2009年
誰もすなることがらは、私の性格に合わない。できると思うから、やるのです。他の人々には、お勧めしません。事件に巻き込まれたら他の人では突破できないと思うからです。読むだけにして、スポットスポットを知っていただけたらと思います。
9月20日
20日Buka Puasaです。次第に経済力が重要ということを分ってくれば、生活水準が上がってくれば、いろいろなものを手に入れることができるようになってくれば、そういう国は宗教心が薄れてくる。いわゆる、幸福とか満足の基準とカ基本的考え変化してくるのです。勉強や仕事で日本に滞在しているインドネシア人のイスラムの人を見れば明らかです。彼らは日本人を見て、宗教とはなんなのか考えさせられてしまうらしい。頭の回転が良い人ほどそう思ってしまう。しかし、人心を支配するには便利な宗教とも感づく。このことは、もっと詳しく、いつか書こうと思う。
トイレットペーパー、アンティモスキート、目薬、パニック障害の薬、キタスやパスポートは当たり前、現金が一万円程度、支払いはカードでする。現金が足りなくなればATMがどこのでもあるので安心。
ガソリンスタンドで、どこへ行くのか。 一人かい、私にドライバーをやらせてくれ、などという人もいる。
朝、01:30に家を出た。真っ暗な中、渋滞などどこのこと?と、思うほど、閑散とした中、順調にチカンペックまで、今度は勿論北周りの道(左折)を使うことができた。Cirebonのバイパスを過ぎ、ガソリンを満タンにし、眠気覚ましにラップトップをいじろうとしたら、無い。全く意識をしていなかった。準備をして、ケースに入れた。しかし置いてきてしまった。05:30でした。そのまま、先へ進んでも、意味がないので、取りに引き返すしかなかった。途中、モスジッドに多くの人々が集まってお祈りをしていたため、道路が各所で通行止めになったり、一車線になったりしていて、引き返すのも時間どうりに行かなかった。家に着いたのが、08:30.眠くて、寝てしまった。10:30目が覚めるなり、すぐ再出発をした。そして、ひたすら走り続けた。Cirebon通過は15:00Semarang 通過が、19:00Kudusでホテルを探し出して部屋へ入ったのが、20;30でした。疲れた。Capekde~~,
撮った写真の大部分は運転をしながらである。
本場のSoto Kudus約100円でした。ちなみにホテル代金は3000円。
9月21日
昨日の走行距離は660km(無駄が250km)ガソリンスタンドとコンビニにちょっと酔っただけでした。メーターは410Kmでした。18:00丁度にSitubondoのSan Sui Hotelに到着した。テレビを点けたら、Laskar Pelangi(日本なら、文科省推薦映画である)をやっていた。Bulitunが舞台になった映画で、行った時にセットの学校跡や海岸の大岩を撮ってきた。私のフォトアルバムで紹介している。
ところで、今日も、Sangat Capekde~~~.
07:30ホテル(Notosari Permai)から出発て、間もなく、09:00まえ。東ジャワに入った。まだ、Mudikの車やバイクが下り方面へ向かっているが、もう、邪魔になるほどではない。むしろ、一緒に前後しているので、なんとなく、親しみを感じる。
11:30Surabayaへ入ったが、直接Tanjun Perak方面に向かい、そこから、SURAMADUへ向かった。できて間もない、SurabayaとMadura島を結ぶ橋である。東南アジア一の橋だそうで、どの部分が一なのか聞いていませんが、話の種として、渡ってみた。高速道路の終点から、案内板が出ていて、それを追いながら行った。迷うことなく、着いたが、道はくねくね、方角が全く分からなくなってしまう道順だった。案内板を見失ったら、途中で、何度も、聞かないと分からなくなると感じた。
橋は、なるほど、少なくても私が訪れた東南アジアの国々の橋で、一番,塔の高いつり橋だった。東南アジア一と云っているのが可愛い。日本にはこの程度の橋は山ほどあるからです。
Surabayaは高速道路で脇を通過し、やはり、まだ、高速はSidoarjoまで途切れていた。直ぐ、泥海の土手に着きあたる。四年前より、5m以上は高くなっていた。ここも観光地化しているが、す通りした。しばらく南下Malangへ向かい、左折してProbolinggoに向かった。
Kudusを出てから、すぐに道の両側に広大な塩田が広がり始めた、これは、Surabayaに入る高速道路の両脇まで続いていた。一か所によって、其処の人と話をし、塩を頂いた。ゴルフで迷惑を掛けている方たちへの安い土産とする。
走行メーターは850Kmである。まだ、三回目の15万Rpのガソリンが残っている。
の“オランウータン”はインドネシアで仕事をする方の人間関係に関し、大変参考になります。
9月22日
07:00にホテルからでて、Banyuwangiの北にあるKetapang港から、09:30出帆でBaliiはGilimanukへついた。95000Rp前回は北から回ったが今回は時間を節約するために南から、Denpasar方面に向かい、Sanurの東30kmくらいのPadang港から15:30Lombokへ向けフェリーで出港、20:00に到着した。
今日の行程はGilimanuからは全く未経験でした。Baliの道は、大体一周道路と南北のの道路が主要で、後は、あみだくじの横線のような東西の道が南北道路を繋いでいる。一本で、東西を貫いている道路はない。行き先は、分かっていたので、とにかく東の端近くに行かなければならなかった。南東に広い道があるはずだと思って、Denpasarの北を通過して、其の道を目指したのが正解でした。割合、あっさり、Pangangは見つかった。実際、フェリーが出ているのか、出ているとしたら、何時なのか全く知らなかったが、14:00に到着して、聞いたら、フェリーこうだと云ってくれたのでほっとした。料金がキジャンクラスで、なんと、555.000Rp(5千5百円)高い!!しかし、引き返すわけにはいかない。
Lombokの港Rembanに着いたのが19:00(Lombokタイム20:00)を過ぎていた、そこからMataramまで、30分ホテルLOMBOK RAYAに飛び込んだのが現地時間21:00を過ぎていた。三千円です。
Sangat Capek Bangat Gitulo!!!
やっと、たどりついたという感じで、頭はパニックではないがぼーっとしているし、目が疲れた。
こんなことは一人でなければできない。連れがいたのでは、一緒に連れ回せないし、食事やホテルのいいところを選ばなければならない。
夕食は先ほど23時まえ、ソプアヤムとナナスサラダ、テーマニスがついて奮発して、450円
9月23日
一人が気楽で楽しい、誰に気を使う必要がない。自分のペースで何でもできる。今回も今までのところ、90点です。10点不足は、連れがいないので、話したいことを話せないからです。しかし、連れがいるとマイナス面が多い、節約旅行やがんがん前進力ができない。ペースが合わないのでこちらがあわせる。どうしても、マイナスが30点ほど着いてしまう。インドネシアには10点を増やして100点にする連れはいない。日本に一人いたが、もう、できないでしょう。
私と一緒に仕事をしましょうと云った方と、もし、一緒に旅行したら、きっと、私が予定を組んで、必要な予約をし、行程の了解を取って、迎え、送りもして何日が一緒に旅をして、お金も私の方が多く使って、帰ってきて、暫くすると、他人から、あの人が、あの旅行はつまらなかったと云っていたよと、聞かされるでしょう。まっぴら御免です。仕事もそういうことになりますから、まっぴら御免です。
9月26日
今回の旅行のPhoto Albumを追加し始めましたがまだまだしばらく追加中の状態になります。旅行記は帰ってからですから、29日過ぎでしょう。
今は、先日泊まった、ホテルLOMBOK RAYAにいる。08:00にSembalun LawangのLembah Rinjaniを出発し、北へ向かって山を下り、島の北の海岸についた。そこから、左折し、海岸沿いにGiri三島の船乗り場を通過し,しばらく行くと、Mataram方面とSenggigiに分かれる。マタラム方面は近道ですが山の中、海岸沿いに、Senggigiに向かった。途中、何度も車を止めて写真を撮った。この辺りは三度目である。一回目二回目と今回、私の状態が全く違う。レンタカーではこうはいかない。運転手も一緒にレンタルしなければならないからです。Bナンバーの運転手は私ですから。
14:00にはホテルに着いた。そのまま、フェリーに乗ってBaliへ渡ってしまおうかとも思ったが、体が悲鳴をあげていることが分かるし、この時間にフェリーに乗ったら、Bali到着が20:00を回ってしまう。それから、安宿を探すのは、辛すぎると感じた。今日まで、かなり無理をしてきたのだから休養日とすることにした。
四日ぶりにお湯が出るシャワーを使い、全身を洗った。茶色い排水がしばらく続いた。体中が小さな傷だらけ、用意してあったが、帽子を持っていくのを忘れ、日焼けで、おでこがひりひりする。首のまわりもである。手の甲も真っ赤である。ゴルフ焼でないことは左手を見れば明らかである。両腕の筋肉も痛む、自分の体を起こすためや転ばないために両腕の力で支えなければならなかったからです。年寄りは三日以上後から、痛みを感じるようになるというが、既に相当痛いのだから、明日はどうなってしまうことだろうと思う。
今は、自力で立てるが立てなかったときは一体どうなってしまうかと思った。老人が杖を使わなければ歩けないとはこういうことかと思った。
一人旅は楽しい、と書いたが、今回は一人でよかったと思う、マリアさんでも他の日本人とでも一緒だったら、決行できなかったし、もし決行したら、非常に厳しい状態になっていただろうし恨まれることになったでしょう。誰も誘わなくてよかったと思う。
後ろの島はギリ トゥラワンガンです。今回の旅行のスタイルです。日本人とはにわかには思われない。国籍不明人間です。ありがとう、とか、こんにちは、といって何となく言わなくても分かってもらえるようにする。山で、相前後していた欧州人の中には日本語が少しできる人もいて、盛んに日本語で話しかけてくる。
地元のマタラム大学の学生たちの五六人のグループとも休憩所一緒に休む時、私に日本の状況を聞いてくる。インドネシアからの留学生の状況を知りたがっていたようです。
9月27日
何が目的のブログ?LombokからBaliへの船の中で、書いている。外の写真はまっ暗い中で到着したので、港あたりの写真がないので、出発時だけにしようと思い、そうした。
一応、毎日書いて、アップしている。日本にもドイツにも、私の安否を気にしてくれている人が何人かいる。だから、送れないことを予想される日には、理由を付けて書くようにしている。インドネシアの中の日本人も楽しみにしていてくださる方が何人かいます。その他にも、どんなことが書かれているか大変興味を持っている方もいます。仕事のこと、会社の状態のこと、予定のことなどです。これからも、一日置きくらいにはチェックしてみてください。
山を下った時は膝が勝手に折れてしまって歩きけなくなったが、平坦と登りは問題なかった。痛みはまったくなった。しかし、体全体の痛みは昨日からで、今日は昨日より増している。
一時間,間隔でフェリーは出ていると聞いて、07:30にホテルを出た。30分でLembarに着いたが08:00発の船が出帆するところだった。次は10:00だといわれてがっくり、インドネシアである。
Mataramの南20Kmにある、Lombok唯一の港で貨物船もここにしか接岸できない。入り組んだ湾の奥にあって、港としては条件がいい。
出帆すると、いくなり山間に高い独立峰が遠くに見える。RinjaniではなくAgunである。少しの時間船は最初南西に向かったのでした。直ぐ北西に方向を変えるとRinjaniが目に入った。一時間も過ぎると両方の山が均一にすっきり見えるようになった。飛行機を使ってきたのではこういう景色を堪能することはできない。Baliからちょっと時間はかかるが、お金と時間に余裕のある方は、お勧めです。航行時間は6時間です。
日本人、欧米人は私以外にいない。トラックやバスの運ちゃんは2mmぐらいの太さ乗大物狙いの釣り糸を垂れて、そのままにしてある。20本以上は引いていたと思う。しかし、結局、誰一人として,小物さえ釣れなかった。
Baliの Gn,Agungと Lombok Gn.Rinjaniの両方が目をロンパリにすると一遍に見えるのがすごい。
Pandang港へ5時間で着いた。15:00でした。そこから、ノンストップでPulah Baliを横断、最初はAAナンバー(ジョクジャカルタナンバー)の観光バスについて行ったら、さすが、観光バス、しっかり、Gilimanukまでの幹線道路を知っていた。私はなにも迷うことなくフェーリー港へ到着、18:00丁度だから3時間でBali島を横断したことになる。ここまでで、2824Kmの表示でした。Lombokのときと大違い、今度は私を待っていたかのように、そのまま、ティケットを買って、船に案内された、私が入ったところで、鉄板の橋が上がって、すぐ、出航した。
港までの道、東ジャワから戻ってきた。車やバイクやバスで渋滞していた。それに引き換えバリ側からの渋滞は全くなかった。バリで仕事をしているジャワ住民が多いことが分かる。職がバリの方があるのでしょう。
BaliはGilimanuk港から、18:10出帆でKetapang港に到着。すぐ近くに、ホテルが沢山、あるのを知っていた。Banyuwangiとは反対の方向である。
今日で長期休暇は終わりである。だから、今日中のUターン(Alus LebaranあるいはLiputan Lebaran)渋滞が終わっていなければならない。しかし、そういうわけにはいかない。職場復帰も明日からであるが、そうもいかない。私自身。まだ、ジャワ島の端にいる。多分、29日中にデルタマスへ戻ることができるでしょう。30日から、現実に戻ります。
Baliが目の前に広がるジャワ島の東端のHotel Baru dua Beachに宿泊した。1600円である。しかし、Flashの電波が届いていなかった。
Lombok-Baliのフェリーの壁に残っていた日本語の一例です。インドネシアのフェリーはほとんど日本からの中古です。
9月28日
今日から、PT.MAKUTAは仕事再開のはずですが、皆さん、揃うでしょうか。レバラン休暇が終わった今日から、JABOTEBEK高速道路の料金が大幅にあがったらしい。
インドネシアのMudik(里帰り)
ご存じ、世界最大のイスラム国のレバラン帰省、たぶん世界有数の民族大移動だろうと思う。二回目の体験ですが、前回は、運転手が三人いて交代で東の端に近い、ブリタールまで行った。パニックになる前だったし、疲れた覚えはなかった。今回も山に登らなければそれほどでもなかったような気がする。まだまだ、行けると思った。
今回は、一人旅でした。そして、LOMBOKまで行こうとなんとなく思った。何となく思って、行くのが私です。何となくです。そして何となく通り過ぎるのです。今回の旅行は今日で終わったと思う。明日はMariaさんがスラバヤから一緒にチカランへ行くが、彼女が大半を運転してくれるからだ。
今日は、来た道をたどっても知恵がないので、Banyuwangiを通過し、東ジャワの中央部を西に向かい、Malang経由Surabayaコースを辿った。ということで順調にいくつもりだったが、Banyuwangiに入ったところで突然、車の下部でカラカラと音がしたと思ったら、車が動かなくなった。シャフトの連結部が外れてしまったようだ。路肩に止まったら、その音に驚いた近所の人がまだ、朝、06:30だというのに集まってきた。荷物を持って行かれたらまずいと思い、ロックして周りの人に説明したが、勿論、分かる人はいない。とにかく、車をBengkel(修理所)まで牽引してくれる人はいないかと聞いたら、すぐ、手伝ってやるよという人がいて、自分の車を持ってきて、鎖でオートドゥアリブまで送ってくれた。まだ開いていなかったが、やがて、エンジニアーが出勤してきて、チェックし始めた・やはり、メインシャフトのユニバーサルジョイントが摩耗して、外れてしまっていた。パーツショップから部品が入ったのが、09:30ころ。それから、セッティングが始められたが、これば、経験がない人ばかりで、時間がかかった。12:30過ぎに直って、無事出発できた。車の修理代が四時間×1.5人で千円位、部品代が二千円位、安ッ!!!
それにしても、運がよかった。北周りの道を選んでいたら、山の中なので、どうなってしまったことでしょうか、また、町の中だったから、人々が集まってきて、いろいろ頼んだり話したりができたし、1km以内にTOYOTA AUTO 2000があった。長期休暇明けの月曜日で、8時に全員が出勤してきて、直ぐに点検のための解体が始められた。また、部品もすぐに手に入った。
また、夜や休日中でなくてよかった。
実を言うと、今回、ロンボクのBCAのATMでお金をひき出したあとカードが出てこない。装置の内側に持っていかれてしまったのです。どうにもならない。このATMカードの再入手は10月2日でした。ブロッキングの電話ができたのは28日月曜日でした。お金が足りない。しょうがないから、緊急用に持っている円の内二万円をSenggigiの両替所で、Rpに交換した。
また車の修理でお金がかかる。持っていた日本からのマスターカードでATMを試した。こん度はカードを取られないようにカードがちょっとでも出てきたら直ぐ引っ張った。大丈夫、持って行かれなかったし、修理代にチップを添えて払うことができた。これで、Bekasiまで再出発できる。
今日は、山の姿が美しい場所を通過したが、生憎の曇りで、それほどくっきりというわけにはいかなかった。それでもSurabayaの空港、Juanda近くのHotel Bandaraに22:00前に飛び込んだ。八時間の間ガソリン補給とトイレのため10分車から降りただけだった。
9月29日
途中で一泊して、Cikarangへ戻るので、ここまでくれば、二日で余裕である。08:30にホテルを出る。今日からMariaさんが一緒である。というより、Mariaさんが70%以上は運転してくれるでしょう。実際、今日もほとんどマリアさんが運転でした。
昨日の晩、使えなくなっていた、Flashがまた使えるようになった。場所の問題だろうかインドネシアならどこでも、というわけにはいかないようだ。通信ができないときは、ストレスが溜まるし。心配もかける。
順調に道程をこなし、来るとき泊まったKudusを過ぎ、Semarangのバイパス的高速道路を過ぎ、KendalのHotel Anugrahに入った。18:00を回っていた。お湯は出ないが、1100円です。
北道(来た道)を戻っただけなので,道中、印象に残ることはない。半分眠っていた。もう、ほとんど旅は終わっています。緊張感が、もう、無くなっている。
昼食は、途中の海岸沿いの小屋レストランでサテカンビンを頼んで食べた。マリアさんの分は当たり前に辛くていいのだが、私のは、辛いのは食べられないから唐辛子無しにしてほしいと頼んだ。ところが、唐辛子をマリアさんの10分の1くらい入っていて、食べてみたら、辛くて食べられない。唐辛子はなしでと頼んだでしょ、といって、作り直させた。今度は見た目に唐辛子はない。食べてみたら、やはり、辛くて食べられない。付けて焼く時の“垂”が辛いのです。今度は、其のたれを付けないで焼くだけにしてと、頼んだ。
やっと、辛さから解放された山羊の焼肉を食べることができた。
インドネシアの人は、フライに上げる油自体が、すでに、辛いことを全く意識していないし、焼く時の垂が辛くなっていることも、意識していない。辛のが苦手なインドネシア人でもその位の辛さなら、文句を言わないで、食べることができるのでしょう。
しかし、私は、辛いものは食べられないので、辛くないものを必ず頼む。”Jangang Pedas”
と、必ず言います。二度以上は云い。註文を聞いた人に繰り返してもらいます。それでも、料理人は、垂れや油に浸みこんで、増幅している辛さをまったく気にしてくれない。
9月30日
Kendar07:00出発。既にUターン渋滞は終わっていると思っていたのが、予想外、まだ、かなり、激しい渋滞にそこかしこでハマった。Tegal Cirebon辺りになるとますます、バイクの数が増え全てのガソリンスタンドにはバイクの長蛇の列、そして、ポンパベンシンの敷地へ入れないバイクが前後の路肩に駐車している。若い夫婦と子供一人か二人が大部分である。道が混んでいるのでのろのろの上に、車の隙間を縫うようにすり抜けながら前進しなければならない。相当の疲労ではないかと思う。ぐったりとして、休んでいる。まだ、ジャカルタまで三時間以上はかかる地点だし、満タンでも、もぷ一階は給油しなければならない地点である。
交通事故や故障で道路の一部を塞いでいる車も多い。既に、月曜日から、仕事が始まっているので、大形のトラックの数が日常に戻り、その上、Uターンラッシュのバイクである。状況はMudik渋滞よリ、厳しいかもしれない。とにかく、
17:00前にデルタマスの自宅に到着した。一先ず、今回の双六の上がりである。単純にいろいろな事態に遭遇しましたが、とにかく、上がりです。自分の運の良さを再確認しました。 といっても、体のあちこちが痛む。原因はわかっているし、時間が解決をしてくれることも、分かっている。右の上の方のろっ骨にひびが入ったようだ、日増しに痛む。しかし、これも治療のしようがない。自然に、直るのを待つばかりです。一度や二度目の事ではないので、Biasaです。
とにかく,十日間、宿賃は平均2千円で、2万円ぐらい。一番の出費はLombok-Bali間のフェリーボートで往復1万2千円でした。Gn,Rnjaniのガイド、ポーター食料、テントや寝袋全部込みで、1万6千円、ガソリンが4400Km440L×45円=2万円、ここまでで、6万8千円、途中や夜の食事代はどう考えても合計1万円以下、車の修理代や部品代とチップは4千円でした。高速代や雑費を計1万円とみて、総支出は九万二千円くらいでした。十万円以下で収まった。帰ってから体重をチェックしたら、2kg減って68kgになっていた。
車の調子は快調でした。
これで、十分自己満足です。
4500Km走破しました。トヨタアストラモーターが喜びそうな行動でした。途中、そこかしこに、車とバイクのメンテナンスをする場所が設けられていた。バイクの数は明らかに年々増加している。また、道路の状態も、少しずつではあるが年々改善されている。沿線のホテルも、あまり、探したり聞いたりしなくても、すぐ見つかるようになっているし、ガソリンスタンド、トイレ、コンビニエンスストアーもどんどん増えている。十年くらい前と比べれば随分、楽になっている。
いろいろなことで運に恵まれたが、天候にもこの上ない条件にめぐまれた。