裏では艶が全然違うし、シートの汚れが、モニターに移りモニターを汚してしまう。それほど、汚れ方がひどいのです。使っていなかった時、醤油や水をこぼさなくても汚れがキーボードに落ちて隙間から中に埃がいっぱい入り込んでいたんだなと思うと、恐ろしい。

また、日本で買ったのだが予備がないのでと、人に頼まれたデジカメのバッテリーを購入。そのバッテリーはインドネシアではない。

インドネシアではジャカルタのスディルマン通りのラトプラザというところが、インドネシアの最先のIT機器を扱っている店なので、そこに無ければ、インドネシアにはない。

 

 

 

21日、自宅の私がいつも使う純日本式部屋は南向きで、廊下があり、縁側がある。目の前にある桜はまだ蕾が硬そう。冬と春まだ寒い時期に縁側へ座り、爪を切るのを楽しみにしている。今回も、二週間前にきった爪をそのまま伸ばしたまま帰国した。そして、今朝、手と足の爪を縁側で切った。満足。

インドネシアの生活と全く違う、殆ど、ご隠居さんの世界である。ここには、別の私がいるが、三日四日が限界だろうと思う。

 

11日インドネシアで楽しく暮す 5-2

ひとり暮らしの熟年男性の一人暮らしは危険です。自分の体に突然、何が起きるか分かりません。心臓や脳などの突然の異変は防ぎようがありません。その時、誰かがそばにいてくれれば、助かる確率は大きいし、他人に迷惑をかける確立も少なくなります。

私は、パニック障害で実感しています。また、なんでもなかった人がある日突然亡くなった事実もこちらで数多く知らされてきました。亡くならなくても、しばらく、自宅で寝ていなければならなかったり、入院しなければならない例も沢山見てきました。そういう時、一人でなければどれだけ心強いか分からない。そういうときがあってはならないが、万が一のために、また他人に迷惑をかけないために一種の保険として必要です。

1で書きましたが、お手伝いさんは、住み込み出なく通いの人もいますし、寝る場所は一種の隔離場所、お手伝いさん部屋があって、トイレも別が普通です。これでは、万が一の時を察知してもらえませんし、呼んでも、叫んでも聞こえない場合があります。ですから、付添婦という考えで、自分とできるだけ側にいてもらうために、隣の部屋とか、近い部屋にいてもらうことです。また、風呂場での事故が多い、こちらの床は大きいタイル張りが普通です。ちょっとでも濡れていると非常に滑りやすい。ゴルグのドタキャンの理由として、シャワーや風呂を使っている時コロンで怪我をしたというのが意外に多い。

お手伝いさんという扱いでなく、同居人として扱える人を見つけることが大切です。

私は、お手伝いさん兼運転手兼付添婦としてMariaさんに同居してもらっています。私はまた、旅行が大好きですから、旅行にも同行してもらいます。それらが条件で、月4万円支払っています。それでも、高くないと思っています。

結婚してまだ、一年過ぎていませんが、夫の方はスラバヤでDHLの仕事をしていて忙しい、奥さんが私と同居していることを認めていますし、一度、新婚旅行代わりに私の家に一週間ほど泊まったこともある。私が、日本へ帰っている期間とその前後一週間ずつは夫の元に帰すことにしている。帰れば、必ず彼女の方から、決った時間に電話が入る。電話を取って、ちょっと世間話をして切るが、それが、無事の確認である。日本にいるときは彼女からの気使いは必要ないので、気が向いた時私から電話をすることにしている。いい関係だと思う。

早く妊娠してもらいたいと思っているし、本人もそう思っている。

2008年6月12日こんな人シリーズ 8-1

○ ショック

 元受付のディニさんが私の住処に飛び込んできた。それも、9日の夜中2時半、チャイムがけたたましくなって、起こされ、何事かと出てみたら、Diniがいた。頬がそげて見る影もない、一瞬、誰かわからなかったくらい。私の顔を見たとたん泣きじゃくり始めた。事情は後で聞くということで、なにがなんだかわけがわからず、その時は寝かせた。私も眠かった。                                  

その日の夕方会社から戻って、事情を聞いた。うわさでなんとなく聞いていたが、離婚し、子供二人をスバンの母親に預け、仕事を探しているが、なかなか就職できない。チカランのカラオケで仕事をしたがまったくお客が付かなくて、コス(従業員宿舎、カラオケで用意した下宿のようなもの)の費用さえ支払えない。今いくら持っているのか聞いたら、2千ルピアだった。カラオケの仕事が終わってコスに帰らず、私のところへ来てしまったという。疲れ果てている様子。

 落ちぶれてしまっている。頬がこけ、やつれていた、目がくぼんでしまっている。可愛さのかけらもない。お客から指名されないのも当たり前。見るからに貧相、横に座ってもらいたくないに決まっている。人懐こく、明るくて、ふっくらぴちぴちしていた新入社員当時を知っている私にとってはこの変わりようはかなりショックだった。

冷たく追い出すわけにもいかず、その時はとりあえず、カラオケをやめさせ、すぐに見つかるとは思えないが、仕事が見つかるまで、見ばえだけでももう少し健康的になるまでということで泊めさせてやることにした。  

 しかし現在は、Bandung近くのSubanの実家に帰っている。実際に帰ったかどうかはわからない。

○ 続 Dini

14日夜10時ごろ、チャイムがまたけたたましくなり、出てみたら、彼女。子供が病気で医者につれて行かなければならないが、お金がない、助けてくださいだった。

きりが無いのから、今回が最後だよ、と言いながら、病院の費用と交通費分を渡した。15日、早朝にスバンに戻ったようだ。これで終わりと思ったのがまた間違い。

17日 20時ごろ家に戻ったら、入り口前に彼女が立っていた。だいぶ待ったらしい。今度は何だ?「カラオケをやめてしまったので、他の仕事を探したい、就職できるまでお手伝いさんとして使ってほしい。」今1人使っているし、それも、ほとんど仕事は無い。そういうわけにいかないので、日曜日から水曜日までは、部屋を貸してやることにした。生活費の援助も多少しなければならない羽目になった。

 彼女は今25歳、その歳にしてはかなり老け込んでいるし、化粧もいかにも安物でけばけばしい、近づいてくると身を引きたくなる、あまり長くいないことを願う。

13日こんな人シリーズ 8-2

○  続々DINI

 先々週、「週末だけお手伝いさんとして使う」と約束して、スバンに返したDINIでしたが、先週23日(木)に電話が入った。「自身が病気で入院している、明日、行けない。入院費用を出してくれますか。」と言う趣旨だった。はっきり断った。その日の夕方、お姉さんと言う人が電話をかけてきて、「DINIが病気で入院したのでお金を貸してください」だった。これも断った。まったくとんでもないことを言ってくるものだ。DINIが掛けさせたとしたら、なおとんでもない話。一日も仕事らしい仕事をしていないのにかかわらず。本当かどうか確かめようが無い子供や本人の病気を理由に、際限なくお金を頂戴と言ってくる、まったくあきれて口がふさがらない。

それで終わらない。24日(金)まだ、熟睡中の朝5:30、チャイムで起こされた。DINIが立っていた。「病院から2時に抜け出してきた、夕方、病院に戻る」と言う。病気は子宮に関係あるものらしい、「もう一週間は入院が必要」と医者が言ったという。まったくなにを考えているのか分けがわからない。入院が必要な病人が遠くから仕事をしに来てもらってもうれしいわけが無い。病気をしっかり治してから、来ればよいと言い聞かせ、また若干のお金を渡し、7時過ぎにスバンに返した。

これで、多分彼女から解放されるでしょう。

今朝になって、いちいち連絡はいらないと思っているのに、姉という人から、手術をしなければならないと電話があった。だから何なのかと言いたい。

 

   Diniその後

 病気が治ったと29日に連絡あり、31日(金)から私の家に出勤できると電話してきた。当てにもしないでいたが当日は何の連絡も無く来なかった。土曜日、朝7時ごろ、うとうとしていたら、本人が現れた。これも非常識。

彼女いわく、「太田さんは、昨日は家にいないと言っていたから来なかった。」金曜日は出勤しているから家にいないのは当たり前、彼女何か勘違いをしている。お手伝いさんとしてきてもらうのだから、鍵は渡してあるのだし、私がいるいないは関係ないと思うのだが、仕事のために出勤してくると言う考えがないようだ、私と遊びに来ると考えているようだった。

何度も何度も、「金曜日から日曜まで三日間、手伝いさんとしてきてもらう」と言っているのに、わかってもらえないようだ。「1日 日曜日、ゴルフに朝から出かける」と言ったら、「太田さんがいなくなるなら、私はスバンに日曜日の朝かえって良いですか」と聞く、ぜんぜんわかっていない。こりゃだめだ。私のところへ来る目的は、ただただ、お金がほしいだけなので、まだかなり病気がひどいにもかかわらず、治ったといって来たが、お金をもらって早く帰りたい一心。

しょうがないから、その日の夕方スバンに帰した。また、いくらかの交通費を渡して、もうお手伝いさんも要らないから、来なくていいと言い渡した。どうなることやら。給料を一ヶ月分頂戴といってくるに違いない。ほとんど、ゆすり、たかりの世界。

レセプショニストをしていたときの彼女とは全く別の人間になってしまっている。顔つき、化粧、着ているもの、特に目つきどれをとっても、面影が無い。同情で再びかかわってしまったことをかなり負担に思っている。

○ 続Dini その後

金曜日の夜から、日曜日の夜まで、私は、パンガンダラン近くのチラチャップへでかけて、家を留守にしていたので、彼女が来たかどうかはその間、知る気はなかったし、知らなかった。以前、「もう来なくて良い」と言ってあるので、来ないでくれと心では願ったいた。しかし、どうも来たらしい。セキュリティーから聞いた話では、土曜日一晩泊まっていったとか、彼女もそれなら、部屋の電話から私のハンドホンに知らせれば良いと思うのだが、電話しにくかったのでしょう。

もし、そうなら、今後彼女からの連絡が絶えることを願う。かわいそうだが仕方が無い。

 

8日インドネシアで楽しく暮す 4-2★

インドネシアの通信事情 2

今日は土曜日、ゴルフのコンペから帰って、疲れて、一眠りし、目が覚めたとき、テレビを付けたら、NHKの“家族で選ぶ日本の歌”元気が出る歌のリクエストに答える番組をみながら、聴きながら、一緒に歌いながら、是を書いています。18:25です。日本時間は20:25です。外がやっと暗くなりました。

私はローカルのドラマ番組が好きなので残念ながらNHKの番組は殆ど見ません。また、同居しているMariaさんのためにもNHKは見ないようにしています。

ただし、朝のニュースと連ドラは見ます。今は、トテチリチンでしょう。これを見終わってから、出勤の準備をはじめ、出かけます。ジャカルタに住む多くの日本人はこれを見終わって、出発する人が多いと聞きます。

土日はゴルフをするためにすでに出発しているか、旅先にいるか、なので、NHKには縁がありません。人それぞれですが、録画をしてまでNHKの番組を見たり、民放の番組のテープやDVDをレンタルで借りて、見る人もいます。そこまでして見なくてもいいじゃないかと思うほど、執着し、能力を使う人もいます。

インドネシア国内番組を見るだけなら、なにもしなくてもいいのですが、交際番組を見たければ、インドビジョンというシステムを使って見ています。デコーダーという装置を購入(実際は借りる)します。NHKはこれとは別に毎月4千円ほど払います。また、衛星からの受信をするためにアンテナも購入します。

映像は鮮明で、HBOなどの映画番組やサッカーが主体になるがスポーツ専門番組や韓国、BBC,CNN、中国、台湾、シンガポールなどの番組も見ることができます。アニメやファッション、経済専門番組もあります。インドネシアの番組は10以上ありますが、私はSCTVしか見ません。

インドネシア語を覚えるなら、HBOがいい。インドネシア語の字幕がでるからです。英語もインドネシア語も分からない時は辞書を引きます。そしてその場で覚えてしまいましょう。

勿論、一年過ぎて、こちらのニュースを理解できなければ、インドネシア語の能力進歩が遅いと判断していいので、もっと努力しなければなりません。

14日 こんな人シリーズ 9★

いやいや、とんでもなお事件がおきてしまいました。元PT.NOZIMAの社長、今は、なんだか怪しい輸入業していたらしい。

前回,赴任していたとき、何回か会っているし、ゴルフも一緒にやっていました。

その筑紫さんという人が、こともあろうにカラオケ(ZEN)の女性を殺してしまった。ブロックMのカラオケでは有名な金使いが荒い人で評判だったらしい。その金の出所は会社の金の使い込みだったという。それがばれて、追い出されたが、自分で仕事を起こしてインドネシアに住み着いていた。荒っぽい遊び方は治らず、各カラオケに特定の女性を抱えていたという。その中の一人の女性が結婚をシツコクせまったため殺してしまい。タンゲランに借りた家の庭に彼女を埋めた。

其れがばれて警察に通報され、タンゲランのタカラゴルフの5番ティグラウンドで逮捕されたという話も有名である。

チカランのタマンセントサという分譲住宅地(インドネシア慣れをした日本人も安い家賃で住んでいることで知られている)に内縁の奥さんと住んでいるのは知っていました。顔つきは、おとなしそうで、体つきもきゃしゃ、普通の何処にでもいるあまり目立たない風貌で、殺してしまうまでの心理はどんな状況から出てしまったのか、想像の外である。     

日本人が殺人犯という事件は前代未聞です。なにか日本人に対する影響がなければよいと思いますが、どうでしょうか。ちなみに、私は品行方正,人畜無害だと思っていますので、まったくその心配はありません。

現在は、7年ぐらいの刑期を終え、強制帰国になったと聞いている。

 その後、韓国人が同じような事件を起こし、逮捕される前に帰国逃亡したという事件も評判になっていた。

15日 インドネシアで楽しく暮す 6-1★

現地人と親しく付き合う。 1

会社の従業員に対する印象をよくする。その方法は、とにかく、ニコニコしながら話しかける機会を多くすること。私は、毎日必ず、オフィスの人たちには大きな声で挨拶をします。一週間もしないうちに、向うから大きな声で挨拶をしてくれます。必ず、声が聞こえた方向を向いて挨拶を返します。朝と1シフトから2シフトに交代した後、現場を一周しながらできるだけ全員に面と向かって挨拶をします。それも、日本語で、1週間程度で、日本語で挨拶が返ってきます。何かの理由で挨拶ができない時があります。その翌日には、昨日はどうしたの、と、聞かれます。そうなれば、もう、皆さんの中に入っていく人だと認められた証拠です。その内、こちらからも、逆に昨日いなかったね、と聞けるようになれば、それぞれが、自分を見ているな、という意識にさせます。

会社の従業員の行事には必ず参加し、見ているだけでなく、一緒に行動することです。球技大会やチェスの大会があれば必ず、やっている場所へ行って、様子を覗き込み話しかけます。もし、自分がちょっとできれば参加させてもらうことです。

皆さんは大歓迎をしてくれます。そして、肝心なことは、そんなに多くなくていいからいくらかの援助をするか、トロフィーや賞品の現物でお手伝いをすることです。表彰式などあれば、必ず招待されます。そこで、挨拶を求められたり、賞品授与者にされますが、これも、皆さんとの一体感を感じるひと時になります。

また、時々、食事に交替で招待するとか、断食期間中には断食明け(夕方6時ごろ)食事会はかなり喜ばれます。一般家庭でも色々な人を招待して断食明け食事会をします。

私は、ボーリングやアイススケートに交代で何人かずつ招待していました。たまには、バス旅行にも招待していました。

誕生日は当事者が皆さんに何か振舞うことになっています。社員全員に一人当たり10万ルピアくらいのケーキや飲み物を配った。

これらの事を自然に出きれば、貴方は、完全にインドネシア人にとってはいい人です。何でもかんでも、話をしてきます。ただし、只一つ、してはいけないことがあります。それは、個人にお金を貸すことです。理由は色々ですが、カラオケの女性と同じで、家族の誰かが病気だとか、怪我をしたとか、小学校や中学校に払うお金がないとか、です。しかし、貸し始めると、切りがありません。そこで、貸すのを断わると、今度は、悪い人になってしまいます。決して個人にお金を貸してはいけません。

明朝、6:20丸子の家を出発、11:00発のガルーダ、バリ、デンバサール経由でジャカルタ着19:45 31日仕事に戻る。大変な忙しさが待っているはずである。

 

16日 インドネシアで楽しく暮す 6-2★

現地人と親しく付き合う。 2

ご近所とのお付き合い。ジャカルタ勤務以外の方は、ジャカルタや外国人専用の分譲地に住むのを止めましょう。勤めている工業団地の近くの一般分譲地の住宅に住みましょう。

まず、通勤時間が短く、自由に使える時間が長くなる。その分、家に閉じこもっていては、何の楽しみもありません。近所の催し物を見に行くとか、商店によって、ガロンボトルの水を買うとか、日用品をかうとか、ヘアーサロンによるとか、ゴレンガン(揚げ物)アヤムゴレン(鳥の空揚げ)をカキリマによって買うとか、いくらでも、近所の人たちとコミュニケーションをとる時間はある。これができるようになれば、危険は全然なくなるし、逆に、万が一、危険になった時、皆が味方をしてくれます。

私の生活圏のチカラン、ブカシは地元の人より、地方や別の島から仕事を求めてやってきた人々の方が多いのではないかと思うほど、出稼ぎ人口が多い。この付近の工業団地の従業員も地元の人より、地方の人のほうが多い。スマトラ、スラウェジ、ジャワ(西部ジャワをジャワと言っている)出身者が多い。アサルニヤ マナ?(生い立ちはどこ?)と聞くとジャカルタとかブカシという人は殆どいない。特に若者は全部といっていいくらい地方出身者だ。

店を経営しているのも地方出身者が多い。新しいルコ(ルマー、トコの略、Rumah,Toko,

二階が部屋、一階が店)ができ、そこを借りて店を開く人は100%地方出身者です。携帯電話販売店、LPGやガロン水、散髪屋、パン屋、バイクの部品屋などなど、オープンしたばかりの店に入って、どこから来た?と聞くのが楽しみである。だれも彼も、一発で私のことは記憶してくれます。

パサールマラームといって、ちょっとした広場を利用して、テント張りの店と移動遊具が設置される。一ヶ月程度の期間、夜だけ、オープンの市場である。夜、あまり楽しみのいない一般市民は、三々五々、夕涼みをかねて、除きにくるので大変にぎやか、商品は大変安い。品質はどうか分からないが、とにかく市価の半分以下で主に衣料品が売られている。靴下などは、ここで買う事にしている。

日曜日の朝、新興住宅地の広場や道路はジョガーであふれる。インドネシアの人は集まるのが好きなのでしょうか。男も女も若者も中年もこぞって集まってくる。7時頃から10時頃だ。どこから湧き出てくるのか、とにかく、すごい人数になる。その中に入り込んでしまうと怖ささえ感じるが、大変、平和な集団である。小市民の楽しみの一つなのでしょう。仲間に入れば大歓迎される。

 

 

17日 日本滞在十日間 3★

 

コンピューターの修理を終え、しっかり,声が出るようになった。これで、二台のラップトップは正常に機能する。一安心である。

表面高抵抗測定器を購入した。35万円である。これをインドネシアへハンドキャリーする。丁度、ラップトップと同じ大きさで、重さはより軽い。持込で問題が発生しないことを望む。その他に、工具類も持ち込む。

PT.KGSの本社副社長の訪問を受け、押出装置の全面移転を提案された。ごもっともであるが、PT.AFMIの方はどう出るだろうか、利益と売値との折り合いだと思う。AFMIの本社の担当をしている。F氏に会って、その提案を伝えた。お二人の話し合いを設定して、私の役割は終える。希望としては、全面移転がスムーズに行われることを望む。

南部化成の佐々木会長と久しぶりに面会した。とんでもないことを頼まれてしまった。

PT.KGSの買収の仲介を頼まれた。成功するかしないかはK社の副社長の意向が大きいので、私から、佐々木会長の意思を伝えることを約束した。

 もう一つ重要な約束をした。2010年、南部化成のテクノセンターで仕事をすることである。丁度、二年後である。本音は、その時、すでに私は必要でなくなっていることを願う。しかし、必要が継続していれば、喜んで、南部へ行くつもりである。それまで、佐々木会長も私も健康でいましょうと話し合った。ただし、田中さんが亡くなってしまったことや、富澤さんが退職したことなど、南部工業時代からの侍がだんだん離れていくことは寂しいと本音を言っていた。その意味でも、私が側にいることを望むのでしょう。

 後は、インドネシアへ持っていく、インスタント食料品やお菓子類を購入し、バゲジを一杯にすることです。インドネシアでも売っているが、価格は5割増しなので、できるだけ向うで購入したくない。

忙しく、あわただしく過ぎていますが、30日朝、6時半には静岡の家を出発する。

 

24日月曜日には、K社の副社長が太田化工へわざわざ見えられ、私と面談をしました。大変重要な相談でした。私が、10年ほどお手伝いをしていた、PT.K社の押出成型部門を全部、私がいるPT,AFMIに身売りをしたいという提案でした。この話の直接交渉権は私にはありませんが、当然私がOKしなければ、話しのスタートができないことです。

私は大賛成でした。一台や二台は面倒だし、其れに関わる人たち、特に、インドネシア人スタッフに大きな不安を与えます。客先にも不安を与えます。私自身はインドネシア人スタッフト、日系企業客先に対し、責任がありますから、それらにできるだけ不安を与えないように行動しなければなりません。現在の本当の責任者はPT.K社の責任者二人にありますが、彼らはあまりにも無知だし行動力が無いので、こういう事態を招いたのです。それらに責任を取らせても仕方が無い話です。

ある時を目標にして、一括で、機械、人、仕事を移してしまう。ことが重要です。

 

25日は南部化成の佐々木会長と会ってきました。かなりの勢いで業務を拡大しているようですが、やはり、大変だと思う。私はできないというか、向いていないと思う。脱帽です。生き方が違うと思った。まだまだ、止まりそうにない。ただし、田中さんが亡くなってしまったことや、富澤さんが退職したことなど、南部工業時代からの侍がだんだん離れていくことは寂しいと本音を言っていた。私に、早くインドネシアから戻って、南部化成のテクノセンターに来て欲しいと頼まれた。2010年4月を目途に、ご希望に添えるようにしたいと仮約束のようなものをしてしまった。

もう一つ、重要な約束は、PT.KGSを南部化成が買収することです。その仲介を頼まれた。北川副社長にその提案をすると約束してしまった。どう乗って来るか、見ものである。現実的にそうなれば、いやいや、余計なことを臆測するのは止めよう。

26日PT.AFMI本社に当たる厚木の藤沢電工の高橋常務に北川副社長の提案をお伝えした。ぜひ、進めて欲しい気持ちを訴えた。

インドネシアの日系企業の押出成型を全部私の所に集約することになります。私の責任はなお重大になります。パニック障害などといっていられません。私の肩に重くのしかかってきますが、やりがいのあるジョブです。それを2010年4月までに完成させなければなりません。できるかな。