2018年10月4日 (^_-)-☆歓迎 3548 いよいよやってきましたね。娘は仕事でベトナム、ハノイに出張中だとか、バイクの多さにびっくりだとか。
こちらは、安全を見て、14時過ぎにタクシーで空港に向かう、16:30にターミナル3に到着、早く着きすぎ、時間は十分ある。ここのタクシー乗り場の人達、私を覚えている、行くと、いきなり、チカランや?と言われてしまった。今日は、違うよ、向かいに来たから、ちょっと大きめで、タクシー6人乗り、運転手込みで7人、皆さん、それなりの大きさのバゲジを持ってきているので、そんなことを話して、タクシーというかミニバスを手配してもらった。95万Rpで。
遂にやってきた、大学の時の同級生4人と一人の奥さん。Selamat Datangスラマッ ダタン、ようこそ!だ。18:00過ぎに、出てきた。皆さんとは、一年ぶり、甲府で会う顔とインドネシアで会う顔とは、明るさが違っていた。何故でしょうか。
18;30ジャバベカゴルフの直ぐ脇のイビス スタイルまで出発、もう、真っ暗、グロゴール経由の高速道路、例のタマンアッグレックの電飾を見ながら、スマンギの高架を通過、順調に東へ向かう、来るときに渋滞していた辺りも、渋滞はほとんどない。疲れているだろうから、黙っていようと思ったが、せっかくだからと思い、インドネシアの建設ラッシュの現場を見ながら、あれは、なに、これは、なにと説明しながら通り過ぎる。2時間ちょっと、21:00前にはホテルへ到着。その後、遅い夕食、皆さんはナシゴレン、私だけソ、ブントゥットゥ、私以外はビールで乾杯。とにかく、皆さん疲れているでしょうが、元気そう。明日の迎えに時間を言って、私は、失礼した。さあ、始まったぞ。皆さんの体調が悪くならないように願うばかりだ。11:30を回ってしまった。早く寝よう。
チャワンの中国高速鉄道建設現場
タマンアングレック15時ころの電飾
出迎え 順調 元気
10月5日 (^_-)-☆見学工場 3549 TRC、EJIPの中村社長、PARAMOUNTBEDの田中さんには、大変、お世話をかけました。有難うございました。梨大卒の同級生、皆さん、充実した体験をさせていただいて感謝。感激でした。
9時にイビスから出発、インドネシアの発展ぶりや日系企業の進出ぶりを先ず、確認したいということから、南下し、メイカルタの建設現場の中を通り、東に向かいデルタマスに入り、また南下し、サクラホテルの前を通過、なお、南下しGIICに入った。私も久しぶり、先ず目に入ったのがSUZUKI広大だ。完成車の在庫でしょうか、これも広大だ。もう、皆さん、それだけで驚きだ。まだ、ずっと先にも、ずっと西にも真っすぐな道があるが、時間が限られているので、端までゆくのをあきらめて、引き返した。途中、日本語の看板の店も多く見えた。デルタマスインターの手前から西に向かう、自然に、デルタシリコンの2、3,4,5,6のエリアに入る。
カネフサやニットウなど、イジップから移ったり、第二、第三ファクトリーとしている企業も多き見られる。中小企業の一角もある。ここも、南に広がっているが。メイン道を通過するだけだ。自然にヒュンダイに入った。ここの団地は、道の基礎が手抜きでしょうか、陥没穴が多い。そして、南の出口から、EJIPの南の入り口に入る、入ってすぐ右側に、PT.TRCの入り口がある。約束の時間通り、10時丁度に到着した。
丁寧なお迎え、恐縮、先ず、アジア三か国への赴任経験から、社長のインドネシアへ進出の日系企業の問題点を韓国や中国企業の例を挙げ、説明を受けた。私もそうだが、皆さん、多くの外国で勤務したことがないので、なるほどと、聞き入るばかりだった。ついで、工場の現場を一通り案内していただきながら、それぞれに仕事の重要ポイントの説明を受けた。やはり、工場の現場に入った経験が殆どない人たち、通過するたびに、作業している若者から挨拶され、また、その手先の動きの速さなどを見、関心仕切り、今や日本の企業にはこういう風景は無くなってきているねと呟く。ここは女性の作業者が多い、何方でもできる仕事なら女性の方が良い。これは、全企業共通だ。
12時15分前にTRCから出た。次はMM2100だが約束は、13時、食事をすれば遅れるので、EJIPの中を15分ほど、そして、西に向かい橋を渡って、MMに向かう、ちょっと、遠回りし、ヤマハやアスモ、そして、ホンダモートル前を通り、インターの手前から、南に行き、私が1996年に努めた工場の前を通りながら、Uターンし、ベアチュカイの前を通り、向かい、7年ほど前に押出部門を立ち上げたナンブの前を通り、今、難しい試作をしているHOGIの前をとおり、左折、左折でP,BEDに入った。13時丁度だった。ゴルフ仲間の田中さんに案内をお願いした。
直ぐに,金属プレスの工程から、溶接や塗装、最終的には組立、出荷までの流れの工場の全工程を、丁寧に案内をしていただいた。いろいろな機能が付け加えられていく工程を皆さん、興味深めに聞き入っていた。やはり、教育や研究現場とは別世界。問題点、改良点を自ら指摘し、それを何とかしたいという話を聞かされ、なるほどと、聞きってもいた。私が作って提供した押出製品もちらっと見えた。時間をオーバーし、少しばかりの意見交換をさせていただき、失礼をした。ここは、私は20年のお付き合いだ。日本で、パラマウントベッドのお世話になっている方、私が提供したプラスチックの押出製品がくっ付いていると思いますよ。
イズミで遅い昼食後、ジャバベカのホテルに戻り、16時過ぎにタクシーで空港近くのスイス何とかというホテルに向かってもらった。わたしは、とてもじゃないが、送ることはできない、何時間かかるかわからない。工場に戻って、明日朝5;30のタクシーを予約した。
ゴルフのドライビングレンジの名残の向こうに高速道路の建設現場がみえる。
見た 聞いた 考えた
10月6日 (^_-)-☆バリ島 3550 9;35のフライト、かなり余裕を見て、5:30工場から出発した。タクシーの運ちゃん、今の時間なら1時間20分で着くよという。早すぎる。それが、もっと早く、ターミナル3に6;30についてしまった。3時間も前だ。チェックインカウンターへ行ったら、7;35があるから、それにしたら?と言われてしまった。ダメダメ、と、断った。
吉野家、日本でも入って食べたことがない、どんなものかと、食べてみた。このセットで500円くらい、高!味はどうか、“ほかべん“の牛肉と同じ味、インドネシアバージョンだ。わたしには合わなかったが、もったいないから食べてしまった。
またまた、来ちゃったバリ。10:00発だったが、順調に飛んで、バリへはバリ時間、12:30に外に出た。ところが、迎えのミニバス、5人分だから、太田さんは30万Rp払わなければ載せられないと言い出した。タクシーなら10万Rpもかからないの距離、HISの日本人に頼んでみた。全く、融通が利かない、規則になっているから、払っていただかなければ、乗せることはできません、の、一点張り、仕方がないから、タクシ―を使った。10万Rp払ったが、ブルーバードのメータータクシーなら5万Rp以下だ。保険の関係があるらしいが、HISそんな規則は見直した方が良いんじゃないの。
15時出発でムルワトゥのケチャックを見にいった。渋滞が所々であり、近くのコーヒー園まで、1時間半かかった。それでも、18時から始まるので、余裕があって、コーヒー園でジャコウネコのコーヒーを飲んでみた。コピ・ルアク(kopi
luwak)というらしい、高級コーヒー?らしいが、もうし訳ない、あまり、美味しくなかったが、もったいないから飲みほした。5万Rpそのあと、何種類かのコーヒーや紅茶などの試飲をし、ドリアン味が気に入ったので、その粉を買った。ジャコウネコは、アラビカ種の豆しか食べないという、食べるというか、飲み込むらしいが、本当かな、糞に豆のまま出てきている。全然、消化しないみたいだ。それを、洗ってきれいにしたものも、見せていた。
そして、目的のケチャック、18時15分前に入場した。もう、一杯一杯、観覧席には座れず、したのコンクリートに座らされた。18時始まったときには、お尻が痛くなっていた。狭い、入れすぎ、直ぐ目の前で、ケチャックが始まった。演出は派手、今まで、何回も見ているが、おふざけが多く、観客受けはしていたが、私は面白くなかったし、お尻の痛さが食いこんで、それどことろではなかった。皆さんはこんなものかと楽しんでくれたようで、何よりだったと思う。19時終了、帰りは1時間で、アストンクタに着いた。皆さんとソトアヤムの夕食後、私が泊まるフェイブホテルに21時に着いた。入れすぎだよ。こんな、滅茶苦茶な入れすぎでは、多分、評判が落ちると思う。サンセットを見ながら鑑賞できる人は、入場者の5分の1もいないだろう。
疲れ 不満 満足
10月7日 (^_-)-☆タナロットなど 3551 8時 アストンから出発するため、私のフェイブホテルからは6;30に出て、歩いてみた。30分で着いてしまった。私のホテルは、クタ海岸入口ゲートを左に見ながら右に曲がってすぐのところ、途中に、ソゴーやヲーターブームがあり、夜遅くまで賑わう通り、早朝は、ひっそり、歩くのに、人をよけない。前を見て、横を見、なにがどこにあるかゆっくり確認しながらジャランジャランだ。2Kmくらいだったでしょうか。昨日は、タクシーで大渋滞、25分かかったが、今朝は、閑散道を逆方向、徒歩、30分だった。
私のウェブサイトの一つの表紙にしてある場所、ゴルフ場も何度も来ているが、何方からも、他方を眺めるだけで、どちらからも、行ったことがないので、一度、行ってみたいと思っていた。今回も、いけなかった。中国語が非常に多い。店が並んでいる中に、果物屋があった。小さいドリアンがあった。皆さん、食べたことがないというので、半分、強引に食べてもらった。多分、また、、食べたいとは言わないでしょう。
その後、クタビーチに寄って、散策、暑い砂浜の海岸を皆さん良く歩いたと思う、その前に、シーフードレストランで昼食、私にといってはお決まりのカンクンやイカンバカール、ウダンアッサムマニス、チュミチュミゴレントゥプンなど、皆さんとっては初体験の食事をしてもらった。安くておいしい、見事に平らげた。
ガルーダ・ウィスヌ・クンチャナGaruda Wisnu Kencana Cultural Park 前回来た時には、あのでっかいガルーダの像が未完成だったが、今回は既に完成しているので、皆さんに見せたかった。昨日、入口の前を、時間が無くて通過した場所だ。
観光客の多いこと、大型タクシーが次々とやってくる。入るとすぐに、バロンダンスの鑑賞ができた。昨日のケチャッとは、会場の雰囲気が全く違って、広々とゆったりした会場で、ゆっくり鑑賞することができた。これは、着いていたなと思う。皆さんに、昨日の雰囲気は何方かというと、特殊だったと。その後、あの大きな、完成したばかりの像の下まで登った。皆さん大変だったと思うが、よく頑張った。その後、下ってきて、カフェで休憩、ゆっくり、懇談これもよかった、休めた。
ここの奥、左側に私が泊まったフェイヴホテルがある。
ここを右に曲がって、左に曲がれば、正面にクタビーチのゲートが目に入る。
閑散とした道の先、T字路、ここを右に曲がって、300m位先の右側に、アストンクタホテルがある。
ジンバランで食事、サンセットを眺めながら、贅沢な夕食、ロブスターやクラブ。大満喫してもらったと思う。
もう一日、今のところ、全員が、正常。まずまずである、もう一日、無事にと願う。
歩く 食べる 見る
10月8日 (^_-)-☆皆さんと別れ 3552 無事、皆さんをスカルノハッタ空港で見送った。慌ただしい数日だったが、過ぎてしまえば、あっというまだった。肩の荷が軽くなった。
昨日と同じように、朝、8時にアストンからスタート、先ず、キンタマニへ向かった。昼食後、そこから、時間を見ながら南にむかって、途中、プラ、ヒンドゥー寺院に寄るという、スケジュールだった。しかし、早く着きすぎてしまうので、途中、ゴア ガジャにより、それでも、早いので、ティルタエンプルにもよった。鯉の池や水浴びの場所があるところだ。
11:30にそこから、キンタマニに向かい、12;00にレストランに入った。バツールの北側から、赤い炎が上がっていた。野焼きかと聞いたら、自然発火だという。いわゆる山火事だ。火の粉が偶に舞って来るという。
かなり激しく燃えているが、消火作業をしないで放っておくらしい。手前に焼け跡が広がっている。
食事後、キンタマニでも、もっと上のダナウ バトゥール寺院に寄ってみる。以前、行ったことがあって、印象が良かった場所だった。熱心に説明をする人が付いてきて、マークの意味とか、カルデラ湖の縁にあった寺院は、噴火で埋まってしまったので、この場所に、1935年に再建したとか、ヒンドゥー年は、一年420日だと、一か月は35日だとか説明してくれた。
皆さんがホテルに帰る途中、ライステラスに寄った。この世界遺産の棚田、何故なったのか理解できない。インドネシアには他に、持った大規模な棚田は一杯ある、それも、バリの棚田に比べれば,100倍以上の規模だ。私にしてみれば、かなり上位のがっかり世界遺産だ。それでも、観光客で賑わっている、登録されて二三年後には、もとの、がら空きに戻るどこかと違って、不思議に賑わいが増している。
私は、空港で降ろしてもらい、皆さんがホテルに戻り、バッグを持って空港に来るのを待った。18;30頃、チェックイン、時間があるからと、ゆっくり食事をしていたが、皆さんと私の便が違っていて、私は皆さんより一時間早い出発になってしまっていたことに気が付いて、あわてて、私だけ、ゲートの場所を探しに行ってしまった。慌ただしい、分かれになってしまった。
私は、24時を回って、工場に到着した。
5,000 hilang di dua kawasan Paluプラの二か所の地帯で5000人が見付かっていない。
Semasa
Balaroa, Petobo alami insiden tanah jerlus
見送り キンタマニ 分かれ
10月9日 (^_-)-☆夢の中 3553 チカラン地方の工業地帯の現状チェックから始まって、キンタマニまで、5日間、慌ただしく、あっという間に過ぎてしまった。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page237.html
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page236.html
2011年、単独でバリへ行った時の記録です。今回、皆さんと歩いた場所と重なっています。
ツアーコンダクターとしての役割は、何となく、果たせたと思う。平均年齢は後期高齢者、皆さん、ロング ロング アゴーのクラスメート、当時、そのままに、動き回ったら、とても持ちそうにないので、皆さんの行動速度に一番、気を使った。はぐれないように気を使った。特にバリ、初日の夜のウルワトゥのケチャッでの混雑ぶりを酷かった。こんなに入れるなよ、と思う。
食事に気を使った。日本食は最初から避けようと思った。せっかく、インドネシアへ来ているのだから、日本食以外で、お腹を壊さないだろう食事をしてもらうことを気にした。インドネシア料理が主だが、揚げ物、炒め物、煮物の色々を食べてもらった、スープ類も色々試してもらった。皆さんの評判は、押しなべて、良かったと思う。アッサム、マニスの料理が気に入ったようだった。日本に無い味付けなのかもしれない。ゴレン、バカールなども覚えてもらった、ガドガドも結構いけるらしい。私が辛い物が苦手なので、辛くしないように頼んでおいて、何種類かのサンバルを添えてもらった。皆さん、それらを付けたり混ぜたりして試していたが、これも、それぞれの好みで、美味しそうに食べてくれた。
最終日、バリの空港のレストランで、日本ではちょっと食べる機会がない料理だからと思い、ソ ブントゥットゥやミーアタムを食べてもらった。結構、大きな肉も入っていて量的にも食べ甲斐がったようだが、味を気にいったようだった。で、ブンブーについて話もした。
すでに、皆さん、手で食べるようになっていた。最初の内は、ナイフとフォークで、何とか食べていたが、私が手で食べているので、何となく、皆さんも手で食べるようになっていた。そのうち、インドネシア料理は手で食べた方が良い料理ばかりだねというようになっていた。勿論、どのレストランにも、手を洗う場所があることも知ってもらった。
満喫してもらたと思う、体の具合が悪くなる人もいなかった。皆さんの協力に感謝。帰国しても、皆さんの平穏な生活が長く続くことを願うと締めくくった。夢の中の出来事でした。
そして、夢から覚めて、新規の仕事の詳細を聞くために、デルタシリコン3の中華系の射出の会社へ行ってきた。医療用ではなく、普通のベッドのサイドバンパーだった。この会社は、それとセットになる製品を受注しようとしている。最終客先はバンドゥンだとか、金曜日にバンドゥンまで行って詳細の打ち合わせをすることになった
満喫 無事 感謝