return

29日からインドネシアへ出かけ6月15日、日本へ戻ってきました。これから、しばらくは日本にいるつもりだ。ドイツ、オーストリアも良かったが、同じくらい、今回の旅も楽しむことができた。海岸に置いた私のロッキングチェアーにすわり一日中、海に浸かったり、読書をしたり、一日おきにジャングルへ入り、ラフレシアの撮影をし、ミーバソやミールブスを食べ、たまにエスチャンプルを飲み、ライフガードや多くの若者の知人と雑談したりのパンガンダランを楽しみ、ゴルフもパームヒルとタカラでやった。しかし、暑さと疲れと怪我の為、散々なスコアーだった。でも、体力のチェックだ出来た。
  スラバヤとブカシでは出資した会社の技術指導と立ち上げ状態のチェックでした。両社ともまじめな若者がやっているので、安心して遠くから見ていられそうで、ほっとした。規模を大きくする為の増資を約束した。
  その他、そう遠くない間にJODCの関係で技術指導のため出かけてゆく会社の訪問もした。
  書きたくないが、正直に書くと、チロルの山歩きで、ちょっとした崖の下に孫を追いかけていて転げ落ち、両足の弁慶の泣き所に打撲傷を負い、左一番下の肋骨にヒビが入った。
  また、パンガンダランンのジャングルの中で、すべる岩の上で転び、左ほほを岩に打ちつけ、歯が曲がってしまったし、何箇所か欠けた、また、左足の数j箇所に大きな擦り傷と打撲を負った。おまけにデジカメをたたきつけた上に水に中に落とし、回復不能にしてしまった。SDカードは無事だったのが救いだった。以下は現地で買った四千円のデジカメで撮った写真です。


  また、体を焼き過ぎて、もも、腹、肩、背がぴりぴり痛い。
  見るも無残な状態になってしまったが。その状態で、8日面接をして、9,10日ゴルフをやった。ゴルフで、日焼けで皮膚が剥がれた場所をその上からまた日焼けしてしまった。見事な水ぶくれが体中に出来てしまい、無残さが見事なまでになってしまった。しかし、ろっ骨はいつの間にか治ってしまったし、打撲による筋肉痛も治ってしまった。16日の今、何事もなかったように全てが消え去ってしまっています。体の動きが気持ちと違う事は充分わかっているのですが、性分は治らない、他人に迷惑が掛からないように気も使っているのですが、周りの人は、はらはらと心配してくれます。

 今回の宿泊はスラバヤ3×18万Rp ブリタール1×20万Rp ガンジャール1×20万Rp パンガンダラン5×20万Rp ブカシ2×29万Rp クドゥス1×28万Rp ジャカルタ2×0  トサリ(Tossari)1×38万Rpの16泊 3.18Juta(4万5千円)一泊平均三千円弱でした。
  車の走行距離2300Kmでした。約三分の二、1500Kmを無免許で私が運転、残りをマリアさん(免許を持っている)の運転でした。彼女は結婚をこの三月にし、新婚ですが、どうしても私の手伝いをしたいということで、ご主人に頼んだところOKが出た。逆にご主人の方からよろしくと言われた。ちょっとヘン?しかし、どうしてもというので一緒に旅をする事にした。

  スラバヤの南、一年前から噴泥が噴出し続けているシドアルジョを通過した。5m位の高さの土手の内側は見たところトロッとした薄灰色の液体が溜まっている。いつまで続くぬかるみぞ、列車はなんとか通しているが、噴泥は止まる気配がない、どうなるかは誰もわからない。自然に止まるまで待つのでしょう、長期戦だと思う。2019年、まだ、噴出し続けている。


海外技術も当てにしているのでしょうが、今のところ止める手段はない。気の毒と思うしかない。

  Pangandaran、有名人(私のこと)がまた、9ヶ月ぶりに訪れた。津波から10ヶ月、爪あとはほとんどなくなっているが、雰囲気は大分変わった。今まであった。ワルンがなくなったので、西海岸の見通しがよくなった、ライフガードの人数が倍以上になり私を知らない若者が増えた。この中で、ちょうど三連休だったので、人では通常に戻っていた。賑わいは津波以前に戻っていた。
  7日に津波がオーストラリアから到達するというCNNの予報があり、大いに話題になっていたが、実際にも何もなかった。みなさん本気で信じているから、否定するのがばかばかしくなった。
  一日おきにジャングルへ入って、Raflesiaの観察をしたが、この時期、小動物がお腹をすかしているのでしょうか、咲いた花は全て、Kancir(小キジャン)やBiyawak(小トカゲ)に食べられていて、本来なら、すばらしいおおきな花が見られるのに残念だった。
ブカシはプルダナに泊まる。MM2100にある企業を訪問し、元気な社長に会ってきた。また、PT.MAKUTA BINA ARTAをTambun Selatanに訪問した。こんなところに工場が?というような、うっそうとした森の中にある。そこまでの道は何百mも舗装されていないし狭い。よくここまで動力用の電気(400V)を引張って来る事が出来るものだと感心する。
  LDPEの袋を粉砕し再生ペレットを作っていたが、粉砕速度が律速になる。粉砕が遅い。粉砕機を増やしてやる事を決めた。彼らは大喜びだ。
  スラバヤの方は、PSやPPのボトルの粉砕、再生が主なのだが、問題はやはり有る。原料の仕分けの間違いが多い、せっかくペレットにしても混ざっていたのでは、安くしか売れない。
シドアルジョSidoarjo

久しぶりのジャカルタが懐かしかった、ハラパンキタ(夜中にインドネシアから脱出した拠点病院)の前を通過した時は感慨深かった。

 全ての日程をこなし、スラバヤに向かった。途中、Kudus(スマランの先)に一泊、クドゥスといえばソトクドゥスブロックMである。本場のSoto Kudusを食べてみたが高い割りにうまくなかった。ソトクドゥスはジャカルタに限る。また、ナマズの空揚げペチェルレレはレンボンガンが本場、スラバラに入る前にその土地を通過するので本場Lembonganで食べてみた。これもうまくなかった。Pecel Leleはチカランに限る。

 最後の最後まで、動き回るのが私、せっかくなので、帰国の日の朝、4時起きでBromoに行った。前日、Tossariのコテジに泊まった。今回の宿泊地で場所も価格も一番高いホテルだった。5時の日の出を拝み、写真をGn、Maumeru(3900m強の活火山)の噴火の瞬間など多くの写真を物にした。ところが、スライドショーをいじっているうちにSDカードをフォーマットしてしまい、ノーイメージになってしまった。返す返すも残念、皆さまご注意。跡の後悔、先に立たず、またいつか四回目の挑戦を目指すでしょう。
 そこまでしなくてもいいのに、そんな事をしようとするから、パニック障害なんかになるんだと、聞えてきそう。

  今回は北周りで、スラバヤへ戻りジャカルタ経由で帰国したが、ジャカルタのスカルノハッタ空港で2時間ほどの余裕があった。一年ほど前のジャカルタ脱出の時の事を思い出す。一人、ほとんど気絶寸前の状態で、死を意識しながら、椅子に座って耐えていた、その椅子にまた座り、あの時のことを思い出していた。そのうち、同じような状態になるのではないかという不安が廻ってきた。頭が、ボーっとなってきて、その気分に浸ってみた。全然気絶しそうにならなかったので、何度も、自分で目を瞑り、体中の力を抜いてみた。大変、気持ちが落ち着き、リラックスできたが、目まいはまったくしなかった。一時間ほど繰り返した。
  これで、パニック障害(不安障害)から脱出する事が出来たと確信した。


帰国にあたり、何月からでしょうか、インドネシアから帰国の場合でも、検疫申告書を提出する必要がなくなっていた、また、インドネシアへ入国する時と同じように日本へ入国する時、税関申告書を提出する事が必要になっていた。
行動の例
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