ニルワナゴルフからタナロット
○ 独立
A やめて、フジプラ精工などでしばらく資金稼ぎをしていたが、その間、五十嵐機械(アイメックス),アオイ,ポリプラの研究所から、入社の打診があった。会社を辞めた理由はほかにもいろいろあったが、最大の理由が、上司の能力が低く、自分を正当に評価できる人がいないと判断してやめた以上、いまさらまた、サラリーマンというわけにはいかない。また、私の技術を認めてくれている方も何人かいてくれると思っていたので、一人でスタートすることに全く不安は無かった。むしろ、自分の精神的満足感のために、仕事ができようとしていることの期待が大きかった。当時、脱サラという言葉が流行し始めていた。
なにはともあれ、自然流で、成り行きで次の人生に突入するしかなかった。
B 辞めて一年半後31歳直前になっていた。40mmφが一ラインあれば200万円/月売り上げる自信があった。貸工場を探し、押出機や引取機の中古を探した。準備した資金は400万円、(夜勤専門の12時間勤務での約年収の二倍)機械設備と電気工事代で200万円が消えた。個人で始めたので手続きは無く、簡単に社長になれるものだという印象だった。押出機は自分で解体してスラストベアリングなどを交換し、何とか使えるようにした。ある人が「こんなポンコツ押出機でやるの、こんな引取機でひけるの、本当にできるの」とびっくりしていたほどの代物だった。何年か後に、その人(現アオイの社長)が会社に来たときに、PCチューブを30m/minの速度で安定して作っているのを見て、「押出は機械じゃないね、やっぱり、腕だね」と納得して帰ったことを記憶している。
C「人は見かけによらない、」という言葉が、気に入っている。いい意味で人の判断を誤らせることが、気持ちいい。ぜんぜん社長見えない社長、一見ひ弱そうに見えて実はスポーツ万能、くそまじめで無趣味に見えて実は行動的で多趣味。実に痛快である。会社も同じ、外見より中身、借り物の新しい技術より、自前で積み上げた地味な技術、表立って自己主張はしないがゆるぎない主張を持っている。装置もそのとおりで、いろいろな無駄なものがいっぱいくっついている高価なものより、シンプルで、それにぴったり合った性能を備えているもののほうが良い。先が見え難くなっているときを淡々と乗り切れるのはそういい人や企業だと私は思う。
D 生産可能になってすぐ、待っていてくれたかのように、ある会社から、スパイラルチューブに加工するためのチューブの注文が入った。一週間運転して60万円の売り上げ、この仕事は2年ほど続いたがその会社が倒産してしまい750万円ほどの不渡りをくらった。しかし、予想ができていたことで、実質被害は原料費の100万円ほどだけだった。また、その時には既に二ラインになっていたし、400万円/月ほどの売り上げになっていて手形を割る必要はなくなっていたし、おかげで、その会社の納入先と直接取引が、それも、倒産した会社からスパイラルカット機を持ってきて、スパイラルチューブにして収めるようになった。このこともラッキーだったと思った。N12チューブやPCチューブなど生産が加わり、5年後には三ラインで1000万円以上の売り上げになっていた。順調すぎるくらい順調に会社はのびていった。この頃から、自分がほかの人と比較してついている人間だと、はっきり意識するようになった。この後もそのラッキー一本で今まで経過してきた。ツキは今も持続していると思う。
E 1981年 沼津の貸工場が狭くなってしまったのを機会に、静岡の貸工場に本社を移転した。沼津工場は工場長を始め従業員も仕事も全部そのまま残した。本社はまたゼロからのスタートで全く新しい客先を開拓した。すぐに静岡の葵プラスチックス(株)を通して、南部化成(株)(佐々木会長には今でもたまにゴルフを誘っていただいている)から、V0ーPPの丸棒やV0ー6Nのスパイラルチューブの注文が入り、K工業とも本格的な取引が始まった。それだけでも、十分だったが、K工業をやめて独立した方々からもどうしてもやってくれと言われ断れずに、始まってしまった。スパイラルチューブをやっていたことで、なんとなくお客さんは電材屋さんが多かった。
50坪の工場は3年で狭くなり、1985年、現在の太田化工の本社の場所に移転した。40才だった。手形を預けていた高校の先輩で静岡銀行の用宗支店長が、必要ならお金は出すから、自前の土地を買ってもう少し見かけを良くしたらどうかという提案があり、その土地まで用意してくれた。その気になって、はじめて自前の土地の上に会社が建った。バブルに乗じて仕事も利益も私としては予想以上に伸びてしまっていた。ただし、そのころは、生産に追われてしまって、技術開発という点では強調するものは無かった。生産に追われてそれどころではなかった。次第に、経営者ではない技術者としての自分の状態に強い不満が出てきた。同じことをしている仕事が面白くなかった。このまま静岡の片隅に収まってしまうこともあまりにもつまらなそうに感じ出した。危機感を感じだした。50歳のころ、まだ自分が動けるうちに、海外で技術指導をしながら、別の世界を知りたいと思うようになっていた。その後準備を着々と進めた。そのための人材を求め、育つように願った。自分の気持ちが揺れないように、また、社長を交替したときに、余計な心配をかけないように、取引先の商社や客先、原料メーカーの皆さんには「50で社長を辞める」と言い触れ回した。ただし、まともに信じてくれる人はほとんどいなかった。
本社工場が狭くなり、第二工場を稼動させたころから、バブルの崩壊が始まった。
F そこら辺の何年間の間に、こんな話もあった。納入先の社長さん、私の会社に訪れるたびに、こちらは、「この仕事は誰にでもできるほどやさしいものではない、かなり器用で機転が利いて勘が良い人でないと難しい」と説明してあるのにもかかわらず、どうも、簡単そうにやっていて利益がどんどん上がっているように見えるらしい、「そんなに儲けさせることはない。自社でやってみよう。」と、考えてしまうらしい。どこからか設備を購入して、始めてしまった会社が4社あった。東方電材、アオイ、名取製作所、厚木プラスチック。しかし、注文は減るが、しばらくすると、こちらには色々なルートから、情報が入ってきて、先刻承知なのに、「実はうまくできない、技術指導を頼みたい」といって来るのが決まり。結局、止めてしまったか、荷物になってしまっている。中には「設備一式買ってくれませんか」で、買い取ってあげた会社もあった。注文がなくなってしまうことはない。私の普段の外見だけを見ていると、本当に、簡単にやっているように見えるらしい。
こんな話もある。従業員を採用するとき、工場の中に入ってもらって見学をしてもらう。その後仕事の難しさを説明するが、もちろん、分かってもらえない。誰もが自分にならできるという。製品ができてしまっていて、ただ、流れているだけのラインを見ているのでこんな楽な仕事は無いと思うらしい。件の社長さんと同じだ。実際仕事をやらせてみて自分には無理とわかり、辞めていってしまった人が何人いたことだろう。 インドネシアで教えた会社もその点の理解が足りなく、送られてきた日本人の若者は全て能力が無く、見込みが無いので送り返した。現社長がまたひどい無理解、無知で、いても仕方が無いので、匙を投げて帰ってきた。
現在、太田化工に残っている人間は、私ほどひねくれ者ではないが、押出技術に関しては一流のプロフェッシナルに育っていると思う。彼らも外見では緊張感や危機感は感じられないが、ほかの会社が作りたがらない製品を確実に作り上げている。のびのびと仕事をしてくれている。余裕が感じられて、遠くから見ていてもうれしい。私が余計な口出しをする必要は全然ない。
○ インドネシアへ
A 1994年末をもって、計画どおり、社長を辞めた。十分な内部留保を残し、銀行にも絶大な信用を残したまま、後継者にあとをまかせた。50歳2ヶ月でした。「ゼロから始めた会社だから、ゼロになっても構わない、自由にやってほしい」と、いってある。自分としては事前に十分周知させたと思っていたが、社長、桑原君、交替ということで、何か重大な問題があるのではないかと様子を伺いにきた会社もあった。当然といえば当然か、普通ではないのだから心配するのが当たり前か。
脱サラをしたときもそうだったが、その時も、気持ちは淡々としていた。誰に相談することもなく、すべて自分で決めたこと。迷惑をかけた人がいるかもしれないが、逆に言えば、その人たちは私に頼っていた人たち、プラスがゼロになっただけに過ぎない、それに前々から予告してのこと、それぞれが自立する良いチャンスになったはずだ。沼津工場はそれ以前に工場長に客先ごと譲ってしまってあった。(株)セピックという。社長は佐久間君。
現に、私が放り出しても、バブル崩壊後でも、空洞化が限りなく加速している日本においてでも、規模は小さいながら、それぞれの会社は、健全経営を継承し、対外的信用も維持している。自分がやってきたことは間違っていないと思っている。
「理解できない、なぜですか」と、よく聞かれたし、「自分の思うようにできることが、うらやましい」「もったいない」とも言われた。しかし、人と違うことを考えているのだから、理解はしてもらえないだろうと思いながら、「自分の気持ちに正直にやっているだけで、これが一番、気が落ち着くし、自己満足に浸れるから」と答えた。何億の財産より、自由に自分の思うとおりになれることのほうが魅力を感じる。「何もそんなに苦労しなくても、会長か何かで悠然としていればいいのに」といわれる。私にとっては、人が見て苦労ということがむしろ楽しみなのだから、悠然としていることが苦痛なのだから仕方がない。
B 1996年 人生計画の通り、かねて希望していた海外での技術指導をインドネシアでできることになった。この押出成形の技術に関して、かかわりだして以来、最初、教えてもらったこと以外には、他人の技術を真似たことも参考にしたことも無い、すべて自分のひらめきでやってきた。インドネシアでも同じこと、30数年以上、その場の責任のトップは私にある。その場の責任を他人に押し付けたことはない。人ができることは、人に頼めば済むこと、人にできないことを自分でやる。それを他人にできるようになってもらう。また、他人がやれていることを自分でもできるようにすることよりも、他人にできないことに挑戦する、他人にできてしまったら、そうでないものをまた探す。自然の流れである。一生懸命や努力などという言葉や行動は好きではない。無理をしてはいけない。できる範囲のことしかできない。人間には向き不向き、得意不得意が必ずある。能力の差も絶対ある。顔が違うようにその中身もすべて違う。押出の技術というのはそういうところにあって、現在あるものがほどほどできるというだけでは、技術を習得したことにならない。何も無いところから新しいものに挑戦し作り上げてしまう裏付けをもてるようになってこそ技術者といえる。できない、できないでは、何の技術も持っていない人と同じだ。コンピューターを扱える、という人がいたとする。その人程度に扱える人はいくらでもいるだろう。機械や電気関係の修理ができるという人がいる。その人程度の人もいくらでもいる。何の特徴もない一般的な人に過ぎない。それはそれでいいのだが、自己主張するほどのものでもない。
独立、自立ということは、会社を自分で作るということより、その場の責任をすべて負えるということで、他人に責任を負わせることができない状況に持っていくことだと思う。
2007-11-01にインドネシアのPT.AFMIに就職したが、入ってみて、すぐに感じたことは経営が洗練されていないことだった。継ぎはぎだらけのその日暮らし。組織やシステムについても未熟、それで、会社の体質が固まってしまっている。経営者がそれで最良と思ってしまっているので、外部から後で入った人間にとってはいかんともしがたい。装置の不足については、手に負えなくなった前の会社から譲ってもらうことになったが、その交渉についても、双方とも間が抜けているので、結局はお客さんや従業員に迷惑がかかることへの気遣いがないまま、迷惑をかける羽目になってしまった。私の意志とは全く違う方向に行ってしまった。
この会社にいる意味がなくなった理由の一つになってしまった。
経営をやめて15年、65才になったところで、現状を考えた。独立心、自立心は持ち続けたが、実質は相談役だったので、自分の考え方とちがう、または、レベルが低いと思う人間ばかりの下で働いた。自分より若い人の新鮮な考え方に若干の補足をする形でいればいいと思っていたが、すべての私の上にいた人たちの能力、知識、何より気持ちの扱い、人の扱いの幼稚さに不満、ストレスが溜まっていった。
やはり、方向を変えることが必要に感じる。そこで、今の会社での仕事は一年限りにすろことを2008、9、30日に宣言をした。理由は6っつある。そのうちのそのうちの一つは書いたがそのほかの理由についてはこの会社を離れてから書く。
多分、今、誰が推測しても当たらないでしょう。
2019年、既に75歳と4カ月、インドネシアから、何故か離れられず、仕事を続けている。あと一年で、どうなるか、終わりにしたい。