Cover
EssayⅣ

19日 近場にドライブ

SubangBandungの間、バンドンよりのLembangという高原地帯いってきた。茶畑が広がるすがすがしい場所である。Ciaterの温泉、Tangkban purahuの火山と火口。

チカンペックへ向かい、手前でバンドン方面に南進、最初の出口Sadangで降りて、スバンに向かう。45kmでスバンに着く、町に入らず南に迂回しバンドンに向かう。20kmで目的にあたりにつく。

家を出てから、二時間ほどで、周りが茶畑となかにパイナップルの畑になる。左折すればチアトル、まっすぐしばらく行って右折すればタンクバンプラフ方面、なおまっすぐ行って、急な坂道を下りだせばレムバンである。

焼きとうもろこしを食べてしばらく行くとウサギの焼肉の看板が目に入ってので、立ち寄って食べてみた。硬くてお余りおいしくなかった。その場所に“猿の姿に良く似たゼンマイ”が置いてあった。7万ルピア(8百円)で買った。

旅行記はhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage004.html

でどうぞ、珍しい写真が載っています。

 

20日 夜中の10時まで仕事

パニック障害者が仕事をしているのを自慢するわけではないが、発病する前と体の不都合状態が全く違うので、普通の状態ではないのでつらいことは確か。薬を飲み続けているので、だと思うが、(止めてないので確認できない)パニックにはならない。しかし、頭のどことは決った場所ではないが、ぴくっと来て、0.1秒ぐらいの一瞬、めまいをしそうになる、めまいはしない。クラックラッと繰り返す。ひどい時には5秒に一回くらいを10回以上である。そういう時は、じっとしているしかない。最初は気になったが今は気にしない。しかし、何かが止まる。また、薬の副作用なのか、パニック障害の症状の一つなのか分からないが、体や頭が重い、そして常に眠たい。油断すると大あくびをしてしまう。

その状態で、車も運転して遠出もするし、機械の側で、プロファイルのトライもする。フラフラしながら炎天下のゴルフもする。

なぜ、そうするか、動いていないと太ってしまうし、そうしなくても、状態は替わらないと思うから。家でごろごろしていれば、回復するという医者の助言があればそうするかもしれないが、医者も、適度に体は使うように、適度に運動をするように、ということなので、そうしている。しかし、疲れる。(+_+)

20~40歳代の自分の体がうらやましい。

 

 21日 命を削る? 1

本音と弱音と強がり。大げさだがそんな感じもしないでもない。毎日、疲れる。家に帰るとぐったりである。朝、目が覚めて、顔を洗ってもぐったりである。

今まで、こんなことはなかったが、今はしかたがない。慣れるしかない。だからと言って、ぶらぶら、ぐったりとばかりはしていたらまずい。煙草を吸わないし、大量には食べないが、それでもお腹が出てきてしまい、なお動けなくなると思い、普通に仕事をし、運動もする、コンピューターもいじる。

薬をいつまで飲み続ければいいのでしょうか。死ぬまで、飲み続けるのでしょうか。ずっと、疲れた状態でいなければならないのでしょうか。ずっと溜息をついたり、あくびをしたりしなければいけないのでしょうか。いやになってしまう。

くるっと、何かが頭の中を回る、其のたびに目まいがしたような気がする。それが、思い出したように頻繁になると、冷汗が出る。

眠る時間が一番ほっとする。眠ってしまえばなにも考えたい。そして、永久に目が覚めないという心配は全くないので、ただ、何も知らないうちに眠ってしまう。朝起きると、疲れが取れていれば良いが、と、思うが、それはいつも期待はずれである。

 

22日 命を削る 2

炎天かでゴルフをしているとき、こうして何かを書いているとき、現場で仕事をしているとき、人と打ち合わせをしているとき、ふっと、意識が不明になってしまうかもしれないと思っている自分がいる。それは、その状態をパニック障害の症状で何度も経験しているからです。もう、恐怖は全くないから、パニックになることはないが、いつでも、そう思っている。でも、気が遠くはならないことも分かっている。

疲れる、以前に比べれば、はるかに疲れる。何をしていても疲れる。しかし、何かをすることはやめない。

人は、誰もが命を削って生きている。残りの人生は着実に短くなっている。寿命が延びたとか縮んだとかいうが、もともといつまで生きるのか決まっているわけではないから、どのくらい伸びたか、縮んだかは確認できない。もし決まっていても、本人が死んでからでないと決まらないので、本人は確認できない。だから、命が縮む、伸びる云々は意味がない。それでも、人はよく使う。

運がいい悪いも同じことで、死とは、話は別だが、運が良かったから、それだけで済んだかもしれないし、運が悪かったから、そうなったかもしれない。だから、運がいい悪いを、云々も本当は意味がない。それでも、人はよく使う。

 

23日 命を削る 3

前提は、この世にいて、できるだけ長い間、自分の生き方を客観的に観察していたいことです。日本には、インドネシアに比べると早くこの世から逃げたくなる人の比率が多いらしい。最近感じていることだが、私が生まれた時いくつまで生きるということになっていたのかはもちろん知らないが、確実に寿命はその決まっていた年より縮まっていると思う。どうすれば決まっている期間を減らさないですむか、方法を知らないからである。

現在、もう、快適に生きているという体の状態ではなくなっている。加齢が原因なのかパニック障害が原因なのかはっきりしない。薬の副作用かもわからない。これからも、こんな状態がいつまで続くか分からないし、だんだん、悪くなるかもしれない。いや、だんだん、悪くなっていくに決まっている。よくなるはずがない。問題は悪くなっていく速度である。何才まで自分自身で動くことができるか、また、アルツハイマーを何才くらいから自覚するのか、自覚しないで、急にある日から、自分が誰だか分らなくなるのかもしれないし、こういうことを考えると止めどがない。

24日 命を削る 4

タイミングが良すぎるのか悪いのか、一昨日の夕方から、おなかの調子が悪くなり一晩中下痢と腹痛と吐き気と目まいに苦しめられた。下痢が連続で病院へ行くこともできず、昨日の05:00やっと下痢が一時止まって楽になったので、ジャバベカのハラパンインターナショナル病院へ駆け込んだ。入院している。点滴や薬でもなかなか楽にならない。そのうち熱も38℃近くまで上がって頭も体もボーっとしてきた。どうなる事かと苦しんだが、夕方になってやっと下痢は治まってきて腹痛も治ってきた。熱は下がらないまま、昨日は何となく眠った。

パニック障害の関係もあるのでしょうか、頻繁に脳のなかでなにかがくるくる回っていた。夜中に2回下痢で起こされたが前の日よりかなりほっとした状態だった。今朝になって熱も下がっていた。食事もだされたもの半分は食べることができた。確実に快方に向かって安心し、この文章を書いている。

原因ははっきりしない、いつもと同じ食事だった。余計なもの、味が変だったものは食べていない。

明後日土曜日からロンボックへ行く予定にしているので、明日、金曜日には退院しなければならない。

こんなことは何年間もインドネシアにいて初めてのことでした。

25日 命を削る 5

タイミングがいいのでしょう、明日から、ロンボックのリンジャニ山(富士山より50低い)に登るために出発できる。運がよかったのでしょう、具合が悪くなったのが、水曜日以後だったら、キャンセルしなければならなかったでしょう。

しかし、多少、目まいは残っているし、万全の体調とは言えないので、無理をしないで、山の五合目くらいのスナルかスンバルン辺りまで登るか、多くの観光客が訪れるスンギギかギリの海岸でのんびりして体調を回復させるかマタラム(ロンボックの首都)についてから考えようと思う。

そこで、携帯電話の電波が届かなくなれば、何日か投稿を休むかもしれない。

26日 命を削る 6

 昨日、退院し、当初計画したリンジャニ山の登山はキャンセルし、海岸を主体にのんびりすることにして、ここを選んだ。

今、ロンボックのギリ トゥラワンガンに来ている。命を削る速度を落とそうと思っている。天国に一番近い島はバリなのかどこなのか知らないが、この島も案外天国に近いのかもしれない。

 マタランからタクシーでギリ三島の対岸につき、小舟で、一番遠くて大きな島に着いた。ギリ アイルは以前来たことがあったが、この島は初めてである。海岸に船で突っ込んで上陸すると、カフェ通りというかレストラン通りが左右に続いている。欧米人がすべてだ。日本人や東洋人も来るが、まれだと言っていた。

 海岸は澄んでいて大変美しい、サンゴの白砂から次第に真っ青になっていくグラデーションが素晴らしいと思った。

 間もなくバリタイムと同じ17:00になる、今から島を半周して西海岸で、サンセットを拝んでこようと思う。

 26日 命を削る 7

ここ、Gili Trawangangの朝はすがすがしい。波の音と鳥のさえずり、遠く聞こえるボートのエンジン音。乾期で空はあくまでも青い。

昨日の15:00頃から停電になり、結局回復したのが00:00だった。計画停電のようだった。

その間、自家発電で明かりを確保し、レストランやカフェが営業している。昨夜02:00頃まで、けたたましいディスコミュージックが鳴り響き、眠れなかった。

今朝は、その喧騒がうそのように全く静かな世界である。昨晩、騒いでいた連中は睡眠中だろう。

 5時半前に起きて東海岸を散歩してきた。すぐ目の前にGili Manuそして、Lombokの象徴、Gunung Rinjaniがそびえている。その右側からサンライズである。日の出の瞬間、神々しく空を赤く染めた。

 ここにいる、自分は何者かと思う。

昼過ぎにSengigiへ直接、ボートで行く予定だ。

27日 命を削る 8 

昨日、夕方、休養先のロンボクから自宅に戻った。十分に体力を回復し、今朝は、完全に発病以前の体調に戻っている。

Lombokについては私のホームページに写真とともに詳しき記載します。

南の島の青い海と青い空と、静かな波音と、おいしい海産物料理と、降るような夜空の星と南十字星。癒されないはずがありません。退院時2kg痩せていたが、三日で元に戻ってしまった。

出勤し仕事に戻っているが、皆さんから、もう大丈夫かと、声をかけられ、心配していてくれた様子がわかった感謝である。もう大丈夫。

多分、今回も命を削ったでしょう。しかし、何日分かは、わからないし、当たり前だが、わかることはこれからもない。

28日 命を削る 9

子供のころ住んでいた家の便所の大便をするときに座るまん前の木の壁に鉛筆で、“この世に中”と書いてあった。物心付く前から書いてあったと思う。おふくろや親父にそのことについてだれが書いたか何度も聞いた。どちらかに違いないし、それぞれが知っていたはずである。両親とも達筆だったから、文字では判別できない。そのトイレを使った約40年間消えかかれば誰かがなぞって修復していたので、消えることはなかった。まだ、その木造の屋外便所は残っているので、今住んでいる人たちが使っているはずだ。私が使わなくなって20年過ぎた。まだ、残っていると思う。

この世の中は何なのか、意味深長でわからない。何十年も便座に座るたびに思った。おもわされた。書いた本人はどんな狙いだったのか、とにかく、眺め、続けさせられた。高校まではほとんど毎日、大学へ入ってからは家に帰る度にであった。

体力的には不満だが、まだ、その、この世の中にいる。

29日 命を削る 10

 

目の能力も落ちてきた。製品の厚さを0.1mmの違いが何十年も見ただけでわかったし、20mm以内の寸法なら、0.1mm単位で言い当てることができた。しかし、今はできない、ぼやけて見えないからである。焦点が合っていて見えればわかるが、合わなくなっている。眼鏡をしても、焦点が合わない、自分の目が自動的に焦点を合わせることができなくなっているのだ。顔の距離を調整して焦点を合わすしかない。

仕事をしていて、歯がゆい。以前なら一瞥してOKかNGか分かったものが、判断に時間がかかる。重要でないと思うといい加減になってしまう。

不思議に遠くはみるようになった。テレビを見るときは眼鏡が必要ない。車の運転も必要ないが、免許証の写真は眼鏡をしているので、日本で運転する時は眼鏡をする。200m以上飛んでいるほかに人のゴルフボールもはっきり見える。

それと、目が乾くようになった。涙の分泌量が少なくなっているのだと思う。60歳位を境に、目が乾いて痛むようになった。車の冷房の風向きが気になるようになった。目薬をいつも持っていて、機会があるごとに、使っている。その時はすっきりするが、また、しばらくすると、まばたきを自分で意識してやるようになる。コンピューターをいじっている時と運転しているとき、現場で、溶融樹脂を冷却金型の通すとき、特に感じる。

 

2008年9月30日 命を削る 11 

唾液の分泌が少なくなってきた。喉が渇く、口の中がいつもネバネバする。話をしたり、歌ったりするとたちまち口の中が乾いてしまう。会議中や人と話しているときには必ず水を用意しておく。飲みながら話さないと、舌が絡まったり、口の両端から粘度が高くなった液体がはみ出てきて、話しにくくなる。

これも、加齢が原因だと思うのだが、手や足や腹筋がつる頻度が多くなった。運動をした後や運転を長時間した時は当然だが、何もしていないときでも、足の裏や太ももがつってしまう。年のことを考えろよという、警告だと、他人は言うが、納得がいかない。

それにしても、パニック障害と診断した医者、曰く、何十年もひた走りに走ってきた、それも、他人より多くのことをやってきた。いったん休憩しなさいとの警告と考えて、一年や二年ゆっくり、休養しなさいということですよ。と。

体全体が、若い時と比べ物にならないほど不自由になっていり事をつうかんしながらも、一年半弱の休養で、また、若干ハードな仕事の世界に戻ってしまった。

 

1日 命を削る 12       

削る命がある限り、削り続けなければならない。当たり前の話である。まだまだ、当分はこの地で仕事をしなければならないと思っている。責任がある限り、目標がある限り、それらを一つ一つこなしていく必要がある。

元気ではないが、他人から見ればまだまだ元気に見えるでしょう。見栄をはって、できるだけ意識して猫背を伸ばして歩きたいと思う。

それにしても、若者から見れば、私は年老いた人間に見えるに決まっている。会社の従業員も私が直接、金型をセットしようとすると、私がやるという。私は、彼らのセットでは心配だから、肝心なところと思った場合には自分でやってしまいたい。しかし、そういう場合は、私が引っ込まなければならない。口は出させてくれるが、手を出させてくれない。

最近、この会社に来てそういう場面が多くなった。やはり、外見も年相応になっているのかなと思う。KITAGAWAの人間が移ってくれば、なお、手出しができなくなるだろう。口も出させてくれなくなるかもしれない。8月末の予定らしい。

それが、世の流れだろうと納得しようと思っているが、(_)!!

 昨日、NHKで山梨大学の渡辺政廣君が燃料電池の話をしていた。ファイトが湧いた。

2008年10月2日命を削る 13(終回)

“その時は彼によろしく“という長澤まさみの映画をインドネシア語の字幕付きで鑑賞した。お手伝いさんのマリアさんが泣いてしまった。

来週、土曜日には孫たちに会いにドイツへ行く。ファミリーでスイスの山歩きを楽しんでこようと思う。インドネシアの国内旅行だけでは、物足りない。

孫を連れて、時にはおんぶし、時にはだっこし、ユングフラウ辺りを歩き回る予定だ。今回で三回目になるが、天気に恵まれることを期待する。

ここで、命が削れる速度が、ゆっくりになるかもしれない。何もかも現実から離れ、人間関係や仕事のことを忘れ、ゆったりと自然の中に溶け込みたいと思っている。

ジャカルタからフランクフルト経由でミュンヘン、17時間のフライトである。しかし、往来可能な、天国への旅だと思うので、何でもないことだと思う。

この会社は、前にいた会社とあらゆる点で違う。良し悪し、好き嫌いは人によるでしょうが。

1 まず、大きな違いは、自分の会社も商売相手と競争相手がインドネシアにある会社である。いわゆるEPTEではない。方や今までいた会社はEPTEで外国企業扱いである。売り先の大分は日本本社か周辺の支社であり、インドネシア内で競合しようがない。

2 1がすべての理由になるが、日本人の動きが違う。早く出社し、遅く帰る。一方はゆっくり、出社し、15:00にはいなくなる。

3 従業員の多くは日本人より早く出社し、日本人より遅く帰る。一方は、時間通りに出社し、退社する。

4 土曜日曜も多くに従業員が出社する。一方は、押出部門が忙しいときだけ出社するが、原則として残業はなし。

5 雰囲気がいかにも製造業でざわめいている。一方は活気が感じられない。人や車の出入りが少ない。

6 

 

2008年10月3日 こんな人シリーズ 20-1

勘違いしている 11

ロンボック島マタラム空港からの帰り、窓側の席を頼んだが空いていなくて、両側三席、ABCDEFEに座った。F席には一見紳士風で眼鏡をかけ、(インドネシア人では珍しい)韓国の有名俳優に似ていないこともないという好青年風だった。以前、パプアからの帰りに酷い目に逢っていたので、今回は大丈夫だろうと安心した矢先、靴を脱いで、靴下は履いていない、裸足の足で胡坐をかいた、当然、その人の左ひざは私のほうに大きく出っ張ってきている。

続いて、新聞を大きく広げて読み始めた。左腕の肘が仕切りの肘かけに乗っているので、当然、新聞をつかんでいる左手は私の目の前に来ている、私も新聞の左ページを読める状態で、その人は右ページをじっと呼んでいる。

全く、私のことなどお構いなし、そのうち、右手を新聞から放して、鼻くそを掘り始めた。その鼻くそを新聞にこすりつけて遊んでいる。

約、一時間半、ずっとドッキリカメラの放映を見ながら、隣の人に対し、いらいらしていた。私がドッキリカメラで写されているのではないかと思うくらいだ。

以前も席としてはおなじような状態だったので、これからは国内線に乗る時はできるだけ早く空港についてAFを確保したいと思う。

こんな人シリーズ 20-2

勘違いしている 12

 先日、ロンボクでの話。スンギギ海岸のある中国人経営の海鮮料理屋で食事をした。海岸側へオープンテラスになっていて、各テーブルにはローソクで明かりが取ってあった。雰囲気のいいレストランだった。客はツアー客でなくフリーの欧米人だけだった。英語、フランス語、ドイツ語が聞こえてくる。日本語は聞こえてこない。

隣のテーブルはドイツ人の四人家族、両親と娘さん二人。親は50歳位でしょうか。その向こうのテーブルからもドイツ語が聞こえてくる。どういう組み合わせか、40歳代くらいの男性三人と女性一人だった。その中の男性が、地元の物売り(バティックの服など)

と親しげに笑いながら話をしていた。インドネシア語も多少話せるようだった。

 そんな状態で、和やかな雰囲気で食事を楽しんでいた時、突然、その男性の方向から、何やらウエーイター激しく怒っている声が聞こえてきた。どうも、アヤムゴレン(鶏のから揚げ)が小さいか少ないかで怒っているようだった。其のうち、そのドイツ人男性、ウエーイターでは、話が通じないと思ったのか、立ち上がって、その皿をもって、調理場の方向に向かっていった。店主(中国人)を呼んでいるようだった。そっちの方向から、大声が聞こえてくる。そしてその男が戻ってきた。何やら、まだ、怒りが収まらないらしい。大男が起こっている姿を見かねて、隣のテーブルの奥さんの方が、その男に向って、何やら言い出した。旦那さんが止めようとしているが奥さんは言い続けた。言われた男も同じドイツ人である。

 そんなことで、そんなに怒らなくてもいいでしょ。と、言っているような雰囲気だった。

こんな人シリーズ 20-2-1

勘違いしている 12-1

 同行したマリアさん、「太田さんなら、運動を良くしている田舎の鳥は筋肉質で肉が少ない、と、冗談を言って終わりなのにね」といっていた。

 そのドイツ人、他のドイツ人からもたしなめられたが、それでまた、興奮の材料になってしまったのか、また、調理場の方に行って、何やらどなり出した。

 店主は、危険を感じて呼んだのでしょう。そのうち、警官が二人でやってきた。警官も何のことやらわからなかったようだが、あまりの剣幕なので、両腕を抱えて、店の外(表の通りのほうに連れ去った。連れの三人も出て行ってしまった。後で、お金を払ったのかどうかは確認できない。

 彼は、雰囲気ぶち壊しである。多くの他人がいるにもかかわらず、料理の鳥が小さいからといって、怒りまくるとは、あきれたものである。同じドイツ人も恥ずかしい思いをしたに違いない。隣に座っていた奥さんの気持ちはよくわかる。もし、日本人が同じように怒りまくっていたら、私も黙ってはいられなかったことでしょう。

 第三者の私としては苦笑いするしかなかった。

 そこで、私は海鮮料理やにも関わらず、イフミー(かた焼きそばシーフード)を食べた。

 

 

こんな人シリーズ 20-3

勘違いしている 13

製品の試作のときに、条件を何種類か変化させ、最良品と条件を見つけようとした。サンプルは5種類。製造部門の図面描き担当者が、時間が空いていそうなので、分析を頼んだ。本来は、金型、製品、工場レイアウトなどの図面を、オートキャドを使って書いている。だから、自分が書いた図面通りに金型が出来上がってきたか、いつもチェックをしている。

寸法には大変うるさい部門のはずだ。期待した。結果はどうだったでしょうか。データが公差から外れているにもかかわらずOKとして提出してきた。それを見ながら、本人に公差から外れているからNGでしょ、と言ったら、そうです。という返事。なぜ、OKにしたのか、客先にこのデータとサンプルを送っていいの?と聞いたら、返事は、「だめですね」だった。会話になっていない。

私自身が、その製品の寸法を測ってみた。そうしたら、彼のデータと全く違う数字が出た。すべてOKの範囲に入っていた。

ノギスの持ち方、使い方を知らなかった。これでは検査、チェックは任せられない。よくこんな人間が重要な仕事を任せられているなと思う。

気の毒だが、残念ながら、この子には今後、仕事を頼めない。

こんな人シリーズ 20-4

勘違いしている 14

会社を辞める時、普通、誰でも、次の仕事を考える。それが、仕事を閉鎖する時、従業員には、辞めてもらうが、その辞める条件だけ示して、さあどうしますかと聞いている会社がある。全くの勘違い。自分がその辞めてもらう人間の立場に立ったら、どんな情報が欲しいか考えればすぐわかること。無責任を絵にかいたような見本のような話である。

辞めさせられる側の一番重要な点は、その後の仕事のことである。その情報を流すとか、その後の受け入れ先の面倒をみるとか、当然、経営側は示さなければならない。やめる条件と次の仕事の条件が同時に示されなければならない。

十分かどうかは分からないが、会社を整理する場合や人員を削減する場合は、どんな会社でも次の職の条件を示しながら相談や紹介をするのが当たり前である。それを、しないで、辞めさせるときの退職金をこれだけ出すから、辞めろ、というのは横暴極まりないし、常識に全く疎い経営者である。気が利かない、知恵が回らない経営者である。

その人だけの人間性の問題でなく、会社全体の信用問題になりかねない。

プアサ

インドネシアの人たちはすでに意識をし始めている。

約10日後にはプアサに入る。断食月である。イスラムの人には怒られるかもしれないが、この時期に皆さん太る。全然ダイエットにならない。というのは、昼間飲食をしないが、早朝、夕方から夜に、普段より多く、また、御馳走を食べる。その上、昼間の動きが少ない運動をしない。太るわけである。インドネシアの人たち自身も其れは承知している。

長期休暇の前の年中行事と思っている。

また、断食が終わればレバランの長期休暇、その間は親族と共に、昼間も夜も飲んだり食べたりする。太るわけである。

難行苦行を共有のはずが、その逆のような気がする。飲み食いして、どんちゃん騒ぎ、インドネシアのイスラムは明るく楽しく過ごすのが楽しみの人が多い。これで同士意識を高めるのが目的。良いことだと思う。

私も、期間中に何回か、夕食会に招いたり招かれたりする。親睦を深める良い機会になる。イスラム原理主義の人たちは苦々しく思っているでしょうが、インドネシアのイスラム教徒のほとんどはラマダン、レバランを楽しんでいます。

 

インドネシアに入国する場合は出国の航空券が必要です。

あるところで、インドネシアへ渡航する場合は出国のティケットが必要か?というテーマで、もめていた。挙句は、どこかの本にかいてないからだとか。次第に険悪になっていって、面白かった。

インドネシアでワーキングビザを持っていて、パスポートにマルチ、リエントラー パーミットのスタンプが押されていて、KITASという身分証明書を持っている私は、インドネシアでから、どこの国へ出国する時でも航空券を往復で買いますから、たとえば、成田から出国する場合にはボーディングパスを受け取る時、片道航空券しか提示しません。

必ず、そのことをチェックされます。パスポートをめくって、インドネシア人と同等扱いになっていることを確認されて、OKになります。これは私がインドネシアから出国して訪問した国から出国するときは必ず確認されます。シンガポールやクアラルンプールへ何回も行っていますが、必ず、片道航空券ですから、ビザをチェックされます。先日もミュンヘンでもビザについて尋ねられました。

インドネシアに入国する場合は一般的には外国人は出国のティケットを所持していなければなりません。そしてそれは搭乗券カウンターでチェックしています。

どこへ行く場合でも、どこの航空機を使おうが、航空券を片道で買ったら、高くつくのではないでしょうか。帰りの日がはっきりしないときには、割高になるでしょうが、変更できる航空券にすればいいのでしょう。

インドネシアで仕事をしている多くの日本人は日本で労働ビザを取らないで、往復航空券を購入して、30日短期滞在ビザで入国し、一か月以内にシンガポールへビザを取りにゆきます。シンガポールから出国する時は片道航空券ですがビザを習得しているので、問題なくインドネシアに戻れます。日本から持ってきた帰りの航空券はキャンセルします。

 

 

 パニック障害

 

  数カ月前くらいから、なんらかの原因が解らない身体症状が突然出てくる、しかも、突然であり、体の各部に出てくる、たとえば突然息がしにくくなる、突然胸がむかつく、それで内科に行ったけど解らない。かと思うと車の運転中に突然目が回り、息が苦しくなる。

めまいと思っていろいろな科に行ったけど、原因が解らない。耳の奥が原因ではないかと耳鼻咽喉科を勧められたりした。

 

 自律神経失調症と言われたけど、ただ不安でたまらない、しかもそれが絶えず起こるような気がして毎日が不安である。

パニック障害は、ある日突然、めまい、心悸亢進、呼吸困難といったいろいろな症状とともに

激しい不安が発作的に起こる病気です。

医師の診断を受けても身体的にはどこも異常なところは発見されません。ですから、従来は、専門医からは不安神経症とかうつ病と診断されることが多く、一般医からは自律神経失調症、心身症、心臓神経症、過呼吸症候群、心室性頻脈、狭心症、メニエ-ル症候群、過敏性大腸炎、と診断されていることが多いようです。

 

この症状は決して珍しいものではなく、日本でも、ストレス社会を反映して、

この様な不安障害にかかる人が多くなっています。

パニック障害は100人に1人ぐらいの割合で起こると言われている病気です。

欧米諸国では男性1人に対し女性が2人以上の割合で発症するといわれていますが、日本では男女ほぼ同じくらいの割合で発症しているようです。発症年齢は男性では25歳から30歳位にピ-クがあり、女性では35歳前後の発病が最も多くみられると言われています。

 

不安神経症と呼ばれていた頃のこの病気の「本態」は身体の疾患ではなく心の持ち方で生じる病気と理解されていたようです。

しかし「不安神経症」のうちある特定の人達の症状は薬物療法により、たいへんよくコントロ-ルされることから「パニック障害」という病名が新しく与えられました。

 

  一般に強い不安にかられた時や急に恐ろしい目にあったりすると、心臓がどきどきしたり気が遠くなるように感じます。あるいはこれをめまいとして感じることもあります。不安を覚えるには私たちに日ごろ心配な事があって、それが気になっている時ですが、いろいろな気掛かりが全く意識されてないのに、いきなり理由なく不安発作が突発するものです。そのうち、特に強い発作があるとき、つまり不安発作をパニック発作、ともいうことがあります。理由もなく激しい不安発作に襲われ(不安発作、パニック)動悸や頻脈なども伴う(自律神経の障害もある)

  日ごろ私たちはいやなこと、からだや人間関係、仕事などでストレスがあります。それを抑圧するという心の働きで無意識の中に追いやられて過ごしていますが、状態で何かのきっかけで加わると、不安の情動が不意に現れることがあります。

 

  不安の情動は不安感と恐怖として自覚されると同時に体の中に激しい変化をもたらし、自律神経系や内分泌系のバランスを崩し、それにともなって身体症状が出ます。

 一度体の変化を起こすとそれに伴う恐怖感が一層不安の情動をかきたて、あたかも癖のように不安、不安から来る発作、それを怖いと思う不安、また発作と繰り返します。

 

 さらにめんどうなことに、発作がない時にも落ち着きがなく取り越し苦労をして心身ともに緊張した状態が続きます。持続性の肩凝り、動悸やいわゆる不定愁訴として出てきます。

それが不安発作(パニック発作、パニック障害)と言われるものです。

 

   ただこれを完全に鑑別するには、本当に自律神経失調症やホルモン異常がないか、それを崩す疾患がないかということも調べないといけません。逆に病的な状態が体に出て、それが解らないままその病的な状態の発作から不安になることもあります。

 

  例をあげると自律神経失調症、(これは結果でもありますが原因でもありえます)身体症状なら、褐色細胞腫や甲状腺機能亢進症などのホルモン系、または薬で神経系に影響を副作用として与えるものまたは神経精神疾患です(てんかん、うつ病など)

その区別はやはり精神科神経科ですが、ただ、眩暈だけで、来る場合がありその時にとても不安であることも訴えてみることでしょうか。ほかに日常にもめまい発作がなくても絶えず落ち着かないこと。

 

2008年10月4日 インドネシアで楽しく暮らす 15-1

斜めからインドネシアを眺めよう 1

インドネシア人は幟や旗を掲げるのが好きだ。なにかと横断幕やのぼりを掲げる。独立記念日の一か月前から過ぎても10日程はどこもかしこも旗だらけ、うんざりする。旗売り,幟売りがあちこちに現れる。車に小さい国旗を付ける。シャレなのか日本人の臆病な人は自分の車にもインドネシアのミニ国旗を付けさせる。そして、安心をする。

インドネシアには政党が30以上ある。これでも、だんだん、少なくなってである。これが、また、旗を掲げるのが好きで、競うように町のどこにでも政党の旗を取り付ける。高速道路沿いの塀に5m間隔ぐらいでつける。他も負けずとその間に付ける。道の両側は旗だらけである。田舎のどこへ行っても必ずどこかにまとまって政党の旗が掲げられている。ここは、私はこの政党の支持をしている、ということを世間に知らせて、皆さんと同じです、と、行っているようだ。

何かの催しの前にはその会場から1km周辺には幟が掲げられる、たとえば、工場建設の着工式、会社名が書かれた幟で、道案内になる。一夜にして、何百本が掲げられ、終われば、一夜にして消えてしまう。

この旗、幟のためにどれだけの布、生地が使われているでしょうか、処分はどうしているのでしょうか、もったいないと思う。

5日 インドネシアで楽しく暮らす 15-2

斜めからインドネシアを眺めよう 2

道端の排水側溝、道ができたばかりや、排水溝を作ったばかりは排水の効果はあるようだが、その水はどこに流れるのでしょうか、どう見てもどこかに流れていって最終的には小川に注ぐようにはなっていない。側溝がつながっているとは思えない。だから、水があふれれば一番低いところから道が冠水し始める。

また、日本のように町内会のようなものが溝の一斉清掃はしないから、どんどん、側溝は浅くなり塞がってしまい、まったく見かけだけになってしまう。それでも、その場所の人たちは側溝の掃除をしない。もう、そのままである。

雨季になれば、そこら中で、排水できずに水がたまってしまう。要するに作るだけで、あとのことは誰もが、どうでもいいという考え方だ。

道端のあちこちに小さい水たまりができる。その水はどこにも流れず干上がるまで、池である。ボーフラの住処になる、そして、デング熱が蔓延する。それでも、側溝は塞がったままである。

 

6日インドネシアで楽しく暮らす 15-3

斜めからインドネシアを眺めよう 3

交通信号は警察官が付いていれば守る、警察官がいなければ守らない。じっと、待つことができないのだ。前が空いていれば赤でも何でも止りたくないのだ。

 日本なら、いったん停止という習慣があるが、こちらには全くない、というか、絶対に止りたない、そのまま進んでしまいたいという心理が優先である。脇道から広い通りに出る場合見通しがよくて、車がさしかかるのが見えても、必ず侵入する。止まってくれれば儲けもの止まらなければ自分が止まるという考えだ。一種の脅かしをかけるのだ。

そのくせ、逆の場合は、その脅かしに負けてはならないと考えて、絶対、側道から車が脅かすように出てきても速度を緩めたり止まったりはしない。勝負どころと思うのでしょう。

車がつながっている駐車場などで、脇から、その列に割り込もうとしても、絶対、列の車は進入されるのを拒否する。車間距離をぎりぎりまで詰めて、割り込む隙を作らないようにしている。割り込もうとする車は、少しずつ、前に進んで、少しでも隙間ができれば入り込もうとする。その競り合いは見事なものである。日本人やドイツ人の運転の様子とは全く違う。

頑張るところが違うじゃないのと言いたい。

 

6日 インドネシアで楽しく暮らす 15-4

斜めからインドネシアを眺めよう 4

こちらの交通信号はすぐに壊れて機能しなくなる。直してもすぐ壊れる。機能している期間は非常に少ない上に守らない。信号は人を迷わすだけだ。赤で待っていれば、後ろからクラクションを鳴らされ、早く発信しろと催促されるし、青信号で前が詰まっていて交差点内が空いているときは絶対に侵入してしまわないとパッパカパッパカならされるか、後ろの方の車が追い越して空いているところへ入ってしまう。それも怒ったような、乱暴な運転で、である。

信号がない方がよっぽど迷わない。自己責任でどうにでも判断できるからである。

信号がない交差点やあっても機能していない交差点には、その辺りに澄んでいる人でしょうか、交通整理をする。小遣い稼ぎが主である。彼らもいない方がいい時の方が多い。

ただし、卍固めのように車が交差点内で解れなくなってしまったとき、そういう人が必要だ。また、そういうときが多い。とにかく、空いていればどちらの方向からも車を突っ込んでくるからだ。対向車があろうと赤信号だろうとお構いなし、半分面白がっているのではないかと思うくらいに、隙間隙間に割り込む。

 私も、負けないぞと、かなり、意識してしまう。

7日 インドネシアで楽しく暮らす 15-5

斜めからインドネシアを眺めよう 5

家の前にいる人が多い。小さな店にテレビが置いてあって、外からテレビが見えるようになっている。店番はテレビを見ている。近所に人でしょうか、遠くから来た友人でしょうか、家族でしょうか、一緒に見ている。また、店の前には縁台ではないが、何人かが座れる。低いテーブルのようなものが置かれてあって、其処にすわって、表を通る人を眺めているのでしょうか、何も見ていないで、うつろな目をして、かがみこんでいるだけなのでしょうか、じっと、している人がいる。チェスをしている人も多い。それを見ている人も多い。

家の中で、テレビを見たりゲームをしたり、趣味のことをやったり、ということはないようだ。とにかく表通りに面した場所に場所を見つけて、出てくる。たむろする。買い物を近所の店で済まそうと思って、通りへ出ると、すぐに多くの視線を感じる。歩いて進むに従って、次々と新しい視線を感じる。中には、ミスターと言って声をかけてくる人もいる。以前、話をしたことがある人などは、俺はこの日本人とかなり親しいんだぞ、と、周りに誇示したいかのように、やたら親しげに話しかけてくる。なんというか、めんどうくさいというか、うさんくさいというか、相手をしたくないが、そう、冷たくも出来ないので、しょうがないから、愛想笑いぐらいはして通り過ぎる。

 

8日インドネシアで楽しく暮らす 15-6

斜めからインドネシアを眺めよう 6

小物の日用品の小さな店がやたらと多い。屋台にちょっと毛が生えたような店だ。飲み物と石鹸やシャンプーや洗剤など、タバコ、安っぽい化粧品、子供が群がりそうなスナック類。店の面積はせいぜい二坪、商品は一坪くらいの場所に立体的に置かれている。許可されているのかどうか知らないが、ちょっと家並みが途切れた場所の二三坪の掘っ立て小屋を建てて、店を開く、其処に寝泊まりもする。電気はないので、灯油ランプで明るくしている。今でも、インドネシアは文字通り、灯油は明りのための油である。

私も、以前、タバコが切れたときとか、今はもっぱら、ゴルフ場の手前で、水を買う。ゴルフ場で買うと三倍くらいするからだ。

自分の家が通りに面していれば、資本金は2~3ジュタ(約3~4万円)で商品をそろえられるので、その気になれば、誰でも店を開ける。儲かるかどうかは場所によることは確実である。

近所に店がないこと、学校や病院など不特定多数の人が前を通ること。とにかく子供の数は半端じゃないので、子供に人気がある店は繁盛する。

 

9日 インドネシアで楽しく暮らす 15-7

斜めからインドネシアを眺めよう 7

だいたい、多くのこういう店の商品は、いつ仕入れたものでしょうか、すべてホコリをかぶっている。ショウケースに入っている商品は汚れていないが、ショーケースが埃をかぶっている。細かい砂がかぶっている。例外なく掃っても掃っても、すぐ積もるような道路事情のです。

缶の物は洗ってからでないと直接口をつけられない。ストローが必ず付いてくる。ソフトドゥリンクは一般的に缶や瓶からストローで飲む。

もっとも、こちらの人は埃を気にしないので、ストローを使わないで、ちょっと吹いただけで直接飲む人も多い。

仕入れはどこからするか、マクロやカルフールからする。籠いっぱいに買っている人が多くみられる。明らかに自分の店の商品を仕入れていることがわかる。石鹸や洗剤、生理用品、ソフトドゥリンク、ティッシュペーパーなどなど、みなさん、その値段に20%ほど乗せて売っているのです。水はスーパーで日本の卵のような役割で、客引きのためにただに近い値段で売っているときがある、そういうときを狙って仕入れる。

私たちの感覚からすると水ボトル一本が2000Rpだろうが5000Rpだろうが、あまり、値段を意識しない。買いたいとき、其処にある店で買うという感覚だからだ。

 

11日 インドネシアで楽しく暮らす 15-8

斜めからインドネシアを眺めよう 8

先週、日本人の若者で、初めてゴルフ場でゴルフをするという人と一緒に回った。自分はうまくないがそれでも、他人に迷惑や不快感を与えるようなことはしていないと思っている。最低のエチケットは心得ているつもりでやっている。

ところが、ご本人、ドライビングレンジは三回とか、合計300球しか打ったことがないとか言っている。空振りは多いし、チョロもおおい。それでも、走るということは絶対しない。大変な迷惑を私たちに掛けているのに、一緒に回った私に何の声もかけないどころか、終わってから、キャディにチップを渡すもんですかと聞いてきた。途中で、あなたのキャディは他のキャディの何倍も仕事をさせているのだから、チップを弾まないといけないねと言ってあって、本人、うなずいていたのに。

インドネシア人と一緒に回ると、上手下手は関係なく、特権階級意識が、見え見えの態度でやる。キャディをとにかくこき使う。自分でボールは絶対拾わないし、置きもしない。びっくりしたのは、たまたま、会社の上司がほかの組で回っていて、見つけたとき、走り寄って行って、ペコペコ挨拶を繰り返していたことだった。戻ってきたとたん、飲んでいたポカリスエットの缶を投げ捨てた。注意したら、キャディを怒鳴りつて拾わせていた。

 

12日 インドネシアで楽しく暮らす 15-9

斜めからインドネシアを眺めよう 9

会社の真向かいで、工場の建設が始まった。某建機、フォークリフトなどの製造日系企業の工場を、某K建設が工事を始めた。いきなり、杭打ちが始まった。重いものを扱う関係でしょうか杭の数が半端ではない。三週間、三台のくい打ち機でトンカン、トンカンやっているがまだ半分ぐらいでしょうか。

杭を打つ時に油の煙が上がる、それが風に乗って周囲にばらまかれる。日系企業でもインドネシアでは周囲からクレームが付くまで、断りも、挨拶もしないのが常識らしい。建設会社はくい打ちのたびに周りからクレームがつかないように、また、ケレームが付けられたときどう対応するかは、経験豊富のはずである。しかし、何の音沙汰もなく突然、油煙をばらまいて知らん顔をするらしい。

車は黒い点々がへばりついて、洗っても落とせないし、白い建物にも同じように黒い油がこびりついている。日本なら住民のクレームで大問題になるところだが、インドネシアでは、建設会社の日本人も交代が激しく、知らない振りをして通り過ぎるのを待つのが常識らしい。

 

13日インドネシアで楽しく暮らす 15-10

斜めからインドネシアを眺めよう 10

どの会社でも朝皆さんが出勤する時間や会社から帰る時間に軽食屋さんが現れて、金網越しというか塀の隙間から従業員に売っている。会社の裏(オフィスから遠い場所)で、特にそういう風景を見る。そこで、大体、どの会社でも、金網や塀に屋台の売り込み禁止という看板が吊るされることになる。

シウマイ、ゴレンガン、ミー類、ナシ類のカキリマである。どこから現れるのか、湧いて出てくる。工業団地の外から、屋台を引っ張ってやってくるのでしょう。

工業団地外の工場の正門の前の一般道路には必ず、食べ物を売る屋台が何台も来ている。昼時になれば、まるで、日本のお祭りや花火大会などのように賑やかになる。車で通りかかれば渋滞に巻き込まれることになる。

十何年前から今も、お弁当を作って持ってくるという習慣は無いようだ。“ほっかほっかベントウ”という。日本食もどきのレストランチェーン店がはやっているのだから、その意味を知れば、少しは弁当を持って繰り習慣が芽生えてもよさそうなものだが、風土的に家庭料理という習慣は薄いので、料理をできる女性が少ないと思う。

 

14日インドネシアで楽しく暮らす 15-11

斜めからインドネシアを眺めよう 11

中途半端な田舎や地方から職を求めて都会に来た人が住む家には、そもそも、台所というものがない。そして、冷蔵庫がないので、保存ができない。また、冷蔵保存という習慣がない。もし料理をするなら、食材を買ってきて、家の外で、適当な板の上で切り、鍋やフライパンに放り込んで煮炊きするだけ。水も水道からでは、危ないことを皆さんわかっているので、生野菜は絶対に食べることはできない。

子供が多い上に調理をしないので、子供達も手伝えない。料理を覚える機会がない。それが、代々続いているわけだから、家庭料理はどうしても少なくなる。

外で買うことが多くなる。そこで、道端のテントレストランが必要になる。カキリマも必要である。多くの家庭は、それらへ行って、ブンクスといって、お持ち帰りをする。油紙のようなものにご飯を包み、ポリ袋に汁物を入れて輪ゴムでとめる。慣れたもので、それらの店は黒と透明のポリ袋は用意してある。朝早くはお粥屋さんがはやる。

朝や夕方、子供が持ち帰る風景によくあう。

 

15日 インドネシアで楽しく暮らす 15-12

斜めからインドネシアを眺めよう 12

今年は今日9月1日からプアサ、日の出から日の入りまで、一切の欲望を断つ、勿論、主に食用である。だから、断食の月ということになる。

イスラムといってもインドネシアの場合は、一般的に、規則は緩やかである。うるさい人もいるが砂漠地帯のイスラムとは環境が違うので、同じにはならない。

宗教省といってもイスラムの為の省といってもいい。月と何かの関係をコンピューターで眺めながら、インドネシアのレバラン入りの日を決める。別に宗教省でなくても、誰でも特定することはソフトさえあれば簡単にできる。

一年365日ではなく、355日でも中には閏年のようなものがあるはずである。多分、イスラムの人でそういうことが分かっているのはほんのわずかな人でしかないと思う。

季節は雨季と乾季だが、それを、表すつきは西暦を使っているので、また、会社や社会も西暦を使っているので、イスラム暦は一般には通常は使われていないのが現状だから、当然だと思う。

 

16日インドネシアで楽しく暮らす 15-13

斜めからインドネシアを眺めよう 13

 どこかのブログで、1セントのお釣りをくれないで、無視された。その店には、皆さん、買い物をしないでください。という書き込みがあった。

 それに対して、いろいろな書き込みがあって、日本人は話が細かすぎるとか、其処まで、言わなくてもいいのではとか、一円でも足りなければ文句を言いましょうとか、いろいろでした。それはそれとして、人というのは、こちらから差上げるという気分の時はいくらでも腹は立たないが、取られたと感じた時には一銭でも悔しいものです。

そこで、インドネシアでは日本と違って、チップを渡すという習慣があります。ひどい言い方をすると、チップしだいで、警察も行政も操ることができる。

身近では、車の割り込みです。Uターン場所には必ず人が小遣い稼ぎの案内役が立っています。窓を開けて、小銭をちらつかせれば効果てき面、対向車をすぐ止めてくれます。500~1000Rp(12~3円)で十分です。

レストラン前の駐車場には必ず車の案内役がいる。全然必要ないどころか邪魔だと思うが、入る時に案内し、出るときに、通りかかりの車を止めて、安全に?車が出るようにしてくれる。ジャカルタの相場は2000Rp、田舎へ行け1000RpでOK.

17日インドネシアで楽しく暮らす 15-14

斜めからインドネシアを眺めよう 14

インドネシアの最高級規模のスカルノ、ハッタ空港の出来事でした。下痢気味でトイレに駆け込んだ。西洋式が2、インドネシア式が2、インドネシア式には水洗いのシステムはあるがトイレットペーパーがない。西洋式の一つは便器が壊れていて、座るところが取れてしまっていた。もうひとつは使用中なのか扉が閉まっていて中が見えない。しかし、其処にいる掃除人の目がこちらの目と会った。使いたいか?と、言っていた。掃除人に、開けてくれと頼んだら、トイレットペーパーの使い掛けのものを隠してあった場所から出してきて、私に渡し、扉をヘラのようなもので、つっかい棒を隙間からあげて開けた。どうぞ、というわけである。

用足しを済まし、トイレットペーパーと共にチップを、5000Rpで充分だったが、かなり、助かったので、一万Rp渡した。彼はにんまりしていたが、私のために確保しておいてくれたと思えば安いものである。ものは考えよう。

 

18日インドネシアで楽しく暮らす 15-15

斜めからインドネシアを眺めよう 15

日本でもタクシーを使って、料金が2800円とすれば、3000円出して、お釣りは取っておいてと言う。これが、2700円なら微妙である。2600円ならお釣りを400円受け取る。私の感覚ですから、人によって、経済的余裕によっても、見栄っ張り度によっても違います。

インドネシアではどうか、大体、10%のチップと考えています。レストランの支払いの後、領収書と一緒に食事の金額によりますが5000とか1万を置いてきます。自分の満足度にもよりますが、サービスが悪かったり、食事がおいしくなかったりした時には一銭も置いてきません。気持ですから。

中には後ろから、ぶつぶつ、言っているのが聞こえてくるときがありますが、それはそれで、気にする必要はまったくなし。

信号待ちなどで、子供やイザリなどが寄ってきて、お金ちょうだいと手を出してきます。断ればいいのです。気にすることはありません。逆に、100Rpなどの小銭を何枚か渡すと、あからさまに、ケチ、と言われます。

いつになったら、こういう人がいなくなるのでしょうか。

お釜のミンタ ウアンには笑っちゃいます。

 

19日インドネシアで楽しく暮らす 15-16

斜めからインドネシアを眺めよう 16

地方へ行くとなぜか突然、遮断機みたいなもので道が閉ざされている。これから先へ入るにはお金を払いなさい。いわば、有料道路になっているのです。入村料とでもいうのでしょうか。一般の舗装された道路からそれて海岸へ向かう場合に多いが、そればかりとは言えない。プララブハン ラトゥは町へ入る広い一般道で地元以外の車のすべてから通行料を徴収している。

一般道路でも、トラックを止めてお金を徴収しているところも多い。どういう団体なのでしょうか、どういう法律や規則によっているのでしょうか知らない。キジャンクラス以下の車からは徴収しない。どこまでの大きさの車が払わなければならないか書いてもない。

全く知らないので、急に止められて、通過したければ、いくら払えと、言われても払うしかない。交通違反のように外国人と知って多額な要求をされても雰囲気では戻るか、払うしかなくなるだろう。そんな経験は今までにないが。

ロンボクのギリへ渡る港へ入る道路でも突然通行量を払わされた。

20日インドネシアで楽しく暮らす 15-17

斜めからインドネシアを眺めよう 17

モスレムの相互援助の産物なのでしょう。モスジッド(イスラム教会)の建設資金の寄付をいたるところの道路で求めている。道の真ん中に何本かのドラム缶を10m間隔で5~10本置いて、其のわきに何人かの人が昆虫や小魚を取るための網をもって、お金をちょうだい、ちょうだいと招いている。その近くの一角で、そのリーダーでしょうか、何やらスピーカーでひっきりなしにしゃべっている。

道は狭くするし、人(子供や女性の場合が多い)が立っている。タモを振っているし、危なくて仕方がない。もちろん速度は急激に落とさなければならないので、渋滞のもとになっている。渋滞になって、事故か工事中かと思うのが普通ですが、こちらでは、これがある。

私はお金を渡したことはない。切りがないし、渡した、渡さないでは不公平になるので、一切渡さない。

そして、何か月か、何年か後にそこを通ると、ムスジッドがちゃんとできている。でこぼこ道でもバケツを持って、お金をちょうだいをやっている。そこの道の修理代(材料費)になる。公共は頼りにならないからだ。



ここから、後は、BLOGの方で!!!