Murauke papua

2012年6月11日 またの旅立ち  1244 好い日かどうかは知りませんが、旅立ちです。ジャカルタの交通渋滞は、ますます、ひどいと聞いているので、早めに家を出て、間もなく、22:45、スカルノハッタ空港のドメスティックから出発である。どこへ向かうかというと、ムラウケ(メラウケではない)だ。ムラウケってどこ?インドネシアの東の端です。ジャヤプラは、北にあるがムラウケは南にある。今回は、そこからもっと東の端、パプアニューギニアとの国境線に一番近い村へも行ってみようと思う。現地の時間は日本と同じです。約、8時間かかります。朝、現地時間8:50に到着予定、日本へ行くのと同じですね。ただし、二回着陸、離陸をするので、眠っていれば、到着するというわけにないかないでしょう。航空費は4万円、日本への半額以下ですね。

今後の予定の打ち合わせをさせてもらった。ビザは来週末に取れるとして、問題は定款の改定です。今までは販売の仲介業で、製造会社ではなかった。それを、製造会社に変えたいのです。申請を始めてから、約3カ月過ぎている。一説によれば、もう、全ての書類が整っていて、受理をしてくれたが、承認のサインがいつになるかは。サインする人の動向にもよるので、いつと、確約はできない。インドネシアですから、偉い人がどこかへ出張で行ってしまっているかもしれないし。間もなくラマダン(プアサ)突入なので、その前の家族へのプレゼントや帰省資金の捻出を狙って、何らかのアンダーテーブルをあからさまに要求してくるかもしれないので、なお、承認が延ばされるかもしれない。何を申請するにも、難しい時期になってきた。

 ということで、はっきりしないことがまだ多いので、結局、レバラン明けからの仕事始めになってしまう確率が高い。それまで、まだまだ、自由を謳歌できる。

 

 退勤時間にちょうど重なったので、予想通り、ブカシバラットを過ぎた辺りから渋滞の中へ入ってしまった。いつも、一番いやなのは、ハリムでジャカルタへ入る七千RP払ってから、タンジュウプリオクとグロゴール方面の分かれ道を過ぎるまでの区間、約1Kmでしょうか、とにかく、競り合い連続である、一瞬の油断もできない。緊張が三十分くらい続く。というのが、いつもですが、今日は、拍子抜け、順調過ぎて、タンゲランへ向かう車の渋滞もなし、空港へは19:30前に着いてしまった。速く着くに越したことは無い。

 バタビアの1Cの出発ロビーへ入る前のフロアーが見違えるほど新しくなった。トイレは完成して一カ月だという。デザインもインドネシアで初めてお目にかかるものだ。ぜひ、いつまでも、汚さないようにしてほしい。例の充電用にコンセントも充分、目の津行くところに会って、その傍にはソファーがあった。完成はしていないが、全体が完成したら、1A(ライオン)や1B(スリウイジャヤ)も追随するのでと思う。

 旅立ち 安心 順調
 

  6月12日 ムラウケから  1245 この地もいつもの旅と同じで、何がるのか、まずどうしたらいいのか分からない。ジャカルタからの機内の人の様子が、はっきりいつもと違う、勿論、日本人は、私一人、欧米人や東洋人の顔をした人は他にいない。イリアンの顔をした人が7~80%、その他雑多なインドネシア人でした。途中、マッカサールへ寄った時にかなりの人数が乗ってきて、ほぼ満席になった。その時のってきた人たちはイリアンの顔をした人は見なかった。そのころはもう完全に、夢の中にいた私は、その後、どこかに着陸したらしいが、覚えていない。3:30(ジャカルタタイム)目が覚めたときにはマッカサールからのってきた人たちのほとんどがいなくなっていて、ジャカルタからの人たちだけが残っているような気がした。キツネにつままれたよう。そして、今、どこから飛び立って、どこへ向かっているのか、わかっていない。というのも、08:55(これからはパプアタイムで書く、二時間、ジャカルタタイムより進んでいて、日本と同じ)にムラウケに着くのだが、それまで、3時間以上、飛び続けることになる。ということは、今はムラウケに向かっていないで、ジャヤプラへ向かっているのかもしれない。それにしても、何か所経由で、いったいどこへ下りたのでしょうか、16日の帰りの便ではっきりすると思う。空いている機内は、両側3列の座席があるが、どこもその三席を使って寝ている。

 

ダナウ スンタニの夜明け。ジャヤプラの飛行場はダナウ スンタニのほとりです。やはり、ジャヤプラへ降りた。30分ほどで掃除をするから、外へ出ていろと言われて、出発ロビーでまった、その時に懐かしい張り紙を見つけた。ピナンを食べるなというものでした。禁煙のステッカーと並んで貼られていた。

07:00ニジャヤプラ発、ムラウケへ着いたのが09:00でした。直ぐに観光案内所らしいところへ行って、地図をもらった。

それに従って、タクシー運ちゃんのイワン君に頼んだら、先ずホテルを探しましょうという。何故だと聞いたら、空港からホテルへ送るのが10万Rp、だという。それなら、タクシー1時間使ったら、いくらだと聞いたら、6万Rpだという。ホテルまで、何分掛るのか聞いたら、10分だという。それじゃ変だろ、といったか、決まっているという。他のタクシーに乗っても同じだという。それじゃ、ホテルへ行かなくていいから、1時間市内見物をしている間にホテルを探すならどういだ、ときいたら。6万Rpは最低3時間だという。それなら、3時間18万Rp行けるだけの観光地を回っているうちにホテルを見つけるなら、いいだろうと言ったら、3時間は市内だけで観光地のほとんどはしないからでなければならないから、また別料金になるという。市内だけ3時間をどうして使うのか聞いたら、土産物屋やレストランやマッサージへ案内して、タクシーは待っているのだという。

それなら、市内から出て観光地へ行くなら、時間いくらだと聞いたら、10万Rpだという。そうか、それならと言って、先ほどもらった観光案内パンフレットを見せて、ここに乗っている写真のところを全部回るには何時間掛るかと聞いたら、5時間だという。そうか、それなら、50万Rpで5時間回ってくれ、その途中でホテルを予約しよう。といったら、それなら、やはり、60万Rpだという。どうしても、空港からホテルへ送るのは10万Rp取らなければならないらしい。じゃ、観光の後、街で下してくれたらいい。自分でホテルは探すから、といってやったら、それもだめだ、一旦ホテルへ行くと頼んだのだから、それを、取り消すなら、ほかのタクシー後変えてくれという。そして、ホテルへ送らなくても、キャンセル料を5万Rp払ってくださいという。

もう、ああ言えばこういうで、仕方がないので、60万Rpで5時間コースの観光をすることにした。

そして、最終的に到着したのがパプアニューギニアとパプアの国境でした。SOTAという部落でした。どんどん、西に向かって100kmほど走った先にあった。途中が蟻塚街道と私が道の名前を着けました。道はほとんど一直線、たま~~に、曲がるだけ、その道の両側は、湿地帯になっていて、ハスの葉が広がっていた。

その向こう側はジャングル、その湿地帯と道の間の狭いところに蟻塚が立っている。不思議である。なぜ、この道の両側だけなのでしょうか、道から離れた場所にも数少ないが、あることはある、しかし、小さいし、本当に目立たない。目立って大きく、高いのは路のわきである。3m以上あるでしょう。壊れたら新しい小さいものがあったりで、不思議ですね。でも、一番不思議なのは、何故、道の両側にだけなのでしょうか。蟻がその他の場所に移動できない理由があるのでしょうね。

 

バンダアテェの西に島WEHのSabangでインドネシアの西の端に立った。今日は、インドネシアの東の端へ行って、国境を跨いで、パプアニューギニアへ!mほど入った。このSOTAという部落へ入る前に、サバンからムラウケ、という端から端までのここが、ムラウケという碑があった。どうでもいいことだが、インドネシアの旅の一つの目的を達成した満足感があった。

蟻塚 国境 サバン

 

 

6月13日 移民政策の結果 1246 Meraukeが充分田舎だが、もっと田舎へ行ってみた。どうも、郊外へ行く方がイスラムが多いようだ、そして、ジャワ島からの移民がほとんどのようだ。昨日もそうだったが、ジャングルへ向けて一般道を何本も作ったのでしょう。湿地帯が多かったと思う。昨日もそうだったが、一直線の道の両側は湿地帯というより、水溜りの連続でそれがつながってしまっているという姿だ。昨日の道は両側に蟻塚があったが、今日の道の両側は民家それも農家だと思う。道がパレンバンと同じで、湿地帯より1mほど高くなっている。民家から道までは多分平均で15mくらいある。その間が水溜りになっているので、手作りの橋がかかっている。パレンバンのムシからの両岸の家とまったく同じだ。

その家の裏側は広大な田園や畑になっている。イリアンの人々はどちらかというと、槍や弓をもっている狩猟民族でジャングルの中で生活していたが、その人たちは、政府の援助を受けて、一直線の道をジャングルの中に引いて、その両側のジャングルの木も切ってしまって、広大な土地を作りだして、移民に農業を奨励した。インドネシアでは有名な、スハルト政権の移民政策でした。ジャワ島からの人口分散と未開の島の開拓とイスラム教の土地の拡張を狙った巧妙な手段でした。

 

いま、パプア、ジャパプラやマルク、アンボンなどで頻繁に原住民と移民(クリスチャンとモスレム)との争いが起きているのです。カリマンタン、スワウェジでも同じことです。モスレムが後からはいいてきてモシジッドを作って、スピーカーでお祈りの大声をジャングルに響かせられては、今までいた人たちにとっては大迷惑だったし、その後も移民がどんどんやってきて、クリスチャンが住める場所が狭まってきて当然不満が爆発し、パプアやチムールのように独立運動が盛んになることは当然の気持ちの表現だと思う。この国境近くのジャングルまでも移民が送り込まれたと思うと、コモド島にコモドしかいなかったのに、ジャワ島からイスラム教徒が移住してきて、モスレムを作ってスピーカーからお祈りをながして、コモドをびっくりされたのと、イリアン原住民がびっくりしたのと似たような気がする。

といことで、その土地に無かった農場を移民が担うようになり。原住民にも米やとうもろこしを売るようになり、次第にイリアン人も森から出てきて街に住むようになり、街で商売をする人は移民と原住民が半々に見える。ムラウケやその周辺に限っては、争うは表面に出ていないが、ムスレムの増築や改修、新築現場を多く見るがカソリックの教会のそういう姿が見えないのは、何かあるなと、思わされる。

私が使った28歳の運転所はスラバヤからの移民の三世だとか、祖父母や両親は郊外で農業をしていると言っていた。

 

今日もジャヤプラヤスンタニでイリアンジャヤ原住民が槍や弓矢をもって、部落同士の争う姿がテレビで流されていた。何世代にも繋がる争うだと思う。スハルトさんの政策が原因です。

インドネシアでは珍しい橋の作り。

博多―対馬定期便と書いてありますが、わかるでしょうか。

移民 スハルト 狩猟民族

 

6月14日 物思いに耽る 1247 インドネシア語でムラムンmeramunあるいはトゥルムヌングtermenungと言います。

ムラウケの大河をさかのぼってみた。河口まで数キロM上流に街はある。港は川に面している。川といっても多分、幅は、1km以上はあるでしょう。コンテナ船、恐らく5000トンクラスだろうが、接岸してコンテナを積み込んでいた。中身は何でしょうか。コンテナで運び出すほどの産業があるとは思えない。多分、何かを、他の島から輸入したのでしょう。空のコンテナを積んでいるのだと思う。

 一時間半以上広い川を上って行ったが、景色の変化はほとんどない。両岸はジャングルである。マハカムやムシは、この川以上に幅がなら、両岸には民家があり、小舟がひっきりなしに行き来しているが、ここは、行き来する船も民家もまったく見えない。本当に偶に漁をしている丸木船に会うだけ、それも、岸に近いところで、ひっそりとしているので、真ん中を走っている私の船からは、気がつきにくいほど遠くにある。

 決してきれいではないが、風がなければ、波がほとんどない水面と両岸の緑と青い空と白い雲、それしかない。船に寝転んで上空を眺めていると、様々なことが頭を過る。

 

 今まで、予定を立てて、計画を練って、行動を決めて、その通りにやってきたのが三分の一、なる行きで、その場から遠ざかったり、近づいたりして行動したのが、三分の一、ひらめき、思いつきや勘や衝動で行動したのが三分の一。振り返って一番印象深いというか、良くやったと思うことややってよかったと思うことは、最後の思いつきや衝動で動いたり、やったりしたことでした。今回のここにいることも、予定の行動ではないし、何かの成り行きでもない。まったくの衝動的行動です。何故ここにいるのだろうと思う。インドネシアの東の端の街へ何のために来たのでしょう。何もないところです。

 

パプアの人々とすれ違えば挨拶をする、子供たちが賑やかに遊んでいれば、何をして遊んでいるのか中へ入って聞く、老人が道端で座っていれば、この先に何があるのか聞いてみる。だからどうということは無い。

 家族のことや友人のこと仕事のことインドネシア人や日本人の私の教え子たちのことを考える。考えたからと言って、何かあるはずのものでもない。ただ、思っただけのことである。

 

 昨日、渡った橋の下をくぐった。この大河を横切っている橋はこれ一つだけ、それほど、人が少ないのだと思う。移住者のことは書いたが、その人たちによって人口が倍くらいになったと思うが、それでも、ここのジャングルの広大さや川の広さでは、人口密度がどうのこうのという必要はない。街へ入ればパプアの人たちは賑やかなので人がいるなと感じるが、多分、4km×6km位の範囲内だけでしょう。信号が多い、渋滞は無い、こんな町もあるのだなと思う。

 ムラウケの港と街。

  サギの一種でしょうか、親子でしょうか。

物思い 国境 秘境

6月15日 初体験の連続  1248 ジャヤプラ、スンタニもそうだったが、第一印象はタクシーの料金が高い。空港から街までの料金は,今の円高でも800円くらいする。たったの5Km弱である。10分も乗らない。その他の物価全部が高い、ジャカルタやバリの観光地より高いかもしれない。土産物のTシャツは500円以上だ。パンガンダランなら150円くらいなのに。レストランの価格も高い、高い値段のタクシー運転手と一緒に食事をすれば、三千円くらいにはすぐになってしまう。だから、私は、カップ麺を主食にしていた。一人でよかったと思う。

 トラディッショナル ビレッジを訪ねてみた。Gatsiという部落でムラウケの中にある。行きたいから、手段をコーディネートしてほしいと、ホテルのレセプショニストに頼んだら、行く車のことだけでなく、その部落で、あなたのために民族衣装を着てダンスを模様しますから、そのショーを見せることができるのは、夕方の6時ころになります、と、案内があった。費用はと聞いたら、5ジュタ(約4万円)だという。私一人のためかと聞いたら、そうだという。観光客の団体さんに見せるのではないのかと聞いたら、団体さんは来ない、あなた一人のためだという。丁重にお断りをした。夕方でなくて、昼間、その部落を訪問して、どんな様子か見るだけでいいから、車の手配をしてくれるだけでいいと、改めて、頼んだ。

 どうも、そういう見世物のための準備をする担当者がその部落にいるらしい。部落に人々の収入源としては大きいらしい。バリにケチャやバロンのように毎晩、その地方の集会所みたいなところでショーを催して、観光客が訪れるという場所は無いようだ。それほど、観光客が来る場所ではないから、それも、当然だ。

 昼間、その戦闘ダンスをやるといところを、通ってもらったら、役場の前だった。役場の人達が、イリアン独特の戦闘衣装(裸に腰みの)をまとってダンスをするのだそうだ。そんなのは、見たくもないと思った。

 

海岸近くのヴィレッジが多く、メラウケの郊外でもある。マリンズ(Marinds)という種族のところへ行ったが、背が高い、体が大きい、干してある服が超LLである。運転手がここの部落の人で、最後に彼の家の前を通ったので、家族に挨拶したいと頼んで、訪問し、一緒に写真に収まった。一族の一部だそうだが、彼の家族はどうなっているのかは訊かなかった。みんな明るい。そこら辺りで遊んでいた皆が集まってきてしまった。

 

 海岸の遠浅は想像を超える。沖を見てもどこまでも干潟になっていて、海はどこまで引いてしまっているのだろう。メラウケ側の深さも3m位浅くなっていた。昨日、船の持ち主が、海へ出ることができないと言ったわけが分かった。これでは河口から舟が海へ出られないわけだと、納得した。出たとしても、帰ってこられなくなるのだそうだ。

 この向こうはオーストラリアだと、地元に人が強調していた。見えるのかと聞いたら、見たことは無いと言っていた。

 パプアの人達の体形、顔、髪の毛の状態などなど、各地で違うそうだ、ジャヤプラかワメナかメラウケの人の見分けがつくそうだ。メラウケの中でも、何族というのがあって、それも、わかるそうだ。私には皆さん同じに見える。

 

 サンセットを港で見ようと思って行ったら、カメラを持っているのを見て、写真はだめだから、ここからは入れないと、ゲートの前で止められてしまった。昨日何も言われなかったのに。そこで、別の場所から川に面した所へ出たが、時遅し、太陽は沈んで仕舞っていた。

 

先ほど、マリンズの部落へ行ったときに、オランダ人が多分、案内人だと思うが、二人のパプア人と一緒にそこの人をモデルにして写真を撮っていた。私が、その連中に30mくらい離れた所から、カメラを向けたら、そのうちの一人が、駄目だと言いながら、私のところへ来て、今撮影した写真を消せと言ってきた。まだ撮っていないと言ったら、チェックさせろという。仕方がないから、モニターを見せた。納得したが、彼は、オランダ人は許可をとっているからいいが、許可をとっていないものは撮影禁止だという。どこからどこまでだめなのか、何M離れていればいいのか、聞いてみようかと思ったが、やめた。その部落でも、彼らがいない場所では、皆さん、大歓迎で、写真を撮ってほしいと集まってくるので、自由に撮影できるのに、変だ。

 もう一つ確実なことは、パプア人の伝統的部落へ近づくには、案内人がパプア人に限ることです。パプア以外から移住してきた人種では、ちょっと、近づきにくいという印象だった。

 

 パサールでピナンに挑戦してみた。そこの人と運転手が二人して食べ方を指導してくれた。ピナンの実を出して。かじって口に入れる。そのあと、石灰の粉を何とかいう長細い植物の先に付けて口に入れ、一緒に噛み砕く、段々、赤くなってくる。という、しかし、私は、ピナンの実をかじったところまでで、その先には進まなかった。というのは、渋い、渋柿より渋い、舌先がしびれ出した。もう、そこで、吐き出してしまった。しばらく、渋さとしびれが残った。買ったピナンは運転手に渡した。インドネシア語で渋いという言葉が見つからない。彼らはパヒッド(Pahid)と言っているが、“苦い”、ではない。

 自由行動 恐れ知らず 向こう見ず

 

6月16日 サバール(忍耐) 1249 メラオケが正しいそうです。インドネシア語読みでは、ムラオケです。そして、パプア以外のインドネシア人のほとんどは、ムラオケと言いますが、地元のパプア人はメラウケというそうです。

 大河の名前はSungai Maro(スンガイ マロ)です。一つしかない貴重な橋の名前は、Jembatan Tuju-Wali-Wali(トゥジュ ワリワリ)と言います。地元の人々がそう言っているし、看板に書いてもある。

 

空港の名前はMopah(モパー)です。

 

ちなみに、今、世相が不安になっているジャヤプラの空港はスンタニ湖にあるので、Suntani(スンタニ)と言います。空港の名前はその町の名前ではないのがほとんどです。地図を見て調べたのではありません。

 

 メラクケの港のサンライズ。

 09;30出発の筈のバタビアエアが到着したのが、09;50でした。到着が一時間おこれ、案内のアナウンスは全くなし。ホテルからの出発を08:00で予約してあった。しかし、時間を過ぎても迎えの車は来ない、それどころか、運転手に電話しても、なっているのに出ない。15分過ぎて、ホテルの人に、タクシーを頼んでもらった。ホテル人曰く、飛行機はまだ、眠っているから、あわてることは無い、サバールヤ、だった。タクシーが来たのが08:30を回っていた。空港へ着いたのが、08;45出発口の前に車が近付いて、そこにまだ大勢の人が立っていたので、車をいったん止めた。降りようとしたら、運転手が、もう少し前で止めるから、待ってと言った後、サバールヤと言われた。08;55に出発ロビーへ入った。チケットには09:00搭乗と書いてあるし、渡されながら、ゲートと搭乗時間をチケットにかいてある通りのことを言われた。慌てて、中に入ると、バタビアの飛行機がまだ目の前に見えない。どこか離れているところに止められているのかなと、思っていた。その内、09;50に私が乗る飛行機が着陸したのでした。

 

それから40分後に出発した。途中、時間に余裕がないので、ジャヤプラでもマッカセールでも、外に出られなかった。ということで、そのまま乗っている人たちが機内のトイレで行列になる。後ろに二か所、どちらも、汚物が詰まってしまって使えないと、おっしゃる。メンテナンスが乗ってきて治したが、一か所だけでした。そして、給油が始まった。ところで、トイレは使用禁止なった。何故だか、釈然としないが、理由があるのでしょう。給油の間は席を立たないで座っていてほしいと言われて、トイレに行けない。給油が終わって、トイレで用を足して席へ戻ろうとしたら、そこからのる人たちがどっと入ってきた。ほとんど全員が座るまで、トイレの前で待っていた。

 

 それとは別に、メラウケからのった時に私に席21Fには二三歳の子供座っていて、21Eに母親が座っていて、21D10歳くらいの子供が座っていた。私に席にいる子は、当然、ただで乗っているはずである。母親にそこは私に席でと言ったら、21Cの席が開いていたので、そこを、指さして、そこへ座ったらいいでしょ、と言っている。キャビンアテンダントが通りかかったので、話したら、やはり、21Cに座ってくださいと言われた。窓から写真を撮りたいので、Fにしてもらったのにいい。ドアが閉じられてすぐに、後ろの方の27Aに移動した。後ろは空き席が沢山あることはチュック済みだった。

 ジャヤプラでわかったのだが、その親子、父が21A娘の一人が21Bもう一人が21D母親が21E、小さい子が21Fに座っていたが、引き続きマッカサールまで行くときに、乗ってきた座席チェックの若者がその子が座っているのを見て、搭乗券を見せてほしいと言って、見ていた。四枚に搭乗券で21AからDの席だったその通りに座らされた。母親が子供を膝の上に座らされてる。当然である。Fに私がいないのだから、マッカサールからEとFの人が乗ってくると考えられるからです。ところで、私はといえば、後ろの席に座っているわけにいかない。CAに私の席は空けてくれたかと聞いたら、開けたという、21Fにやっと落ち着けた。21Eに若い男性が座った。ところが、その男性、男のCAが、母親が子供を抱いているのを見て気の毒に思ったのでしょう。20Cが開いているからといって移動させられた。母親は子供を21Eに座らせることが出来た。今度は、私にまた、災難?が来た。その子供、母親の膝を枕にして、寝ている、母親もそうさせている。子供の靴を履いている足が私の席まで伸びてきて、頻繁に私を蹴る。子供はほとんどの間眠っていた。まったくどうしようもない。マッカサールで降りて行った。替って、マッカサールからのってきた青年がまた、問題あり、足を大きく開いて座る、膝が私に膝を押す、押しながら、貧乏ゆすりをする。肘は肘掛を乗り越えて私の横っ腹に触れる。そんなに、私に触りたいのでしょうか、気になって仕方がない。

 メラウケからジャカルタまで乗っていたのは、私の他に4,5人しかいなかったようだ、私は、機内であっちへ行ったり、こっちへ来たり、トイレでも困らされた。CAと話をする機会が多かった。そのうちの一人に、チャンティックがいたので、それだけが、救いだった。

 ジャカルタタイム16:30にスカルノハッタへ到着、例によって渋滞、家に着いたのが19:00を回っていた。サバール、サバールの一日だった。

 

 モラル 常識 気使い

 

6月17日 東西対角の両端  1250 “サバンからメラウケまで”、という歌の歌詞です。内容は、これがインドネシアの国土です、という意味です。たわいにない歌だと思うが、子供のころから歌わされているインドネシア人にとっては、心の歌です。日本の“故郷“とは、意味が違いますね。日本にはこういうたぐいの歌は無いですね。

Dari sabang sampai merauke  Berjajar pulau-pulau
Sambung menyambung menjadi satu
 Itulah Indonesia
Indonesia tanah airku
 Aku berjanji padamu
Menjunjung tanah airku
 Tanah airku Indonesia
 国歌と共によく歌われます。

 

余計なことだが、地図を見ると、ある程度の街としては、ジャヤプラの方が東で国境に近い。何故、メラウケまででしょうか、多分、サバンから直線で繋げば、対角に近いので挑戦が長くなる。それで、メラウケまでと、したのでしょう・

 だから、どうなんだということは無いが、取りあえず、両端を訪問しました。その雰囲気は相当違う。サバンはスマトラのバンダアチェの西に浮かぶ島、ウェーという島にある街だが、バリバリのイスラム地帯、女性は外出する時には必ずジルバブを使わなければならないし、肌を見せてはならない。そんなところですが、欧米人のためのリゾートでもある。ここからは、ビキニ姿で、出てはいけないという看板があるように、華やかな雰囲気もあった。しかし、メラウケは欧米人のリゾートの雰囲気はまったくない。広い海岸には、パプアの人々が訪れているが、ぶらぶらしているだけだ。また、パプアニューギニアとの国境がどこなのか分からないほど、ジャングルの中なので、ここが、端っこ、という雰囲気もない。ソタの部落の人々も、自由に行き来している、というより、国境という意識がない。一応、警備兵が詰め所にいるが、運転手がKTPを見せただけで、私がパスポートを求められることは無かったし、記念に帽子やTシャツはどうかと、言われた。そこから、国境へ100m進んで行った。そこには、住民がたむろしていて、世間話をした。燃料の枯れ木を集めに毎日、向こうへ行くし、水も向こうから運んでくると言っていた。

 

私は目印の場所で写真を撮ってもらって、10mほど向こうへ入って見たが、部落へは4km以上あると聞かされて、それ以上は進まなかった。

 最後に、本当に、未開の場所に興味がある方か、向こう見ずの人が思いつきで、来るか、とにかく、一般の平凡人では、こんなところへ来てしまったら、後悔するでしょう。インドネシアでは私が行くところ、どこでもそうだが、メラウケは特にそう思うが、日本人を誘って連れてくることはできない。もし、連れてきたら、食べ物や街の匂いや人々が持つ雰囲気や泊まる場所の状態などで、参ってしまうでしょう。

 

 日本人が来ることはほとんどないし、学校の傍を歩いて通れば、私が近付く前に、子供たちが寄ってくる、女学生も集団で寄ってきる。日本語で“こんにちは“と言ってやれば、全員から、”こんにちは”と返ってくる。そのあと、大笑いになる。こんな時、来てよかったなと思う。

 

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両端 貧困 ご気楽

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