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EssayⅡ

6月18日 こんな人シリーズ 10

無責任でしょ、それは自分でしょ

 事務所の離れた席から、H「ディッキ君が辞める原因は?」と、怒るように私に聞いてきた。私「給料が安いからといっていました」と答えた。H「無責任でしょ」と大声で言った。私、「きょとん」である。何が無責任だか分からない。

ヤント君のときは、私が援助して、日本へ行かせて、日本語を勉強させることは、準備段階から副社長に報告していました。ディッキ君が辞表を出してきた時は、私が知らないことでしたから、勿論、事前報告は出来ていません。

翌日「太田さんが、仕向けたんじゃないの?」と言ってきた。私は、また、きょとんである。これは、どうも、後から知った話だが、私が援助して、日本へ送り込むという噂を通訳のデウイさんが、報告したのだった。通訳を使う弊害が、ここにもあった。事実無根の噂を平野、信じ込んでしまい、私が、けしかけたと、憤慨したのだった。ディッキ君は、日本語の勉強を日本で二年やっているので、再び勉強でのビザは取れない。また、兄弟が浜松に住んでいて、短期なら何時でも、親戚訪問ということでビザは下りる。他人の援助は要らないのです。そういう事情を全く知らない。また、もし私が援助するなら、ヤント君のときと同じように副社長に準備段階から報告をしています。

寝耳に水の怒りに、戸惑わされた。勿論、ディッキ君も個人面談で否定した。

このことについても、その後全くフォローがなかった。

後日談ですが、ディッキ君は浜松にいる実兄をたよって、四ヶ月ほど日本に滞在し、仕事をしたが、思うような仕事ではなかったためインドネシアにもどった。昨年、10月彼から相談があり、再生ペレットの工場を作りたいが、出来れば援助して欲しいという話があり、援助することにした。一月末までに約2千万円の資本を提供した。

一月中旬にインドネシアへ行ってきましたが、これらのことでした。今月末、オープンの段取りになっている。インドネシア人として、会社設立から、自分でやろうとする人が、やっと育ったと、我ながら、喜んでいる。出来るだけ、縁の下で支えたいと思う。

また、スラバヤでも、元、ハリムサクティ(原料商社)のカーター君が再生工場を立ち上げたいというので新工場を見て援助することにしました。ここにも2千万円ほど投資した。もう一つ、お互いの命の恩人マリアさんがブティックをオープンしたので、そのお祝いにも行きました。ここには500万円ほどの投資でした。私のホビーの数々です。参考のために、スラバヤでは、一泊2千円×2、ブカシでは2.5千円×2、ジャカルタでは戸村さんのアパート、無料×1、の5泊6日の旅でした。自分に金はかけない。酒は飲めないし、タバコもやめた。自分が使うお金は少ない。私の行動やその裏づけの考えや余裕をあなた達には想定できない。

私の行動の何を怪しんでか、I、Hがワルドヨ君を呼びつけて、確認したそうですが、私が不利になるようなことを、もし、あっても言うわけがないと思う。ワルドヨ君、はじめ、数人のインドネシア人スタッフは常時PT.KIIの現状を伝えてくるし、Oさんの立場についても盛んに情報が入る。

 どこに対する、誰に対する責任?あなた達の責任の考え方、向ける顔の方向が私と反対。

全く、仕事嫌いで、動きが鈍い中年男が、インドネシア人の噂を信じ込み、日本人の先輩に憤慨するとは、呆れてしまうだけである。自分を批判するとか、自分より能力が上の人を本能的に排除しようという言動や行動になってしまうのでしょう。

 

19日 こんな人シリーズ 12★

 二十四歳の若者。着任早々の一ヶ月の電話料金が8ジュタ(約10万円)、彼のインドネシアで受け取る給料の一か月分だ。どの会社も、節税対策として、日本のときの給料はそのままにしておいて、海外勤務手当てに当たる10万円ぐらいを現地では給料として受け取ることが多い。

 なぜ、こんなにかかるのか。それは、日本の今までのプロバイダーを使って、国際電話でインターネットを開いていたからです。考えられない。それも、時間が半端ではなかった。毎晩4~5時間繋ぎっぱなしだったのだ。何をそんなに夢中になることがあるのでしょうか。想像が付かない。私も、家でインターネットやメールをやるが、長い時で二時間である。平日に5時間は気違いである。

 色が真っ白で、見掛けで、もやしのような育ち方をしてきたなと想像する。日焼けの面影は全くない。狐目で、無口、色白、一見、篭りっきりのオタク顔というのでしょうか。見ているだけでつらくなるような顔をしている。

 結局、本人びっくりしてLAN接続に変えたらしいが、それまでの二ヶ月半、合計で、二十数万円,はらったと聞いている。この若者は、来イして半年も過ぎないうちに日本へ返した。あまりにも不良品で、私が育てるとか技術指導の対象になりえない。

 こんなのが、日本のK社では、結構通用していると聞くと、K社の社内の程度は、押して知るべしだと思う。会社の将来があやうい。

 

20日日本滞在十日間 4★

現在ジャカルタタイム30日22:00である。日本時間は00:00のはずです。昨日朝、06:20に家を出て、新幹線と成田エックスプレスで09:30成田着、11:00発バリ、デンバサール経由でジャカルタ着が現地時間19:40車を飛ばして家に着いたのが21:30でした。家をでてから15時間の長旅でした。JALなら、ジャカルタ直行便があるのですが、4~5万円余分にかかるので、使わない。

シャワーを浴びて今から寝ます。

寝る前にこれを書いています。昨日土曜日29日は静岡産業大学の三年になるヤント君と久しぶりに会い、インドネシアからの食料品の土産を渡した。彼の希望で、日本平へ行ってみた。桜が満開でその前の日と連続で、満開の桜を満喫した。何十年ぶりのことでした。インドネシアには全く有りません。よく分かりませんが、桜にとっては四季が必要なのでしょうね、

明日は6時起きで久しぶりに出勤です。目当てのマシンはまだ入っていない、との情報でした。

21日こんな人シリーズ 13

私は、“インドネシアで楽しく暮す”シリーズを書いて投稿していますが、私が書いていることを全く、無視したような生活をしている人がいます。ある会社の現地社長です。

この人の趣味は釣りだけ。それ以外は全くやらない。それも、釣り仲間というか、主になって手配してくれる人がいるので其れについていくだけである。要するに人の世話を全くしないで、ただ、釣りに参加し、大使館の誰かと一緒だったとか、船が揺れたとかゆれなかったとか、その後のさしみがうまかったとか、いうだけである。

仕事は、ほとんどない。会社に8時ごろ出てきて、15:00には帰ってしまう。製造業だが、現場に入って、従業員と話をすることもない。言葉は全然上達しない。旅に出ることもないし、ゴルフの付き合いもしない。移動もアパートと会社の往復だけで、自分でコンタクトを取って、他の会社を訪問することもない。日本では営業畑で仕事をしていたとは全く思えない。

その会社は、製品を買って売る、いわゆる商社のようなことはできなかった。作ったものを売るという会社として申請したからだ。しかし、なんとか、日本から輸入した本社の商品を売ろうとし、何年間か、かかって彼の時になってOKになった。本人それを自慢する。自分が、そうした、と言っているのだ。ところが、そのために着任したその人が、営業に回らない。全然、効果があらわれないままだ。自慢は、商社のような商売で利益を生じさせてからにして欲しい。

暢気なもので、本人曰く、「インドネシアに売り先はないよ、あっても、少しで、商売にならないよ」と、すまし顔。駆けずり回って商売をふやそうなどという行動は彼にとっては頭に全くなし。

何も面白いことはないのでしょう。毎日、酒に浸る日々を送っている。其れが、私を疑い、大声で何回も怒鳴りつけた人です。

その人を必要だと思っている従業員は一人もいない。しかし、本社はそのままにしておく。面白いものである。もっとも、インドネシアでは何もしなくても文句を言う人はいないが、その人が日本へ帰ったときは、やることがなくて、やめなければならない時でしょう。気の毒な人だと思う。

22日人シリーズ 11★

TZさん どうも、様子が変だった。12月中ごろのジャカルタで食事をした時、いつも冗談を言って、皆をひきつける彼が冗談を全然言わないし、こちらが冗談を言っても反応が薄かった。

PT.Mで13年仕事をしていた、射出の大ベテランである。

大変残念である。DACのTMさんからの情報だった。TMさんのところもマスターバッチを売っていたので、そのあおりは大きく、ただでは済みそうもない状況とか。一番困るのは、PT.LTIである。一番、生産量を上げなければならないゴールデンウイークの前、水槽の材料が入らない。FNさんのホノリスに頼もうかという話もあるが、どうも、ムルパティの後任の大門さんという人が、金型をだしたくないらしい。

自分の懐に入れてしまったわけではないが、出物があったのでしょう、本社の許可を得ることなく、自分のだけの判断で、120トンという大量の原料をどこからか購入してしまった。カップ麺のインドフードむけカップの原料である。150円/Kgとしても、1800万円になる。他社への支払いを停止してまで購入したとたんに毎月10トンの注文が一時ストップしてしまった。三ヶ月ぶりに、若干、戻ったらしいが、他の多くの仕入先に大迷惑をかけた。さまざまな、仕入れができなくなってしまった。どこからか、本社に通報された。本社から、急遽、新担当者が赴任し、TZさんは、会社出入り禁止になってしまったらしく、会社所有の車と携帯電話を没収され、自宅閉門蟄居中。

友達として、付き合ってきたし、人付き合いがよく、面倒見がよかったので、多くの人から、親しまれていた。20何人かを集めて、私の歓迎会みたいなものを開いてくれた。知り合いが多くて羨ましいと思ったくらいだった。

何はともあれ、まだ、収まっていないようですが、早く落ち着くことを願うばかりだ。

 

 現在は会社を早期退職し、また、インドネシアで仕事を始めている。チカランに住んでいるとの話だが、まだ、再会していない。時間の問題だが。

 

 

23日インドネシアで楽しく暮す 7-1★

日本人はスポーツや旅行など昼間の活動が苦手な人が多い。それらの楽しみのない人は、他に楽しみや息抜きを求めなければならない。

一番は女性です。まず、カラオケへ行けば、女性を指名し、一緒にある時間を過ごすことが出きる。ジャカルとのいたるところ、ブカシ、チカランなど日本人や韓国人がいる町にはそういう場所が沢山ある。

女性がOKなら、一緒に外に出ることもできる。店によって違うが、アワーチャージ3万Rp(約400円)で、連れ出しは20時間(8千円)かかるのが相場だ。ホテルへ行くなり自分のアパートへ行くなりして、明け方まで一緒に過ごす。それきりの関係で終わりにする。これが一般的、健康的?な付き合いの仕方です。しかし、女性の方は、店に払うチャージ代を独り占めしたいので、個人的な付き合いを求めてくる。其れに乗せられる人が多いが、それ以後は一般的ではないし、深くなればなるほど、もんだいが起きる可能性も高いので、ご用心。女性は、貴方だけとの付き合いではないのです。信用してはいけません。

 これらは中央から南ジャカルタの話。ジャカルタの北のほうへ行けば、完璧な売春場所がある。直接、その場で女性を選びそこの部屋で二三時間を一緒に過ごす。中華系の若い女性が多いという話は聞いています。15歳くらいから40歳くらいの女性だそうです。

 

マッサージ、これがまた、色々な形態があるようです。足の裏だけから、上半身た腿から下、これが健康的、一般的だが、日本人の多くが求めているのは中心のマッサージだそうで、需要と供給の関係で、その種のマッサージが多い。ちゃんと、目的別に入らないと、当て外れになることになるので注意。

 ゴルフ場にもあるし、ジャカルタ中心のデパート内にもあるし、田舎の道端にもある。散髪屋でもやっているのが普通です。ホテルではフロントに頼めば出張で来てくれます。ブロックM近隣にはさまざまなマッサージの種類が揃っています。リッポチカランのルコ辺りにも揃っています。お互いに気に入ればカラオケの女性と同じような付き合いもできます。

 私は、近所のヘアーサロンで全身マッサージを月に一回してもらいます。オカマの散髪屋です。ゴルフから帰る途中、散髪とカラーリングをします。カラーリングの乾燥を待つ間にマッサージをしてもらうのです。大変痛いが後が快適です。一時間半ほどかかるでしょうか、8万Rp(千円くらい)です。10万Rp置いてきます。どうですか安いでしょ。

 

24日 シアで楽しく暮す 7-2★

二番目は酒です。イスラムはアルコール禁止ですが、インドネシアはそんなことはありません。ただ、断食月になると、過激派がアルコールの規制を強要するので、政府も地方もやむ終えず自制を促す。店も、自粛するようになる。毎年、何軒かが犠牲になって店を荒らされたりしている。

一般的には全く自由です。ホテルや日本食ストランで飲む人が多い。カラオケには歌が苦手な人も多いし、一人で来てルームチャージを払うのも無駄なので、カウンターがありそこで水割りをちびちびという人も多い。カウンターバーで指名して女性とムダ話をしながら飲むという店もある。気に入ればその女性をブンクス(包む)といって、連れ出すこともできる。

どこのスーパーでもコンビにでもビールやワインぐらいは置いてある。買いこんで冷蔵庫に入れておき、晩酌や出勤前に引っ掛けてくる人も多い。無ければ死んでしまうと、自分でいうひとも何人か知っている。そういう人と旅を一緒にすると大変。地方ではあまりビールを売っていない。飲む人がいないからだ。有っても、冷えていない。まず、探して買いこんで冷蔵庫に保管しておくことが第一の気使いになる。車で行くなら、アイスボックスにビールを詰め込んで行きます。アルコールでなくソフトドゥリンクなら、どこへ行っても、望みなら、冷えたものを買うことができます。

日本酒、焼酎、至れり尽くせりです。酒飲みには自由な世界で、仲間を作ることもできるし、憂さ晴らしも出きる。恵まれた環境だと思います。日本で生活するより酒飲みにとっては恵まれていると思う。

 

ただしご用心、二日酔いで、炎天下ゴルフをやっている最中に倒れて死んだ人を何人か知っています。倒れて死ななかった人をそれ以上に何人か知っています。本人は気を失っているか息をしていないか心臓が止まっているだけですから、分からないが、周りの人に大変な迷惑をかけています。あってはならないことです。

 

私は酒、アルコールアレルギーなので、全く飲みません。酒の話になると無口になります。お付き合いを全くできません。酒好きの人の心理は全く理解できません。違う人生と人生観があるのだろうなと思うだけです。

 

お酒と女性にだらしないというか、無ければ生きていけない人は、金銭的な問題を起こしやすい。贈収賄や使い込み、インドネシア人はアンダーテーブルの世界であることは間違いありませんが、日本人もその誘惑には弱い。長年、購買など権利を持っている人は特に、誘惑に弱い。そんな人を何人も見ている。

 

25日 シリーズ 14★

とにかく、日本で社長時代は、相手が本性を現さないというか、損得関係がないというか、私の環境が良すぎたというか、色々な性格の人と出会うことは無かった。露にされることも無かった。しかし、こちらへ来て、皆さん本性を現すというか、思うようにいかなくてストレスがたまるというか。ぴりぴりしている人が多い。可哀想といえば可哀想、自分で望んできている人は殆どいないし、性格的に能力的に無理だと思われる人も多い。

海外へ出す本社も人材不足だし、そう、贅沢を言っていられないので、取り替えることも出来ない。皆さん、気の毒な存在だと感じる。

ゴルフのコンペに同じ会社の若者が参加することになっていた。ミーティングはスタート20分くらい前からやるので、大体、30分前には集合ということになっているのが普通だ。ご本人から何の連絡も無く、10分前になってもまだ姿が見えないので、同じ会社の人間として、私が彼に電話した。呼び出し音は鳴っているがなかなか出ない。やっと出たと思ったら、どうも、電話で起こされたような雰囲気のしゃべり方だった。「今どこにいるの?」と聞いたら、「高速道路の何処どこにいます」という返事、私は「それなら、20分もそこからならかからないね、一番スタートになっているから、同じ組の人に頼んで、最後に回してもらうよ、いいね」といったら、「そうしてください」ということで、電話を切った。

そして、変だとちょっと首をかしげながら、スタートした。プレー後本人がいたので聞いた。「間に合ったの?」「間に合いませんでした。後半だけ入れてもらいました」という返事、ほかの人に聞くと、到着が、電話したあと1時間半後だったとか、結局、電話で起こされたのでした。とっさに、どういうわけか嘘をついてしまった。そこで、あわてて支度しゴルフ場に向ったのでした。頭がパニックになっていたのでしょう。嘘をつかないで、本当のことを言うのが一番だが、同じ嘘をつくなら、突然の下痢とか、風呂場で転んで捻挫とか、そうすれば、ゴルフ場に来る必要は無かった。

結局、皆さんに迷惑をかけてしまった。それも、迷惑をかけたことについて皆さんに謝るかと思って、期待していたら、朝電話で言っていたことは全く忘れたかのように、寝坊した、と、遅れた原因を説明しただけだった。

大物か、あほなのか、今も近い将来も分からないでしょう。20年後くらいにはっきりするでしょう。

 

26日 シリーズ 15-1

Mariaさんについて。

この子には本当に参った。お客さんが日本から来た時、カラオケに付き合うことになった。その時、私が指名した女の子のこと、当時19歳、かわいかったので、指名した。これが問題のおき始め、彼女が、「仕事が終わった後一緒に家に行ってもいいか」、と聞くので、金曜日で、明日予定が無いのでいいよということになり、仕事が終わる12時半を待って、彼女を家に連れて返った。土曜日は一緒に近くのちょっとした観光地、ジャティルフールへ行って、そのまま、ジャカルタのお姉さんと一緒に住んでいるという、コスの前まで送っていって分かれた。ハンドホンの番号はその時教えた。

一ヵ月後くらいに、彼女から電話があって、また、会って欲しいといってきた。日曜日にジャカルタまで行って、そのままアンニョール(ジャワ島の西の端、スマトラへフリーがでている港町)へ一緒に行った。その道中、彼女に電話がかかってきた。何か深厚な

話をしているようで、相手が一方的に話し、彼女はフンフンと返事をしているだけである。その電話が、終わってしばらくして、彼女が「お姉さんが、首のあざの手術で5ジュタかかるからいくらでもいいから手伝って欲しい」と切り出した。それ、やっぱり来たかと、思った。いくらでもいいからと言うのは、曲者である。いくらかかるとはっきり言わない、要するに、そのためではなくて、本当にいくらでもいいから小遣いを欲しいのだ。それも、影に男がいることは明白である。紐のような男がいるようだ、と感じた。

その時は、1ジュタだけ渡した。その後も何回か、ほぼ、一カ月おきぐらいに合いたいと言って来ては、1ジュタせしめて行った。多分、というか、絶対に、ほかの日本人にもいくらかたかっていると思う。

知ってから、一年後くらいに、「男が自分に付きまとって着て困る、仕事が終って店を出るとその男が待っていて、家まで送って行くといって車に連れ込まれる、怖くて断われない」そして、「休みの日には家の前で、ずっと待っている、だから、引っ越したい、いくらでもいいから、手伝って」、といってきた。その時も、若干渡した。

またしばらくして、会って欲しいといってきたので、会ってやったら、今度のコスの隣の男が、暴れて、壁を、蹴破ってしまったので、住めなくなった。もう、コスへ戻りたくない、しばらく、住まわせて欲しい、と頼んできた。無理やり返す分けにもいかず、住まわせる事にした。ところが、一ヶ月もいられると、どうもうさんくさくなってきた。ジャカルタへ戻したが、住むところがないといって、二三日後に戻ってきてしまった。二ヶ月過ぎた。電話代の請求が三倍以上に跳ね上がった。彼女が昼間、あちこちへ電話をしまくっているのだ。それも、圏外のハンドホーンへである。電話を圏外へは使えないようにした。

 

27日 シリーズ 15-2

今度は、その男から脅かしの電話がハンドホーンにかかってくるから、電話番号を変えたい、また、お金のムシンである。電話番号を変えてやった。しかし、夜になるとまた誰かからか電話がかかってくる、それも、真夜中の二時,三時である。二三十分話をしている。それも、一方的に聞いているだけである。その内、その電話が終ると、弟が交通事故で起こしてお金がかかるとか、カラオケに電話代の借りがあって払わなければならないとか、お金を要求する。私はまた、男に貢いでいると見抜いているので、お金を渡さなかった。誰かから借りて払って、領収書を持ってきたら、借りた人に返してあげようといった。

彼女は怒って出て行ってしまった。当てが外れたのだ。これで、安心と思ったのが甘かった。一ヵ月後、また、のこのことやってきて、お金をむしんに来た。だめだ、返れ。と言ったら、トイレに入ってしまって出てこない。鍵は無い。十分ほどたっても出て来ないので、ドンドンとドアを叩いても返事がない。びっくりして、あけて入ったら、彼女、座り込んで、気を失っている。そして、手首を押さえている。手首を切って、気絶しているのだった。ほっぺたを叩いて正気に戻させ、寝かせた。手首の傷は擦り傷程度で、血も殆ど出ていなかった。 

彼女は、その、紐のような男の悪口を盛んに言うが、本心はとことんほれてしまっているのだ。彼の言うことは何でも聞こうとする、捨てられるのが怖いのだ。電話番号を変えても、一日も過ぎないうちに電話を彼女の方からかけてしまっていることも分かった。

ついに、レバランの時、故郷へ帰るからというので5ジュタ渡した。信用できないので、証拠の写真を撮ってきなさいと、いってやった。しかし、やっぱり、レバランというのに返らず、男のところに転げ込んでしまったらしい。お姉さんから何処へ行ったか問合せがあって、帰っていないことが分かった。

 

28日 シリーズ 15-3

レバランも過ぎて、一ヶ月たったころ、彼女がまた、突然現れた。今度は本当に男から逃げてきたと言う。彼女の女友達も一緒だった。その友達も彼女が言っていることが本当だと言っていた。その一ヶ月ちょっとの間、麻薬をやったり、刺青(仮)やったあり、髪の毛を細く細かく編んだり、散々、遊びに遊んだらしい。お金がなくなったのでしょう。また、お金のむしんに戻って来たのだ。それも、友達の言うことを証拠としての演技である。もう、こちらも、お金をわたす気はない。そのまま、ジャカルタまでのバス代を渡し、追い返した。

ブロックMのプレマンといって、チンピラとの付き合いというか、その仲間に入って、ボス的な男が紐になっていて、何がいいのか、その男に惚れ込んでしまっていて、何を言って聞かせても分かれられないでいるのだ。

無駄にしたお金は膨大な金額になっていると思う。もし、貯金していれば家(250万円)の一軒も手に入る金額なっていたでしょう。女の気持ちは理解できない。

それから、また、一ヵ月後、ちょっと大きめなバッグを提げて、また、夜、やって来た。今後は本当に逃げてきたと言う。またかと思ったが、夜遅いので、そのまま泊めた。また、お金をムシンして直ぐ出て行くと思っていたが、その日から、ずっと一緒にいることになるとは思っていなかった。

私は、会社に行っている間に彼女がいなくなっていることを望んでいたが、どういう事情か、もう、帰るところがなくなってしまったのでしょう。

その時から、住み込みのお手伝いさんになったようだったが、いままでの生活があまりにも荒れていたので、お手伝いさんの仕事だけでは暇をもてあまし、やたら、あちこちに電話をしまくって、一月の電話代が二万円を越してしまった。その後、電話機を取り替えて市外電話は出来なくしてしまい、携帯は一週間に1200円までと決めた。そこで、時間をまたもてあますので、専門学校へ通わせた。バイクを中古で買ってやった。カラワン(ジャカルタから遠ざかる方向で30分)に学校はある。そして、旅行には必ず連れて行くようにした。旅行の最中は携帯電話の電源を切らせた。

 

29日 シリーズ 15-4

 

こちらの専門学校は一日一時間か二時間ぐらいしか授業が無く、秘書科とコンピューター科の勉強をさせた。まじめに通い、新しい、普通の学校の友達もでき、次第に、ジャカルタ、ブロックMのプレマンに貢いでいたときのことを思いださなくなっていったようだった。しかし、ことはそう簡単ではなかった。そのプレマン連中の嫌がらせが始まった。ブロックMのパパヤ(日本食スーパーマーケット)へ買い物に行ったとき、買い物から出てきたら、車をパンクさせられていた。ご丁寧にスペアータイヤまで、穴をあけられていた。バジャイに乗って近所のパンク修理やで、直して戻ってきたら、連中が薄ら笑いをしながら眺めていた。そこで、ジャカルタで買い物をする時はパパヤ以外に行くことにした。

今度は、夜中に忍び込んできて、車のバッテリーの配線をずたずたに切ったり、ガソリンを送るパイプを切断したりしてくれた。朝、会社へ出かけようとエンジンをかけたときにこの有様だった。犯人は分かっているが、捕まえたり、訴えたりすることが出来ない。ただ、辛抱するしかなかった。彼らが住んでいる場所から、車で、一時間もかけて夜中に嫌がらせにやって来るのだから、そう、長続きはしないと思っていたら、案の定二回だけで済んだ。次の日の朝、車を使って旅に出る前の晩は車に寝たたりして見張った。その時は何でもなかった。その後は何事も起きなかった。

 彼女は学校へ行きながら、車の運転の練習もさせた。土曜日、日曜日には近くの広場で、縦列駐車や車庫入れの練習に付き合った。バイクの免許も取らせた。これで、やっと自立できるようになったと確信したのは、彼女と出会ってから、4年経過していた。その間、妊娠中絶が二回、手首を傷つけたのが三回、車の損傷が4回、病気でジャカルタの親戚に世話になりにいったのが一回。まったく、修羅場の連続だった。

マイフェアレディーの世界よりはるかに過酷だった。それでも、何とかまともな女性にしてやろうと、とことん付き合うことにした。そして最期には本当にまともになった。これでやっと終わった。そして、作品が完成したと思った。ブリタールの両親にも会って、経過を話した。お礼を言われたが、特に感慨は無かった。

この女性が、パニック障害の時に私の大きな手助けになってくれて、私は救われたのでした。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/の自己紹介を参考にしてください。

 

6月30日シリーズ 15-5

これで、再会することは無いかもしれないと、ジャカルタ空港で涙の別れがあり、私は日本へは帰り、休養と治療に専念した。彼女はブリタールに帰った。その後、二歳年上の幼馴染と結婚をした。スラバヤに住んでいた。仲良く、新婚生活をはじめたという知らせを日本にいて聞いた。週に一回のペースで近況を知らせあっていた。

こちらで就職して仕事をしていたユニーさんが、私が帰国している間に、日本の会社を辞めてインドネシアへ戻ったので、インドネシア語で話しが出来るのはヤント君一人になってしまった。ヤント君は大学に後二年だが、その後大学院へ進学して、終わったら、インドネシアへ戻って、大学の先生になって日本語を教えたいと言っている。

そうこうしているうちに、私の健康も回復し、活動できるようになったので、また、じっとしていられなくなり、海外へ行きたくなり、やはり、言葉が出来るインドネシアに戻ることになった。帰国して一年半後だった。

彼女がどうしても私のお手伝いさんとして仕事をしたいと言うので、新婚の旦那に相談したらOKだという。まだ、妊娠していない。妊娠したら来なさいということにした。しかし、どうも、妊娠できない状態になってしまっているらしい。こちらで治療して,よくなったらスラバヤへ一時帰る、と、いうことにした。現在、産婦人科に通って治療中である。次に、私が、日本へ帰るなど長期で留守をする時に旦那の元へ返す。そして、妊娠するまで来るなと言う。

前にも書いたが、一人暮らしは大変不安で、また、パニック障害の症状が現れたら、大変だと思うが、彼女の家庭のことを優先的に考えなければならない。今は、一緒に二週間に一回のペースでブンクルーやジャヤプラやバンジャルマシンやマナドへ旅行に行っている。安定した、安心した生活を送っている。

先日、彼女の旦那が休暇を取ってスラバヤからやってきた。一週間泊まっていった。新婚旅行の気分だったと思う。ジャカルタ見物にも行ってきたようだった。別れ別れの生活だが、スラバヤでは昼間一人で家にいることは耐えられない、仕事も適当なものがない、そこで、一種の出稼ぎのようなもので、私の所へ押し掛けてくる、私も一人よりはいいし、運転手にもなるので、お互いに利益が一致している状態でしょうか。

いつまで、一緒にいられるかは分からないが、必ず、期限はある。いつかは分かれる時が来る。

2008年7月1日インドネシアで楽しく暮す 8-1★

成田発ジャカルタ行き 1

なんてったって、ガルーダです。また、ガルーダのビジネスクラスを使う人の気持ちが判らない。倍近い料金を払って、倍のメリットがあるとは到底思えない。価格優先です。成田直行便はガルーダとJALしかない。双方の価格は2対3である。その代わり、日本からはデンパサール経由になる。

機体は747だが、かなり古いタイプで、これなら、当然安いでしょうと、思わされる。しかし、インドネシア国内を旅行する時はガルーダが一番高いので、使わない。

静岡から11:00のフライトに間に合わせるために東京発成田エクスプレス08:30に乗らなければならない。其れに間に合わせるには静岡発06:44コダマに乗る必要がある。だから、06:20タクシーで家を出る。

この時間表で問題はないが、何十回と繰り返していれば思わぬアクシデントに遭遇することもある。総武線の事故で、成田エクスプレスが大幅に遅れた時だった。一時間遅れで来てもそれを待つわけにも行かず、とにかく、来た電車に乗り込んで、一時間半かかって成田に付き、出発の三十分前に搭乗手続きをしたこともあった。

あせってもしょうがないが、チケットを忘れて家を出て、成田についてから分かったこともあった。チケットをなくした旨話をしたら、何とか搭乗券を発行してもらったこともあった。

また、接着剤をバゲジに入れて持ち出そうとしたら、発見され、可燃物ということで、持ち出せない。ばれたかというところでした。酒のビンにでも入れ替えて置けばよかったと反省しているが、困ったことに処理しようにも運送屋には断わられるし、郵便局にも断わられた。途方にくれて、インフォメーションの女性に泣きついた。上司に電話をしてくれて、捨ててくれるということで、引き取ってもらった。そこらへんに放り出して不審物として大騒ぎをされても困ると思い、何とか処分してくれるところが見つかってよかったと思った。そのために30分も空港内を右往左往した。バゲジの中身には絶対可燃物を入れてはいけません。アルコールはいいのですね。お酒は可燃物ではないのですね。燃えるお酒もあると思うのですが。

 

 

2日 インドネシアで楽しく暮す 8-2★

成田発ジャカルタ行き 2

最近、コンピューターは裸の状態にしてX線チェックを受けなければならなくなった。別に成田だけではない。ミュンヘンでもフランクフルトでもそうだった。ヨーロッパの方で何か危険物がコンピューターに仕掛けてあったからでしょうか。しかし、インドネシアはそんなにうるさくない。なぜでしょうか。イスラム国家だからでしょうか。ただし、水にはうるさい。免税店で買ったポカリを取り上げられた。

ガルーダ(GA881)で成田からジャカルタへ入り場合は、デンパサール経由になる。90%以上はバリまでである。トランジットの人達は、便を変える。19:15発(GA415)国内便に乗り換えるのです。

乗ってきた便は、デンパサール発ジャカルタ経由成田行き(GA880)になる。バリタイムで22:00過ぎ発、殆ど満席で、出発する。私は成田へ行く時にはその便にジャカルタ、23:59発、から乗るのです。

それでも、デンパサールで2時間ほどの待ち時間がある。その間、何もすることがない。読書か、それとも居眠りかそんなところです。食事も高い、マッサージも高い。どうしましょう。迷った挙句、足裏マッサージをすることにした。30分で20万ルピア、ディスコンで15万ルピア、あまりに高いので、そこはやめた。もう一箇所は、最初から14.5万ルピアだった。ディスコンで13万ルピアにするという。もうこれが限界だろうと、マッサージをそこで頼んだ。気持ちは良くなった。

 しかし、高い。私の家の側のオカマのヘアーサロン兼マッサージは全身マッサージ1時間で4万ルピアである。ブロックMパサラヤのみやげ物売り場でさえ、30分で6万ルピアである。時間つぶしとはいえ、バリはやはり高い。日本人観光客はスパなどといって、全身マッサージを50万ルピアくらいでやってもらって体のコンディションも気持ちも良くなって満足するようですが、どうも、その価格を聞くだけで、もう、満足できない精神状態になってしまう。

昔は、バリで長く待たされた。最長5時間遅れということもあった。平均2時間遅れだった。ところが今は100%近くオンタイムである。客数が増えて、間引きが無くなったのです。

ジャカルタへは順調に到着して、イムグレを通って、荷物を取って、外に出るのが20:00過ぎ、デルタマスの家に着くのは21:30である。静岡の家を出てから、17時間である。さすがに疲れる。行きはよいよい帰りは怖いである。

バリからはドメスティックなので、多くの乗客はイミグレを通らないで、外に出てしまう。また、そこの係員も、そのように誘導しているので、ついつい入国のスタンプを押してもらわないで、入国してしまう間違いを犯しやすいので、要注意である。

 

3日 インドネシアで楽しく暮す 8-3★

成田発ジャカルタ行き 3

そうは言っても、満席でガルーダが取れないこともある。やむ終えずJALを使うこともある。大失敗をしたことがある。ジャカルタ発の時間がJALはころころ変わるのです。今は何時発か知りません。直行だったり、バリ経由だったり変わるので、そのたびに、出発時間が変わるのです。

以前夜の9時発だったので、19:30発とチケットには書いてあるのに、9時発と思い込んでしまって、チェックをしなかった。二時間前の7時ちょっと前に空港へ到着し、まだ時間が有るので、一服してから入ろうと悠然と電光掲示板を何気なく見た。19:30JALと出ていた。びっくり仰天。直ぐにカウンターへ飛び込んだが、もう、当然ながらクローズだった。そこを何とか、まだ、出発していないなら、載せてくれと頼み込んだ。OKが出た。そこから、走った走った。出国カウンターはどれも20人ほどの行列だった。

皆さんにわけを言って、最前列に割り込ませてもらって、それから、また、ダッシュカウンターで搭乗券を受け取ってから、5分で、機内の人になっていた。出発時間を20分ほど遅らせた。皆さんに謝ったが、全員冷たい目で見ていたような気がした。

その前に、9時半発を11時半発と思い込んで、空港へ向った。その時は早くつきすぎて30分前だった。違う時間で、二回失敗したことになる。こんなこともあって、JALは使わないようにしている。

現在は、バリとジャカルタそれぞれが直行便になっていると思う。機体は最新式で、目の前のモニターで色々なゲームができる。それだけだが。ただし、機内乗務員というかスチュワーデスというか、そういう人たちが年配のいかにもパートさんという方が殆どだし、乗客も、殆ど男の年配者ばかり、機内の雰囲気が暗い。機内のざわつきもない。緊張してしまう。

その点、バリへ行くお客さんが大部分のガルーダは若者主体で雰囲気が明るい。小さな子供やお年寄りまで幅が広い。機内でリラックスできる。

それぞれの性格によるでしょうが、私のような少数派は田舎に住む人で、JALを好む

多数派はジャカルタのアパート暮らしの人でしょう。

 

経由でよければ、色々ある。キャセイ、SQ,マレーシア、タイ、大韓航空などなど、しかし全て、その国の空港経由である。一番安いのはマレーシア航空である。日本への留学生はよく使う。


2008年7月4日 どっちが気の毒?

ユッサさんに続いてウッペンさんもPT.KGSを辞めてしまった。原因は、明らかに、日本人があほだからです。疑い深くて、怒りやすい。仕事はしないで、責任をインドネシア人に押し付ける。良いところはまったくない。我慢強いインドネシア人もこれにはついにこの会社を見捨てるしかない。二人とも積極的にやめた。半分は辞めさせられるように本人達が仕向けた。日本人はまんまと彼らの策略にはまっていった。冷静さを欠いて,思慮を欠いているから、どうしてもそうなってしまう。二人とも、移る場所は決っていて、給料はPT.KGSの1.5倍以上である。

1996年の会社立上げの時一緒にやってきたメンバーである。ひどいものである。次はY君が押しつぶされる。しかし、彼はいつでも止められるように準備を進めていることを日本人は疑っているが、証拠をつかんでいない。まったく、見当はずれの疑いしか出来ない。

PT.KGSの雰囲気は異常である。彼らの後を任された人の責任は重くなったが、給料は上がらない。だから、従業員全員が、他が見つかればいつでも辞めようと思っている。

 

仕事が出来る押出の連中も、勿論、全員がPT.AFMIに移りたいと思っている。私はできるだけ、彼らを救ってやろうと思っている。

 

同じ会社に日本人がもう一人いる、経理を担当しているが、これがまた、I君が散々、言いたいことを言って、怒鳴りつける。怒鳴っている本人は理解力が足りないが、怒られている方はこの人可哀想と思っている。また、周りのインドネシア人は、どちらの日本人も気の毒だと思っている。

 

I君とH君は日本へ帰ったら使い物にならないのは確実である。彼らと一緒に仕事をやろうと思う人はいないし、だれもが、相手にしたくない。その点では、I君とH君は大変気の毒である。せいぜい、インドネシアにいる間、好きなようにやって、優秀なインドネシア人を辞めさせて、色々な人を怒鳴りつけて、思うようにやったらいい。インドネシアを離れれば出来なくなるのだから。誰からも、受け入れられないのだから。彼らの後を継ぐ人は普通の人なら、やりやすいでしょう。今までがあまりにもひどかったから、普通なら歓迎されるからです。

 

 5日 インドネシアで楽しく暮す 9-1★

インドネシアの人は自分の所有物は綺麗にしたい人たちです。しかし、自分以外は汚くても臭くても汚しても良いと思っています。

インドネシア人は車や家をきれいにしようと思っています。掃除をまめにします。洗車や家の手入れをよくします。少なくとも外観を綺麗に見せようと思っていて、実行しています。雨季でも、毎日洗車をします。家の前の掃除は毎日します。窓や壁も拭きます。持ち家を手に入れれば、家の前を飾ります。植木や芝生や証明などでほかの家と同じかそれ以上にきれいにしようとします。

私は、それには付き合いません。車は雨季には自分で洗うことはありません。どうせ、直ぐ泥んこになってしまいます。家も、私の所有ではないし、家の中の出来は散々ですから、見掛けだけきれいにしても仕方が無い。壁には亀裂が入ってくるし、なんだか、塗装が浮いてきてぽろぽろ落ちて来るし、雨漏りというか、家の中の土砂降りも何度も職人に直してもらおうとして、職人も努力したと思うが、一向になおらないし、ほかの家の人はそういうことをどう処理しているのでしょうか、多分、仕方が無いと思っている、思う。

だから、外観だけは見栄を張りたいのだと思う。私にとってはどうでもいいことです。

話は、それるが、インドネシアの染色技術はどうなっているの?日本へ送られるメイド イン インドネシアの衣服や寝具やカーペットは日本人がちゃんと指導して作らせたものだろうから、そんなことはないと思うが、こちらで売っているものは、すべて、色あるものはその色は落ちる。買ったばかりのものを洗濯する時は必ずそれだけで洗うこと、他のものと一緒ではだめです。くれぐれも注意です。必ず忘れて、他のものを染めてしまいます。また、新しいタオルやカーペットは洗って色を落としてから使うこと、洗わないで使うと顔やお尻や足がその色に染まります。衣服。ズボンやスカートもその色に染まりますから、要注意です。

6日 インドネシアで楽しく暮す 9-2 ★

靴下は外から見てもまともなものは少ないが、内側はもっとひどい。細い糸が絡まるように沢山入っている。ひどいのは横切っているものもあるので、うまくよけてはかないと足の指に絡まってしまい。無理やりはくと、足を切ってしまうこともある。また、洗濯機で洗うと、意図がちょっとほぐれるくらいはまだ許せるが、細いゴムの部分がすぐ、切れてしまい、ぼろぼろになり、足を絞める機能がなくなる。ぶかぶかに開いてしまうのだ。

ナイフ フォーク スプーンは知っている日本人は少ないと思うが、ペラペラの金属板を打ち抜いたままで売っているので、まず、くにゃくにゃ曲がってしまいやすい。それから、面取りと言うかアールにしてなく打ち抜きっぱなしなので、エッジが鋭利になっている。指や口や舌を切りやすいので注意。日本製品を売っている店で買えば非常に高価だが安全である。子供さんにインドネシア製のフォークなどは使わせない方がいい。

衣服類は見掛けやデザインはさまざまで、気にいってものが結構沢山見つけることが出来ると思いますが、インドネシア製は、ほつれやほころびが早い。糸の端がちょこっと覗いていれば分かるが、そういう場所もないのに、何処からか予想がつかないところがほぐれてしまう。インドネシアの人はそれを文句言わずに自分で直して使い続ける。当然のようにである。また、ミシンを外から見えるようにして修理や手直しを仕事としているお店もある。リーバイスの看板がある。リバイスの間違いではありません。こちらのジーパンは全部リーバイスというのです。ジーンズの手直しをするという看板です。勿論そのほかの手直しもします。

靴は、BATAやSPOTECがインドネシアのメーカーです。外国産や外国資本メーカーの物は、日本で買うより高価です。だから、日本人は日本で買います。どうしてもと言う時は高価な日本製を買えばいいのですが、現地メーカーの安い靴を買う場合も有るでしょう。あまり長持ちを期待してはいけません。靴底が剥がれたり、紐を通す金具が取れたりするのは仕方が無いことと思ってください。

 

7日 インドネシアで楽しく暮す 9-3★

スーパーマーケットの話しです。マタハリ、ヘロー、ハイパーマート、カルフール、マクロ、ラマヤマなどが大手チェーンで有名です。全国いたるところにあります。食料品を買う時には、果物や野菜類はパックで包んであるもの以外は、全て,量り売りです。自分でポリ袋に入れて、量る場所まで持って行きます。値札をつけてもらってから、籠に入れます。肉や魚もパック以外は量り売りですが、目の前に店員がいて、量ってくれます、また、魚のさばきも頼めばやってくれます。

日本食スーパーマーケットはコスモ、パパヤ、カモメ、ココがあるがまとまって南ジャカルタである。勿論、サービスは日本でのスーパーと変わらない。生ものは全て新鮮だし、刺身や寿司も安心して買える、夕方になれば、日本と同じように生ものは半額になる店も多い。ただし、ジャカルタに住んでいる人や家族同伴で赴任の人たちが利用することが多い。価格は日本の1.5倍近いと見たほうがいい。インスタントラーメンも150円位する。私は、一月に一回以下のペースでジャカルタへ行ったとき、ついでにコスモヘ寄るが、主に、パンを買う。これも高いが、インドネシアのパンはどうも苦手なので、クロワッサンやフランスパンを買う。

会員になっているが、何が得なのかよく分かっていない。何か得点が有るのでしょう。

インドマレットやアルファマートは日本のコンビニのようなもの、24時間営業というわけにはいかないが、朝7時ごろから夜中12時ごろまで営業している店が多いので、ちょっとした日用品やインスタント物はこういう店で買うことが多い。近所やちょっとした道端にあるので便利である。

インドネシアスーパーでも日本食、韓国食コーナーがあり、スナックやお米やインスタントものや醤油、ソース、海苔など買うことが出来る、リッポチカランにもブカシバラットにもある。ハクサイ、ナスビ、レンコン、ゴボウ、トーフ等はそのまま日本語で、一般コーナーで売っている。インドネシア人はタフゴレン(豆腐を揚げた物)が大好きだ。

 

8日 インドネシアで楽しく暮す 9-4

独特の食品として、便利に食べられている物にテンペがあります。テンペは長四角いカステラのような形でラップまきされて売っているのが普通です。大豆の豆の形がそのままに押し固めたような物、若干,醗酵させてあるようなので日本人の認識は固形納豆と思っている人が多いが、似ても似つかない代物です。そのまま食べることも出来ますが、味は、日本人好みではないと思います。スライスして、揚げ物にしたり、細かく切って、色々なスープに入れたりします。インドネシア人が食べるケータリング(仕出し弁当)のおかずとしても、切れ端が時々入っています。インドネシア人にとっては貴重な蛋白源だと思う。

同じ場所にトーフやナタデココなどが並べられています。トーフはソーセージのような包み方になっているのが普通ですが、最近は日本のように四角いパック包装になっている物が人気です。カタカナでトウフと書いてあります。

 私は、道端のテントレストランやカキリマのフアンだ。ゴレンガンは特に好きだ。ピサン(バナナ)タフ(豆腐)テンペ、シンコンなどの空揚げである。色々の種類を二三個ずつ買って車を運転しながら摘む。タフゴレンは大好きである。アヤムゴレン(鳥からあげ)もある。カキリマはミー(ラーメンの一種)が主だが、バソ(色々な肉のミンチボール)が私は好きだ。シウマイ、ブブール(お粥)ナシウドック、売っている物は多彩である。

 彼等は毎日決った時間に決った場所にとどまって、店を開く。テントもそうだ。鯰やアヒルの空揚げやイカンマス(マスという名前の淡水魚)やイカングラメのゴレンやバカール(揚げ物、焼き物)も美味しい。

 ただし、大変美味しいのに、本人は食べないので、味を知らない。

 ソトクドゥス(クドゥス地方で生まれたスープの一種、鳥のささ身や内臓の細切れが入っている)は、インドネシアへ来たら食べて欲しい。

 もうひとつ、中華レストランに入ったら、イフミー(カタヤキソバの一種)を注文してください。決して裏切られない味とボリュームだと思います。

 

9日 ちょっと深呼吸をしたい気分の独り言★

 インドネシアで楽しく暮すシリーズなどと、投稿しているが、そんな事言っている場合かよと自分でぶつぶつ言っている。

気楽に新天地のつもりが、雲行きがおかしくなってきた。前に技術指導をしていたPT.KGSのお馬鹿さん三人の尻拭いのために本社副社長が動いた。彼等は完全に押出成形から撤退し、私がいる会社に設備、人、仕事を全部移すことに決定した。

 話はどのように進むのか私が仕切ることではないので、全くわからない、ただ、話しが進む過程で、私がやらなければならないことが必ずあるはずです。私が、OKしなければ進まないこともあるはずです。実際にやるのは私ですから。世間で言う、黒幕は私ですから。

 そして、北川工業の姿勢ははっきりしているのですから、条件的にも歩み寄って、話は全面的移転ということになるでしょう。私はそれを拒否しませんが条件はあります。条件はPT.AFMIに伝えた。

 結局、インドネシアとアセアンに一部のプラスチック押出成型は、私一人が、背負うことになる。決定的に重大な責任をゆだねられることになります。日本中の誰一人として出来ないことです。日系企業(イノアック、パラマウントベッド、アラコ、ジェックス、マンダム、シャープ、サンヨー、パナソニック、アスモ、ハイレックス等など)に対するエンプラやオレフィンの押出製品は全て私が提供することになります。それらの後ろには、車やバイクのメーカーや冷蔵庫やエアコン、プリンターのメーカーも控えています。それが、どんなに重大なことか一般の人には理解できないことでしょう。

 年も年だし、いつまでもというわけには行かない。南部化成の佐々木会長との約束があるので二年でインドネシアから離れなければなりません。

 それまでに、インドネシア人技術者を徹底的に育てあげ、自立できるようにしなければなりません。

 この薄給で、パニック障害の薬を飲み続けているボランティアの私に課された責任は大変重いが受けてたつしかない。

これを書いている間にも、現場ではインドネシア人スタッフが金型のセットをし、試作の準備をしている。準備が出来、温度が設定まで上がったら彼らが私を呼びに来ます。準備が正しいかどうかの点検と、試作のやり方の手本を実際にやって見せながら教えます。

7月10日 Web Site 1万回記念

昨年五月九日にオープンした私のホームページにアクセスが一万回を昨晩越えた。インドネシアの仕事を一段落させ、パニック障害の苦しみから一部解放され、62歳になり、ドイツへ遊びに行ったりして、人生をちょっと一服しているときでした。暇をつくり、休憩するのが目的でしたが、あまりのも、何もすることが無かったので、これまでの人生を省みる意味でも暇つぶしの意味でも、WEB SITEを立ち上げようと考えました。
 やってみると、以外に簡単で、ほとんど、マニュアルにしたがってやればできることがわかった。しかし、投稿用の文章を書いたりまとめたりすることにエネルギーを使い、結局、医者が言うように脳を使うことをしばらくやめなさい。と、言われたことには従うことができなかった。
 医者にも私のWEB SITEを開いていただいて、私のパニック障害についてもちょっとは理解度を増してもらったと思う。
 
 このWEB SITEにヒットしていただいた方々の中には何人かの中,高、大の同級生もいて、久しぶりに便りをもらった方々もいました。ここ、インドネシアで仕事をしながら、うれしくなってしまいまた。
 これからも、私のHome Pageをよろしく。
 

 また、熟年の方々に、そんなに難しくないので、ぜひ、挑戦してみていただきたいと思います。若干、人生が変わるかもしれませんよ。




2008年7月11日PT.KITAGAWAに問い合わせ

 

平野,伊藤両君にはPT.KII時代、格別な扱いを受けてありがたく思っている。大槻さんも大変だったと推察する。

 縁あって、また、関係が生じたが、またよろしく頼むことになりそうでよろしく。

 

 PT.KII自体全部を身売りしたい、購入したいと言う話がまきあがっていることを情報として入れておいてあげましょう。

 

 半年ほど前から、副社長と押出の仕事をPT.AFMIが引き継ぐことが出来るか出来ないか検討してきた。

 問題になるだろう点が幾つかある。それらについて、解答をいただきたく、お願いする。

 常識的にはPT.KIIの方から積極にPT.AFMIに対し、提供される判断材料のはずだ。北川本社が、押出部門を手放すと決定し、その知らせが入った時点から、それの具体化に向けて動き出すのが現場の長の役目のはずだ。

 従業員に対しても、PT.KIIを退職していただくための条件を早く示し、本人達が、辞めるのか、PT.KIIにとどまるかの判断資料とするようにしなければならない。PT.KIIが一方的に首にするわけにはいかないことくらいはお分かりでしょう。また、PT.KIIを円満に辞めても、PT.AFMIに入りたがるかどうかも条件を示し、判断材料としなければならないことも分かりでしょう。勝手に、何人引き取って欲しいなどということは軽々しく出来ないはずだ。そのくらいのことも分かるでしょう。

 

 以下のことは、中澤社長の引き受けるか請けないかの判断材料になる。後出しの問題点にすることなく、問題があると予想される点について、考えられることは全て、前もって明らかにしておいた方がいいことぐらいもお分かりでしょう。

 現場のリーダーとしての勤めを果たしてください。

と言っても予想される、問題点が分からないでしょうから、私のほうから、気になることを列記しておいた。他にもあるでしょうが、実際にわたしの目でたしかめないとわからないこともあるでしょう、それは、訪問してチュックした時と言うことにする。

 問い合わせがある前に、先行して、初期的な条件の回答を中澤社長に理解できるように書面なり、口頭なりで伝えてください。親切なアドバイスですよ。

 大丈夫ですよね。しっかり考えて仕事をしてください。陰ながら応援します。

 

 1 PT.YMPI(パスルアン)向け、軟質塩ビ異形について、三種類(一種類と一セットでもいいです)製品価格と原料価格と後加工、運賃などの明細。いつまでの製品供給責任があるのですか。

 2 SHARP(KIIC)への試作済みの製品TO-220の見積明細を出してほしい。その他,もしあれば、他の製品の見積も出してください。

3 PT.KOHNO向けTS-01の製品価格内訳明細をお願いします。PT.AFMIに生産設備があるので、それによってタイミングを気にすることはない。

4 金型、付属装置、粉砕機、定置式熱風乾燥機 検査ジグや検査用具は含まれていますか?

5 PT.SANWAやPT.ABA向けなど製品在庫、原料在庫、梱包資材の在庫も含まれますか?

6 シボ加工機は含まれていますか?

7 耐電防止剤と表面抵抗測定器は含まれていますか?

8 エンジングとグロメットの生産はどうするのですか、もし、インターマークの日本以外向けだけなら、価格次第です。現在の価格では引き受けません。

9 パラマウントベッドのサイドバンパー生産用にプレス機と金型は含まれていますか?

10 PT.ABAと価格について、一歩も譲っていないため、ローカル企業で試作をさせているようですが、原料を変えるなどして、コストダウンの努力はしないのですか。PT.ABAから、取引はいつまでと宣言されているのですか?

11 譲る客先と製品の明細、価格などのリストをお願いします。

12 客先に情報をいつ流すか、PT.KIIがいつ、客先に説得に行くのか。

13 従業員への説明会と退職、入社の了解をいつとって、いつ人数をはっきりさせることが出来るのか、などと共に、移転のスケジュール表を提示願います。

14 12ナイロンチューブ、サンヨーポンプ向けの供給は望みのようだが、原料を安く供給していただかないと、別ルートで、安く購入します。

15 一号機ラインを日本へ送ると聞いたが、スパイラルチューブの機械を日本へ持っていっても仕方が無いと思うが、どうか。それと、なぜ一号機ラインなのか、一番古く、故障しがちな装置を送るというのはなぜでしょうか。一番新しいほうがいいのではないかと思うのですが。

16 移動費・設置費はPT.KII負担と聞いているが、それは確かか。

 

以上、思いついただけだが、確認願います。

 

最終的にはやはり私がチェックしなければならない。タイミングをみて私が行って、全装置を点検し、使える物、使えない物、使えても、直ぐ修理が必要になる物、を仕分け、できるだけ、後に問題が起きないようにしたいと思う。是には協力してもらわないといけない。中澤社長は押出成形に関しては素人なので、素人同士に話を全面的に任せると、後に、客先やインドネシア人従業員に迷惑をかける、それだけは、私の責任として、避けたいと思う。是にも協力は願う。

 

以上、よろしく。 PT.AFMI 太田勝夫

 

12日 インドネシアで楽しく暮す 10-1

年金生活者の長期滞在 1

仕事をリタイヤし、まだ元気なら、日本の家に閉じこもっていては物足りないと言う人は何かと体を動かしたり、違う世界を見てみたいと思ったり、今までにない人生を送ってみたいと思うのが自然です。その中の一つの選択肢として、国内、外国での経験のない場所での生活があります。国内なら、言葉が分かるだけ、障害は少ないでしょうが、海外でとなると、夫婦のどちらかが海外生活経験があるとか、英語がある程度自信があるといった不安を取り除く何かがないと、思い切ることはなかなか難しいと思う。

それでも、今では、一度は海外で長期滞在生活をしてみたいと思う人も増えてきた。その、斡旋も商売として成り立つようになってきた。有名なのはオーストラリアかマレーシア、大体、日本人の集団生活が出来て、日本食のスーパーマーケットやレストランが揃っていて、清潔な町並みが用意されている場所に限る。日本にいるのとあまり変わらない感覚で過ごせるところが多い。それはそれで、そういう人たちにとっては外国暮らしというのでしょうからそれでいいのでしょう。

しかし、私が考える外国暮らしとは、文化も生活程度や感覚が異なった人たちや雰囲気の中に飛びこんで、日本では味わえないお付き合いをするということです。

なじむかなじまないかは、ちょっとした?人によっては大きな冒険か賭けでしょうが、一度、経験してみるのも一つの方法化と思います。案外、自分を見直すチャンスになるかもしれません。とく込むことが前提で、多少は無理もしなければならないと思いますが、だめならだめで元に戻れるわけですから、やってみる価値はあると思います。

ちょっとでも、その気があるなら、えいやっと、飛び込んでみたらいかがでしょうか。そこで、私はインドネシアをお勧めです。

 

13日 インドネシアで楽しく暮す 10-2

年金生活者の長期滞在 2

日本人は単身赴任が大部分である。それだけ、三十台四十台の人が少ないともいえる。義務教育の日本人学校の生徒数全体で、600人ほどらしい。9学年だから、一学年60~70人ということになる。韓国人学校の人数の1500人を超えるという。若い世代の赴任者が多いからだ。

ジャカルタ以外に家族ずれで住んでいる日本人はいないが、韓国人はブカシやチカランあたりにでも家族ずれで来ている人たちが住んでいる。

熟年夫婦が年金で生活するなら、そのためのVISAを申請し取らなければなりませんが、その前に、一ヶ月の観光ビザ(到着した空港の入国スタンプのカウンターの手前に観光ビザの 申請発行のカウンターがある)で入って、さまざまなことを事前チェックする必要があります。友人が滞在していればそこにお世話になる方法が一番いいでしょうが、気楽に過ごしたいなら、安ホテルを選ぶことです。高級ホテルは安心安全気分と交換に一泊一万円くらいを払わなければなりません。また、それではインドネシアの現実を見ることに多分ならないでしょう。ですから、賛成できません。

現実を見るには、インドネシア人しか泊まらない、あるいは、外国人の若者が泊まるホテルがいい。空港で、タクシー、ブルーバードに乗って、安宿に連れて行ってもらえばいいと思う。こんなことは危険すぎると感じる人もいます。どこで何しようと100%安全はありません。何処までが限界かは自分で判断するしかありませんが、私は、気持ちとして80%安全なら、OKとして行動します。

ジャカルタ市街地に安宿は一杯あります。高級、両高級ホテルも一杯有ります。東京と同じです。違うのは、危険度と汚さと臭さが気になることです。それを経験しなければ、下調べをしたことになりません。実際に住み続けるには、どんな障害があるのかを知らなければなりません。斡旋する会社のガイドに連れて歩かされるのでは、良いところばかりを強調されて、いやなところは覆いかぶされて見えないようなされてしまいます。

自分で行動して、歩き回ってください。身振り手振りで聞いて自分の目的が果たせるかどうかも経験です。実際に住めばそういう局面は日常的にあることです。

 

14日インドネシアで楽しく暮す 10-3

ジャカルタの高級住宅地の一軒家なら、月1500US$以上ですが、警備もしっかりしています。家族同伴赴任者、ある程度の大企業の子会社の社長さんなどが入居しています。1000~1500US$でしたら、高級住宅地ではなくて、ジャカルタの町のあちこちに林立しているアパートの月家賃です。日本人の単身赴任者の90%以上はこの範囲内で住んでいます。勿論、車と運転手は会社から支給され、お手伝いさんも雇っています。

年金生活者も家賃はこの感覚でしょうか、日本円で15万円くらいのところが値段面、安全面、利便性で無難なところだと思う。

日本の田舎に住むように家賃5万円程度では、環境面、安全面で心配することが多くなると思います。

私を標準に考えれば、街中でなく、郊外の分譲住宅地を推薦します。家賃は3万円程度で、一軒屋で二階建て、広いリビング、ダイニング、ベッドルームは三つ以上。トイレは三箇所、バスタブの部屋もある。日本なら豪邸である。いま住んでいる家は1.5万円くらいだが、間もなく、2.5万円の家に引越しする。ブカシで医者を開業している人の週末憩いの家のつもりだったが、それどころでなく、殆ど使わないので、貸し出しの張り紙を出してあったところに目をつけて、契約することにした。

折を見て、新居の紹介をWEB SITEでしようと思っている。そんな豪華で安い家に住むことができますが、条件は言葉がある程度できて、現地人とコミュニケーションが出来ることです。いつも日本食というわけには行きません。出来るだけ現地人になることです。

住宅については完全に満足しています。庭にバナナの木やパパイヤの木も植えました。また、ウサギを飼いだしました。

永住したい気分ですが、日本にいつかは帰らなければならないのが大変残念です。

16日 こんな人シリーズ 16-1

某有名私立大学の理工学部出身の青年、25歳。本社勤務暦3年の将来有望な期待される青年らしい。中学校の時から野球をやっていたと言うことで体もいいし腕力も背筋力もありそう。ゴルフも太田さんには、悪いけれど、250mは軽いですよ、と、言っていて、なるほど、実際に軽々と私より100m先に飛ばす。

現場で金型の解体の指導を始めてた。順番にこうして、ああして、これを緩め、これをはずしてから、これを緩める、などと、しゃべりながら私が作業を進める。ご本人さん、頷くでもなく、手伝おうとするでもなく、メモをするでもなく、腕を後ろに組んでみている。その内、ボルトが硬くて外れない物に出会った。私がパイプやパンマーを使って、緩めようとしたが、完全に焼きついているか、傷が食い込んでしまっているかで、ビクともしない、私の力ではどうしようもなかった。彼はそれでも、手出しをしようとしない、じっと眺めているだけだった。ちょっと、力を貸して、と、頼んだら、疲れやすいから、出来ません、と、言った。「こういう仕事も、自分でやらなければならないときが来るよ」と言ったら、「私は力仕事はしません」ときた。

私は、最期に手段で、全体を外し、焼き場に持っていって、ボルトごと金型を真っ赤に焼いてやわらかくし、ボルトを水で冷やして、収縮させて、万力に加えてボルトを外した。ご本人さん、感心するでもなく、納得するでもなく、本当に無関心な態度で、眺めていただけ。こんなやつもいるのかと、開いた口がふさがらなかった。私の仕事を冷ややかな目で眺めながら、何を考えているのだろうか。インドネシアに来て、どんなことをしようとしているのでしょうか、自信有りげに何もしないので、不気味である。

17日 こんな人シリーズ 16-2

 

 世の中にはすごい人もいるもので、何が、自信ある態度の裏づけなのでしょうか。25歳や30歳ごろに、60歳の目上の人に、仕事をしたくないと言うのだから、たいした者だと思う。Y君のことだ。現場の仕事をしたがらない。私が教える仕事は頭で考えるよりも自分で積極的に手を出して、体で覚えるチャンスを一杯つくることだが、それを、最初に言って聞かせたのだが、本人、一向に現場へ出ようともしない。「太田さん、何々の基準書はありますかとか標準書は整っていますか、あったら、見せてください」と言う。こちらは、「あるけれど、目安であって、自分で体験して、自分で書くくらいにならないとだめだよ」と言って聞かせる。それでも、インドネシア人スタッフにそれらの書類を要求して手に入れた。しかし、インドネシア語である。全く理解できない。直ぐに読むことをあきらめて、返してしまった。さすがに、日本語の物を求めてこなかった。どうするつもりだったのでしょうか。もしなければ、私に作るように要求するつもりだったのでしょうか。監査員のつもりだったのでしょうか。とにかく、事務所にいないで、現場で皆と話をしたり仕事をしたりしなさい。其れが、仕事も言葉も速く覚える最良の方法だよ。と、言って聞かせた。

その後はどうするかと思っていたら、現場へ出ることは出た。しかし、現場の椅子に座って、周りを眺めている、みんなの仕事を見ているのかいないのか、目的は何なのか、周りの人が、迷惑しているのが分かる。それでも、じっとしている。

 

何しにインドネシアへ来たのか聞いてみた。「行けって言われたから」と言う返事。これから、どうするつもりか、聞いてみた。「別に、何もする気はない」と、言ってくれた。「それじゃ、いてもらっても困るから、帰れば」といって、それっきり、後は話しかけない。ご本人さん、社長と工場長の間にある、お偉いさん、来客時だけ使う真ん中の大きな机を前にして、背もたれの大きな椅子に踏ん反り返って、事務所全体を眺めている。私は、その事務所の隅っこの窓際に一人陣取っているのであたかも、彼が威張った馬鹿上司で、私は、ふきだまりに追いやられたような雰囲気。誰がみてもそう見えるだろう。

其れが、彼が帰るまで二週間続いた。その間、一言も口をきかなかった。私の技術を覚える為に派遣されてきたとばっかり思っていたし、そう、紹介されてから、一ヵ月半で日本へ帰っていった。恐れ入りました。

こんな人シリーズ 16-3

この青年、その時の社長は踏ん反り返る人ではなかったが、今の社長は、その青年が帰る前、二週間踏ん反り返っていたと同じスタイルで踏ん反り返って三年が過ぎた。従業員の誰からも、あの人は仕事嫌いで、会社にあまり出てこない。いるときはいつもそっくり返っていると言われているが、本人には伝わっていないようだ。

そして、以前の社長のときは踏ん反り返っていなかった工場長が,箍が外れたのでしょう、今の社長になったら、一緒に踏ん反り返っている。時にはいびきをかいて寝てしまっている。すごい状態で、あきれて、開いた口がふさがらない。目をさまして、書類をながめて、誰かを呼んで、叱り付け始める。その変身に笑っちゃいます。

件の一見スポーツマン風で、体育系、現場の仕事を率先して遣りそうな青年は、大変用心深いというか、心配性と言うか、気が小さいと言うか、ジャカルタ中心街のガトゥットゥスブロト通りが3イン1で二人きりだったので、高速道路から其の通りに出ることが出来なかった。高速道路の脇で降ろして、其のとおりを横切らせて、彼のアパートまで帰らせようと車を路肩に駐車した。そうすることを前もって話しておいた。

だが、其の場所に来て、自分のアパートまで三車線のガトゥットゥスブロト通りを横切らなければならないことを見て知った。車は信号の関係で断続的に込んでいる時と空いている時が二三分おきに来る。彼は「いやだ、こんなことをさせるのですか」と、怒ったように、また、懇願するように、降りないと言い出した。しょうがないから、3イン1が終わる19:00まで、約二時間ジャカルタの南部の方を案内して時間を潰してもどった。

おかげで、私が彼を降ろして家に着いたのが21:00を回っていた。私が、無理を言ったのかもしれませんが、以前にジャカルタの人を何人もそういう方法で降ろしたことがあるので、当たり前に、彼にもそうしてもらおうと思っただけだったが、いろいろな人がいる物だと感じさせられた。

 

18日 ちょっと、火傷

一昨日と昨日は疲れた。二日中、現場で、新製品のトライをしていた。立ちっぱなしで、装置の前後を行ったりきたり、指先は久しぶりに指紋が消えるくらいに熱い樹脂を何度も細く伸ばしては小さい穴に通す作業をした。インドネシア人スタッフに教えて、任せてやらせていたが、難しくて、出来ない。そこで、私がやってしまわなければ納期に間にあわなくなってしまったため、私が登場したということです。なんとか、架橋ポリエチレンの2φと2.7φのチューブを作ることが出来た。POMの四サイズにチューブも完成させた。周りのインドネシア人作業者は私のいつにない、ぴりぴりした雰囲気に真剣な作業姿勢を感じたと思う。

このことは、大きな問題で、私でなければ出来ないのでは、量産になったとき困ります。実際はインドネシア人にやってもらわなければならないからです。なんとか、簡単に誰でも出来る方法を考え出さなければなりません。一ヶ月間で、二種類の方法を試しましたが、今三種類目の方法での金型製作中で、其れが出来上がれば多分一週間くらい訓練すれば二三人は出来るようになると期待している。

どんなに忙しくても、仕事の合間をぬって、コンピューターに向って投稿することが出来たが、この二日間、コンピューターに向う時間が無かったので、投稿できなかった。

 

また、昨日の夜はジャカルタのマリオットホテルのサイデンドゥラセストランで来イしている藤沢電工の福森社長らと19:00~21:30まで食事、家に戻ったのが23:00だった。来客があって、誘われると、断わるわけにもいかず、お付き合いすることになりますが、場所がどうしてもジャカルタになります。大変です。

マリオットのバイキングスタイルの食事は種類が大変豊富で、アルコール類も飲み放題、お酒が好きな一般の人は好む場所で、リピーターが多いと聞いている。ところが私は酒を飲めないから、魅力を感じないし、食事を揃っているが、結局、ミーバソが一番おいしいのだから、ローストビーフや何とかスープやなんとかサラダや色々なデザートは全部魅力を感じない、お寿司などは全く食べたいとは思わないので、こういう場所は私にはリラックスできないばかりか、あまり、おいしくないので、できることなら、付き合いたくない。

 

これから、金型屋に出かけ金型をチュックしながら、受け取ってくる。PT.MAKUTAの連中と世間話をしに行く。午後は、もしその気になればドライビングレンジで二時間ほど遊ぼうかと思う。暇な土曜日の過ごし方です。

19日 いい加減に目を覚ましなさい。

まだ、目が覚めないらしい。平野君 大丈夫でしょうか。

相変わらず理解力が乏しい上に、切れやすいのは治っていないね。

現実から目をそらせてはいけません。

「無責任でしょ」と、謂れの無い疑いで、怒鳴られた私としては、

そのときは立場上、我慢したが、あまりにも、その発言は無責任だし非常識すぎた。

それに対する、謝罪もない。

 また、長期在庫の2万円を200万円と間違えて、私を攻めたことも謝罪が無い。

 日本へ帰れ帰れと根拠の無いことを言って、私がいうことを聞かないと攻め、医者が補償問題になったら大変と飛行機には乗せられないといったとたんに、帰さないに、急に変更したことも謝罪が無い。

 今回、中澤社長に向けて電話や面談で話したことも全くの平野の無責任と無理解。

押出部門をPT.AFMIに引き取ってもらうということは副社長と私との話し合いで私が条件によって引き受けましょうと約束したことから始まっているのです。その後、北川工業の役員会で決定し、副社長が藤沢電工へ出向いてお願いしたことだ。売ると言うことと金額について大筋、了解済みのことですよ。ただし、現地の条件については細かく詰める必要があることも、了解済みです。

PT.KIIは売ることは決っていますが、PT.AFMIはまだ買うと決めていないのです。ここが肝心です。分かりますか?一度、PT.AFMIへ出向いて会社の中を見学するくらいの気の効いた行動をしなさいよ。腹を突き出して、社長席に踏ん反り返っているばかりでは、誰からもきらわれますよ。

PT.KII内での私の人気は未だ本物ですよ。従業員に対する接し方が全然違う。伊藤も平野も嫌われていることを自覚しているでしょ。ま是は余談。

PT.AFMIが買い取るための条件を提供する義務があるのです。分かりますか?

それなのに、現地の平野サラリーマン社長が売るとは決めていないとか、

太田と交渉しろと書いてないにもかかわらず、交渉相手を一人に絞れだの冷静を欠いた言葉はいけません。

よく考えて頭を冷やして、副社長とも相談して中澤社長が何を知りたがっているのか

自分でも、よく考えて、正直に答えてやってください。

私は副社長と中澤社長が知りたがっていることの一部を貴方に教えてあげただけですよ。

しばらく後にそういう問い合わせが行くでしょうから準備しておいた方がいいですよ。

突然では、答えられないでしょうから。

何も、平野の不利益になることではないでしょう。それとも、明らかにすると都合が悪いのですか。

淡々と、自分のなすべき責任を果たせばいいのです。是非、分かって欲しい物です。

もともと、儲からない部門は処分しなければならないと私にいっていたじゃないですか。

それとも、私がいるときは儲かっていたが、いなくなってからの新しい仕事で、見積を間違えたり、高い原料に交換したりしてしまって、損をしているのでしょうか。

 

再確認しておきます。私の話相手は平野や常務ではない。私の話相手は北川社長と副社長です。そして、大筋の話は終わっているのです。

 

  自分の会社内の押出部門について、知らないことがたくさんあるだろうから、

遠慮なくメールででも電話ででも私に聞いたらいいでしょう。丁寧に教えてあげます。

プッツンはいけません。プッツンしないで冷静に物事を見ないと見間違いますよ。今までの平野がそのいい例ですよ。

 

これらについて反論があるなら、直接、私にメールをくれればいい。腹に収めていては、

誤解が誤解を招くだけですよ。私のホームページに書かれていることも中傷ではない、サラリーマンのいじめの実態を書いたに過ぎない。他人に根も葉もない私の悪口をいうなら、私のように公開したらいい。もっとも、能力的技術的に平野には出来ないだろうが。事実と違うなら、反論したらいいでしょう。立場が自分のほうが上だと思う時だけ、直接、あほみたいなことをいっていて、立場が自由になった私に直接何もいえないのは、自分の言い方、やり方に自信が持てないからだ。

 もう一度、胸に手をあてて、充分、自分が私に対してやってきた言動行動を考えてください。狂気の沙汰だとは思いませんか。

 

是を書いているときに中澤社長が帰ってきた。私の悪口を散々聞いたといっていた。どんなことを言ったのか大変興味がある。全部他人からの間違った情報と、根も葉もないことでしょう。私から直接、言われたことではないはず。私が、平野を評価するのは、行動を直接見て、言動を直接聞いて、駄目だと、評価しているのですよ。人から聞いた話ではない、そこが、人間の違うところだ。私が言ったこと遣ったことを直接聞いたり見たりした時評価や批判が出来るはずだ。

 

 おまけにもうひとつ。中澤社長が手にしてきた製品のサンプルに書かれて貼られている内容を確認したのですか。PPやPEでは原料名は間違っているし、入手先も間違っている。こんな簡単なことでも間違った情報を内の社長に流さないでください。お願いしますよ。しっかり、確認してください。分からなければ私に聞いたらいいでしょうに。

 

 

My Web site opening anniversary

9日は一周年記念日 私のホームページを公開してから一年過ぎました。静岡の丸子の家で、新緑の庭を眺めながら立ち上げました。それから、11月にはインドネシアへ再赴任し、其の頃はパニック障害になってから一周年でしたから今はインドネシアで仕事をしながら、パニック障害の二周年を過ぎようとしています。

 

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/が、本編で、続編が

 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/index.htmです。

私がよく使うenplaとはengineering plastic(エンジニアリング、プラスチック)の略です。大学を卒業して以来一貫して付き合ってきた職業engineering plastic extrusion molding(エンジニアリングプラスチック押出成形)を生活の最大のバックボーンとして、全ての枝葉はここから発生しているからです。

IndIndonesiaの略ですが、多分最期の活動的人生はこの地になるだろう。この力、自分がいなくなるときは、活動的ではなくなるときと、予想します。ですから、enplaindをよく使います。パスワードやピンにもよく使います。

 

パニック障害エンジニアリングプラスチックにつきましては、できれば、検索していただいてどんな物か、是非、皆さんに知っていただきたいと願っています。

 

多くの人に支えられ、また、反発精神でエネルギーを蓄えて、いままで何とか続けることが出来ました。まだまだ、今後も書き込みを増やすために話題を作らなければなりません。ホームページの為に旅行をしたり新しい製品に挑戦したりしているようで、自分でもおかしいいと思いますが、相乗効果で良いではないでしょうか。元気の元になっているように思います。

また、読んでいただく方々に、少しでも何らかの参考になれば良いと願っています。これからもどうぞよろしくというともろでしょうか。(^o^)/自分でおめでとう。

 

 20日 ある土日

普通の土日は仕事で出勤しなければ、また、近場への小旅行が無ければゴルフである。

 今月は四連休が二回ある。インドネシア独特の制度だと思うが、年休を一斉に取りましょうという日が政府から指定される。例えば木曜日が祭日の場合、金曜日をCuti Bersama(チュティ ブルサマ)といって年休で休みにするよう奨励される。日系企業はおおむねそれに従がっているので四連休になる。17、18日は土日で休み、月曜日が年休、火曜日20は祭日である。ワイサック、仏教徒の祭日である。

 10日11日は四連休の谷間で、旅に出るには短い、そこで、誘われるままに、ゴルフである。Jababekaで二連荘、さすがに二日連続は疲れるが、パニック障害の診断にもなる。一日目のゴルフが終わると、今日も何事も無く無事に終わったと、ほっとする。二日目も終わって、筋肉痛がきついが、また今日も無事だったと、安堵する。

 一時に終わって、お釜のヘアーサロンで散髪とカラーリングそして怪しいマッサージ閉めて、9万ルピア(千円)で二時間過ごす。体がすっきりして帰宅、3時過ぎから昼ね。もう、これで、おきなくてもいいと思うくらいに、リラックスしていた。

 

 

21日 こんな人シリーズ 17-1

飛行機に乗って隣人を選べません。どんな人が来ても、変わってもらうことが出来ません。先日、悲惨な目にあった。インドネシアの国内便、ライオンエアーボーイング737 900と言う機種でした。

まずマナドからマッカサールの機内である。前から後ろを見て左側のシートがDEFである。座席に着いたら、その若者はDに座っていた。私がEなので、まえを通って座ろうとしたら、彼は立ち上がってFに移動した。彼の席はFだったのです。それはそれでいい。私が座ったと同時に貧乏ゆすりでなく、両足を閉じたり開いたりを一秒に二回くらいの速さで始めた。開いた時の幅が丁度シート幅くらいで私に方にはギリギリ進入してこない。肘は動かさないが完全に私のシートまで侵入していた。

マッカサールへ着くまで一時間半殆ど開いたり閉じたりしていた。眠っているような時もあったがその間も脚の動きは止まらなかった。出された水は、私は彼の前のシートポケットに差し込んでおいたが目もくれなかった。

気になって仕方がない、こちらは、注意しようかどうしようか迷っているうちに一時間半過ぎてしまって到着してしまった。笑ってしまった。良く疲れないなと思う。

その彼、マッカサールに到着してトランジットのカウンターに向かいカードを受け取っていた。私も当然トランジットなので、カードを受け取った。また彼が横に座るのかと思っていた。

彼のズボンはジーンズだが、どこでそのファッションを見てまねたのか、今にも落ちそうな履き方。股下の部分が本物の股下より10cmも落ちていた。後ろから行ってズボンを引き摺り下ろしたくなったがしなかった。

22日 こんな人シリーズ 17-2

10分もしないうちに機内に戻った。当然くると思っていた彼が来ない、バリへ行くのかもしれないと感じていた。すると、直ぐに、50歳前後の太った紳士が入ってきてFに座った。今度はいいと思った。其れが甘かった。

まだ、動き始める前から背もたれを倒し、お尻を前に出し、踏ん反り返った。膝がつかえるので45度以上に足を開いた。肘掛の延長線を大きく超えて10cmほどこちらに進入してきた。肘も5cmこちらに出てきた。私は黙って、小さくなった。乗務員が注意しないのでそのまま離陸した。離陸して間もなく、おおきないびきをかく始めた。うるさいので、私も真似していびきの声を出したが、本人熟睡中なのでいびきをかき続けた。周りのお客さんも気になっているらしい。

30分ほどで一旦、止んだ。目が覚めたのだ。私が置いた水をストローで一気に飲み干した。そして、前のポケットに入っていた新聞を読み始めた。足は開いたまま邪魔だったが静かにはなった。そしたら、今度は新聞を読みながら、足先を組んで、膝だけ開いたり閉じたりし始めた。さっきの若者は、足先はまっすぐだった。ちょっとスタイルが違うが似たような物である。この人のほうが、開き幅が大きかった。

さっきの若者のほうがまだ良かった。また、再び眠りに入った。いびきが一段と酷くなり、口で息を吐くようになった。唇が震えている。足の開きはますます広くなってくる、お尻が座席から落ちるのではないかと思えるほどである。

それが、しつこく一時間ほど続いた。これでは終わらなかった。おまけが待っていた。ジャカルタまで三十分くらいの時、その人がいびきをかきながら、微妙にお尻を浮かせた。その直後、おならの匂いがきつく匂ってきた。その人がおならをしたのだ。本人、まだ寝ている、自分の臭さを感じているのでしょうか。いないと思う。周り、特に私に迷惑をかけ、自覚が全然ない。本人平和な物である。

私のほうは最悪だった。こんな酷かったことは以前には経験していない。この時ばかりはこのインドネシア人め、と、思った。何がhave a nice wayだと思った。

 

皆さん、こんな経験はありませんか。公共の場で、いびきのうるさい人は困りますね。鼻を抓んでやりたくなります。自分がいびきの張本人ではありませんか。そういう、自覚のある人は、公共の場ではうかつに眠らないでください。