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2018 1 2 故郷

1月2日  (^_-)-☆墓参 集い 3273 習慣の墓参りと安西の家に集合、今年も習慣通り実行。バイパスを通って、富士川の手前、日本軽金属の脇から一号線に降りない東に向かう。坂を下り切ったところから富士市になっていた。そうか、蒲原が静岡市になって、富士川町は富士市になったということらしい、私の生まれ故郷は、庵原郡富士川町岩淵だったが、庵原郡ではなく富士市になった。

富士川駅前の信号を左折して、上りになる。地元では有名な野田山への方向だが、まっすぐ行って、富士川楽座方向に向かう。その手前を右に曲がって右に曲がれば、お寺の駐車場に入る。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage102.html

バイパスを東に向かう、奥津から由比に入る境目、右の崖の上は、薩埵峠(さったとうげ)、そこから見える景色は、広重の作にもある有名な場所だが、この写真は、バイパスができる前は、砂浜を歩いて、行き来した場所だ。

 墓参りが済んで、静岡の集合場所に戻る前に、できたばかりスカイビュー観覧車から、百人一首に出てくる、田子の浦の方向だ。南方向、富士の町、駿河湾、伊豆半島を一望する。ここからの景色を見ると、60年以上前のこの辺りの環境が様変わりだ。足元近くに見える、すべての施設、道路、建物は、何もなかった。

 北の山の方角。ただ、ミカン畑か田んぼ、そして、茶畑だった。高速道路は、その山が削られて通っているが、富士川から、山道をずっと奥まで登りながら、ミカンを頬張りながら、カブトムシ、クワガタやメジロや蝶を追いかけた。この山も川も、私が駆け回る縄張りだった。まさか、昔、こんな風に、鳥のようになってこの景色を見るとは想像できない。

 http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage101.html

お墓、お寺からの景色、故郷の山から、見た景色だ。右の富士川橋のこちら側に私が小学校の時に、毎年、一週間ほど泊っていた、おじさんの家がある、今は、いとこがいる。太田石材店だ。

 先ほどの“ぶらタモリ”と“家族に乾杯”のジョイン番組で、“三茄子”が何となく、納得になった。三保というより、それだけでなく、静岡市、駿府、駿河が大いに関係することが分かった。久能山東照宮、日本平の有度山が削られたのは、黒っぽい泥岩で成り立っていて、川(安倍川?)からの流れだという実験をして見せたが、どうも、理解できない、安倍川の河口は、今より、何キロも東にあったということは分かっている、静岡市市街の真ん中を流れていた。それなら、削るというより、川の水で運ばれた山からの土砂が堆積するはずで、削られる、の反対だと思うから、実験は川の流れの影響ではなく、海流がなせる業とすれば、納得できる。それは、それとして、茄子の話は、一応納得だ。 “富士山と鷹と茄子は家康のお気に入り“ということで。

 東京からの身内を混ぜて、12人、妹の家(私が小学校に入る直前から高校卒まで住んでいた)に集合、当然、私が最年長、話が合わない点が数々あるが、いることに意味があると思っている。

何十年ぶりに疑問が解けたことがあった。昨日の集まりで、現在は無くなってしまっている、以前、住んでいた頃の家についての話が出た。ポポーという木の話も出た。食べるのは私だけだった。誰もが、臭いとか、気持ち悪いとか言って嫌っていたが、私だけは、おいしいといって食べていた。大学進学と同時に、私が家から出た、その後、すぐに、切られて無くなってしまった。そして、先日、家の庭に苗を植えたという話をした。そのポポーの実、独特の味で、他に似たようなものはなかった。とことが、インドネシアに来て、マンガの熟れて柔らかくなったもの味が似ていたかなと、思った。南国の味だったのかなと思った。

 

そのついでに、お手洗い(トイレット)の話になった。当時は当たり前のおつりがくる甕式だった。それは、それとして、高校に入ったころ、しゃがむと、目の前の壁に、“この世の中”と書かれた。鉛筆書きだった。毎回、座るたびに目のまえにある。私はおふくろが、書いたとばかり思っていた。誰にも確認しなかった。この世の中のことを考えろ、という、哲学的文字と思いっていた。何年も、この家が壊されるまで消えることはなかった。たまに、家に寄ったとき,薄くなっていれば、なぞって、復元した。そのことを、話題に出した。すると、妹が“それ、私だよ”と、あっさり言った。60年越しの疑問が解けた。大笑いだった。妹は、昨年末まで、静岡ホームの理事長を務め、今年から、フリーになったそうだ。彼女は年女だ。

 

物心がついたころ、隣の家に遊びに行っていた。その家には縁側があった。その端に、便所があった。その反対側の端には、そば粉を挽く道具が固定されていて、おじいさんがよく挽いていた。その姿がいいなと思ってみていた。そして、縁側の有る家を見るたびに、家を作るときに、縁側を作るぞと決めていた。そして、そこから、庭が広がっていると思っていた。そして、便所は別として、粉ひき道具もないが、その通りにした。

 

縁側の碁盤と鳥籠と菜の花。日当たりの縁側で碁敵とのんびり打つのが夢の一つだ。そう思って、碁盤は25年以上前、この家を建てた当時に買って、ここへ置いた。それ以来、一度も使っていない。碁石はどこへしまったか、覚えていないし、探そうともしていない。これを使うために、誘う人もいない。使うのはいつになるだろうか。十姉妹のつがいと、ヒナが入っている。鳥籠を日向に出してある。そして、庭には、菜の花。ここにいれば、のんびり平和に暮らせるのにと思う時だ。いつか、老いぼれて、ここに座って、何ちなく、庭や空を眺めている姿を想像する。