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Bengkulu sematera
2018 8
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8月17日  (^_-)-☆独立記念日 3500 ハリムルデカhari merdeka独立記念日である。外国選手は、派手な幟や旗があちこちに飾られているのを見て、何事かと驚いているでしょう。まさか、アジア大会を祝ってとは思わないでしょう。毎年、同じような催しがあるね。

 朝早いが、渋滞を警戒して、4時、家をでた。そんな早朝でも、タンブンからブカシバラットを過ぎるまで、大渋滞、ボゴール方面に向かうリンカランに入る車が渋滞の素だった。そこを過ぎれば順調で、6時半に、ターミナル1ライオンエアー前に到着、ドメスティックは、一階だけで、到着、出発デートが、交互にある。ソラリアでイスミー硬焼きそば(400円くらい)を食べる余裕もあった。 時間通り8時離陸した。

 ドメスティック、以前は、飲み物持ち込み、国際線と同じように、駄目だったが、今回、試してみた。X線チェック、二回あったが、何も言われず、通過して持ち込んだ。大丈夫かなそれで。

ブンクルーには、10時前に到着、ターミナルから出たところに、タクシーのカウンターがあって、そこで、ラフレシアを見たい事と、明日、カバ山に登りたいといって、簡単な概略報道予定を離し、2日間の貸し切りタクシー(一日45万Rp)頼んだ。ガソリン代と食事代や運転手の宿泊代は別だという。早速、何年か前に行ったことがある山の方に向かった。約3時間走って、目的地辺りに着いたが、それらしき、雰囲気が無い。道端にラフレシアが咲いているよという看板が無い。仕方がないから、その辺りにいる人たちに聞いてみた。そして、一か所、ブンガバンカイを集めている人を見つけた。大コンニャクだけが、18株?あった。しかし、ほとんどが咲いてしまった後、木のようになっていて、それも、枯れるのを待っているだけが1数本、わずかに2本だけが、タケノコ状の芽が生えてきていて、大きい方は9月末から10月にかけて開くという、この写真がそれだが、今30Cmくらい、一か月半くらいで、2~3mになるという。今日の成果は、これだけだった。

 明日、山登りをするため、歩きはじめる場所まで、車で行って、私と一緒に行動してくれる人を探して頼んだ。ここは,ガイドという職ではないが、飲み物などをそこで売っている家の男の子だ。Gn.Kaba1938Ⅿに登る。スタート地点が900Ⅿだといっていた。


Culupという街のGriyaというホテルに入った。夕食は、これ。カンクンとアヤムゴレンとテーパナス3万5千Rpぎっくりするほど安い。味も私には十分美味しかった。

 こんなところで、日本があった。箱梨ティッシュペーパー用のケースだ。インドネシアでは、濡れティッシュや押しごりの習慣はなく、どこでも売っているtissueかトイレットペーパー(ロールティッシュという)をテーブルに置いてある。だから、それ用の入れ物が必要になる。


疲れた。昨日も0時過ぎに寝たが、3時には起きて出発し会社でタクシーを待った。殆ど寝てない上に、歩き回ったからだ。明日は6時出発の7時、登山開始になる。

しかし、今、パンガンダランへ行っているかゴルフをしていた方がよかったと思っている。

 ブンクル チャペ 株?

8月18日  (^_-)-☆アシア大会開会 3501 開会式ですね、アジア大会、19時からでしたね。ライブで見た。こんなものでしょうね。開会式は。

 部屋には蚊が多く、池江は「朝起きたら何カ所も刺されている」。同じ部屋の持田早智(ルネサンス幕張)も「殺虫剤や蚊取り線香を使ったけど、あまり効果がない。こっちの蚊は強い」と困惑気味だ。」納得ですね。インドネシアの蚊は、タフですよ。高層階にも、上がってきますよ。エレベーターやエスカレーターを使っているからね。それより、夜の蚊は痒いだけだが、昼間の蚊には気を付けて、デング熱を運んでいるよ。

チチャック(白い小トカゲ)は、部屋にいなかったのでしょうか。それならいい。

 ということで、カバという山に登ってきた。7時登山開始、いきなり、胸突き八丁、その上、昨晩の大雨で、滑る滑る、いきなり泥だらけ、こりゃまいったな、大丈夫かなと、心配したが、私の足腰は、耐えるこちができた。イジェンより、リンジャニより厳しい状況だった。登りは何とかなるだろうが、頂上まで行ったら、すぐ下山という予定だったので、下山の時の膝のガクガクが心配だった。途中、何回は休憩したが、3時間、10時ごろには、火山湖も外輪山に到着した。頂上だ。最後の1000段あるという真っすぐな階段、日本の神社などの階段とは、全然違っていて、一段の幅も高さも、一段一段違う。足の上げ方が一定では、つまずくし、前のめりになる。

 この階段の下にオジェック(バイクタクシー)が数台,待っていた。客が戻ってくるのを待っているという。ジャカルタからの女性たちだという。私がその階段、最後に力を振り絞っても、途中で3回休みながら登り切った。やった、万歳!!インドネシア人が、みんなどこから来たかと聞く、日本かただよというと、驚き、日本人と話をするのは初めだ、一緒に写真を、と、何回も言われた。ここの景色、最高!!来てよかった。景色はリンジャニやイジェンほどではないが、タンクバンプラフやガルングンを越えていた。そこで、ジャカルタからの女性にもあった。大変だったせしょ、と言ったら、オジェック出来たから、全然疲れていないという。おいおい、さっきのオジェックだ。3時間前に歩き始めた場所から、アスファルト舗装の道は階段下まであったのだった。往復、10万Rp(たったの800円)片道、30分も掛からないという、道は遠回りで歩くのも楽だが、5時間かかるという。だから、ほとんどの人は、バイクを使わなくても、そちらの道でくるという。勿論知っていれば、オジェックで行ったと思う。

 途中、足を良く揉みながら来たのがよかったのか、下りでも足は大丈夫だった。一緒に付き合てもらった20歳の若者が驚いていた、本当に75歳?と。運転免許証(SIM)を見せて、本当だろう、とね。会う人、逢う人、一番、年かな思う人、44歳だった。それ以上の年の人はいなかった。オジェックなら年寄りでも、その気になれと思うのだが。日本人、ブンガバンカイが咲くという情報が入れば、ブンクルをお勧めします、そして、Kaba山、オジェック登山をお勧めします。やはり、乾季が良いでしょうね。

 悠然と降りてきて、管理をしている人たちにも驚かれた。気分がいい。日本人は来るのかと聞いたが、そこの人は、日本人は始めてだといっていた。外国人自体がほとんど来ないといっていた。

 車で、チュルップを通過し、以前、寄ったブンガバンカイを管理している場所を途中で聞いてみた。そして、有った、そこの人、わたしを覚えていなかったので、私もそれを言わなかったが、場所に案内してもらった。以前の管理されていた場所とは違って、完全に自然ジャングルの中、また、急激な上り下り強いられた。よくやるよと、自分で思う。コーヒー園の中を通った向こうに、そのうっそうとした木々の中に連れていかれた。あるある、アモルファス チタニウムの既に木になったものがあちこちに、大小あった。種類もアモルファスでもチタニウムではなく、ギリなど別の種類もあった。ここも大変だったが、いって見てよかったと思う。

そこから、すぐの道端で、地元のドリアンを売っていた。食べないわけにはいかない。これ一つ、5万Rp,安!!!その場で、運転手と一緒に一個 食べてしまった。もう一個、買って、中身だけを袋に入れてもらって、ホテルで平らげた。

満足 プアス アジア大会

 8月19日  (^_-)-☆帰宅 ブンクルから 3502 出発をもっと早くすればよかった。18:20だから、ホテルのチェックアウトが12時、16時半ごろまでどうしようか、ドライバーを半日ということで頼んだ。始めに、海岸に行きましょう、ということで、案内されたが、これが汚い、ゴミだらけ、よくこんなで、満足しているなと感心するくらいだ。5分くらいで、その海岸から離れて、海岸道路をしばらく走った。人気が無い海岸で止めてもらった。そこは、ゴミがなかったので、20分ほど、海岸を歩いてみた。何年前には、確か,カブトガニが水際にいて、小さい子が捕まえて遊んでいる風景がった海岸だと思う。今は、その雰囲気は全くなし。

 次いで、ベンテンタケシならぬ。ベンテンマリオボロという、イギリス軍の要塞に案内された。ここも、以前来たことがった。ベンテンとは城のことだ。1942~5年まで、日本が支配していた場所だ。例のパレンバン落下傘降下先作戦から、ブンクルにも攻め込んできたのでしょう。こんな要塞、簡単に落とされそうという貧弱なものだと思う。140年間の植民地支配が終わった。本当に短期間だった日本の占領は、こういう、所を見ると、インドネシアにとっては、ついていかな、思う。

 ついで、スカルノ初代大統領が三人目の妻、ファットマワティさんや家族と住んでいた家に行った。スカルノの生誕地は東ジャワのブリタールだが、第二次大戦当時はここに住んでいた、結構、多くの人が訪れていた。大勢写っている写真があって、第一から第三迄の夫人や子供も写っている。戦前、戦争直後の写真だから、第四のデビ夫人はいない。しばらく、訪れていた人や写真を撮る商売の人たちと話し込んだ。その中で、デビスカルノという話しが出て、まだ、生きているのかと聞かれた。生きてるよ、テレビによく出ているよという話をすると、びっくりする。

 メガワティスカルノプトゥリ元大統領は、このファットマワティさんに、よく似て居ていると思う。デビ夫人を第四夫人として迎えた夫、スカルノを、どう思ったのでしょうかね。


ついで、そのファットマワティさんが生まれ育った実家?へも、行ってみた。誰も来ていなかった。スカルノさんとの写真はここの方が多かった。肖像画はとびっきり美人になっているが、当時の女性といては平均以上の美人だったのでしょう。だから、一二より、一緒にいる期間が長かったのでしょう。肖像画と一緒に撮影してみた。

国内線は、水など飲み物持ち込みがOKになったのでしょう、ブンクルーでも二度チェックがったが、アクア二本、何の問題もなかった。
タクシーの運ちゃんとも話が弾んだ。順調に20時には、ターミナル1から、整理券を出して待つ、ブルーバードで出た。いきなり、渋滞なし、今に渋滞にハマると思っていたら、グロゴールとアンチョール方面で別れる手前で、グロゴールを通るように言った。運転手、そのつまりだという。聞くと、アジア大会期間中、スマンギ通過の高速は、途中四か所のゲートは使えないようになっている。奇数偶数も関係なしに、バス、タクシー以外は、全て適応される。チャワンからはいつもの通りだという。朝5時から夜中の12時まで。だから空いてるわけだ。100Kで走っている。チャワンの合流でちょっとのろのろになった、そして、ブカシバラット辺りとタンブン辺りで、ミキサー車などがLRT工事エリアに入るために車線が少なくなっている場所あっただけだった。21時半会社に着いてしまった。新記録だ。

ということで、日曜のこの時間でも、高速の両脇の一般道(ガトゥットゥスブロト通り)は、大渋滞だった。明日から、ジャカルタに住んで、チカラン方面の会社に通っている日本人、通勤が無理になるんじゃないの。チャワンから入らなければならないし、チャワンで出なければならないからね。

ブルーバードは大もてだそうだ。地方へ行っているタクシーを全部ジャカルタに集めてあるが、間に合わないという、明日から、もっと、大変になる。きついオーバータイムをしなければならなという。経営者は大喜びしている。
時間潰し 市内観光 腿痛

今回の旅は二日目がハイライトだった。そして、インドネシアの人達と、会話が楽しくできたことが、気分を良くした。皆さん、気さくに離し掛けてくる。山登りに上り下りでも頂上手前のテント場も頂上の外輪山でも、どこから来た?一人か?と聞いてくる。“こんにちは“とか、”元気ですか”“ありがとう”などと、知っていそうな言葉をいって、驚かせる。皆さん,喜んでしまう。ハイタッチをしてきたり、写真を一緒に頼んできたりする。

 ベンテンマリオボロの位置口付近で近所のおばちゃんらしき人が、井戸端?会議をしている。その脇に、大木というか老木があった。この木何歳?と、皆さんに聞いてみた。300歳だと返事が直ぐ帰ってきた。木の名前は?と聞いたら、チュンブルーだという。本当?と聞いたら、本当だという。側にいた男性が、笑いながら、本当の名前が知らないが、何故か、ここではそう言っているとといっていた。信じるよ。分ったよ、と、日本語で言ったら、キョトンとしていた。有難う、と付け加えた。そして、“さよなら“といって、後にした。面白い。

 今朝、目が覚めあたら、腿や脹脛が痛む、それも、かなりだ。二階だったが、Gへ降りるのに、リフトがなかなかこないので、階段を降り始めた、すぐに止めて、エレベーターを待つことにした。それほど痛かった、時間を追うにつれて、痛みが増す、車から降りるときも、かなり我慢を強いられる。山へ一泊してからの下段は、多分、リンジャニの時と同じ様に、負ぶってもらわなければならなかったと思う。リンジャニの時も上で一泊ではなかったから良かったと思う。今後、もし、山登りをしたいと思ったら、オジェックである程度の高度迄ゆけるかどうか確認しようかと思う。

 インドンシア国内線での搭乗口はチケットに書かれている場所と違う確率が高いので、一旦、書かれた搭乗口で待つが、移動する場合の方が多いと思っていた方が良い。