2010年2月26日 

 朝、03:00起き04:00出発、スカルノハッタから07:00離陸、パレンバンには08:00到着、新しい、斬新なデザインのターミナルでまだ、汚れていない。大都市の予感がする。タクシー紹介のシステムも、場所は違うが、ウングラライやスカルノハッタのようにタクシー会社のカウンターで申し込むことになる。空港でホテルを紹介してもらい、そのまま、街の中心にあるホテルへ直行した。30分ほどで、7万5千Rpでした。

そんなことで、今どこにいるかというと、スマトラ島の南東、パレンバンです。先日紹介したバンカ島の西です。戦時中、日本の落下傘部隊が降下した作戦は、当時、大きく戦果を報道されたとか、父親から、聞いたことがありました。早速,博物館(Sultan Mahmud Badaruddin Museum)へ行くと、そこの管理人が、インドネシア人の観光客が入れないように扉を閉めてしまって、管内の明かりも全部点灯し、私を案内してくれた。日本人の兵隊が私の親と一緒に独立戦争を戦ってくれたとかで、“真白き富士の気高さ・・・”と、歌いながら、得意げに案内してくれた。インドネシアでは大変珍しく、管理人の住処のようになっていないで、また、陳列品の手入れも良く、埃がかぶっていることはなかった。次に行った博物館(Bala Putra Desa Museum)は受付がいなくて、大声で呼んだら出てきたが、どうも、奥の扉の後ろで、何か食べながら、テレビを見ていたらしい。全く、案内もせず、展示品も、ところどころ、隙間があって名札だけがあって、展示品が無い。

 その管理人が家に良いものをしまってあるので、良かったら見ていって欲しいと言われて、すぐ隣の家までくっついて行った。見せられたのは、日本軍が占領時代の軍票である。大日本帝国政府と書いてある。10Rp札を買わされた、1千円で買った。記念品である。私が今まで見たことが無いものだった。戦時中は1US$=1円=1Rpだったとのこと。

 

 町中に織物をしていて直売している店が並んでいる通りがあった。Songket(ソンケット)言って、バティックとは別物、バティックはロウケツ染めだが、ソンケットは様々な色の糸を編みこんで、繊細な模様を出すのです。織っている作業場を見学したが、大変複雑で、何をしているのか分からなかった。

 

 昼間も、其のあたりを通り、近くから遠くから眺めた、インドネシアでは有名なSungai  Musi(ムシ川)にかかるJembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップの風景を見に夜出かけた。月がきれいだった。Palembangの人たちの誇の橋であり、憩いの場所である。

 ホテルはその橋の近く、ベチャで8000Rpの距離、Hotel Awarna Dwipaです。ツインベッドルーム40万Rpです。

  しばし、現実から逃避して、エンジョイしようと思う、

Jembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップと月。

藤、ロタン?ラタン?の作品、近い将来、プラスチックのイミテーションを作ろうと思っている。

2月27日 

一日、ほとんど車の中、失敗だった。パレンバンから西南西方面の山を目指した。そこには、美しい滝とか渓谷とか、ヒンドゥーの遺跡などがあるはずで、それらに出会うはずだった。それというのも、地図を眺めると、この県の海岸方面の半分は湿地帯ということになっていて、地図上に町は全くないしリゾート地もなし、大体、道がないバンカ島の海岸からは、スマトラが見えたが、スマトラのこのあたりは海岸へ行けないことが分かった。

 さて、ドライバーの話によると、朝、7時に出れば目的地全部に行って、17:00過ぎにはホテルへ戻ってくることができることになっていた。

 ところが実際にはガイドもドラーバーもその方面のことは何も知らなかった。行ったこともないし、聞いたこともないことが、車に乗って2時間ほどして分かった。これは、とんでもないここになると予感した。事実、地図上でその遺跡や名所がある町(Muaraenim)へ入っても、彼らは、食事を、まず、しようと、レストランを探し始めた。レストランは後にして、其の場所を聞いてくれと頼んで、聞いてもらったら、その地点から、もっと先60kmだとか、もう一ッ箇所は通り過ぎて30kmほど手前だとかで、どうしようもない。12時過ぎて、戻る途中で食事をし、通りすぎたという、遺跡へ寄って、パレンバンは帰ることにした。

 その遺跡に行けなかった。というのは、30km手前で左に曲がれば行けるということだったので、実際、遺跡の名前の看板が出ていた。しばらく行って、いくつか交差点があったので方向が間違っていないことを確認してもらった。そこで、また、がっくりした。道は間違っていなかったが、そこから60km先だという。その上、そこら辺から舗装が無いでおぼこ道に変わっていた。ずっと、道の状態はこのままかと聞いたら、もっと狭く、でこぼこになると聞かされた。やーめた。さっきの、左へ曲がった地点に戻って、ホテルへ向かわせた。そこから、何時間かかるか聞いたら、二時間だという。実際には三時間かかった。

 今日の一番のハイライトはなんといっても、広範囲の洪水地帯を見物した事でした。Musi川という大河がこの辺一帯を右往左往しながらとうとうと流れている。そして、その両岸には堤防が無い。川のどこかで大雨が降れば、どこかの水位が上がり、両岸にじわじわと水が溢れだす。一本の国道と一本の線路は1~2m土を盛って作ってあるので冠水していない。だから、洪水の深さは最大で1m前後ということになる。そして、何年も同じことを繰り返しているのでしょう、家は1mほどの高床式になっている。道の両脇ぎりぎりまで水か来ていて、家から道まで狭い木の橋を掛けてある。勿論遠いところは小舟を使っている。慣れたものだと思うが、何とかしようとしていていないようでもある。

 家の前で、釣りをしている人多数。水遊びをしている子供、うん子やおしっこをしている小さな子供、などなど、悲壮感はない。

 ホテルの道を隔てて反対側のレストランのオープンテラスから、こういう風景を見ると、インドネシアも、変わったなと思う。

2月28日 
 昨日とはうって替わって目的地に行くことができた。それも、アンペラ橋のたもとから、ポンポン船をチャーターして、Puleu Kemarao へいった。Musi川の川幅はこのパレンバンの街を通過する場所では500mはありそうで数千トンともわれるフリーや貨物船が行き交っている。石炭、天然ガス、小麦やコメ、その他、ガソリンや灯油、軽油を積んでいる船も往来している。正に大動脈である。100km以上下流のバンカ海峡にそそいでいて、マラッカ海峡に出てジャカルタなど向かう。ジャカルタ発の大型フェリーがぎりぎりの状態でJembatan Ampera(アムペラ橋)の真ん中を通過していた。私は思わず頭を下げてしまった。

 両岸にはプルタミナのガスステーションやプルタミニが水の上に浮いた状態で作られていた。タンクローリー風の給油船も当然行き来している。その状態は、カリマンタンのバリトー川やマハカム川でもみられた。

 大変活気がある資源搬出基地という感じで、嘗て、日本がこの土地を手に入れたかった理由が分かった。化石燃料資源が殆どない日本は南方に向かい、スマトラやボレネオ(カリマンタン北部)を先ず、手に入れたかったのでした。

30分ほど河口に向かうと目的の中華系のけばけばしい何重かの塔が見えてきた。島の直径は100mほどでしょうか、川幅の五分の一位でした。昨日の夜まで三日間、この島のお祭りがあって、おお賑わいだったそうで、その名残で、ゴミだらけ、それを燃やす煙が良き苦しくさせてくれた。塔は九重でした。上ることはできず。他にも、日本のお寺や陣所のようにお百度参りのようなものをしている風景も見られた。私も他の場所で、やったことがあるが、めんどくさいし、いちいち、紙を焼くのが嫌で、二度とインドネシアのブッディストの祈り方はしない。今回も、簡単に賽銭を投げて手を合わせただけだった。

 それにしても、ここは裏切り観光地の候補に立候補させたい。

土産物を買って、空港に向かった。otak-otakpempekCANDYという店で買った。Otak-otakは空港へ着く前に10本全部食べてしまった。Pempekの味はotak-otakと同じであるが、バナナの葉っぱに包まれていない。インドネシア人はいずれも、大変からいサンバルを着けておいしいおいしいと言って食べる。私は、辛いだけでおいしくも何ともない、何もつけないでそのまま立出た方がおいしい、ワサビ醤油で食べれば、なおおいしいはずである。
otak02@y6.dion.ne.jp

OTAKはインドネシア語の脳ミソ、頭脳という意味だ。

 Jembatan Ampera(アムペラ橋)をくぐる大型フェリーその名もJembatan Musi 1 Jakartaと言います。ご存知、かた焼きそばIfu Mieです。リバーサイド レストランで食べた。

大河の両岸がはっきりしていない。自然に民家や一般道路に水が漂っている。その様子が余り深刻ではないようだ。三月の終わりごろまで毎年四か月ほどこの状態だとか。東側の広大な湿地帯の間をMusi川が蛇行している。雨季にはその三分の二の両岸が溢れだすという、洪水なのか、湿地帯なのか区別がつかないようだ。

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