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EssayⅢ

インドネシアで楽しく暮す 11-1

年金生活者や一般的な仕事で赴任してきている人々は、休日は何をしましょう。

25日 同好の会 1

私は個人で好きなようにコーディネートして動き回るのが好きで、ほかの人の計画に沿うって動くことが苦手なので、参加したことはありませんが、インドネシアを旅する会 インドネシアを歩く会どちらもジャカルタ新聞に催しの案内が出される。自由参加だと思う。

世話が好きで、自分でも歩き回ることが好きな方がボランティア的に主催しているのでしょうが、敬服します。私にはとても出来ません。

ジャカルタ近郊、いわゆるJABOTABEK(ジャボタベック)ジャカルタ、ボゴール、タンゲラン、ブカシの山や丘陵地を歩くことが多いようです。旅をする会は私が行っているような場所へ団体さんで行くのですが、両方とも幹事さんは下見に一度訪れているのでしょうか、大変詳しく、案内をされているようです。旅をしたい方は一度参加してみたらいかがでしょうか。歩く会は、良い運動にもなるでしょう。

 

将棋については出ていませんが囲碁の会はジャカルタ新聞にお知らせが出ています。ジャカルタ、スディルマンのスミタマスビルにある日本文化センターとでもいうのでしょうか二階で金曜日の夜だと思いますが同好会が開かれています。私は、7~8年前に一度行ってやって見ましたが、自宅から遠いことが最大の理由でそれ以後は行っていません。土日には他にやりたいことがたくさんあるので、行く気になれません。本当は私みたいな人間が世話役を買ってでればいいのでしょうが、見送っています。

インドネシアで楽しく暮す 11-2

 

25日 同好の会 2

ソフトボールは大変盛んです。第五部まであると思います。チーム数は30を超えるのではないでしょうか。よく遣ると思います。一部二部なら、試合結果がジャカルタ新聞に載ります。若い頃野球をやっていた猛者も多く、趣味程度では上位チームでは出場機会は無いし、参加には厳しいので、趣味で遣るなら、三部以下のチームをお勧めです。まじめに本格的に遣るなら、強いチームを選べばいい。会社関係のチームが多いがそれだけではメンバーが揃わないので、なんでも、上手な人なら、何処のチームも大歓迎である。

サッカーも盛ん。ソフトボールと同じくらいに参加者は多いが、これも、構成メンバーが多いし、ギリギリのチームが多いので、試合をサボるわけには行かなくなる。

 色々な人がいる物で、野球もサッカーもゴルフもまたバスケットボールも遣ってしまう人もいる。同じ日に二種目こなす人もいる。そこまで、しなくてもいいと思うのだが、それはその人次第である。それも、そう若くない人である。

 スキューバダイビング、老年に差し掛かっていり方でも、張り切ってライセンスを習得する方がいます。ジャカルタに二箇所講習場が有るようです。実地と筆記のテストはランクによって厳しさが増しますが、インストラクターまで取る方もします。マナドやロンボク、プラウスリブ、カリムンジャワなどなど、もぐる場所は数限りなくありますから、年に何回かもぐりに行くようです。釣りが趣味という人は尊敬しませんが、スキューバダイビングが趣味という人は尊敬します。ただ、毎年、日本人とは限りませんが、事故が報道されています。くれぐれも、インストラクターと共に潜り、単独にはならないように注意してください。中には夜もぐる人もいます。特に注意です。

 インドネシアで楽しく暮す 11-3

26日 同好の会 3

合唱団、何処の世界にもいる物です。私の知り合いにも何人かいます。ラグラグ会、が有名ですが、他にもいくつかのグループがあり、毎週一二回は、集まって練習しているようです。大学時代に合唱を遣っていた方がリーダーになって、熱心に遣っています。団員募集の広告が頻繁にジャカルタ新聞に載っています。帰国退団する方がいるので、常に補充をしなければならないのが悩みの種でしょう。

色々な催しに参加し、日本とインドネシアの橋渡しのような公共的なことも遣っていますので、何かと催しが優先され、其れに伴って義務的な要素も出てきます。気楽に出たり入ったりが、出来ない一面があるようです。でも、好きな人は好きです。熱心な方も非常に多いと聞いています。また、公演の時は宣伝もしなければなりません。

おおきなグループが二つあるようです。

そのほか、日本文化センターへ行けば、色々な趣味や特技の人たちの集まりがありますから、参加してみたい方は、一度、訪ねてみたらいいと思います。ボランティア的な役目の仕事でしたら、さまざまな機会があると思います。インドネシア人の若者と生の日本語で話す会とか、バザーの手伝いとか、お祭りの手伝いとか、その気になればいくらでもあります。祭りのおみこし担ぎ募集や着物の着付け役募集もあります。

日本映画の鑑賞会も頻繁にやっているようです。無難な日本の観光バスでやるようなものばかりですが、日本人向けというより、インドネシア人に日本文化紹介の要素の方が大きい。

 

生花やお茶の席とか、染物の会とか、バティックの会とか、女性の愛好者を主体に集まる会も沢山あるようです。インドネシアで何も遣らなくてもいいと思うのですが、遣りたい人は何処でもやりたいのでしょう。自然に集まるようです。

 

27日 同好の会 4

ゴルフの会は数え切れない。とにかくコンペだらけである。何処のゴルフ場へ行っても一つや二つの日本人関係のコンペが催されている。そこへゆくと、不思議なことに韓国や他の国の人たちのコンペは殆どない。インドネシア関係も殆どない。私がメンバーのJababekaでは警察、軍、政府、行政関係者のコンペが二ヶ月に一回ほどある。

それはそれとして、なぜ日本人のコンペティションはこれほど多いのでしょうか。

女性のゴルフ熱も大変旺盛で、平日、ジャカルタの真ん中のポンドックインダー辺りで、女性と割引が二つ重なって、メンバーより安く出来るらしい。奥様がゴルフやお稽古事、旦那は会社で仕事、是が一般的な家庭です。土日に奥さんと一緒にゴルフというのは非常に少ない。奥さんも旦那と同じく高い金額を払わなければならないので、損をした気にさせられるからでしょうし、奥さんは平日やっているので土日は休養でしょう。

多くの奥さん連中は、生活をエンジョイするために仲間を作り、普段はお手伝いさんと運転手を使い、日本にいたら出来ない、贅沢感あふれる生活が出来る。閉じこもりは少数だと思う。旦那が、帰国することになった時、奥さんが残念がる。「貴方だけ帰って、わたしはのこりたい」と言う奥さんが多いという。そういう方たちは将来またインドネシアへ来る可能性が高い。

講演会やスポーツイベントも結構多い。ジャカルタを中心に、スナヤンの競技場や見本市会場や各種ホテルで催される。日本の地方に住んでいた人たちは日本ではみる機会がない催しが多いと思う。先日もバドミントンの試合で潮田選手などが来ていたようでした。

28日 インドネシアで楽しく暮す 12-1

 住環境を変えてみよう 1

私はインドネシアで四箇所に住みました。24日に五箇所目に引越しをします。96年、初めてインドネシアへ赴任してきた時はリッポチカランのクラウンコートというアパートの8階でした。ジャカルタではありませんでした。全て、赴任前に時の社長が手配してくれ私たちのために準備しておいてくれたところでした。家賃は、1ジュタRp(5万円くらい、当時にレートは20Rp=1円でした)でした。殺風景な二部屋にシングルベッドが一つずつ、シャワー室とトイレが一緒、台所が着いていて、ガス、水、は供給されていた。印象としてはこんなところに放り込まれたと思った。現在は、大変にぎやかになっていて、おおきなスーパーや日本食レストランも大丈夫かと思うほどあるが、同時は、殺風景で、食事をするにはショッピングモールのインドネシアンレストランでするしかなかった。いい悪いではなくて、選択の手段が無かった。テレビはインドネシアの何チャンネルしか写らないので、時間の過ごし方にも困った。三人別の部屋だったが、良く集まって、インドネシアの生活について仕事について、愚痴を言い合ったり、聞き役をしたりだった。

二三ヶ月もしなう位置に、日本人の住環境がどんな物か分かってきた。皆さんジャカルタの高級アパートに住んでいる。チカランやブカシの工業団地に比較的近いところへ住んでいる人たちも、私たちよりはるかにグレードの高いところに住んでいることが分かった。

 8月に赴任だったので、11月くらいから雨季に入った。湿度が大変高く洗濯物は乾かない、部屋の中に干すしかないので、部屋の全体がじめじめした。トカゲの小さいチチャックという動物がそこかしこと徘徊しだした。今はなんとも無いが、当時は非常に気になった。寝ている最中にベッドに潜り込んできたりした。そのうちネズミが徘徊する光景を良く見かけるようになった。

今でもこのアパートは韓国の人たちが多く住んでいる。日本人は住んでいないと聞いている。だから、日本人にこの話をしても、何処のアパートなのか知らない。

 

29日 インドネシアで楽しく暮す 12-2

 住環境を変えてみよう 2

半年で、クラウンコートから出た。その時、一緒にいた日本人の若者の一人は奥さんと子供と一緒にジャカルタへ住むようになった。もう一人は、独身だったが、活動的で環境に溶け込みやすい人だったので、彼女を作って、別の一軒家に住むために出て行った。私だけ残ったが、警備がしっかりしている外国人向け集合住宅がチカランの北のほうにできたと言う話を聞いて、下見に行き、気にいったのでそこへ移ることにした。家賃は2ジュタで10万円くらいだった。しかし、支払うのは使った電話代だけで、水や電気代は含まれていた。そこが、グラハチカランでした。結局、ここは出たり入ったりで、合計6年以上は住んだでしょうか。この住宅は当時新築で、奥にはインドネシア人のための分譲住宅地も広がっていた。塀や鉄条網で囲われた外国人専用の住宅地は中に広い日本食レストランもありテニスコートやスイミングプールもあり、ドライビングレンジも工事中だった、結局それは完成しなかったが、100人近くの日本人が一時期は住んでいた。カラオケまで開業をした。1998年の暴動の前がピークだった。その時、帰国した日本人の半数ほどがここへは戻ってこなかった。ジャカルタからとおいことと、周りがあまりにもローカルだから治安的に心配したのでしょう。50人ほどになり、それから増えることは無かった。私が帰国した、1999年夏には30人ほどになっていた。

最初、二年半ほど住んで、仕事が終わり、日本へ帰った。

2000年夏、再びグラハチカランへ戻った時には20人ほどだった。レストランも営業をしなくなっていた。ミニスーパーも休業になった。寂れる一方になった。新しい人は入ってこない。家賃は4.5ジュタだった。その時のレートが90Rp=1円だから、5万円くらいと、住環境は変わらないが、新たに入る人がいないので、円で換算すると半値になっていた。経営も苦しくなり、事務所やレストランを閉鎖し、日本人向け弁当の配達業も始めた。経営も今までの持ち主から、ユディさんに売られた。ブカシ警察のトップに近い人で、それ以後、警察が仕事をするためなのか何か良く分からないが、部屋を借りるようになった。おかげで、ユディさんとはココを出て、帰国するまで親しく付き合うようになった。一年経過し、田舎暮らしがつづいたので、ちょっと、皆のすなる、ジャカルタ暮らしをしたくなった。

 

30日 インドネシアで楽しく暮す 12-3

 住環境を変えてみよう 3

 中央ジャカルタの中心、スマンギ交差点のアストンホテルに引っ越した。大変目立つホテルで三本のピンクのノッポビルディングで構成されていて二棟はアパートメントになっている。日本人や欧米人が多く入っている。なんと、1500US$である。当時のレートで約20万円だった。一日7000円である。何がいいかというと何もない。17階で景色がいい?それだけ、通勤がまた大変。出勤は高速道路にすぐは入れたが、帰りは一方通行とスリーインワンを避けるために大回りをしなければならなかったし、渋滞が酷かった。3時間かかる。出勤は1時間だった。我ながら、とんでもない状態を選んでしまったと大変後悔した。しかし、半年の契約で、前払いしたので、出てしまうわけに行かないし、何かいいことがあるかもしれないと期待した。

 しかし、何を期待するのか、考えてみれば期待する事柄がない。その通り、何も起きない。一回、洪水があって、地下駐車場に置いてあった車が移動できなくなったことぐらい。水が引いて外に出すことが出来たが、高速道路が洪水で冠水し、通行止めになっていたが、構わず進入して走って会社に向ったが何とか通ることが出来た。その時は只だった。其れが良いことだった?

 おおきな損をしたと感じ、期限どおりにそこを出て、また、グラハチカランへ舞い戻った。今度は3.5ジュタになっていた。住人は私を含めて4人である。五列並んでいる長屋の一番手前の入り口に一番近い場所に入った。そのほか二列目の一番奥に日本人、一列目の一番奥にオーストラリア人、そにて、私の部屋の下に持ち主(大家さん)になったユディさん夫妻(子供はいない)それだけである。

 参列めより奥には人は誰もいない。ゴーストタウンの様相である。新築から7年過ぎていた、手入れをしないので、朽ちかけ始めていた。

 

7月31日インドネシアで楽しく暮す 12-4

 住環境を変えてみよう 4

そこに2006年のパニック障害帰国まで住んでいたのだが、大変快適だった。もう、近所の人とは顔見知りになって、近所では有名人になっていた。危険など感じようがない。そうこうするうちに、マリアさん問題が深刻になってきた。彼女のために大変気分は疲れた。日本人が出て行った。そして、オーストラリア人も出て行った。管理人家族と私たちだけが残った。だからと言って、出て行こうとは全く思わなかった。

 マリアさんがらみの事件が色々あって、そのうち、無くなって来て、落ち着いて、やれやれのころから、社長が交替し、会社で私に対する虐めと、排除手段が強烈になってきた。かなり、会社でストレスが増してきた。そのれに、帰国も近くなって、あちこちへ無理をして旅にも出ていた。その結果パニック障害になってしまった。私のウェブサイトで確認してもらえばいいと思いますが、酷かった。それでも、住環境には満足していた。病院アニッサも近かったので、何回か病院にも世話になった。

 その間、大家さんのユディさんと奥さんは私のことを大変心配してくれて、良く何度も見舞いに来てくれた。大変感謝している。

 やむ終えず、無理やり、帰国してしまったが、改めて、帰国の整理をするためにインドネシアへ来た時も、今度来たらまた、住むように言われた。私も,そのつもりにしていたし、実際、現社長にも頼んだ。

 都合、7年間ぐらい、ここに住んだが、いい思い出が一杯の場所だった。多くの日本人の入居者とも親しくなった。再び訪れることは無いと思うが、今行けば皆さん大歓迎をしてくれるでしょう。しかし、私は、その地では死んだ人間だ。色々な場所で死んだうちの一箇所になった。

 2008年8月1日 インドネシアで楽しく暮す 12-5

住環境を変えてみよう 5 

そして、日本の一年は東海道“鞠子の宿“とろろ汁の丁子屋で名の知れた静岡の丸子の家で自宅療養と洒落込んだ。

 休養、療養、栄養も充分で太ってしまって、これではいけないとまた、インドネシアで一仕事をする画策を錬った。

そして、現在の会社で働くため、再び、インドネシアに住むことになった。最初の住処はデルタマスの一軒やというかつながった一軒やというか、家賃1.5万円くらいの家だった。現社長があてがってくれた家である。1996年の時もそうだったが、自分で見て確認した家ではなかった。どの道、一般の日本人が住む住宅地でも住宅でもない。私でなければ絶対逃げ出すような環境である。私は入った当初は何の不自由も不満も感じなかったが、次第に、近隣に対する不満が出てきた。と言うのも、私が入った一角は、インドネシア人にしてみれば高級住宅地である。入居できるインドネシア人は中流以上の小金持ちの人たちである。一種のプライドがある。車もある。駐車場も屋根をつける家が多い。そういうわけかどうか分からないが、態度が総じて横柄である。お手伝いさんの扱いも横柄である。使い慣れないインドネシア人がお手伝いさんを使い始めたという感じで、スマートさに欠ける。

隣近所の迷惑をあまり、考えなくてもいいところに今まで住んでいたのでしょう。私のホームページ

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage005.html

の引越し、に詳しく書いてあります。多分、皆さん、驚くことでしょう。

 

 

2日 インドネシアで楽しく暮す 12-6

住環境を変えてみよう 6

二年契約をしたので、ここがインドネシアでの終の棲家になることでしょう。今のところ、1週間程度の住み心地ですが、居間が1階に、二階に寝室や風呂場があるので、階段の上り下りをしないと生活が出来ない。その点、いいのやら悪いのやら、まだ、結論を出すのは早い。とにかく、家賃の割に豪華な邸宅である。

 ガロンボトルをひっくり返して使う。日本語の名前は知らないがこちらではウォーターディスペンサーと言います。一般的には熱湯と冷水が出るようになっています。勿論スイッチを切れば普通の水になります。何処にでもあります。会社にも家にも、これがないと生活できないと言うくらいの必需装置です。

これだけに構造の家で、もし、ジャカルタのポンドックインダーの一軒家なら十倍はします。そして、1500US$も払ってジャカルタの高層アパートに住んでも、これほどの構造の部屋はありません。

こういうところへ住める条件は、インドネシア語が普通に出来ること、ジャカルタから40km以上離れていても大丈夫な人、日本人が近所に住んでいなくても大丈夫な人、ほかの日本人と条件が同じでなくても構わない人。たったこれだけの条件でこういう住宅に格安で住めるのです。

 もうひとつ、ちょっと、気合を入れて自分で探すことが出来る人。他人の情報ばかりを待っていては見つかりません。

私の住んでいる町というか新興住宅地もそうですが、インドネシア人のための(当たり前)分譲住宅地はあちこちにあり、そこのすべてで、売りたい、や、貸したい、のビラが貼られている家が沢山ある。連絡用の電話番号も必ず書いてある。

 是非、自分で探してみてください。それがまた、インドネシア馴染む手段の一つになるでしょう。そういうことが出来ない、人は馴染むのが遅い人でしょう。会社の社長さんも、おおきな背もたれの椅子に踏ん反り返りたい気持ちも分からないわけではありませんが、その実、田舎でインドネシア人に混じって住んでいるなどと言うのは、もっと、いい気持ちになるし、インドネシア人も親しみを感じます。http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage005.html

 

 

3日 再び旅先

 いま、現地時間19日5:25 

一昨日17日朝6時に家を出て、ジャカルタ発9:00のところ一時間半遅れてくれて、10:30出発、目的地マナド(Nanado)着が14:00だった。ここマナドはスラウェジ島の最北東端にある日本人にはダイビングで有名な土地である。着いたその日は、空港から南西にあるトンダノ(Danau Tondano)湖へ二時間ほどかけて行って、湖畔のレストランで食事をした。

 ということで、今、三日目の朝、まだ暗いが、今日 ダイビングで有名なブナケン島へいってシュノーケリングを楽しむ予定です。

 詳しくは帰ったらまた、ホームページで紹介します。

 

昨日まで旅先

MANADO(マナド)充分堪能しました。行きはVATABIAで3時間直行、帰りはLIONで、MAKKASAR経由で4時間かかった。

マナドはトンダノ湖、タンココ自然国立公園、ブナケン島、その他の部落、サワンガン、スクールでお墓や彫刻の里、泊まったホテルの目の前のPadar Ikan(魚市場)なども、精力的に見て回った。

タンココの世界最小の猿、タルシウスを高い木の隙間からこちらを見ているのに出会った。夜行性なので、昼間は寝ているが、レンジャーがちょっと木を叩いて起こしてくれたのだ。ごめんなさいでした。歩きつかれた。

ブナケン島では3時間以上のシュノーケリングをエンジョイした。水は極めて透明、岸辺のさんご礁で充分熱帯魚の観賞が出来た。おかげで、背中を充分すぎるほど日焼けをし、ひりひり痛い。

今日は出勤、早速、1.6φ×2.1φという、極細チューブのトライが始まる。サイジングに通すだけでもほかの人では出来ない。

3日 こんな人シリーズ 18-1

自慢の同級生 1

私と渡辺君とは、山梨大学の同級生、同じ応用化学科の40人の中の一人ずつでした。彼は地元の山梨県の出身で自宅から通学していたとおもう。それほど親しくはなかった、と言うのも、彼は本当に勉強が好きでまじめで、自宅から通っていたこともあって、大学界隈に下宿生活している学生とは生活のリズムが違っていた。そういうものである。地元の学生の方が総じてまじめで、勉強も出来た。例外は殆どいなかった。私も例外ではない。私は学校の近所に下宿していたので、全く勉強をしなかった。勉強をしなければ成績が悪いのは当たり前です。彼は常にトップにいた。トップ争うではなく、当たり前にトップだった。私は、ブービーメーカーにはならなかったが、ブービーに近かった。私も、その場所で安住していて、争いはしなかった。彼ががり勉だったというわけではない。一般的に自由な時間が持てる、持てないと言うことと、地元の大学を誇りにしていると言う意識違いがあった。物柔らかで、柔和な態度をしていて、どこにそれだけのしつこさがあるかと思うくらい研究熱心で教え熱心である。

彼の研究所のホームページ

http://www.ab11.yamanashi.ac.jp/~mwatanab/index.html

を、明けていただければ、その風格が分かる。なんの事が書いてあるかは失礼ながら一般の人にはわからない。

今、話題の燃料電池のことが書いてあることは分かるかもしれない。彼は、このことを40年以上前から、口にしていたのです。物になるの?と、かなり懐疑的に斜めからみていたが、実際、実用化寸前までこぎ着けている。かげながら声援を送っている一人です。

 

4日 こんな人シリーズ 18-2

自慢の同級生 2

彼が有名なのはこの燃料電池では国際的である。燃料電池での彼の基礎研究がなければ、今の燃料電池車の存在はない。それほどの人である。

同級会を二年に一回ほど催しているようだが、私はインドネシアにいる変わり者なので、たまたま、日本にいれば皆さんと会うために出席する。彼は同級会には海外出張でもなければ必ず出席して、燃料電池について実用化はいつごろだとか熱く語る。甲府であるときは必ず、研究所の施設を案内してくれる。何の装置か皆目分からないが、彼のひたむきさは充分感じさせられるし、大変誇りに思う。ただ、この話を普通の人に話しても、何のことやら理解してくれる人がいないので、こういう同級生がいるぞと自慢できないのが残念である。

人当たりもいいし、彼を慕う後継者は山ほどいる。私が学んだ?学び舎に彼のような同級生がまだ活躍していると思うと私の励みにもなる。

先日も、メールを送ったら、忙しい中、直ぐ返事が来た。もう定年を大学から通行されたが、彼にとっては、“そんなの関係ない”

“新たな国の大型研究プロジェクトのプロジェクトリーダーを委嘱され、又その拠点機関に山梨大学がなったため、(70億円の予算規模で)向こう7年間は燃料電池(自動車)の本格普及を支える基礎研究に注力することになりました。又、このプロジェクトのために、今までのクリーンエネルギー研究センターに加え、新たに燃料電池ナノ材料研究センターを本学に新設し、県から無償貸与された八幡神社の隣の知事公舎跡に研究棟を新設します。したがって、 “老後をのんびり“ という生き方は、完全になくなりました。”

と、言ってきた。なるほど、歩む道は全く違うが、精神的に彼は私の支えになっている。海外でもっと多くの若者に私の技術を伝えたいと思うし、日系企業のお手伝いが出来れば、いいかなと思う。

普通の休日

 昨日は5:30出発の6:00カラワン着6:30ティーオフ、恐怖の暑さと歩きのコースだが、今回は曇りで微風がありカラワンらしくない気候で助かった。今日は同じ時間の行程で、ジャバベカでプレーした。ここはカートを使うので、カラワンと比べれば、かなり体が楽である。昨日は11:00に終わった。今日も10:30である。日本と違って、前半後半で休憩することはない。それにしても、終わるのが早すぎて、その日一日、これから何をしたらいいのか考えてしまう。

 マリアさんの旦那アリ君が、昨日夕方家に着いた。今日は一緒に朝のランニングをして、ジャバベカのプールで時間をつぶしたとか。明日の午前中にはスラバヤへ帰る。忙しい二泊三日の逢瀬である。

マリアさんのお姉さんもなぜか来ていた。火曜日にブリタールの旦那や子供のところへ帰るまえの二日間泊まるらしい。カラオケで仕事をしていたが、もう、止めて、家族で暮すそうだ。家を新築している。



7日 インドネシアで楽しく暮す 13-1

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 1

私は連休には何処かへ旅に出ます。其れに関しては山ほどの旅行記を書いてホームページで紹介しています。ですから、連休がいつ何日あるかは私にとって重要です。年間の行動計画をカレンダーを眺めながら、考えます。

その休日が何の日かは二三日を除いて全く需要ではありません。ただし、インドネシアで生活するに当たって、その休みの日は何の日かを知っていた方が、ちょっと潤いが出来るような気がします。何かの行事に行ってみるとか、どこかに近づかない方がいいとか、何処が込むとかが予想がつくようになります。

インドネシアの休日は毎年日が変わります。変わらないのは元旦と八月十七日の独立記念日と十二月二十五日のクリスマスの三日だけです。

元旦と独立記念日、このほかは全部宗教がらみです。イスラム関係が一番多い。そして、変更が効かない。ほかの休みは土日や土日から離れていれば土日の前後に移動して連休にする。また、年に何日かを年休を一斉に取りましょうという政府からの奨励で飛び石を塞いで連休にする。

宗教がらみの休日が多いので、来年のカレンダーが正式に決まるのは12月に入ってからである。ただ、カレンダーやさんは予想してカレンダーを作ってしまうので、外れることもたまにはある。ですから、翌々年のカレンダーには全く祝祭日は記入されていません。

断食明けの日は前日までハッキリしない。インドネシアの人はあまりこだわっていない。その何日かまえに里帰りが始まっているからである。

8日 インドネシアで楽しく暮す 13-2

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 2

 



2007年のケースです。

国民の祝日は計13日。ウィークデーに当たる祝日を週末前後に振り替えるのは1回、有給休暇奨励制度を適用するのは2回で、詳細は以下の通りです。
・5月17日(木)のキリスト昇天祭の翌日18日(金)に有給休暇奨励制度を適用し、17日(木)から20日(日)まで計四連休
・断食月明けの大祭(レバラン)の10月13日(土)、14日(日)の前後に当たる12日(金)、15日(月)、16日(火)に同制度を適用し、計5連休
・12月20日(木)の犠牲祭から、土日を挟んで25日(火)のクリスマスまでを連休とするため、21日(金)と24日(月)に同制度を適用し、6連休 
1
1日(月)新年
   20日(土)ヒジュラ正月
2
18日(日)中国正月
3
19日(月)ヒンドゥー正月(ニュピ)
   31日(土)ムハンマド聖誕祭
4
6日(金)聖金曜日
5
17日(木)キリスト昇天祭
6
1日(金)ワイサック(ブッダの生誕・成道・涅槃)

8
11日(土)ムハンマド昇天祭
   17日(金)独立記念日
10
13日(土)-14日(日)断食明け大祭(イドゥル・フィトリ)
12
20日(木)犠牲祭
   25日(火)クリスマス


*
祝祭日が土曜日もしくは日曜日に重なる場合、翌月曜日が
 振替休日となります。

9日 インドネシアで楽しく暮す 13-3

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 3

 

太陰暦を使っている関係で、一年は355日に近いので、毎年、イスラム教の休日は10日ほど前に来る。季節の調整を考えていないので、只ひたすら、10日ずつずれるだけである。その点、中国正月やヒンドゥーの休日は季節の調整があって、ときどき、一ヶ月あまり戻る。ですから、規則性を見つけるのは一般の人には難しい。勿論、それぞれ規則があるのですから、それに従たがえばいいのですが、それを考える一般人はいないと言っていい。とにかく、政府の発表を待つだけである。

連休がいつになるのか、政府の発表があるまで分からない。ココ最近は5月までの前半に集中し、後半は、殆ど連休はない。何年か後には逆になることでしょう。

 

元日は万国共通で休日でしょうが、インドネシアは単なる一日の休日です。年末年始の長期休暇はありません。前後は完全に暦どおりです。クリスマスから新年にかけてたまたまイスラムの休日が差し掛からなければ二日の休みがあるだけです。デパートでは年末セール、クリスマスセールとほかの国と同じように商戦が盛んになります。イスラムの家庭でもクリスマスプレゼントは子供たちが楽しみにしています。家庭の年中行事に繰り込まれています。

 

モスレムの新年が今年(2008年)は二回あります。1月10日は1429年です。12月29日は1430年です。たまたま、今年はモスレムの正月が二回ですが、その年によって、色々な休日が年始、年末と二回ある場合があります。ちょっと得をするような感じです。その前後は正月でも休みになりません。

11日 インドネシアで楽しく暮す 13-4

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 4

中国正月(春節)は2月の半ばですが、これも動きます。ヒンドゥーの正月(ニュピ)も動きます。それぞれに関係がある人は前後をお祝いのために会社を年休で休んだりするでしょうが、一般的には何の動きもありません。ただ、都会のデパート、ショッピングモールでは中国正月が近づくと真っ赤な飾りで一杯になります。町が赤くなってきたら春節が近いことを感じますが、田舎では全く関係ありません。

ニュピはヒンドゥー関係者の行事が一杯です。バリではまったく社会生活がストップします。救急車と消防以外は全部ストップです。ほかの宗教の人も協力します。家の門から外の出てはいけません。外国人もホテルから一歩も出てはいけません。交通機関、空港も閉鎖です。ホテルのレストランも閉まっていますから、客は食料品、飲み物を前の日に夜中の12時までに買っておかなければ、何もありません。すごし方はホテル内のプールとか海辺ならプライベートビーチで過ごすしかありません。知っていて行くならいいですが、知らないで行ったら、えらい目にあいます。注意。

ジャクジャのチャンディプランバナンでも盛大な行事が行われます。昼もいいですが夜の野外コンサートは雄大で、伝統的な演劇も一見の価値があります。こちらは外出禁止と言うことはありません。社会生活に変化はありません。

イスラムの犠牲祭、一週間ほど前から、町のあちこちで、ヤギや羊や牛の販売が道端で始まります。生贄用です。私はその動物たちは間もなく殺されると思うと気の毒でたまらなくなります。見るに忍びないと言うか。当日、やはり、町のあちこちで、生贄の儀式が行われ多くの人が集まりお祈りを、歓声をあげます。其の場で裁いて来た人たちに配られます。この日あたりは連休になるので、車で遠出をしているがあちこちでその儀式に遭遇するが、実際に留まって見る事はない。見たくない。だから、見たことがない。

 イスラムの人たちにとってはレバランの次か同じくらい重要な行事ですから、これに参加しないで、休日出勤をする人はいない。

12日インドネシアで楽しく暮す 13-5

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 5

キリスト教関係のハロウィンとかぐっドゥフライデーは、ジャカルタ付近は各教会に集まり、比較的静かにミサが行われるが、警戒は厳重である。イスラムの過激派が何をしでかすか分からないからである。日本人など関係のない人たちは催しにある場所には近づかないように大使館、領事館から広報が出ます。最近は何の事件も起きていません。

ハリラヤとは関係ない、メーデー辺りにイスラムの過激派が穏健派の集会に殴り込んだ事件がありました。50人以上が逮捕されましたが、多くはすでに開放されています。

ブッディストのワイサックもなぜか日が決っていません。ボロブドゥールで行われる儀式と言うか行事が最大ですが、全国的には全く目立ちません。テレビニュースで取り上げられるのはそれだけです。中華系のお寺はジャカルタに数箇所あると聞いていますが、何処にあるか知りません。また、地方のお寺も何処にあるか知りません。今まで、従業員というか、インドネシアで出合った人たちの仲に仏教徒はいなかった。

他の宗教はその当日、牧師さんのような人が出演し、お説教に様な物をしていますが、私は全く分からないし、興味がありません。ちなみに、イスラムは毎日夕方のお祈りをテレビでも放映します。レバラン、断食月になれば、イスラム色があからさまになります。ドラマもイスラム教に関連したドラマが多くなります。圧倒的にイスラム優先の内容になります。

 

13日 インドネシアで楽しく暮す 13-6

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 6

お楽しみのラマダン、レバランです。ご存知のようにその一ヶ月前から断食月になります。日の出から日の入まで禁欲月です。なぜ、この時太陽を使うのかイスラムって不思議ですね、首尾一貫していません。地球上で住む場所によって、時間が全然違います。日が沈まない地方と日が昇らない地方のことを考えていない。それはさておいて、禁欲ですから、極端なことをいうと水は勿論飲んではだめ、つばも飲まないで、はかなければだめです。セックスもだめ。

しかし、太陽が沈めば反動で、なんでもアリのOKの世界に早代わり、この時期の10ヵ月後の赤ちゃんが生まれる人数が多い。また、やせるどころか太ってしまう人のほうがはるかに多い。だから、これも、矛盾しています。同じ痛みを分かち合い、共有意識を持つというその宗教の偉い人たちが言っていることが空虚に感じるのは私だけでしょうか。

断食月が終わりに近い頃から何もかもが休みになります。日本のお盆やすみに似ています。帰省ラッシュ民族大移動が始まります。故郷で一族とともに断食明けを共有するのです。一年の自分の罪をご破算にする儀式になります。一週間後くらいにUターンラッシュになります。その光景はかなりすさまじいものになります。バイクの渦に巻き込まれます。ガソリンスタンドは超長蛇の列になります。バス、航空機、などなどの移動手段も大混雑、インドネシアの人たちはうんざりでしょうが、それでも、移動をします。エンルギーのすさまじさを感じます。

14日 インドネシアで楽しく暮す 13-7

今日は休日出勤をして、新鋭品のサンプル作る。明日、月曜日が納期だが、原料が金曜日に夕方やっと入ったばかりで、昨日はゴルフの予定が入っていたため、どうしても今日仕事をしなければならなくなったし次第。準備を終え、温度が上がるのを今待ってる。こちら時間08:00頃である。09:30から試作開始である。

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 7

レバランの長期休暇のその時、日本人はどうするか。一番、一般的なのは、おおきく分けて、ゴルフ三昧の人、帰国する人、少数派で近隣の旅行と閉じこもりである。ゴルフは純粋のハリラヤのみが営業ストップになる所が多いが、前後の休日は営業している。夜も、お酒が断食明けと共におおっぴらに飲めるようになるので、禁断症状が出そうな人にとっては待望の時になる。

 ゴルフ代は休日扱いになるので価格は平日並みには下がらない。それでも7日間毎日ゴルフだったという人も多い。

 家族で来ている人は帰国する人がおおいし、単身赴任者は奥さんを呼び寄せるというか、来てしまうというか、国内を案内したりショッピングに付き合ったりする人もいる。この時期、交通機関の価格が急騰するし、ものすごい込みようなので、この時期は遠出をしない方がいい。

 私は別です。車で行きたいところへ行きます。休みの真ん中付近は道も町もがらがらですから、移動が早いので、遠出が簡単に出来るからです。安旅館は経営していますから、宿泊の心配もありません。

何はともあれ、イスラムではない日本人は、有効にこの期間を有効に使うことが出来ますから、ちゃんと計画を立て、予約が必要ならできるだけ早い時期に予約をしておいた方がいいと思います。

 

15日 インドネシアで楽しく暮す 13-8

ハリラヤ(hari raya)を知ろう 8

今年の断食は9月の始めから、連休は9月の末から10月の」一週目になるでしょう。この期間に移動するなら、すでに予約をした方がいいと思う。私はやはり別です。行き当たりばったりの、でたとこ勝負ですから。まだ、何処へ行くとは決めていませんが、インドネシア国内の何処かへ出かけることでしょう。

その後は12月までありません。12月は三日あります。クルスチャン一回、イスラム二回です。三連休が二回、クリスマスは単独です。これらの過ごし方もレバランと同じで、帰国組みとゴルフ組に分かれます。連休の日日が少ないので、ゴルフ組みのほうが多いでしょう。

正月を迎える準備は日本食スーパーと日本食レストラン主導です。それらが商売柄煽って盛り上げさせられるのです。インドネシア一般は年末セール、クリスマスセールで盛り上げます。しかし、レバランほどではありません。通常より若干賑やかになる程度です。年末年始とラマダン、レバランの日にち的距離の開きにも関係があります。半年離れていればそれぞれが単独で盛り上がります。

日本人がどこかのレストランに集まり、紅白歌合戦を二時間早く見ながら、盛り上がり、行く年来る年をみながら、日本を思う。そんな風景がそこかしこにあります。

其の流れで、おせち料理も食べてしまう。ジャカルタのホテル辺りでは餅つきの催しもあるようです。

というのも、私は、年末年始は日本へ帰っていて、インドネシアで友人と過ごしたことがないからです。アルコールが全然駄目なので、盛り上がりに水をさす可能性があることと、せめて正月くらいは自宅で迎えたいと思っていうからです。

 


16日 インドネシアで仕事の事情 1

最近の仕事で、ちょっと専門的になるが、架橋HDPEの2.7φ×2.1φのチューブを作ることになった。客先が今まで20年以上日本から輸入していたものだ。バイクや車のワイヤーケ-ブルシステムに大量に使われている。インドネシアでは需要がますます増える。
 しかし、インドネシアではこういう細いチューブをHDPEでは作る技術が無かった。日本のチューブメーカーは安心していたし、こちらの日系企業もあきらめていた。
 そこへ、私ならできるという情報が、日系企業に入って、早速、試作の依頼が入った。
 技術的な問題は私の別のホームページで興味のある人はご覧ください。
 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/index.htm
 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage5.html
依頼を受けて二ヶ月後に満足されるサンプルを提出した。間もなく、量産になることでしょう。一台の押出機で16m/minで生産し、24時間運転、休みなしで、間に合うかどうかの量です。
 次に、もっと難しい、POMチューフの依頼も受けているので、これもやってしまいます。
 現在生産輸出している日本の押出成形屋さんは寝耳に水の突然の注文停止の事態になります。気の毒ですが、仕方がありません。時代の流れです。私は、そういう役目なのです。
 インドネシア向けプラスチックのチューブやプロファイルを輸出している押出成形屋さんはコストダウンの努力をしないといつの間にか仕事が消えてしまいますよ。

 

17日インドネシアで仕事の事情 2

以前、思わぬ展開で触れたが、今年、遅くても9月には過去に私が技術指導をし、インドネシア内の日系企業からの仕事を引き受けてきた会社から、全面的に押出成形装置を移転されます。インドネシア人の何人かには指導が成り立ちましたが、日本人には私の技術を伝えることが出来ませんでした。その上、悪い事に、現在の経営陣は押出成型というより、製造や営業の素養も全くなく、日本本社からの仕事を言われたままいやっているだけなので、インドネシア国内のお客さんと話しが出来ない。お客さんに迷惑をかけるだけになってしまっている。これでは、国内売りの承認を手にいれても、単なる、絵に描いた餅に過ぎない。供給責任も全う出来ない。

そこで、みかねて、本社経営陣は私に押出の仕事をゆだねることに決定した。私も、知らん顔するわけにはいかないので、引き受けることにした。

客先は、日本名で紹介すれば、アラコ(車のシート関係)ジェックス(水槽の日本一)パラマウントベッド(介護用ベッドの日本一)河野樹脂(ボトルポンプの日本一)トーソー(インテリア関係の日本指折り)北川工業(エンジング、グロメットで日本独占)ヤマハ楽器(楽器の日本一)などなどのそうそうたる会社が加わる。供給責任をゆだねられるのです。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/index.htm
 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage5.html

今の会社でも、今までやっていて、これからも続ける冷蔵庫のガスケット関連会社のほかに、新たに、サンヨーセミコン、ハイレックス、ダルマケーブルシステム、ミクニ、フィルテック、クボタ、イノアック、アスモ、ジーエスエレテック、ヤスフクなどなど名の知れた立派な会社とのお付き合いを増やしている。とにかく、他に出来る人がいないのですから、インドネシアでは私がいるPT.ASIATEC FUJISAWAに押出の仕事は集中するので、これからも、どんどん仕事は増えるでしょう。

 

 

 

2008年6月6日

突然の出来事だった。会社の部屋の住人が変わった。なんというか何をしているか分からない(ハッキリしない)連中が同部屋に入ってきた。マーケティングのアブドゥールさんは出て行った。中澤社長の考えを理解できない。

 PT.KITAGAWAから、人や機械が来ればそれらや彼らをどう扱えばいいのか、現場はすべて、PT.KITAGAWAから来た連中で切り回すのだろうか。 

私が今度一緒の部屋になった連中と重要な話をすることは殆どないので、側にいても仕方が無い。むしろ、営業のひとと重要な話しをしたいし、必要である。

私の考えと人員の配置が違う。やりにくくなった。PT.KITAGAWAから人が来たらなおさら問題が大きくなるだろう。

 こんな人シリーズ 19-1

18日 勘違いしている? 1

  日本と同じようにテレビの娯楽番組からの影響で、現在インドネシアで流行っている言葉の一つに、CapekDe~~~~!(チャッペデ~~~)というのがある。おとといはゴルフ、昨日は日曜出勤で新製品の試作で頭と体を使った。本当に疲れた。こういう時はあまり使いません。

人の話を聞いたり、行動を見たりした時に、理解しにくい場合いに、気持ちが疲れるという意味で、おでこに手の甲をくるっと回すように当てながらいうのです。

そう言いたくなるような言動、行動の例をいくつか書いてみます。

 

入社して二週間あまりのインネシア人の新人さんが、現場で製品を並べる作業をしていた。内径検査用の通り,止まりのジグが置いてあったので、それを使って検査を私がした。ちょっときつめだったので、内径が小さめだねと言ってやった。本人はテーパーゲージで測って、ほら、OKでしょ、と言った。そして付け加えた。製品が楕円だからキツメになると。

 おいおい、楕円も含めて検査をして、きつめだといっているのに、私に彼は楕円だから丸い状態を想定すればきつくないと教えてくれた。テーパージグでは差し込めばちょっと大き目に寸法が出てしまうことをわかっていないのは当然だ。これ以上言っても、駄目だ、こりゃ。

 私がどんな人か知らない本人は製品が楕円になっていることに私は気がついていないできつめだと判断した、と思っているのです。   ま、いいか。

こんな人シリーズ 19-2

19日 勘違いしている? 2

 

こんな話もある。日本で処方されこちらへ持ってきたパニック障害の薬が間もなく切れるので、ジャカルタの日本人医師がいる病院へ、薬のリストと説明書をあらかじめFAXで送っておいてから行った。そこのお医者さん、「パニック障害でしょ、私なら直ぐわかりましたよ。」おいおい、薬の説明書のパニック障害と書いてあるでしょ。「これらの薬は良く利きましたか?」と、聞かれたので、「飲んだその日から全くパニックにならなくなって、一年半たった今は最初の半分に減らしていますが、医者の指示で、やめることはしていません」と答えた。「これらの薬は取り寄せれば手にはいるが、もっと良く効く、薬があって、それなら今ありますがどうしますか?」と聞かれた。もっと良く効くというのはどういうことだろうか、と、?マークが灯ってしまった。今までの薬で全く症状が出ないので、全くパニックになっていない。良く効いているのです。それより良く効くということは、どうなることでしょうか?医者がまじめに勧めるので、その薬に変えることにした。結果はどうだったと思いますか。同じでした。同じように効いています。パニックになっていません。

 ま、いいか。

こんな人シリーズ 19-3

20日 勘違いしている? 3

 

ある人と、客先へ挨拶に行った。その人の新任の挨拶でした。客先への人と世間話や仕事の内容の話をしていた流れで、私について、この人が、「太田さんは日本でも一二の押出成形の専門家ですよ」と言った。私に?マークが灯った。押出については全く素人のはずで、プラスチックの樹脂の知識も全くないはずなのに、その人がなぜ、私がそんな人間だと評価できるほど評価力を持っているのでしょうか。違和感を持った。私の上から口を利てることに,本人、お気づきでない。

人を持ち上げるにしても、評価の言葉を口にするなら、当然、一般的に、評価する相手より何らかの点で優れていると客観的に世間的にでもいいからなんとなく認められている人でなければならないか、本人が評価する人の上であるという自意識が潜在しているはずである。

わたしとしては、自分で、東南アジアではダントツの一番だと思っているし、日本で何人かの指折りの押出職人と自負はしているが、他人に言われたくないと思っている。何故なら、押出の腕に関して私を評価できる人には出会ったことがないからである。

知らない人が知っている人を評価するのは奇妙である。すべてに共通すると思う。

まじめに、言うことはないが、人を軽々しく評価して、公言するものではないと思う。気持ちの中に仕舞っておくのはいい。

悪く評価された時は、一度は冷静になって、聞くことである。冷静さを欠いてしまう人は多い。

こんな人シリーズ 19-4

21日 勘違いしている? 4

 この人は、何度も何度も私にお礼を言った。私のお影ですと。同じ会社の違う部門の仕事を偶然、私が取ってきた。その人の部門では、最上位の儲け仕事で、一番の儲け頭として続いている。なにかの話をしている時、その仕事の話になる時がある。その度に、その人は私が取ってきてくれたと、皆さんに話しながら、御礼をいう。私としてはうっとうしい。偶然取った仕事だし、お礼を言われたくて取った仕事ではないし、お礼をしつこく言われると、だんだんうれしくなくなるし、逆に、この人、もし自分が、人の仕事を取ってきてやったなら、こんなにいつまでもお礼を言われないと気がすまない人なのだろうかと思ってしまう。

 お礼を言われたい心理が、逆にお礼を言わせているのだろうが、私の心理と全く違う。いちいちお礼を言われたくない私は、他人にお礼をあまり言わない。何かの時に誰かが私の手伝いをしたという心理になった時、私がお礼を言われなかったと、思われているかもしれない。

難しい。

 

こんな人シリーズ 19-5

22日 勘違いしている? 5

ある24歳の若者、私と40歳くらい違う。ゴルフをするのに、彼はまだ初心者で、お付き合いで他人とやるにはまだ、テクニックもエチケットも未熟なので私が誘って、一緒にプレーをしてやることになった。彼はジャカルタなので、私が迎えに行って、終わったら送っていってやっていた。彼のために一時間早く出て、帰りは一時間遅くなっていた。

ある日、ゴルフの約束の前の日、彼曰く「いきなり打つと最初のティーショットがまともに当たるか当たらないか心配ですよね」だった。私が、「そうだよね、それなら、三十分早く迎えに行ってやるから、ドライビングレンジで50球ぐらい打ってからスタートしようよ」と気を効かせて言った。彼からの返事「スタート前に疲れちゃうし、体力を温存したいから、止めましょうよ」でした。ずっこけてしまった。

私が運転して朝早く迎えに行って、終わって疲れても送っていっているのに、朝の50球が疲れてしまうとは、あきれて、何もいえなかった。

その時、一緒にやって、其の後は誘わなかった。彼からも誘ってくださいといわれない。きっと、ゴルフ自体が疲れるから、やりたくなかったのでしょう。私が誘ったのがいけなかったのでしょう。

こんな人シリーズ 19-6

23日 勘違いしている? 6

従業員の家で、その日のプアサ明けの食事会をすることになった。土曜日である。彼は車がないのでジャカルタからタクシーで来なければならない。それでも参加するというのは従業員に早く溶け込みたいという彼の意気込みを感じる。それはいいのだが、私との会話が変、「本当は、ジャカルタまで送り迎えしてやれればいいんだけど、悪いね」と私。「ジャカルタ、遠いですから、疲れますよね。タクシー使いますから心配しないでください」と彼。私が疲れるから、遠いから、送り迎えをしないと思っている。私がジャカルタへ前後に行けない理由は、食事会の前にも後にも、ほかの付き合いが入ってしまっていたからで、疲れなど、そんな事は、私の理由にまったくないのにもかかわらず、である。もし彼なら、疲れるから迎えに行く立場でも迎えに行かないのでしょう。

私や、従業員に気を使っての反応ということは分かるような気がするが、これも、基本的に発想がずれていると感じさせられた。私の気持ちを勘違いて自分の感覚でしか発想していない。

その後、そうじゃなくて、こうだからと、理由は言っておいたが、信じるかどうかは本人次第。

こんな人シリーズ 19-7

24日 勘違いしている? 7

仕事の話で恐縮だが、私がアドバイザーをしていた会社で、新しく交代で赴任してきた上司ではあるが、私より十歳若いマネージャーが、この会社の二つの部門のうちの射出成形の責任者をしていて、私が押出成形の責任者らしきことをしていた。彼は押出について素人なので、私が面倒を見るしかないのでした。彼が、ある日、仕事の基本はすべて同じだから、検査の部門を共通にし、特に押出部門専任の検査をおく必要はないと言い出した。私は、二つの仕事の基本は全然違うので、QCも検査員も押出専任でなければできないと言って、専任にしてもらっていた。といういきさつがあった。彼の言うとおり、押出専任の検査員は廃止し、共通になった。

案の定、押出の客先との話しがQCのメンバーは出来なくなった。射出は製品を本社へ送っているだけなので、話も複雑なものはないし、本社の方にも事情を知っている人がいるから問題は少ないし、自動化が進んでいるので、人間の腕というか熟練や第六勘を必要としない。製品の曖昧さが大きく違うのに基本は同じだと、最後は顔を真っ赤くしながら、怒るように主張する。こちらは、引き下がるしかない。

 そして、ある時、その上司、曰く、「太田さん、押出の仕事はなぜ射出のように技術の進歩が進まないの?」と、聞いてきた。答える気になれなかった。だめだこりゃ!!!である。

こんな人シリーズ 19-8

25日 勘違いしている? 8

 私が一時帰国中に自主的に仕事を覚えてもらうために、いくつかの宿題というかテーマを与えた。帰国前のミーティングの時であった。

 夜、何をしているか知らないが、ミーティングというか、私の講義の時を朝にしているのにうとうと、こっくりこっくり、すぐ始まってしまう。

 顔を洗ってこせる。自分から眠いから眠気を覚まそうと工夫をしないので、そうしている。それでも、やはり、居眠り状態が解消されない。逆の立場だったらどう思うのでしょうか。押出の技術の話しですから、其の技術を本当に自分の物にしようとするか、しようと思わないかの姿勢の違いである。

 ご本人、行けと言われたから来た、何をしろとは,なにも言われていない。と、言っている。それでは、最期のテストとして宿題を与えたのでした。

 一時帰国から戻って、宿題の報告を待ったが、一週間後に、どうだったと、こちらから聞いた。「何のことですか、何も聞いていません」だった。たしか、話をした時に何やらノートにメモをしていたようだったので、彼のノートを見せてもらった。其の場所は字ではなく、猿がエンピツで紙に殴り書きをしたような抽象画のような物が書かれていた。居眠りをしながら書いたのだった。だめだこりゃ!!

 すごい人もいるものだと思った。彼は40過ぎた独身だった。

 勘違いでなく、確信犯である。間もなく帰国させた。こんなのしかいないのかよ。

こんな人シリーズ 19-9

26日 勘違いしている? 9

 七年もインドネシア語の学校へ1週間二回通っていてまだ継続中の人がいる。会社から学校まで、30分以上かかる一時間半、勉強するそうだ、帰りが30分で合計二時間半、一週間で5時間を使っている。若い女の先生で、日本語を勉強している大学生のアルバイトだそうだ。現在は三人目だそうだ。ご本人その熱心さを自慢げに言う。

 ところが、インドネシア語が本人の口から出るのを聞いたことが無い。殆ど出来ないのだ。「そんなに通って、出来ないなら、お金も時間も無駄だからやめたら」と言ってやったら、「出来なくてもいい、通訳がついているし、仕事をしている仲間のインドネシア人は皆、日本語が上手だから、」という。なぜ通っているのか、聞いたら、「若い女の子と一緒にいたいから、費用は会社持ち出し」要するに、無趣味の暇つぶしである。時々、土日に誘い出して一緒に食事をしたり、ジャカルタツアーをしたりするそうだ。

 「彼女達の日本語の勉強の手伝いを只でやっているし、こっちは若い女の子と一緒に歩きたいし、ボランティアだよ」

 ちょっと違うと思うが、ま、いいか。続けてください。

 言っていることが全て、本当なら、私と同じ、珍しい清純派だが、本当かな?それにしても、七年いて、インドネシア語が全然しゃべれないことが不思議である。

 

こんな人シリーズ 19-10

27日 勘違いしている? 10

極めつけ、インドネシアでは車を日向に駐車しておけば10分もしないうちに車内は灼熱の暑さになる。当たり前である。車の中が熱い

ある日、新任の私より若い社長さんが自分の車を点検に出しているので、昼食の時私の車で一緒に行ってほしいと頼まれた。勿論、快く引き受けた。

昼になっていざ出発と私の車の後部座席に踏ん反り返って座った。それだけでも変、「私はあんたのドライバーじゃないのだから、普通、助手席に座ってお願いしますというだろう。」

おまけに、「暑いねこの車、エアコン早く効かせてよ、」といいながら、横の窓を全開にした。

ビックリである。私は運転手を使っていないから、普段、決められた炎天下の駐車場に車を置いてある。彼ら、運転手を使っているから、運転手が日陰の本来駐車場で無いところに止めて暑くならないようし、出発の何分か前にはエアコンを聞かせて、彼らが乗る時には車内が涼しくなっている。私は、いつも最初は暑い車に乗っているからこれが普通なのに、涼しい車しか乗っていないので、彼にとってはとんでもない車に乗ったと思ったのでしょう。こちらからしてみれば、勘違いもはなはだしいと思う。まったく、気の毒な人だと思う。言い方も、態度も勘違いである。

是にはおまけの話があって、後日、私が技術を指導している若い日本人が全く同じ態度をとった。彼はその後、はっと気がついたのでしょう。「直ぐ涼しくなりますから、いいですよね」とわけのわからないことを言いながら、窓を閉めた。

この会社の人間は勘違い人間が多い。

こういう人は、もし、車内が暑くなっていれば、インドネシア人の運転手に大きな声で叱りつけるのでしょう。場合によっては辞めさせてしまうのでしょう。

旧日本軍にはこういう人が多かったのでしょう。日本人の傲慢な態度は今もあまり変わらない。真にその国のため、現地の人々のためと思って仕事をしている人は少ない。

非常に残念であり、嘆かわしい。



28日 インドネシアで楽しく暮す 14-1

 安全、安心 1

土曜日は近くのジャバベカでゴルフを楽しんだあと、火山ガルングンというところに行ってきた。バンドンの南、ガルットとタシクマラヤに真ん中に位置する。

この手記は、http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/index.htm

 で。紹介しています。

ココ何年かの日本は決して安全、安心な国とは言えなくなっている。イスラム過激派の自爆テロはないが、わけのわからない、心理的に理解のできない犯罪が急増していて、安全な場所は少なくなっているように外から見える。どこで、何が起きるかわからないから、町を歩く時は周囲を注意しなければならなくなった。日本は大丈夫でしょうか。日本は精神が病んでいるようだ。そういう点ではインドネシアのほうがよっぽど安全です。

それは日本のこととして、インドネシアはどうでしょうか。無差別殺人は聞いたことがありません。精神が病んでいることが原因でなく、貧困が原因の犯罪がおおいような気がする。

他の日本人には安全、安心と思えないだろうことを私はやってしまっているので、あまり、言えた義理ではないですが。一般的な安全安心について書きます。NHKの海外安全情報をたまに見ます。同じことを繰り返しているし、情報が古いし、当たり前のようなことを言っているし、直接、自分の住んでいる地域には無関係なことが殆ど、などなどで、役に立たないと思っている。この番組を制作している人は、ご苦労様です、と、言いたい。

29日 インドネシアで楽しく暮す 14-2

 安全、安心 2

日本の工事現場に“安全第一”の看板が大きく出ています。こちらでも、“Utamakan keamanan”と書かれています。同じ、安全第一の意味です。Safety Firstですね。万国共通です。

日本のトラックの後ろに車間距離注意と書いてあります。こちらのトラックにも

Jaga Jarak”距離を見張れという意味です。

 しかし、その標語がこちらでは全く意味をなしていない。車の事故と渋滞は日本にも勿論ありますが、こちらは、感覚として頻度は二倍、酷さも二倍、だから、四倍の死者と怪我人を出していると思う。物の損失も四倍だと思う。40フィートコンテナがひっくり返っている頻度はジャカルタ、チカンペック間だけでも一日一台ではあります。

その、高速道路を最低毎日朝晩往復しているのです。私は二区間だけですが、それでも二日に一回は道路から飛び出して横倒しになっているトラックやバスに会います。ちょっとした追突事故は事故に入りません。

日本人は是に対処しようがありません。ただ、無事を祈るだけです。事故に巻き込まれた日本人は日本人の比率程度はあるので、日本人だから特におおいというわけではありませんが、私自身、人身事故の巻き込まれたことがないのは、本当にラッキーだと思っています。あわやと、一瞬思ったことは三回あります。これはインドネシアだからではなく日本でも同じことです。

30日 インドネシアで楽しく暮す 14-3

 安全、安心 3

日本人は安全と水は只だと思っている、というのは、すでに一昔前の話しだと思いますが、ここインドネシアでは、両方とも本当に只ではないと最初から印象付けられています。とにかく、水はボトルの物しか飲めません。公共の場所でも家庭でもそうです。水は買って飲む物です。レストランでもお茶が只で出てくるところはありますが、水が只で出てくるところは殆どありません。もし、出てくるなら、その分はメニューの価格に上乗せされているはずです。水の価格も種類によって、場所によってまちまちです。一般的に私たちが町のそこらへんで買うのは600mlボトルです。安いのはやはりスーパーマーケットです。

水は買ったものが絶対細菌など入っていないと思うことは錯覚です。安心できません。しかし、私は信じて安心だと思って飲んでいます。体調や体質にも依るでしょうが、また、飲む時の容器の消毒にも関係あるでしょうが、よく、お腹を壊したという話は聞きます。  知っている人で一番水に気を使う人は日本食スーパーで日本から輸入のボトルの水しか飲まない。歯を磨いたり、口をゆすいだりする時もその水しか使わない。お手伝いさんが食器や野菜を洗う時はボトルの水を使わせる。水道からの水は洗車や植物への水遣りにしか使わない。

 

2008年8月31日インドネシアで楽しく暮す 14-4

 安全、安心 4

 日本食レストラン以外では食事をしない。そこでも、生野菜や生魚は食べない。ちゃんと火を通した物だけしか食べない。道端で買って食べることなどとんでもない話。用心には用心を重ね、是だけ気を使っていれば大丈夫かというと,案外そうでもない。

 そういう人に限って、インドネシアの細菌はいたずらをする。無菌室で栽培された実験動物のように、一旦、出会ったことが無い、それほど強くない細菌に出会ったとき体が対処できなくて、酷い症状になる。

 インドネシアの細菌に侵されて再起不能になった人はいない。私は、何も恐れることは無い、どんどん、現地食に挑戦した方がいいと思う。免疫を早く作ってしまえば、インドネシアの細菌におびえる事は無くなる。ま、人によりけりですが。

 日本食レストランは冷蔵庫を持っている。だから、安心、でしょうか。そうは、私は思わない。調理の道具や食器皿など熱湯消毒でもしているのでしょうか。そこまでしていない。水道の水で洗って、放置して乾かしているだけである。どこが、現地料理レストランと違うのでしょうか。何も違いはしないと思うのだが、日本食レストランなら安心と思っている人が多い。出張者、特にお偉いさんが来た時には、皆さん大変気を使う。年を召した本社の社長さんなどの場合は、万が一でも帰国してから下痢になったなどという報告はもってのほかなので、気の毒なくらいピリピリする。

 

9月1日 インドネシアで楽しく暮す 14-5

 安全、安心 5

日本の食品管理に対するストレスは大変な物だと思う。食品の偽装問題が後をたたない。何処もかしこも信用できない。外国産の食品、食材に対しても厳しいが、ほんの一部しか検査が出来ないのが現状でしょう。だから、輸入業者を信用するしかない。自給率について言われだしたのは何十年も前の話で、いまさら、自給率のことをいっても、対策しても無意味である。

安全保障上問題だ、という人も多いが、いまさら、持久戦もあるまい。戦争もあるまい。外国産を食べればいい。自給率にこだわることが変。世界はみな兄弟の精神で。

ここ、インドネシアに住んでいれば、否応ナシに外国産100%に近い食事をします。チェック体制、そんなものは無いと同じです。それでも、心配な人は日本食材スーパーで調達しますが、これとて、売っている大部分はインドネシア産である。包装が綺麗なだけで、中身はどこのローカルのスーパーマーケットでも同じである。

安心感を少しでも高めようとする考えは、現実を見ていないで、思い込みだけで占めている。無農薬野菜と言ったって、日本ですら信じがたいのに、インドネシアで信じて良い訳が無いのにである。

 

2日インドネシアで楽しく暮す 14-6

 安全、安心 6

交通以外は日本よりインドネシアのほうが安全だと思う。それは、置き忘れたものが落し物として届けられる確率は確かに日本のほうが上だと思うが、車上狙いやサイドミラーをあっという間に持っていってしまう子供たちもいるが、貧困が原因の犯罪である。

セキュリティのシステムは日本のほうが進んでいると思うが、セキュリティを使う場所や人は圧倒的にインドネシアのほうが多い。全ての会社で警備員を使っている。例外は全くといってない。どんなに小さな会社でも使っているといっていい。特に外国企業、中華系企業は厳重である。

何処の工場でも三交替でセキュリティがいる。出入りの車は全部チェックする。社長の車でもトランクを開けてみる。従業員の持ち物も門の手前で、チェックをすることが普通である。ざっとではあるが、効果のほどはしらないが、やらなければ物が無くなることは確かである。

 

セキュリティも完全に信じることは出来ない。彼らは一種の権限を持つわけで、何かを誰かが持ち出すことを見過ごすことも出来るのです。実際、その逆で、従業員が会社のものを持出したり、外部の物の侵入を見てみぬ振りをすることも出来るのである。一般的に、会社で雇った警備員は長くいると必ずそういう誘惑に負けてしまう者がでてくる。近頃は、警備会社から警備員を派遣してもらう会社が増えている。自前で雇うよりは高くなるが、是も信頼できるかどうかである。日本のセコムもおおく使われている。警察や軍でも警備会社を経営していて、派遣業をやっているので、それらを使う会社もおおい。

 

3日 インドネシアで楽しく暮す 14-7

 安全、安心 7

一般的に分譲住宅地は、外国人専用や金持ち専用の高級地でなくても、セキュリティは大勢雇っている。私が住む地域は、一般小金持ち向けの分譲住宅地ですが、分譲地全体のセキュウリティもいれば、その中のコンドミニアムとでもいいますか、一角を所有し貸し出したり売り出したりしているしゃれた名前がついた塀に囲まれた分譲地もある。それぞれ入り口に守衛が何人かいて24時間体制で出入りをチェックしたり巡回したりしている。

彼らとは必ずといっていいほど顔なじみにある。会えば必ず挨拶をする。車が家から出る時に彼らがさしかかれば、誘導もしてくれる。

自治会で、当番制で見回りとか、アパート地域の出入りチェックはあるが、日本にはこういうシステムは全く無いし、警備のために分譲住宅地の管理者が警備員を配置することはまれである。その点、こちらでは全く当たり前である。

だからといって、泥棒に入られたという話をまったく聞かないわけではない。極まれにはある。そういう場合、ひんぱんに起きたりすれば、警備会社を替わることもあるので、警備会社もいとう真剣である。

年金生活者が長期滞在する住宅地も必ずこういう場所になるはずです。

 

4日 インドネシアで楽しく暮す 14-8

 安全、安心 8

ショッピングセンター、モール、デパートの館内、駐車場も含めて敷地内、警備はどうか、何処にも必ず目に付くところにセキュリティはいます。どこにいても、セキュリティが見えなくなる場所はありません。トイレの中以外。

何階建ての建物ならどこの階にもいます。

車が駐車場に入る時、大概、チケットを受け取ります。その時、車のロックをフリーにしてそこにいるセキュリティがトランクや横のドアーを開けてチェックします。もう少し、厳重なところは鏡で車の下をみます。

手荷物、バッグなどは売り場に入る時、カウンターで預けます。そのまま無視して持って入ろうとすれば呼び止められます。スーパーマッケットは100%そういうシステムです。デパートへ入る時はいいのですが、その中のスーパーマーケットへ入る時は預けます。

会計は必ずカッシールと書かれたカウンターで支払います。品物はそこで受け取ります。これは、スーパーマーケット以外です。購入したいものが決ったら店員に請求書を書いてもらいます。それを持って、支払カウンターで支払います。先ほどの店員がその品物を其の場に持ってくれば、そこで受け取りますが、持ってこなければ、領収書を持って、先の売り場に戻って品物を受け取ります。売り場とさらい場所が遠ければ店の中をうろうろさせられます。

完全に、買う人を疑っているし、店員も疑っているシステムです。

5日インドネシアで楽しく暮す 14-9

 安全、安心 9

レストランの支払いは食べ終わったら、店員を呼んで、請求書をテーブルまで持ってこさせます。そこで、伝票を確認し、払います。店員が支払いカウンターへいって払ってきて、領収書を持ってきます。お釣りがあれば、その時わたされます。

日本のように伝票があらかじめテーブルに置かれることはありません。

支払いカウンターにはその店のお金の責任者が座っていて、常に店中を見ています。

日本のレストランチェーン店のように、テーブルにおいていかれた、伝票をもって、帰るとき誰もいないカウンターで店員を呼んで支払うなどというのは、どうぞ、払わないで帰えってしまっても良いですよ、と、言っているようなもの。こちらでは有り得ない話しです。

サービスが良いのか疑っているのか良く分かりません。ときには、テーブルにクルプックというせんべいのような物や袋詰めのお菓子がおいてある場合は自由に食べていいのだが、店員を呼んだときに自己申告です。これは客を信用しています。

ま、インドネシアのレストランで食事をした時は、お金の支払いより、お皿が汚れていないか、サジやフォークが汚れていないか、汚れていれば置いてあるティッシュで拭きます。良く見られる風景です。汚れていなくても習慣で拭いている人が多い。

トイレットペーパーが真ん中から引き出して使える様のプラスチックの容器に入れられておいてある店も多い。

 

6日 インドネシアで楽しく暮す 14-10

 安全、安心 10

経営側の安心という意味で、工場のセキュリティについてすでに触れているが、いても、工場の盗難も多いと聞く、コンピューターが何台か一編に事務所から消えていたとか、プラスチックや金属材料が倉庫からごそっとなくなっていたとか、製品がなくなっていたとか、ボールペン製造会社や化粧品会社など大物でなくて、直ぐ売れる製品です。

長期休暇中、特にレバラン休暇中の盗難は毎年、恒例のように聞く。私がいた会社の例では、プラスチックの原料が5トンほど消えたことがある。結局、セキュリティが見逃したか、手引きをしたかに決っていますが、誰が犯人か、いつなくなったのか特定できなかった。そこで、長期休暇の前には、原料の袋を追跡しやすいように、赤のスプレーを大量に吹き付けた、その上、透明シートで何個かの一トン積みパレットをがんじがらめに巻きつけて一つの大きな塊にした。それ以後は盗まれる事はなくなった。 

私の会社では、その他に、良品の在庫をNG品と入れ替えたり、きれいに梱包してある製品の梱包を外部から傷つけたり、明らかに、嫌がらせの事件が頻繁に起きた。是も、誰がいつやったのか特定できない。そして、これは、内部の人間の仕業なので、いつまた起きるか分からない、忘れた頃に起こるかもしれない。それも、日本の客先で発見されるので始末が悪い。

会社の雰囲気が最大の原因である。労使関係とか、日本人のインドネシア人に対する接し方などで恨みをかうとか、日本人の精神的不安定などが陰湿な嫌がらせを招く。

家族が一緒に赴任していて、金を渡さないと奥さんや子供を誘拐するぞという脅しをかけられた日本人も知っている。しかし、その日本人は、若いが怒りっぽく、私が一緒の時でも運転手をしかりつけていたくらいだから、私がいない時、ほかの人がいない時にはもっと辛らつに怒るだろうなと想像できる。

7日インドネシアで楽しく暮す 14-11

 安全、安心 11

楽しく暮すがテーマだから、不安は出来るだけ少なく安心して生活できることが前提です。大使館の情報や注意は人がおおく集まるところには出来るだけ近づかないこと。と、いうのが必ずある。もちろん、人だかりがしているところに、興味深げにのぞきこみに自分から行く日本人は少ないでしょう。しかし、私は、人だかりになっているところは何かしてしるか、何かあったかの場所ですから、通りかかれば、興味しんしんで何事かと近づいて見たいという衝動にかられます。実際、止まって見るか、中まで入っていくかはその時の自分が急いでいるかいないかによります。時間に余裕があれば、みます。写真も撮ります。これから事故や事件が起きるのではありません。既に起こったことですから、もう安心です。だから、大使館の注意は通り一遍の原稿書きに過ぎないと思っています。

お祭りでも結婚式でも、ワヤンの上演とか、パサールマラームと言って、移動遊園地付きの夜の安物大売出しの集団です。皆、賑やかです。

今、政党のキャンペーンが解禁になって、国会議員選挙運動が始まっています。これも賑やかです。危険を感じたことはありません。むしろ安心して近づきますし、中に入り込みます。無関係の人間でも歓迎してくれて、どうぞ一緒に楽しんでいってくださいという雰囲気になる。

 

8日インドネシアで楽しく暮す 14-12

 安全、安心 12

静かなところで、一人読書とか、アパートのプールサイドで居眠り、時々泳ぐとか、そういう過ごし方もある。

何でもかんでも動きまくって見てやろう聞いてやろうとすることばかりでは精神的に余裕がなくなると、のんびり過ごすことも必要だと思う。

だが、しかし、のんびりばかりしている人は、動けない、動きたくない、の言い訳で言っているにすぎないと思う。やはり、動き回ることができ動き回って、しばし休憩なら、生活の幅は広がるし、楽しみからもいろいろできるようになり、もっと、インドネシアで楽しく暮らすことができるに違いないと確信している。

インドネシアは安全安心だし、住み心地はいい。日本よりはるかに住み心地はいい。

事実、インドネシアで仕事をした人は、必ずインドネシアへ戻りたいと思っている。そして、何割かの人は、仕事が終わっても、何らかの形で、またもどってくる。私もそのうちの一人です。

ただし、その人たちは全員活動的な人達です。

9日 こんな人シリーズ 19-1

インドネシアでの最初の社長さん。

1996年8月 私を含めて七人が何もない荒涼とした、西部劇の決闘場面の砂塵が巻き上がる風景の中にヤギや牛が食事をしている。それを目の当たりにして、絶句した。

これから、工場を立ちあげようと、不安と期待の入混じった気持ちを解きほぐすように、なら良いが、突然の剣幕に飛び上がってしまうような怒り方をする人だった。是には私もびっくり、こんな人が日本人でいるのかと自分の目や耳を疑った。とにかく、震え上がらせるほど、相手を萎縮させてしまうのだ。どんな怒鳴り返し方をしても、負けてしまうだろうと思われる。事実何十人も相手に怒鳴り、一度も怒鳴り返して反発する人はいなかった。それほど、すごい勢いなのだ。

見掛けや普段の話し方は紳士風で、とても、そんな人とは想像できないだけに、怒り顔に変化した時の変化の大きさに飛び上がってしまうのだ。自分が直接、怒鳴られなくても、飛び上がってしまう。

この人と一緒なら、やっていられないと、帰国したいという日本人が続出、帰りたいコールが巻き上がった。私も当然だと思い。日本の社長に現状は深刻であることを伝えた。

運動はまった駄目で、ゴルフのゴノ字も言わない人だった。日常の付き合いの接点はまったくなかったひとだった。

間もなく、短期間で(96年8月~97年3月末)社長交替になった。短期間だった。それでも、その剣幕には私もたじろいだ。

その方の功績は、会社を立ち上げたことである。それだけでも大きかったと思う。経営には向かなかった。

10日こんな人シリーズ 19-2

二番目の社長。海外経験が豊富で、この人も英語が堪能、インドネシアにも出張で何度も来た事があるようで、海外慣れをしていて、おおらかな人だった。海外を怖がらないというか、事件を恐れないというか、もっと危ない地域にいたので、インドネシアは安全だよ、と、悠々としていた。

其れが、臨時で社長を頼まれたような物なので、仕事自体は様子をつかめていない様だった。人を叱ることもなかったが、一番本社を困らせたことは、頼みごとをしても、なかなかはかどらないことだったようだ。もともと、車関係の組み立てラインの立上げの仕事を専門に海外を回っていたようなので、事務的な仕事には不慣れだった。

本社から頼まれたデータや計画書などの書類をまとめるのが苦手な人で、いつも催促を受けていたが、動かなかったようだ。終いには事務所にいなくなることが多く、応接室で何をしているのか知らないが閉じこもって出てこなくなり、朝から晩まで一日中、見なくなることもあった。

しかし、海外でゴルフの経験は豊富で腕前もたしか。1998年の大暴動の時、ゴルフを始めたのはこの人に、ゴルフ友達が皆海外脱出してしまって、メンバーがいないからと、誘われたからだった。

本社の言うことを聞かないので、二年半で交替することになった。私が三年、技術指導をして帰国した直後だった。

11日 こんな人シリーズ 19-3

三番目の社長。1

 若社長だった。彼がいる期間は約7年。会社を安定軌道に定着させた。

本社では主に色々な資格を申請するための事務の手伝いをしていた。株式上場の申請などのための書類を整える仕事である。メインではなかったが、補助的な仕事だったらしい。

最初、7人の中の一人だった。出張で来ていて三ヶ月で初代社長から解放されたくて逃げるように、「二度とこんな所へ来るか」と言い残して帰っていった。その時はインネシア従業員をやはり、どなりつけていた。まさかその彼が三代目として戻ってくるとは思わなかったが、本社の偉い人のお気に入りということと、ほかに適当な人が早く見付からなかったからだと思う。

お手並み拝見と見ていたら、出張の時と人が違ったようだった。これが、以外に何でもかんでも熱心、一二代は英語が堪能で事務所内は英語ができるスタッフで固めていたのでインドネシア語を覚えようとしなかったが、英語で十分以上に会話はできていた。しかし、三代目は英語が全く駄目なので、インドネシア語を自分で熱心に覚えた。私がよい手本になったと思う。私は、英語ができない現場の作業員と話をしなければならないのでインドネシア語をすぐ覚えた。

仕事が遅いのを自覚していて、遅くまで残って本社との連絡資料を作っていた。言葉ができるようになれば、当然現場の人間とも直接会話が多くなり、彼らも親しみがわく。

そんな雰囲気の中で、私も、一緒にやっていた。労働組合ができ、その対応も上手だった。安定期を作った。

12日 こんな人シリーズ 19-4

 

三番目の社長。2

5年経過した頃、交代要員として、候補者が来たが、これが、出来が悪かった。技術畑の人間だが、やることなすこと乱暴、自己中心で、明らかにこちらから見ると間違っていることで、インドネシア人も首をかしげていることでも押しつける。日本本社も彼の評判を聞いて、交代をしないでそのままマネージャーとして残こした。

私の位置は相変わらず、目の上のたんこぶで、三代目お気に入りの本社の偉い人の私への接する態度に変化は無かった。

三代目がインドネシア人と結婚し、うまくいけばずっと社長を続けたろうと思うのだが、奥さんとの関係というより奥さんの身内との関係が非常に胡散臭いものになったらしい。インドネシアはそういうところがあるので、奥さんの身内とは関係をあまり持ちたくない奥さんに当たればいいが、そうでない場合はお金がいくらあっても間に合わないくらい、知らない親戚がいっぱい出てくる。それが、いやになって、日本へ帰りたくなって、希望を強烈に出した。結局、七年社長をやって、私も応援した。

帰国後まもなく、奥さんとは離婚したと聞いている。

明日から、夏休み(インドネシアでは夏も冬もないが)で、19日まで、フランクフルトとインターラーケン、ブリエンツに滞在するので、投稿はできません。

13日 こんな人シリーズ 19-5

 

四代目の社長

これが、最悪で、目の上のたんこぶ扱いで、私を追い出しにかかった。パニック障害にもなり、私は逃げて帰った。

最初から変だと思った。いきなり通訳を雇い、インドネシア語の学校へ通うといって午後三時前には会社からいなくなってしまう。

インドネシア語は全然進歩しない。英語は全くできない。ということは通訳を通して話すしかないから、会話はすくない。誤解が多く、考え違いで、怒りっぽい。全く始末が悪い。営業が専門らしいが、商品知識がない上に、動かない。せっかく三台目が苦労して取った許可、輸入販売できる資格。本社の社長は喜んでいたが、全然、意味をなさない。

三代目が抑えていた、社長になれなかった乱暴なマネージャーのタガが外れた。新社長とともに二人で、従業員にわけもわからないことを怒鳴りまくるようになった。

私は従業員と親しいし、本社の社長や副社長と親しいので、彼らにとっては、まったくの邪魔ものになった。私に対する明らかないじめが始まった。大きな声で私がいる事務所内で、わけのわからない批判を二人でする。雰囲気はインドネシア人に通じる。私を気の毒がるが彼らはどうしようもない。

契約期限が切れる前に、仕事の引き継ぎの模索をしたが、彼らには引き継ぐことはできないし、その意志もなかった。私は放り出すようにしてその会社を離れた。その後は、私のホームページ自己紹介に書いた。

私が、その会社の本社に提案し、道筋を付けた。困っている客先の日系企業や部下だったインドネシア人スタッフへの私の責任上、まもなく、私が、その放り出した部門を引き取ることになります。四年ぶりに責任を果たす再スタートになるはずだ。

しかし・・・

14日 こんな人シリーズ 19-6

四代目の社長 2

キーワードの一つは“なぜはなしてくれないの、そんなこと聞いてないよ。”である。

私がやろうと思うこと、私が過去にやったこと、今はどうか、私の知識、技術、それらの殆ど100%を彼らは知らない。そして、話をこちらからするには一日話し続けても一年以上かかるでしょう。知りたければ、機会を作って聞いたらいいと思う。聞かれれば親切にいくらでも教えてあげます。それなのに、何かの勘違いで私を呼びつけ、怒鳴る。私は、そのことについて、あなたの勘違いですよと、説明する。と、“そんなこと聞いてないよ”とまた怒る。「聞いてないよと言われたって、そっちから、聞かなければならないことでしょう」と、思うが、それ以上、荒げたくないので、気の毒に思うだけである。

もう一つは“私に自分の立場を侵されるのではないかという被害妄想からの敵対心”である。余りにも知識技能が違いすぎて私のやり方を理解できないし、技術的には全く無知のせあいのことなので、手も足も出ない。そのうえ、従業員に対する印象は味方と感じられている。

私が会社をリードするようになっては、立場が危ないと思う。ポジションを乗っ取られたくない。この立場から、出されたら、自分はどうなってしまうのかという恐怖心。

そんなこと心配しなくても、気持ち良く私に任せれば、その人のために何とかしてあげようと、手柄を大きくしてあげようと思う。私に任せれば自分は左うちわで、何にもしなくても順調に利益は上がるし、会社の雰囲気も良くなる、それが自然に、社長のおかげだということになるのだが、そうはいかないらしい。

私が援助している、また、援助した多くお若者のようにである。こういう考え方の欠片も持っていないので、私の心を想像できないし、そうは考えられない人達なので、どうしようもない。一般的サラリーマンはみなさん、そうなのでしょうか。

インドネシアで五代目、ではなくて、現在の五人目の社長をお楽しみに。

 

15日 こんな人シリーズ 19-7

五人目の社長 

ようやく書ける状態に距離を話すことができた。近いと恐怖を感じてかけない。

これも、ひどかった。体は大きいが気が小さい。上に弱く下には強がりたいの、典型的サラリーマン、どうしようもないので、本社の責任者に交代させなければ契約を打ち切ると宣言した位だ。しかし、交代はさせないでしょう。日本で彼と一緒に仕事をする人間はいないからでしょう。彼の性格を本社は承知しているので、日本でが受け入れられないのです。

15年間この会社を支えてきたらしいが、恐怖政治で支えてきたのです。会社は利益を上げなくても本社は何とも云わないし、監査にも来ない。

個人的な費用の流用も、あたかも、安い家に住んでいるようなポーズを取って、実は飲食、交際費と称し、無駄な支出をしている、それがすべて長期ワンマン社長の弊害だが、本社は見てみない振りをしているので、なお、本人調子に乗っている。

プッツン症、会社にほとんどいない。どこへ行っているのでしょうか。お客さんは固定している。新しい客先は私が開拓するだけ、だから、営業に出ているとも思えない。体の不調で休んでいる時もあるようだし、先の奥さんとの離婚話や今の奥さんとの二重結婚などの裁判沙汰にも巻き込まれているし、それだけではそう休まないでしょう。平日ゴルフや平日ショッピングなどで出てこないことが多い。

その合間に会社に出てくる。出てくると、いきなり大声でどなり散らす。

 

16日 こんな人シリーズ 19-8

五人目の社長 2

30m×50mくらいの工場に監視カメラが30台くらいあり、社長室のモニター二台を早回し女性二人が録画を見て、ちょっとでも変わったことがあれば記録をして毎日社長に報告している。いや、毎日ではない。社長は週に三日ほどしか出勤しないし、出勤しても数時間いれば長い方である。なお、カメラを増やす工事が続いていた。病的である。

また、現場で使う金型やジグは事務所内の鍵付きの戸棚にしまいこみ、現場の人がいちいち取りに来たり返しに来たりしている。この往復に使い時間のロスは膨大である。普通の会社なら、一番先に指摘されるロスである。

監視や盗難防止のために貴重なお金と時間を使わせている。会社全体を疑っていて、従業員はいつも疑われていることを意識しなければならない。

以前、組合との関係が険悪になったり、いろいろな盗難があったからだそうだ。当たり前である。この社長の従業員に対する非人間的扱いはだれからも恨みを買う、反発の行動が盗難という形で出たのを本人は気がつかないで、監視だけを強化している。これでは利益が上がらない会社のままでいることも当然である。

私はこの会社から出てしまいましたが、彼のプラスになることだけをしてやるように考えてきたが、彼自身が納得しないのでどうしようもない。この会社に私がいる必要がないと判断し、出ることにした。

 

17日 こんな人シリーズ 19-9

四代目と五人目の社長 

 

四代目の社長と五人目の社長が交渉役になって設備の移転が行われた。仕事を知らない同士、プッツン同士の交渉で、欠陥だらけの結末になってしまった。私は、この移転の仲介役をしたことを悔やんでいる。客先にも従業員にも迷惑をかけることになってしまった。そして、遠廻りであったが、インドネシアのすべての押出し成型を一手に引き受ける会社を立ち上げることとした。

そこで、K社のインドネシア工場をN社の会長に紹介した。N社はインドネシアに工場を進出させたいと計画していたのを知っていたからである。早速、交渉が始まり、話はとんとん拍子に進み、2008 12 01にN社がK社の工場を確認に来イした。私は前日11月30日に計画の詳細をうちあわせた。

不完全な御二人が交渉した結果の状態を正常な状態に戻すために、押出成形から立ち上げる。私も三ライン寄付する。

従業員は、今まで会ってきた中の優秀な人をピックアップして、完全な独占企業にしようと思う。それも、経営者のためでなく、インドネシアの技術力アップが最大の目的とする。

 

18日 こんな人シリーズ 19-9

五人目の社長 2 

こんな短気な人に会ったことがなかった。一人目の社長が短気で往生したが、この社長はそれをはるかにしのぐ短気ぶりである。恐怖を感じる。従業員全員が委縮してしまって、彼には何も提案できないし、頼みもできない。彼が言うがままにやっているだけである。其のうえ、経営的にも技術的にも特別優れているわけではない。もっとも、どちらかでも優れていれば、こんな短気になる必要がない。言って聞かせ、やって指導ということができないので、カッとなるだけである。

挨拶を全くしない。出社してきても誰にも一言も声をかけない。また、従業員と談笑、雑談がまったくない。社長室に直行で、私は最初二か月ほど同じ部屋にいたが、電話の内容を聞かれてはまずいことと従業員を呼びつけて、すごい剣幕で怒るのをみられたくないので、追い出された。

だから、目にはいらなければいつ来たのか、いつ帰ったのか分からない。いない時の方が多いので、たまにちらっと社長室を見て、いるとびっくりする。

そして、監視カメラに異常に夢中、装置移転の見通しが付かない、従業員はやることがない。新規の客先からは心配の問い合わせがある。しかし、ご本人、まったく従業員任せ、30台以上の監視カメラがちょっとでも作動しなかったり、誤作動したりすると、業者を呼んで大騒ぎ。お金も時間も使い方を間違えている。それで、飛びっきりの短気。

この会社のインドネシア人スタッフも何人かは救ってやる必要を感じざるを得ない。