1998年5月の大暴動の時でさえ、インドネシアから脱出どころか、二日後には、自分一人チカランから、料金所が破壊せれて自由通過の高速道路に乗り、キジャンを運転し、ジャカルタのスマンギから、メガモールプルウィット(ジャカルタ北端)まで、写真を撮りながら縦断した、それほど何もかも平気な特殊な私ですが、普通の人が掛からない病気にかかり、大変なめに会いました。
  また、一番身近なはずの人たちが、無理解だったので、なお、えらい目に会いました。この時ばかりは、平気ではありませんでした。大部分の人は、この病気にかかる事はないでしょうが、私のような症状の人には、周りの方たちは、ぜひぜひ、その人の身になって、考え、できる範囲で手伝ってやってほしいと思います。くれぐれも邪魔はしないように。
  外国、ましてや、インドネシアです。その上、強烈な邪魔者はいましたが、自分の手伝いをしてくれている人がいると思うと、どんなに心強いかと思う。
あなたは、典型的な”パニック障害””Panic disorder”と言われた時には、ピッタリの名前だと思った。何回、死ぬかと、もうだめだと、うろたえたか。以下は、私の体験記です。

○ 一人でなくて良かった

 現在 発病以来約一年近くになります。すでに普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。

大変でした。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、頭や胸部のCTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、耳の平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査、呼吸器官のカメラも全て異常なし。数値的にも視覚的にも正常中の正常でした。症状がこんなに出ているのだから、異常ないでは困るのです。病名を早く特定してもらいたのです。治療が出来ない。

インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、(どちらも日本人医師がいる)Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。

 この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお
、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。

日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、だだごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。

これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。アマチュアスポーツマンに多いとい言っていた。10分ほどで、紙袋の効果か、治ってしまった。何をしたわけでもない、紙袋を被せられただけだった。
 (インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。
過呼吸と診断した病院は無かった。其のたびに看護婦や看護士を怒鳴った。こんな状態の俺を何故、ほっておくんだ、早く何とかしろと。こんな患者早く死んでしまえと思われたかもしれない。)

間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。一人の看護婦から、明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。その看護婦はどんな人だったか、名前も覚えていない。

翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。今まで、検視したデータを見ながら、とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90-100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、

1 息苦しい(呼吸困難)、2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い  5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気 10 手足がしびれる 11 体のあちこちでちくちく感じる 12 気絶はしないがしそうになる 13 死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい 15 一人でいるのが怖い 16 それらがおさまっても、それらに対する恐怖心がある。

続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。

全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。大分、症状が改善されていますが、息苦しさが若干残っています。明月1日今の薬の確認をしてもらい、改めて、処方をしてもらうことになった。

発病、一ヶ月にして、やっと、ここまでたどり着いたと言う感じですが、もうしばらくで何とかなりそうです。コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。

現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。
 ほとんど発病前にもどっていますが、医者からも強く、一年近くはのんびりしなさいといわれているので、発病前と同じような行動は取らないように心がけています。ぼちぼちやろうということです


  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KIIと完全に切れた。三人のPDの元で9年間非常に充実していたが、四人目のPDが着任してからは最悪の最後の一年でした。

 無知のきわみ
 ここでは、反論を期待するため、敢て、実名をだしている。

ずっとさかのぼって、この事件の一年半前ころ、それ以前は一人だけだったので歯止めが利いていたが、かなり程度が低いお二人さんがそろった状態で会社を任されることになった。私が「通といえばかあ」ならいいが「通といえば鈍」「通と言えば????」になった。挙句に直ぐ二人ともプッツンする。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにした。なお、程度の低い同志が気が合って、勝ち誇る。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。「Apa boleh buat」である。
  この事を踏まえて次の話に入る。

 今度は一年ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった。

 2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。

しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目眩止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、その足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。

その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。

発病して二日後、トップのPDに状況を電話で知らせたとき、電話で最初に日本人の医者からは飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できないといわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、平野という社長から出た言葉、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。
  知識、行動力が私の100分の1も無い人が、私に、「悪い事言わないから」と、アドバイスしようとする、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。
  一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、平野社長、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたか説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。PDもNo2のMGも、ぜんぜん聞いていない。PD、全く私の話を無視し、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。MGは「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。

それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人の三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。

MG曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。平野曰く「北川社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまだ言っていた。北川社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していない北川社長が早く帰国せよというのは、まったく、見当はずれである。北川社長が言っているといえば効き目があると思った平野の口からでまかせとしか思えない。愚かな人だ。

この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、メディカロカは休みだったが、竹の子が開業していたので、電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人を紹介してください」というので、NO2を紹介しておいた。だから、竹の子の医師からNO2に電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、NO2があたかも自分が全て、段取りをしたような口のきき方でのたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話を社長に向けにしようとしている。

私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、藪医者が何を言っても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れていた。

月曜日に退院し、救急車の助手席に座って、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、予想通り原因はわからず、帰国を勧めることはできない、じゃあ、どうすればいいの?先生は、ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、だけだった。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半規管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。

平野と伊藤が遅れてきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」

医者、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」私が、前から、そう報告してあったのに、私の言葉を無視していて早く帰れと言っていた。そんなことは、すっとんでしまって、保証問題と云われて、頭がパニックになってしまった。

平野と伊藤は、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要項目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、北川社長にはどう報告するのかなと思う。

私は、SOS病院からビンタローのインターナショナル病院経由でシンガポールの病院へのチャーター便で行く手段としてあることを知っていました。菊池医師も平野も伊藤もそんなことは全く知らない、知っていても手伝いは出来ないので、私はその手段について話さなかったし、話しても、聞かない振りをするでしょう。二人ともそんな知識も行動力も無いので、そんな方法は100%考えられない。私が逆の立場なら、先頭に立って手段を尽くして手伝いをするのに、彼らには出来ない。私にとっては厄介者で足手まといなだけだ。

朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師も平野、伊藤MGもインドネシアの病院事情などなにも知らない。MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアと彼らから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センターに行くことにした。私にとっては、彼らが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、彼らを待たなければならない。その日の夕方、入院手続きをして入院した。手続きはいつもの通りマリアさんと私がやる。彼らは何もしない、大男がくっついてきてうろうろしているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。

 彼らがいるので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様にと」言い残していなくなった。私の病気についてはどうするの?である。

 11、12,13日、Oさんがユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。数日後に、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。感謝です。

 もし、平野に話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、そして、誰にも告げず13日、退院手続きをし、22時病院から直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で感謝感激で分かれた。私が言ったことを聞かずに、自分で確認することもしないで、帰れ、帰れと言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、帰ってはならない、になってしまった。私が、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、私はとんでもない奴だと、話したそうです。今でも、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。彼らのパワハラによって病気になって、病気になってからも、イジメ抜かれた。手伝いの手の字も彼らにはできない。それほど、何も、行動できない人達でした。仕事を取れないので結局、その三年後には、会社を閉じることになった。閉じる仕事もまともにできず、決定してから二年以上かかった。仕事の引受先も、工場の売り先も、私が段取りをしなければもっと長引いたでしょう。

とに角、インドネシアから脱出した。飛行機の中も一睡も出来なかった。一人で、このまま、死んでしまうと何度も恐怖を感じた。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココまでAIUが効く)にたどり着いた。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。ここでは、横になる場所を貸してもらうだけで、何の検査や診断もしない。家まで、朦朧とした状態で、よく、自力でたどり着いたと思う。


 最初から、他の人に出きるだけ迷惑をかけないように、私自身が、帰国のタイミングを探っていたのです。早ければ早い方がいい。そのために、いろいろなところへ行き、いろいろな専門家の意見を聞きたかったのでした。しかし、結局、どこからも、誰からも其れに従おうという処置や意見を聞くことはできなかった。一番、私が助かったのはマリアさんの行動力でした。彼女のおかげで、行動ができたし、帰国もできた。私が、もともと、彼女を助けたのですが、それ以上に彼女は、私の我侭を聞いてくれた。其れに引き換え、平野社長と伊藤NO2の無知と行動力の無さと、気遣いの無さにはほとほとあきれるばかりでした。日本人の大の男で普段威張っているだけの大男達は、言うことなすこと、ピントが外れていた。「Apa boleh buat」だった。

 
どこまでもひどいもので、彼らは他人に、私が頑固で彼らの言う事を聞かない困った人だと言っているし、自分たちのお陰で、太田は助かったと言っている。冗談じゃない。彼らのパワハラが主因で発病した。中傷ではない、真実である。それは本人たちが一番承知している事であるが?マークが付く。将棋で言うなら、自分が王、その周りある駒は桂馬くらいのもの、他に何もない。それで、将棋を指そうとし、全部そろっているこちらの陣の玉の周囲に何もないとしか見えず、参ったかと、大音声を上げているようなもの、こちらが、金も銀も飛車も角もふも揃っていますよと、いくら説明しても、彼らには何も見えない、と同じ事。あいつは、参ったといわない、と、周りにふれ回っていると同じ事、厄介な駄々っ子である。
  皆さんはくれぐれもこういう目に会わないように祈っています。もしこういう目に会いそうなら、私に相談してください


パニック障害 その後 ★

薬を飲んで治ったが、20ヶ月経過、薬を飲み続けている。医者から、もういいというまで、飲み続けるように言われている。
 この薬は、神経を使わなくする薬、頭を使わなくさせる薬、サボらせる薬である。だから、ずっと、体が重い、だるい。運動をするのも頭を使ってなにか考えたり、コンピューターに向って文章を書いたり図面を書いたりすると直ぐ疲れるし、止めたくなる。眠くなる。いつもあくびをしている。注意していないとつい、他人と話しをしている時でも大あくびが出てしまう。
 体も頭も休めなさいという薬です。この薬のせいかどうか、体重が二年弱で12Kgも増えてしまった。食事を増やしているわけでもない、むしろ、ダイエットのため食事を減らしている。それでも、体重が落ちない。
 ほどほど、運動はしている。ゴルフは月二回以上、山の中に入るハイキングも月に二回、工場を歩く時は、早足で歩いている。
 40年一日40本吸っていたタバコをきっぱり止めたからが、最大の太る原因になっているかもしれない。コーヒーも好きで一日最低三杯飲んでいたのを止めた。これも原因かもしれない。 酒は飲めない、タバコは吸わない、コーヒーも飲まない。仕事をしていても、頭を使っていても疲れる。是では太らない方がおかしいかもしれない。
 ともあれ、現在は、こうしてインドネシアで仕事を続けている。パニック障害も引っ込んでしまっているが、なんとなく、だるいのは薬のせいでしょうか、年のせいでしょうか。 
 死ぬと何回も思った。インドネシアでも日本でも医者にこんな状態の患者を放っておくなと、叫んだ。看護婦に何とかしてくれ、早く医者を呼んでくれと何回も頼んだ。マリアさんには夜中に何回も病院まで連れて行ってもらった。日本でも救急車は呼ばなかったがタクシーで数回、大きい病院の救急センターに飛び込んだ。その都度、ただ事ではないパニックになった。いつくるか分からない恐怖は、なった人でなければわからない。
 それが、今は、ケロッとなくなってしまっている。しかし、何処か、以前と違う。このままでいいのでしょう。なにも、今は他人の世話になっていないのだから。

 2009 01 03 発病以来二年半 コンスタン パキシルをパニック障害鎮静用で、また、副作用?の胃酸過多を防ぐために、タケプロンODを毎日服用してりる。この三点セットで、一応、安心して過ごしているが、試しに一日二日休んで見ると、ふらっとした状態になるのでまだ治っていないと思い、飲み続ける。一回に90日分処方されるので三か月に一回日本へ帰って専門医に相談している。

 薬の効果?副作用?常に体がだるい。眠い状態が続き、油断すると大あくびをしている。昼間、何回もあくびをする。仕事をしながら、ゴルフをしながら、あくびをしている。


パニック障害の症状追加

先日書いたことの追加です。

体のあちこちが頻繁につるようになった。それが、また、強烈になり、じっとこらえていてもなかなか治らない。手足がつることは今まであったが、おなかや肩から首にかけて、脇腹、アキレス腱やその前の足と脛の間の筋だったり、思いもかけない場所が突っ張る。

ゴルフが終わった後は必ず吊るようになった。車の運転で帰る途中、高速道路の脇で止めて暫く休むこともあった。ハイウェーパトロールから何回もどうした、とたずねられたことがあった。ハザードランプを付けていれば、ペナルティーは取られなかった。オートマに変えても右足が吊るので同じことだった。コンペ後の表彰式や会食をしている時も途中で吊ってしまって、皆さんに何度も心配を掛けた。以前は、こんなはずではなかったのに、歳のせいかなと思ったりしたが、自分みたいな人は他にいないわけで、異常だと感じていた。

子供のころから力が無いことは知っていた。ゴルフを始めた時56歳でした。その時、ドライバーでランを入れて、170m平均でした。ところが、60才を過ぎたころから距離がすくなくなって今は150m平均です。100mは5番ウッドを使います。アイアンは7番より短いものしか使えなくなった。

ボルトを締める力、何かを持ち上げる力これ等も少なくなっているのが分かる。ボルトを他の人に頼むと、私が締めた後、同じ道具でもっと締まるし、他の人が締めたボルトを緩めようとすると緩められない。長い、パイプを使わなければならない。その度合いが多くなっている。歳のせいばかりとは言えない。

難病の筋萎縮性側索硬化症(ALSではないことは分かっています。この病気の人を何人か知っていますが、進行速度や症状は似た処はあるが全く違うことの方が多い。

力が無いこと、力が減少していることを他人に話しても全く信じてもらえない。

ついでに、信じてもらえないことが私にはある。それは、近眼がまったく治ってしまったことです。これは、パニック障害と関係はないと思いますが、色々な症状が現れたころから、18才から掛けていた近眼のメガネが邪魔になってきた。老眼(遠視)のメガネが必要になり、その前までは、いちいち、交換して使っていたが、そのころから、交換しないで、近くを見るときだけ老眼を使うだけになった。運転免許証、パスポートの写真はメガネを掛けない顔に変わっている。

  パニック障害が治ってしまったと思われる今、体のあちこちが吊るという症状は無くなった。しかし、力が衰えていること、近眼が治ってしまったことは其のままになっている。薬の所為かどうか、分からないが、疲れやすいこと、いつも、眠いことなどは、若い時に比べれば、歯がゆいことですが、年齢の所為かと、思っている。

 

治せないパニック障害もある

 息が出来ない、吸うにも吐くにも喉というより気管が狭くなっているようで困難。苦しくなる。頭がボーとしてくる。苦しいのでなお深呼吸をしようとする。しかし、苦しさは無くならない。もう、完全に、パニック状態になる。このままでは死んでしまうと思う。

 本当はしっかり呼吸が出来ているのにそう感じるのです。其のうち、体の手足が冷たくなり、体全体が冷たくなり寒気を感じてくる。体がぶるぶる震えてくる。バイブ微動で震えるのを通り越して、ガタガタ体が動き出すようになる。頭はしっかりしている。もう、黙って我慢はできない。大声で叫んでしまう。「もう駄目だ、なんとかしてくれ」と。典型的に過呼吸症状です。血液中の酸素の量が多くなりすぎているのです。

 耐えていれば自然に治る。しかし、呼吸を止めれば早く治る。自分や周囲の人がそういう知識を持っているかいないかで苦しみは大いに違ってくる。

 

 心臓の脈が抜けて目が回り気を失いそうになることは何度も書いていますが、その逆で、脈拍数が異常に上昇するのです。体中がカッカとほてってくると共に、頭にもずきずきと血が回る。体中が真っ赤になる。目が充血してくるのも分かる。ドンドン体温があがってくるのを感じがする。体温は40℃以上になる。この時も、もう、心臓が飛び出しそうにがんがん動いているので、ただ事ではない、もうだめかと思う。この時も、介護する人は、ただ、とにかく、冷すしかない。一時間ぐらいで正常に戻る。

本人にとっては症状としては大変なことだが、死ぬことはないのです。気を失くことも無いのです。だから、冷静になり行きが過ぎるのも待っていればいいのです。パニックになる必要はないのです。しかし、この症状でパニックになることはない、と言われたって、冷静でいられるはずがない。だから、病名がパニック障害なのです。決して、大げさに書いてはいません。事実です。

目に見えない、自分の体に何の症状も無い、そればかりか、地域の人に何の症状も無い、しかし、パニックになっている人がいる。放射線のことです。それも、半端な数ではない。レディ ガガのように日本を応援に来る有名タレントもいれば、ジャスティン ビーバー本人ではなく、スタッフのように尻ごみして日本公演を中止?してしまっている外国人タレントも多い。日本からの野菜や魚は全部、放射能に汚染されていて食べれば癌になるとか、日本人は放射能に頭を犯されていて、言っていることは信用できないとか、言っている人種もある。パニック障害なら私のように薬で治る可能性があるが、放射線パニック症候群には付ける薬も飲ませる薬も無い。無駄な介護はせず、見放すしかない。

 本物にパニック障害も知らないからパニックになる。他にも知識が無くてパニックになる事柄は山ほどある。その上に、風評をばら撒き、多くの人に迷惑をかける。無知で他人に迷惑を掛けることは罪です。物事は冷静に知ることに努めましょう。

 これを書いたとき、2009年ごろ、パニック障害は完全に直ってしまっていた。薬は、お守りとして、持っていて、飲む必要はないと思うが、ちょっと眩暈がしたときに、一回きり飲んでいる。


貴重なご意見ありがとうございます。
 
2009-04-25 御本人にも了解していただけると思いましてここにそのまま貼り付けさせていただきました。私はインドネシアでどうしてもやらなければならない使命感のような仕事が有りますから、最低5年は仕事を続けます。それ以上できます。

はじめまして、45歳、男、独身、自営。

インドネシアに興味があってネットで色々な方のブログや情報を集めていたところ、貴殿のブログ&ホームページにたどり着きました。

ブログを拝見しているうちにぐいぐいと引き込まれ、豊な文章力と豊富な話題に感服いたしました。ブログにおいてはバックナンバーまで3日ほどかけて全て読ませていただきました。

お会いした事もお話したこともない方をこれほど共感、感銘、リスペクトした自分に驚いている次第です。インドネシアのこと、また仕事の事、どれも私の興味のあることで大変楽しませていただいております。

 

さて今回、メールさせていただいたのは、貴殿のパニック障害についてのことです。

貴殿が体験された苦しみは100%理解できます。はい、そうです私もパニック障害だからです。

私は地獄のような苦しみを1年、その後ほんの少し楽になって2年、合計3年間は闘病生活をすごしました。と、過去形になっていますがそれから1年ほどで現在に至るのですが完治したとは思っていませんが、日々の生活において不安や苦痛は一切ない日常を過しております。

私の場合、一切、医者には行っておりません。これを言うと「なんだ、たいしたこと無かったからだ!」と言われそうですが、それはまったくの誤解で、病気自慢をしても仕方ないですが、おそらく貴殿と同じかそれ以上の苦しみを体験していると思います。

なぜ、医者に行かなかったのかと申しますと、最初はそういう病気があるということを知らなかった、気持ちの持ちようだ、自分の意思(気持ち)がマイナス思考過ぎるのだ、自分自身が情けない、自分がしっかりしていればこんな事にはならない!と、言いきかせていたのですが、だんだんひどくなってきてネット等で調べるうち、パニック障害と言う病気である事がわかりました。

色々な方の情報をネット上で拝見したのですが、どうも病気である事を皆でいたわりあっているだけの内容が多く自分の病気自慢やこれほどの薬をこれだけ飲んでいる、と言った薬自慢が多いようです。少し前向きな内容でも「私もひどいよ、皆も頑張ろうね!」と言う内容が多く、マイナス同士がいくら集まってもマイナスにしかならないのにと思いました。「私はこうして抜け出した!」と言う内容があまりに少ないように思いました。

そんなマイナスな渦の中に自分も入っていくのかと思うと、絶対に嫌だ!自分はこうはなりたくない!と強く思い、それが私の場合、病院に行く事をかたくなに拒んだ理由です。病院にいけば病人であることを認めることになる!そうなると抜け出せないぞ!と言う思いで、医者には行かず、薬を使わず病気と闘いました。

毎日毎日、どこにいても何をしていても不安と恐怖は付きまとい、毎夜一人になるときが苦しみのピークでした。

どのように戦ったかと言うと、ひたすら耐えるだけ、それだけです。

あまりの苦しさに最後は、この苦しみの先には何があるのだろうか?死ぬのか?等々自問自答し。

最後は戦いを放棄して、もうどうにでもなれ、死んだら死んだ時や、自分の力はそれだけのもんや、自分自身の強さにかけてみたのです。いわゆる開き直りですね。

ベッドで苦しみに身を任せてじっとしている時、おそらく脳内のストレスが頂点に達したのでしょう、その時、突然訳もなく、とても爽やかな至福感に包まれていきました。

いわゆる脳内麻薬(エンドルフィン)が自己防衛のため分泌されたのでしょう。この体験は衝撃でした。これをきっかけに症状が出なくなっていったのだと思います。

パニック障害では絶対に死なない、どれだけ苦しくても最後は楽になる、と言うことを実際に体験する事で、安心感が生まれ、そうすると不思議な物で不安になる理由がなくなったわけです。

 

で、差出がましいようですが貴殿のことについてです。

現代の日本の医療事情はひどい部分があり、薬に頼りすぎています。とりあえず薬を処方して、症状を抑えれればそれで良い。心療内科系の多くの医師に患者を治すという意識が無いように思います。「ハイ、パニック障害ですね、じゃぁこの薬を飲んでれば大丈夫ですよ~」ほとんどがそれですね。

「私が付いていますから、おかしくなったらいつでも来なさい、私と一緒に病気と闘いましょう!」なんて先生はほとんどいないのではないでしょうか。

貴殿もそんな現代の医療環境の犠牲者のお一人だと思います。

パニック障害を治す薬はありません。症状を止める薬があるだけです。薬には必ず弊害があります。その弊害は貴殿自身が一番ご存知でしょう。

 

失礼ながら貴殿が勘違いされていると思うことがあります。

最近でも感じておられる

>>頭が重い、常に眠い、たまに、頭がくら~~~っとするなどの症状は未だに引きずっ

>>ている発病以来、今の薬を飲み始めたら、すぐにパニックになる症状は無くなってし

>>まったが、現在の症状はあい変わらずである。三年近く過ぎたが、すっきりしてしま

>>う薬はないものかと思う。

>>不安から、解放されることはない、いつも意識をさせられている。

これらの毎日の貴殿の症状はパニック障害の症状ではないです。今飲んでる薬の弊害であり副作用が出ているだけです。

これからも毎日薬を飲み続ける生活と薬をのまないでも大丈夫な生活、どちらをお望みかは聞くまでもないことですね。

まったく関係ない私がまったく知らない人にこうやってメールするのも不思議な縁ですがこれをきっかけに、薬抜けにチャレンジしてみてはいかがですか?

いいんですよ、失敗しても、薬を飲めばな楽になれるのですから失敗を恐れる事は無いんです、貴殿はタバコをやめれました、やめれない人は多いです。やめれない人はニコチン中毒(肉体依存)ではなくて精神依存に勝てないだけです。

貴殿がタバコをやめれたのは精神依存を振り切れる力があったからでしょうか?それも少しはあるでしょうが、それよりも貴殿の体自身がタバコはやめた方がいいよ、と反応したからだと思います。もうそろそろ薬もやめた方がいいよ、と、体が反応してくるころだと思います。

自分の体の強さを信じてみてください。貴殿の今までの人生をブログを通じて拝見しました。こんな病気にいつまでも負けている人ではないでしょう。とりあえずチャレンジしてダメだったら休憩、そして気が向いたらまたチャレンジ。それの繰り返しでいいと思います。

薬の量を少しずつでも減らしていけるのではないかと思います。

 

貴殿から見ればまだまだ若輩者の小僧の私ですが僭越ながらアドバイスさせていただきます。

薬を徐々に減らして行くために常に思っておくことは。

 

パニック障害では死なない。

もしそれで死んだらそれまでの人間とあきらめる。(笑、大丈夫死にはしません)

辛くなったら薬を今までどおり飲めば良い。気が向けばまたチャレンジ。

 

貴殿の服用している薬を調べましたところ、どちらかと言うと依存性と副作用の強い薬ですね。3年間ものみ続けているのですから、いきなり全てやめることは無理ですし、そんな冒険はやめた方が良いです。徐々に減らしていく錠剤なら割って量を減らしていく。少しずつ少しずつでも良いです。まだ2種類の薬を飲んでいるのでしたら、どちらかからでも良いです。どちらか一方の薬は必要ないかもしれません。今日はこっちを少し減らして・・・・そのような試行錯誤は得意分野でしょう。

3日に一度は薬を抜く、そんなやり方でも良いでしょう。

 

私も完治したとは言いませんが、何とか日々健康に暮らしております。その手助けになった一つに、おどろくほど効果があったのが呼吸法です。偶然ネットで見つけて騙されても損は無いと、信じてやって見ました。これは効果ありますよ。

http://panicom.jp/index.html

 

http://panicom.jp/cure/index.html

 

特に貴殿の場合、過換気症候群(過呼吸症候群)の傾向があるのでこれをマスターすればもう怖い物無しです!!

薬抜けをする前に1~2週間、練習してみればいかがですか、ホームページでは10分間を一日3回、としていますが私は夜寝る前に5分程度しているだけです。それでも効果があり、日常で、やばいかな?と思ったとき実践すれば不思議と収まりますね。

脳に送る酸素圧が睡眠時の一番リラックスしている時と同じ状態を故意に作る、なるほど理論的ですね。

 

ネットをよく見ておられるようなので既に知っておられる事かもしれませんね。

効果が無いと思われたかもしれません。でも、もしそうでも、もう一度やってみてはいかがですか?

 

貴殿の場合、パニック障害と言うよりは過換気症候群であるだけだと思います。パニック障害ならどんなに頑張っても貴殿のように飛行機に乗って日本との往復やドイツ旅行、また、休日のゴルフ、インドネシアでの活動的な旅行等等、絶対に無理です。

過換気症候群の発作が出たときの恐怖心がいつまでも残っていてその不安が付きまとっているだけでしょう。

もちろんその時の恐怖は私にもわかります。それゆえに呼吸法をマスターすれば過呼吸には絶対なりませんので、意外と早く完治すると思います。

 

いつか笑い話になる日がきっと来ると信じて。

 

乱文の上に長文、失礼しました。

お体に気をつけ、まだまだこれからも活躍してください。

 

最後に吉田拓郎の歌「ガンバラナイけどいいでしょう」を送ります。

http://www.youtube.com/watch?v=pFJBI4eZICc




 2019年 まだ、インドネシアで仕事をしながら旅もしている。そして、偶に、思い出したようにパニック障害の経験を書いている。

 まだ、薬を持っています。リックサックに入れて、持ち歩いています。ただし、いつ飲んだか、記憶がないくらいずっと前に、ちょっと、飲んでみようかなと、飲んだことがあるだけです。お守りですね。この10年程の間に、目が回ってふらふらしたときが3回あった。その都度、救急でお世話になったが、病院に着いたころは直ってしまっていた。その時も、パニック障害の薬は飲んでいなかった。

 そして、昔、私をえらい目に合わせた人たち、その時の会社にはいなくなっている。どうしているでしょうか。



 
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パニック障害