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2014 日本の春
2015 インドネシアで春か
写真 photo

3月17日 日本にいる、静岡にいる、丸子にいる。三カ月ぶりの日本である。孫が日本にいるので、春休み、多分、一緒に遊ぶ時間が多くなるでしょうが、桜の下になると思うが、ゴルフも三回セットされている。

 

 

3月18日  15,16日にインドネシアでゴルフをして、今日18日に日本でゴルフでした。

雨季がほとんど終盤のインドネシアは30℃以上の環境、汗をかきかき、スポーツドリンクの900mlを二本くらい飲む、それも、一本は、冷蔵庫で凍らせて、溶かしながら飲む。途中でトイレに寄ることはほとんどない。

天気予報通り、プレー前半の途中から、雨が降り出した。大粒ではないが、ひっきりなしに降り続いた。時折、風が強く吹き、傘の効果が無くなった。気温は5℃くらいだったらしいが、体感は、もっと低かった。暖かいお茶を時々飲みながら、なので、トイレに寄る回数も多くなる。

 

桜の開花にはちょっと早すぎるし、曇天の下では、その他の花もあまりきれいには感じられない。それでも、日本ならではの早春の花がところどこらに見られ、なんとか、少しだけ春を体験した。やはり、日本のゴルフはつらい。

 

急に注文が入ってきている。種を撒いておいたが、ここにきて、芽が出だしたようだ、あまり、一斉に芽が出てしまうと、対応が追い付かなくなるので、ほどほどに受注増加になってほしい。ゴルフのプレー中に、インドネシアから四回電話が入った。納期と原料のセーフティーシートの確認が、そのうちの二社だった。平日なので仕方が無いが、インドネシア語と英語で話をしながら、ほかのプレーヤーを待たせるのだから、プレーに集中できるわけがない、散々のスコアーで、それも、ダブルペリアのコンペだったが、成績も散々、踏んだり蹴ったりの一日でした。

 

夕方、暗くなりかけた5時頃、家に戻、早速、先ほど、中途半端な話しかできなかった相手と再確認をした。インドネシアの時間は夕方の4時ごろなので、返事としては、決して、遅れて、待たせるということはなかったのが幸いでした。

 

昨日からの睡眠不足も重なり、孫ののしかかり攻撃にも耐え、支離滅裂、の一日でした。書いていることも支離滅裂だと思う。

寒さ 散々 疲れ

 

3月19日  厄介な状態  浦島太郎状態なので、新しいビルの名前など知るはずが無い、セノバへ行きたい、と言われたって、どこにあるのか、何しに行くのか分からない。聞いたら、新静岡センターだという。それならわかる。ないにしに?映画を見たいという。え?映画館があるの?ネットで検索してよという。シアター7まであり、彼女たちが見たかったのは“アナと雪の女王”でした。セノバの駐車場は映画を見るなら3時間無料という紹介もあった。13;00から始まるが、12:00に行って、予約をした。既にほぼ満席に近かった。もう、多くの小中学校が休みになっているらしい。半分以上、眠っていて、後で怒られた。それにしても、平日、昼間から映画鑑賞とは、初体験で、妙な感じがする。

 

急にあれやこれやの見積もり依頼やPOが舞い込んできた。日本にいては、遠隔操作するしかない、ノンビリできない。仕事の事など忘れて、孫の春休みにつきあいながら、リフレッシュしようと思っていたが、そうも行かなくなってしまった。映画館から出てHPをONに戻した途端に、いくつかのSMSが入っていた。電話のミスコールもあって、急いでいたので、いちいち返事をするのに電話代が嵩む。金型の製作も依頼したし、見積もりを提出した。製品の図面を書き送って、寸法公差の確認をしてもらった。なんで、こんなに、仕事をしなければならないの?と思う。見積もりを昨日送った客先から、POと同時に金型費用に振り込みがあったと連絡が入った。そんなに急がれても、最低必要期間は短縮できない旨の連絡も入れた。

全てが、失敗なく、送れなく、順調に進むことを祈るのみ。

 

また、仕事を一緒にと誘われた。今回は、昨日、一緒にゴルフをした人う内の一人からである。どんなことかというと、退職者(リタイヤした人たち)を集めて、会社を立ち上げたい、という話だ。頼られるのも困るし、日本での話だし、年齢的に、直ぐに、という話なので、ちょっとね。しかし、これも、一つ、在り、かなと思う。

 

帰りの道の内の真っすぐな道、本通り、という。全部青信号と赤信号の場合。それにしても人がいないよね。

映画 居眠り 遠隔地

 

 

3月20日  (^_-)-人口減少率 1890 静岡県の企業の海外進出というより海外流出、海外脱出の勢いは止まらないどころか、未だに加速が止まらないようだ。特に遠州地方の企業の流出が激しい。県の人事異動では、産業関係の部署に力のある人材を配置したと言われているが、今さら何なの?今さら何をしようとするの?と思う。産業の空洞化、などは、20年くらい前から始まっているのに、今頃になって何なの?

円高で海外へどんどん出てゆく、という流れは、留まるところを知らなかった、競うように大企業を先頭に引っ張られるように、準大手、中企業と出て行った。そして、小企業も零細企業も出て行かなければ仕事が無くなってしまうという状態になっている。若干の円安だからといって、海外から企業が戻ってくるわけがないどころか、日本では、売れないのだから、流出は止まらない。それに。私の様な年寄り、年金生活者が、がどんどん増えているのだから、節約生活人口が増えていて、給料を受け取る人の比率が下がっているのだから、購買力が上向くはずがない。どこを、どう切っても、景気上昇、人口増加の切り口は見えない。

静岡県の人口減少率は全国三番目だそうだ。そりゃそうだ、大企業も多いが、それを頼りにしてきた零細企業も多い、それらの支店、営業所、出張所はどんどん閉鎖される。浜松郊外の工業団地など、今や、開発、造成したばかりのインドネシアのデルタマスのように、広大な更地になってしまっているところが多い。これから、どんどん、工場建設が始まる場所と、工場があったが、更地に戻されていまい、建設予定がない場所と。大きな違いだ。先が楽しみな場所と全く楽しみが消滅した場所だ。

何度も書いているが、インドネシアへの企業流出は、凄まじいものがある。今頃進出して来ても美味しい話はないどころか、難しい局面に次々とぶっつかり、利益面でもそれほど望めない。それでも、日本では、どうにもならないところに来ているのでしょうね。

 

私は、日本は今から20年ほど、じっと、冬篭りのような生活をし、人口増加を待つしかないと思う。姑息な対策の様なもの(アベノミクスの様な)をすることは、真の上向きの時を遠くさせる効果しかないと思うので、何も手を打たないほうがいいと思う。年金生活者が増えるのに、内需が増えるはずがない。

 

手前100mくらいの所から太田化工。

 

サザンカの垣根の外側の道を修了式帰りの小学生が通る。小学校へ近道通学路になっている。

流出 減少 更地

 

 

3月21日  (^_-)-くつろげない 1891 くつろぎの1日のはずが、メール、SMS,TELが頻繁に入ってくるし、それに関して、アクションをしなければならない。全然、くつろげない。それに、ぎっくり腰になってしまったようで、立ち上がるのがつらくなってしまった。

 

米麹を5kg仕入れた。1kg900円でした。1kgからお米が10kg以上を使うと20Lほど作ることができる。100L出来る計算だ。この“命の水“、インドネシアの相場では1L2000円以上する。その値段でも買いたいという人が多いのです。もし、売るなら20万円以上になる計算だ。もしかしたら30万円以上かもしれない。売ればもうかると思うが、犯罪になってしまう。だからでもないが、私は1滴も売らない。全て、プレゼントである。投資は、イースト菌、ヨーグルト、インドネシアのお米、そして、アクア(水)などで、2万円弱だと思う。100L作るのに、私の労働時間は絞る時間がほとんどで、7〜8時間だと思う。日本なら1L500円くらいで売っているのも十分わかる。

私自身は、まったく,味がわからないが、結構評判がいい。楽しみにしている人が多くなったので、前回より2kg多く持ってゆくことにする。

 

2ライン、ロングシフトで生産しいて、それぞれが、初めての量産になっているため、私が不在で、うまく、量産に滑り込ませることができるかどうか、気をもんでいる。気をもんでも仕方がないことは分かっているが、やはり気になる。順調に立ち上がったの知らせで、ほっとしている。

 

また、一つ、サンプルの評価が下った。OKである。在庫の消化の関係で、5月中頃に初POになるそうだ。この製品原料価格が2000円/Kgの高価、なぜ、こんな高い原料でなければならないのか不思議に思うが、車の関係は、替えられないらしい。製品も高いし、利益金額も多いが、利益率という点では少ない。高価と言えば。この原料も800円/kg、PCカバーも1万本ばかりPOがはいった。私がインドネシアへ戻ったころ量産に入る予定だ。大丈夫かな。いずれも、インドネシアでの製造は,初である。

 

 孫の二人、私のPCを奪いとってゲームに夢中。

奉仕 手伝い バントゥ

 

 

 

 

3月22日  デジカメ遺失  デジカメをなくした。このデジカメ、何度も、行方不明になっている。すべてが、置き忘れである。どこに置いたか、どこに入れたか、まったく記憶なかった。最低、三回、そしてすべてが、会社内か家の中でした。旅に出ていて置き忘れた事はなかった。そして、あきらめて、探しもしなくなったころ、思ってもいなかった場所、例えば、家だけではいていた半ズボンを久しぶりに履いたとき、そのポケットにあった。必ず何時かは、見つかるだろうと思っていた。

 

今回はちょっと事情が違うことははっきりしていた。今回は、家について、その日の夜、画像をPCに取り込もうとしたときに、ないことに気がついた。遡って考えると、タクシーの中に置いてきてしまったに違いなかった。タクシー会社に覚えがない。だから、タクシー会社に聞くわけにはいかなかった、静岡駅のタクシー乗り場から、家から100Mほど離れた国道沿いまで乗った。だから、タクシーの運転手は私の家がどこかは分からない。それなら、私の後、何人乗せても、タクシーの運転手が、カメラに気がつけば、写真をチェックして、外国から、帰ってきたばかりの私のカメラと分かるでしょう。それなら、私を乗せた場所から30mほどのところにある派出所に届けるでしょう、と、推測した。

 

5日ほど過ぎたが、行く用事があったのでついでに、駅前派出所に行って、尋ねてみた。孫の二人も一緒だった。私が、何かを置き忘れたり、なくしたりして、派出所に、聞きに行くのは人生で初めてのことで、ダメ元でいいから、「日本で物を置き忘れたときには、ほとんど、戻ってくる」という、評判を確認してみたくて、届けてみた。孫たちにも、いい経験になると思った。

 

カメラの機種や色は、今私が持っている予備(spare cadangan)とほとんど同じなので説明は明白だった。一人が、その派出所に届けられた拾得物の控えをチェックしている間に、もう一人が、中央警察署の遺失物係りに電話で問い合わせてくれた。その問い合わせ中に、控えにあることを見つけてくれた、この派出所に、予想通り、届けられていたのでした。ビンゴである。流石、日本ということを孫たちにも話した。

既に,中央警察署に移されているので、平日に、受け取りにいって下さいとのこと、紛失届を書いた。遺失物番号と拾得物番号を書いたメモを渡された。それをもって、受け取りに行くよう、案内された。

月曜日に行くことにする。

 

朝の散歩、丸子川沿いの土手道、これは始めてではなく、多分40年以上ぶりのこと、土筆とタンポポをセットで見つけた。土手沿いにずっと見ることができた。枝垂れ桜が満開、ソメイヨシノは蕾が膨らむ、でした。

拾得物 遺失物 発見

 

 

3月23日  

 

丸子川の土手を駆けあがる。家の庭で友達と何をしているのでしょうか、外が賑やかだった。

辛い いい加減 出まかせ

 

 

 

3月24日  デジカメ回収  今日、静岡中央気象台は桜の開花宣言をした。名古屋も今日だったらしい。静岡が一番になる確率が大変高いことは知っていたが、矢張りという感じで、時間的に静岡が本州では一番目だったという。

 

中央警察署の二階の会計係が収得、遺失物関係の対応をしている。なぜ、会計係なのか聞かなかったが、何故だろうと思う。それは、それとして、カメラが戻ってきた。市役所の地下駐車場に、住民係へ行くと言って駐車し、実は、道を隔てた別のビルの警察へ行ったわけだが、その両方のビルの向い側は、駿府城の外堀で、その内側、内堀との間に県庁が聳えている。そこに至る橋の両側に桜の大木が堀に垂れるように並んでいる。そのそばで、間もなく催される桜祭り(二十日会祭り)の準備で、提灯などをぶら下げえいる。肝心の桜の花は、“蕾膨らむ”の段階、満開は3月30〜31日と予想する。

 

その中の写真、空港の免税店でアラック バリArak Baliを三本買った。三本なら、日本へ持ち込み問題なし、以前にも書いたと思うが、アラック バリは、何故か、陳列されていない。店員に,あるか、と、聞けば、何本?と、聞かれる。本数を言えば、このカウンターのような、仕切りの裏から、取り出してくる。密封して持たせてくれる。最後のX線チェックで問題にはならない。

 

遠隔操作で新型のLED直管ランプのPCカバーの金型を発注した。再来週,私がインドネシアへ戻った時には、試作品が出来上がっていなければならない。二週間以内に、試作品を出さなければならないということだ。インドネシア人スタッフに任せているのだが、やってくれると確信している。

 

私が面倒を見ていた、日本人と結婚しているインドネシア人女性、ユニーさんにインドネシアからの土産を渡した。クルプックの揚げる前の固いせんべいのようなもの、これを上げると10倍以上の体積になる。揚げた物を持ってくれば、嵩張るが軽い、あげる前のものは小さい包みだが、重たい。それと、各種ブンブウ、日本の出汁のようなもの、いろいろな料理用に多くの種類がある。いわゆるインドネシア料理には欠かせないもので、私もインドネシアで、ソプやソトを作るときに、必ず使う。日本にいるインドネシア人にとっては、大変貴重な、匂いと味覚になっているはずだ。ナシゴレンやミーゴレンにもこれは欠かせない。

回収 PO 試作

 

 

 

 

3月25日  (^_-)-Sendok dan Garpu 1895 ナシゴレン、ミーゴレンは、多くの人が知っているインドンシア料理ですが、インドンシア人は、こればかりを食べているわけではない、むしろ、それ以外のインドネシア料理のほうが良く食べられている。私が好きなのは、ソプやソト類である。

 

もともと、インドネシア料理の食べ方は、右手で摘むか、乗せて、口に持ってゆくのが、作法です。今でも、多くのレストランやワルンでは、そういう食べ方です。高級レストラン、高級ホテルでも、その食べ方でOKです。必ず、手を洗う場所があるし、フィンガーボールが出される。だから、スプーンとフォークを使うようになったのはいつごろからでしょうか。オランダの植民地時代はまだ、右手で食べていたと思う。そして今も、インドネシア全体を見れば、人口の半数以上はまだ、右手掴みで食事をいていると思う。

 “スプーンとフォーク”この組み合わせ、欧米スタイルなら“フォークとナイフ”だが、インドネシアは、Sendok dan Garpu”である。欧米スタイルなら、スープは、やはりスプーンを使うわけで、そのほかにも料理ごとに別の道具を並べられていて、ちょっと、作法が面倒臭い。

その点、インドネシアは簡単だ。他の道具が出されることはない、スプーンとフォークだけですべてOK。そして、それらで,食べにくい場合は躊躇なく手掴みで食べている。そしてスプーンが大活躍する。多くの料理にスープがつくか、スープが主で、ご飯がつくかどちらかだ。そして、ご飯にスープを掛けて食べる人が多い。猫飯だ。これを食べるにはスプーンでなければならない。レストランでは、チャンプルとピサーの二種類のメニューがある場合がある。チャンプルというのは、ご飯とスープを混ぜたもの、ピサーは別々という意味だ。

 

 インドネシア料理は、概ね、問題なく食べられるし、ワルンやカキリマでも問題なし、お腹を壊す心配をしたことがない。安さ、美味しさ、量の調整などを考えると、日本食レストランの日本食より、遙かに私に合っている。ただし、ただ一つだけ、食べない付け合わせがある。それは、生野菜だ。胡瓜の輪切りやレタス、そのほかに、名前を知らない野菜が、生のまま添えられる場合が多い、それは、食べない。当たる心配というより、美味しくないからだ。

 

一つ、不思議に思うことがある。昨日、インドネシア人への土産にクルプックのことを書いたが、御飯が盛られた皿に、必ず、クルプックが添えられる。種類は多彩で、原料の粉も何種類かある。日本のカッパエビセンを薄く丸くした煎餅といったところでしょうか。とにかく、必ず添えられる、スープ類にも載せられることが多い。もう一つ添えられるものがある、漬物?胡瓜やニンジンを細長く切って、酢漬けにしたもの、何故か、緑トウガラシ(Cabe hijau、小さいが、超カライ)も混ぜられている。これも、食べてみたいとは思わないので食べない。御飯だけで他の物は抜きでと注文いても、生野菜と漬物が付いてきてしまう。

 

空港のレストランのソッブントゥットゥ、高い割においしくなかった。これにも左にご飯とクルプック(トウモロコシの粉から作られている)が添えられていた。

 

機内の最後部から前をみた。ガラガラである。十分熟睡することができた。ビジネスやファーストクラスより遙かに、寝心地はいいと思う。

クルプック センドック ガルプ

 

 

3月26日  (^_-)-Masakan Jepang 1896 マサカン ジュパン日本食のことです。Jepangは間違いではありません。インドネシア語はこうです。

 

今回も、日本で何人かに聞かれた。食べ物に苦労するでしょう?日本食は、食べられるの? 水は大丈夫? 十何年前も今も、私がインドネシアから戻ったばかりと知れば、こういった質問は、相変わらずだ。今も昔もインドネシアという国は、未開の国、という印象を持っているのでしょう。

 

その都度、こう答える。“全然問題ない、それに、日本食レストランには、一人で行くことはない”。どうぞ、安心してインドネシアに行ってください。

舞台はジャボタベックでの話です。ガイドブックのような、日本食レストランやカラオケを紹介している小雑誌や新聞の特集を見れば、百や二百軒はあるでしょう。なお、増殖中です。コンビニもスーパーも日系が続々と開店しています。おにぎりなど、すぐそこで売っています。

 

食べ物で苦労する?先ず、食当たりを心配する。出張で短期間、滞在する人の気持ちはわかる。刺身など生ものを食べて、腹痛になったとか、インドネシアにいる時には、なんともなかったが、日本に戻ってから下痢になったとか、そんな話を聞くことがある。ただし、10何年いて、私の知り合いでは、そんな人は一人もいなかった。だから、よっぽど、運が悪かった人だと思う。長期で滞在を始めた方は、ちょっと事情が変わる。私の印象では、三か月以内に下痢を経験する可能性が高い、それも、若い人のほうが高い。日本食レストランやホテルやサービスアパートの食事しかしない。ミネラルヲーターしか飲まない、歯磨きもアクアを使う、そういった気遣いをしても、なる人が多い。これは、仕方がない、免疫が無いから、体内に初めて入った、細菌、バクテリアが悪さをするのです。しかし、それを一度経験すれば、その後、繰り返す人は、ほとんどいない。通過しなければならない、工程だと思った方がいい。二三か月過ぎて、私は何ともない、という人も、その後すぐに掛かるかもしれない。私の周囲にいる人、いた人、ほとんど、同じです。心の準備をしておいた方がいいと思う。そして、それは、一日、二日で治ります。病院は、近くで充分、より取り見取りです。海外保険に加入していれば、無料です、取り扱い病院でない場合は、支払っておいて,後で、請求すれば、全額、すぐに、戻ってきます。

 

それは、さておき、日本食レストラン、腐るほどあるし、まだまだ、どんどん、増えています。それでも、日本人が増えているので、どこも、儲かっているようです。高いと思うが、高給取りの日本人にとっては、問題ではないらしい。私は全く行かないが、夜、酒を飲みながら、過ごす人が多い、一晩で数千円使う人も多いとか。多くの人は、以上です。しばらく、いれば、なにも、心配することはなくなるでしょう。日本で生活しているときより遙かに、優雅な、自由な、思い通りの食生活を送ることができるでしょう。

 

なんども書いているが、私には、そういう食生活は、馴染まない。千円もする日本食がおいしいとは思わない、二百円ほどのワルンの食事の方がおいしいと思う。日本食レストランだから安全だとも思わない、道端のカキリマも安全だと思っている。だから、“全然問題ない“と、答えるのです。

 

我が家の庭の春。

開店 コンビニ スーパー

 

 

3月27日  (^_-)-食べ物の価格 1897 インドネシアの日本食レストランの定食の価格は日替わりの場合、税込みで5万Rpから7万Rp,余った材料を処分するための日替わり定食なので、安くできるのです。一般的な定食は7万Rpくらいが最低でしょう、平均では、8万Rpくらいだと思う。Rpから日本円への換算は、ゼロを二つ取って、0.9を掛ける。8万Rpは、720円くらいです。これは、昼食時の値段です。これが、夕食になると、30%以上高くなる。一品料理の高いこと、私は一人で、こんな夕食を食べたことがない。

高いですよね、日本国内より、高いと思う。高いと言えば、日本から輸入した食材の価格。税金が高いからでしょうか、象徴的なもの、インスタントラーメン、5個入り、600円以上、うどん、5個入り、やはり600円くらい、お菓子類は日本の価格の1.5倍、韓国産のうどんは、400円くらいです。納豆等は一パック120円くらい、インドネシア産の開発商品、味も食感もいまいちでも90円くらい。

 

だから、私は、こういう、日本的な日本食品に関して、インドネシアでは高いが、日本では格安な食材を選んでインドネシアへ持ってゆく。持っていって、三ヶ月間ほどで、食べて無くなる、という、ペースで、消化する。主食は、インドンシアの食材である。ラーメンなどは、日本の有名チェーン店が、数多く進出していて、“太麺ですか、細麺ですか、チジレ麺ですか”などというのもあるし、味噌や醤油や何々味など、多彩だ。そして、一杯、500円以上、それに、トッピングとかいって、乗せるものを追加すれば、すぐに千円くらいになってしまう。こだわる人は、そういう店を気に入って,利用する。そして、どこそこはおいしい、そうでもないと、うんちくを言う。

私はどうか、タカがラーメン、そういった類の店に誘われて行って、何を食べても、うまいと思ったことは、一度もない、もったいないと思うだけだ。それどころか、インドネシアのカップメン、インドミーやスダープなどのインスタントラーメン、30円くらい、の方が、よっぽどうまい。カップ麺のミーゴレンは、格別、私の味覚に合っている。日本から持ってゆく、インスタントラーメンは、5個で200円しない、価格的には、インドネシアのインスタントラーメンとほとんど同じだ。

私はそういう工夫というか生活が楽しい。自分には安上がりである。言うまでもなく、インドネシア人,中流の生活をすることができるなら、一月の食費は、2万円以内で済ますことができる。

 工夫 節約 安上がり

 

 

 

3月28日 技術の広がり  私の技術の広がりは、日本国内とインドネシアにある。それらの会社では、私が二十歳代に考え付いた装置が基礎になっている押出成型ラインを使っている。東レプラスチック精工に社名が変わっているが、外の納入車への注意書きは東洋プラスチック精工のまま、というのが、面白い。で、この会社の押出成型の基礎的技術は私から抜け出していないようだ。私が辞めてしまった後に、後輩から何回か相談を受けていた。こういうことは、インドネシアの会社でも同じことだ。

 

沼津市の南の方、志下(しげ)というところの貸工場で、一人で、1ラインで仕事を始めた。今から40年前の話だ。今は、このエリア一帯は、広い道ができ、干物の干場だった場所に、色々な店や住宅が建っているが、貸工場の周りは昔のままだ。二つ並んでいる工場の奥の方、左側に私が入っていた。手前が名取製作所の駐車場で道の右側、貸工場の向い側が名取製作所の本社工場だった。窓を明けて仕事をしていたので、社長が、覗き込んで、「お前の所は、遊んでいるようで、よく儲かっているらしいな」と、いつも、羨ましそうに云っていた。また、11や12ナイロンのチューブを納めていた関係で、アオイとう継ぎ手の会社の社長さんも、頻繁に会社に来ていた。後に両社とも、私の方法をそっくり真似して,自社で押出成形を始めてしまった。二人とも、私を応援していてくれると思っていたので、裏切られた気持ちで非常に残念に思ったと同時に、人の道に外れるようなことをしなければ生きてゆけない人に同情もした。

これに似たような話は、もう一社あるが、これは、その会社の経営者ではなく、製造責任者が、製品クレームを頻繁に付けて,そのつど、製造ラインのチェックだと言って、現場に入り浸り、挙句の果てに、自分がやったかのようにして、その製品を、その会社内で製造するようにしてしまった。その人間は、やはり、気の毒だなと思った。そういう人そういう会社のいずれも、私から持ち出した仕事だけをできるだけで、新しい仕事はできない。これは、インドネシアで技術指導した会社と様子は似ている。教えられただけ、真似しただけの技術では、応用が利かないし、やった事のない仕事に挑戦するということは無理な話でしょう。

 

沼津から静岡に移ったのち、沼津で手伝っていてくれた人に、工場や客先を譲った。それが、“セピック“という会社である。小さい規模でやっているので、十分、採算はとれている。ある程度大きな会社ができない仕事をしていて、心強い。安定して仕事をしているので、何も心配していない。

 

太田化工は、言うまでもない、20年前に、私の技術や客先や十分な内部留保を後輩に譲って、私は、インドネシアに飛び出してしまった跡です。ここも、こじんまりやっているので、この難しい日本の仕事環境でも何とかやっている。

 

もう一社、太田化工から飛び出したSKYという会社がある。私の孫会社とでも言うのでしょうか。装置は同じである。意欲的に新商品を開発中で、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないという期待を持っている。

 

日本に私がらみの押出成形ラインは恐らく、30ラインくらいあるのではないかと思う。それぞれが、大儲けもしていないが、十分に経営はなりたっているようだ。新しい仕事に積極的に取り組んで拡大,ということはないが、それぞれが、独自の製品を継続してつくっている。スパイラルやエッジングがよい例だ。それぞれ、客先を掴んでいる。装置、技術、客先の相似形である。

 

右側に私が大学を卒業して、この会社に勤め始めた時から結婚するまで約3年過していた独身寮、今は、別の使い方をしているらしい、左の駐車場、車がたくさん見える場所には、三階建ての社宅があった。組合長のときに要求して、建ててもらって、入居者第一号だったが、出てしまったのも第一号だった。手前は狩野川。

 

この門から入って、右の事務所と右側の倉庫の建物の間を右に曲がって、ますぐ行くと独身寮に行くが、すぐ左に曲がると押出成形の工場棟があって、その中に、丸棒や板をつくる固化押出ラインが7ライン、チューブやプロファイルを作る溶融押出ラインが4ライン、ガラス繊維や炭素繊維を混ぜた原料を作るラインが3ラインあった。辞める時には、その全体の責任者だった。

足跡 広がり 相似形

 

 

 

3月29日  (^_-)-8億円、8% 1899 はっきり言って、どちらも、バカバカしい。8億円、渡辺なにがしという政治家。何をかイワンやである。猪瀬何がしと似たり寄ったり、馬鹿じゃないの、人を馬鹿にするような、言い訳にもならない言葉を、何とかひねり出して、それで、すべてが、治まると思っているのでしょうか、思っていないでしょう。取りあえず、今の状況ではこれしか頭に浮かばないのでしょうね。哀れで、気の毒だと思うしかない。日本の政治家は、こんなものでしょう、レベルが低いというか、貧弱だね。取り巻きの連通も、納得しているのが、また、面白い、呆れるばかり、ほかの政治家が、何億円かを受け取っていて、こんな言い訳をした時に、皆さん、「なるほど、言っていることは納得できる」、と、相槌を打つのでしょうね、きっと。すごい世界すね。インドネシアも税金を納めたくない国だが、日本も税金を納めたくない国だ。

 

それは、別世界にとんでもない話だ。彼らにとって、何が満足で、何が生甲斐で、何が幸福なのでしょうか。私の幸福感とまったく違うようだ。私がインドネシアで安上がりの生活をしながら、自腹を切りながら、技術を伝えているのに、日本の行政や立法にかかわっている人たちは、優雅な生活をしながら多額の無駄使いをしている。特権を多く持っている大使館員の優雅な生活は、庶民感覚では理解できない。JODCなどは、廃止すべきだし、廃止しないなら、すべての費用を半額にするべきだ、私が任せられれば、半額以下で今以上の貢献を外国にすることができる。

 

8%、これもバカバカしい、何故、消費税が3%上がるだけなのに、上がる前に買っておこうという心理になるのでしょうか、私には、わからない。3%安く買えたという喜びのために買っている?高額になればなるほど、その差が大きくなるから?例えば、車や家を買う?そして3%節約する。4月に入って,しばらくして、モノが売れなくなる。値下げしても、売れない、もっと値下げする。値下げ率が5%いや10%以上になる、そんな可能性があることを考慮しているのでしょうか、中古や新古の出回りが増加し、値崩れを起こす品物もあるでしょう。非常食用に飲み物や長期保存ができる品物を3%節約するために今買っておく?賞味期限があるので、そういう考えの人には、賞味期限以内に大震災が来ることを祈ります。

 

私の考え、一番,賢い手段は、現在必要とする日常品以外は買わないことです。現在の価格は強気に、高い値段の付けているはず。車も家も結婚指輪も、今、買わないことです。4月以降、必ず、3%以上の値下がりになるでしょう。希望価格はそのままでも、ディスカウント幅が大きくなる。半年以上,買う時期を遅らせれば、10%以上安く手に入るかもしれない。

 

予約チケットや燃料など、市場価格に左右される可能性が少ないものは、値段が下がらないので、買って置いた方が、ちょっと、節約になるでしょう。

 

日本を無理やり見かけのインフレに誘導し、公共料金や輸入品などで、庶民の生活費を高騰させている状態が継続するわけがない。さらなる、量的緩和などと言っている、経済の専門化がいるが、必ず、デフレになるでしょう。モノを買わなくなれば、値下がりするに決まっている。私はガソリンを満タンにするだけです。

 

サラリーマンを止める1年ほど前から、独立して、沼津の工場で仕事をいていたころ、そして、静岡の貸工場に私だけ移り、その後2年間、合計約8年、この分譲住宅地地に住んでいた。建物は今の人によって、建て替えられているが、右の茶色い建物の場所にいた。

衝動 無駄 選挙資金

 

 

3月30日  技術指導の評価  私がこの仕事に関わって、48年、最初の半年だけ、与えられた装置(西ドイツ、シュレーダーシュタインデルマン、ライヘンホイザーからの装置を導入いたという記憶がある)を使いこなすために、先輩達がやっている仕事を覚えようとした。教えてもらいながら、覚えながら、その状況は不満だらけだった。製品がうまくできていなかった。不良品の山だった。装置に大きな不満が生じた。なんとかしなければならないと思った。

半年後からは、関わる仕事のすべてを、私の考えと腕で、した。装置の大改善に手をつけた。誰からも指導を受けなかったし、参考にする文献もなかった。ただし、技術以外のことに関いて、ただ一人、先輩(上司)の中に、仕事に対する取り組みが非常に熱心な方がいた。三年ほど、その人の姿、姿勢を参考にした。塩崎さんという、自衛隊習志野空挺部隊出身の猛者だった。“空の神兵“を、一緒によく歌った。それと同時に他の人に対する、技術指導をする立場になった。それ以来、ずっと、技術開発とそれにともなく技術指導の連続が私の仕事です。自分が作ったものを自分が作り続けることないのだから、誰かに、それを覚えてもらって、生産をしてもらわなければならないのだから、当たり前のようにそういていた。

 

66ナイロンの二硫化モリブデン10%入りの馬蹄形をすぼめたような形のベルトコンベアーの鎖が滑るラインのガイドレールという製品を日本で初めて作った。66ナイロンのチューブや異形品(プロファイル)の生産は、日本での草分だった。そのすぐ後、6ナイロンのプロファイルも手掛けることになった。まだ、誰も出来ないこと、出来るかできないか、返事に迷うことは、やると返事をするという、姿勢が確立された。

 

さて、技術指導を何十年も続けてきて、私のような考え方をする人を育てることが、最大の目標というか,希望だった。今もそれをしている途中だ。

 

難しいのは、伝える相手次第だということで、私と同じような人に伝える情況は、無いわけで、自分が満足出来ていないし、伝え具合を評価する人が、私の技術を分からないわけだから、評価できないのだが、評価するのだから、十分だと評価する筈がない。48年、日本人一人、インドネシア人一人の合計二人しか、私の跡継ぎになれるという人に会えなかった。そして、その日本人は、この世にいない。

 

静岡駅北口前の様子、お世話になった交番、この右がタクシー乗り場、芝桜と徳川家康像、鷹刈りスタイル、駿府公園の中に有ったものをここに何時からか移設したらしい。

 

妻の作品、家の中の桜が咲き始めた。

評価 無理 相手



3月31日  過酷なコース  初めてやるゴルフ場、多分,家から一番近いのではないか。30分で着く距離だ。昨日の嵐のような天気から、一変して、春うららの素晴らしい天気に恵まれた。桜は8分咲き、丁度良い、と、思いながらスタートをした。コースについて全く予備知識がない。ロング、いきなり、高い位置から打ち下ろし、壁に向かって打つよう、一打目、ランなどないどころか、手前に転げ落ちて止まった。二打目もナイスショット、堕ちた場所がまだ上り坂の途中、三打目の50mほどが頂上になっていて、その先が見えない、キャディにグリーンの方向を聞いて、そちらにナイスショット、今度は、急斜面を下って、転がって、グリーンの手前100mくらいの窪みに止まった。四打目、5番ウッドで、急斜面の打ち上げ、グリーンの手前、5mくらいに落ちて、手前に転がり落ちてきて、20mくらいで止まった。そのホールは、結局、ダボだった。ティーグラウンドから、急に下り、急な登り、急な下り、急な登り、砲台グリーンでした。そのほかのコースは、概ね、壁に向かって打ち、急こう配を下って、今度は上り、そのまま、グリーンまでひたすら登って、砲台グリーンに至る。こんなコースをよく作ったものだと思う。

チカンペックが、印象として、各ホール終了後、急斜面を下って、次のティーグラウンドに行き、打ち上げ、ひたすら上る、せっかく、登ったのに、また、下って、次のティーグラウンドにゆく。ここは、それより、はるかに急こう配だし、右左に曲がっている。

年寄りには過酷なコース、カート道から遠い場所に落ちた場合は、その急斜面を、クラブを杖にして登っている人が多い。非常に疲れた。やりたくないコースである。しかし、3日にまたここでやらなければならない。

 

ただし、桜の花の下、かなり、気分は良かった。この季節の日本ならではの雰囲気を楽しむことができた。

 

 

この時期、新しい環境、仕事めるいとインドネシアでも、赴任してのないも多いと思う。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0011.html

新生活をインドネシアで迎えたばかりの方、間もなく、インドネシアへ赴任される方、インドネシアで仕事を始める方は必読です。参考にしてください。ただし、5年ほど前の情報ですから、今と違うことがあるかもしれません。特に資格とか手続きについては、参考に留めてください。そして、ジャカルタに住んでいないし、何かの団体に入っているわけでもないし、日本の公共出先機関と関係していないし、日本人クラブ?に入っているわけでもないし、日本人学校にも関係ないし、趣味の同好会にも参加したことがない。それらの関係のことに参加する必要性がないと思っている。完全に、単独で行動しているので、それらの方の情報は、それらのウェブサイトでチェックしてください。

知らない 難しい 花見

 

 

4月1日  鞠子路ぶらり  昼前から、東海道鞠子の宿あたりをブラブラ歩くことにした。家から出て2〜30m歩けば、旧東海道にでる。横切って、鞠子川(丸子川)にでるが、その間に、ちょっと東に歩くと、長田西小学校の体育館の裏にでる、そこら辺りから、鞠子川の土手の遊歩道にでる。数日前には、一本の木だけ満開で他は蕾が固かったが、今日は、全てが満開で、先日満開だった一本は、そのほかの多くの満開の木の中に隠れるように目立たなく葉桜になりかけていた。

 

歩いたあたりは、桜の木並木というか、ほとんど、等間隔に植えたという場所はほとんどなく、ランダムに配置されているし、樹齢もバラバラ、種類も色も変化に富んでいる、このあたりの人が植えただろうが、自然に自生しているような雰囲気を感じる、そして、少し離れた左右の山を見上げると、また、それぞれの色は淡いが、白だったりピンクだったり、赤かったりする、花が緑の中に面積として四分の一くらいだが、パッチワークのように配置されていて、こんなに花のなる木があったのかと思わされる。足元には、タンポポなど、名前は知らないが、小さな花が何種類か配置されているように広がる。春爛漫、こんな気分を味わったのは久しぶりというか、多分、子どものころだろうから、いつだったかは、記憶にないほど、新鮮な気分を味わうことになった。


しばらく、川沿いに西へ向かい、旧東海道と合流するように、土手道はなくなったところに丁子屋がある。ここで昼食をとることにした。ここは何年振りだろか、10年振り以上だと思う。私の家は6丁目、ここは7丁目、土手にでないで、東海道を歩けば、1kmくらいの場所である。

 

ここで、十辺舎一九の東海道中膝栗毛にも登場する、弥次さん、喜多さんは食べることができなかったという、名物ととろろ汁をかきこんだ。これも久しぶりで懐かしい味だ、自然薯の味や食感は、やはり、子供のころから親しんでいた間隔を呼び戻す。

 

満腹になって外に出る。そこから、なお、西に向かう、すぐ、旧東海道は国道一号線と合流して消滅する,そのあたりで、横断し、匠宿という、比較的新しい、このあたりの職人技を将来に繋げようとする施設に行ってみた。私は始めてである。手作り体験ができる場所だ。

 

ここまで家から多分2kmくらい、帰りは、丁子屋の前を通り旧東海道で家に帰った。途中、リックサックを背負って、ガイドブックを見ながら歩いている大勢に方々に会う。あまり気にもしていなかったし、普段は車で通るだけだったので、目にはらなかったが、本陣、脇本陣などなど、その跡だという、目印があちこちにある。なんとか屋問い看板も軒並みだ。

 

昨日といい、今日といい、インドネシアではちょっと無理、という環境を味わうことができた。昨日、一緒にコースを周った人が、「来年は見られないかもしれない、しっかり見ておいた方がいいよ、毎年、これが、最後になるかもしれないと思いながら見ている」と、云っていた。他人事では、ないなと思う。一つ一つの体験が、少し、感傷的になる。

散策 鑑賞 感傷

 

4月2日  (^_-)-日本の流れ 1903 消費税が上がったので、早速、スーパーへ行って、インドネシアへ持ってゆく品物を買いに行った。安くなっていることを期待しながらだった。本日は、納豆と安いスナック菓子がターゲットだった。見事に現状維持、定価を3%ほど値下げをしてあって、税込価格は100円、98円のままだった。消費税上げ下げは、日本の流れには関係ない。

 

そして、日本の残りも3日になってしまった。私も一役買っている。先ほども、静岡県が小さくなるという報道を見た。今頃、何をいうの?20年以上前から、この流れは、予想できただろう。

 

そして、その原因を二点、取り上げている。先ず、製造業の海外への移転、先日も書いたが、このことも相当前からの流れで、親会社が閉鎖したり、ほとんど海外へ出てしまえば、今迄の仕事は、消えるわけで、仕事を確保したければ、一緒にくっついて出てゆくしかない。その流れは、円安になっている今でも止められない。だから、対策がない。流れに逆らうことはできない。インドネシアの新興工業団地を見れば明かだ。地平線の向こうまで広がる、真茶色で、道も出来ていないこれからの工業団地、それが、もう、ほとんど完売だという。今さら、と思うが、事実らしい、大規模アパートもどんどん建っている。一部屋20万円、一月、なんていう馬鹿げた家賃も当たり前になてきている。それでも、予約殺到だとか。日本人がその当たりの物価を上げている。現地人労働者の最低賃金を上げている原因の一つになっていることにも気が付いていない。

 

もう一つは、静岡だけの理由としているが、若者の県外流出率が大きい、ということらしい、これも、今頃言うなよ、と、思う。その補足理由として、大学が少ないなどと言っている。まったく、的外れだと思う。今始った事ではない、静岡には十分な大学があるし、県外からも多くの若者がはいってきていた。また、県外の大学へ行った連中のUターン就職率は高かったし、今でも、希望率は高い。だから、大学の受け入れ人数が少ないというのは、理由にならない。それを、理由としているのは変。

 

少子化、若者人口の比率の減少について、何も触れていない。分り切ったことだから、あげていないのか。縮む世の中を膨らませるには、人口増加に転ずる世に中を待つしかない。出来るなら、その時期が早く来るようにするしかない。他の事は、どうでもいい、根幹はそのことだから、政策もその一点に絞ればいい。こんなん事は、20年以上前から,そうしていなければならないことだった。だから、静岡ならず,日本全体が収縮は、当分の間、止まらない。

 

政治家や評論家、専門化が何を言ったって、しかたがない。今の調子では、今の年寄りはいなくなている、30年後を待つしかない。

人口 収縮 流れ


4月3日  (^_-)-友あり 1904 遠方より来たる、また、楽しからずや。上海から戻ってきていて、先程、一緒にゴルフを楽しむことができた。長年務めていた会社の海外工場の立ち上げや経営を任せられていて、海外生活が長かった。そして、四年ほど前にインドネシアのその会社の社長として赴任してきた。その会社の押出部門の立ち上げを手伝った私と同僚のような形になった。酒とタバコとゴルフが命で、仕事のストレスをそれらで和らげているように見えた。で、私と毎週、土日とゴルフをやっていた。

 

染井吉野、山桜などの中に、たった一本、大島桜?淡い緑で風景に溶け込んでいたが、目立っていた。8分咲のようだったが、散る花びらも多く、絨毯ができ始めていた。

 

技術者の私とは違ったタイプの方で、経営者だった。そういう点で、私にはない、総合的に管理する能力を持っていて、そう深くて詳しいとは思わないが、広い範囲のことを考えていて、それぞれの担当者を使い、任せる余裕の世にものを感じさせられて、久しぶりに、この人を見習いたいと思わされた。

 

会社の都合に負って、二年程で、退職してしまったが、日本に帰り、請われて、ふたたび、中国の金型製造会社の総経理として、招かれ、約2年経過していた。70歳を超えると労働ビザの修得が難しいそうで、三か月ごとに日本に戻って、10日ほど滞在し、再び上海に戻る生活をしているので、そのつど、元会長さんとゴルフをするのだそうだ。今回、たまたまそのタイミングで会うことができた。耳の具合が良くなかったが、今回、なお進んでいて、今年、一杯で、中国からも引き揚げて、仕事から解放さえたいと云っていたが、どうでしょうか。

 

ゴルフの後、静岡駅まで送っていったが、中国で三社立ち上げ、軌道に乗せていた子会社が、身売りされてしまったこと、育てた従業員に行方のこと、また、同じような立場で会社の発展に尽くし、会社にいられなくなってやめて行ってしまった同僚やその近くの上下、前後関係だった人たちの現状と行く末のことを、相当気にしているようだった。OB会を招集したい考えをもっていることを話していた。その時に私も協力したいと話しておいた。

 

再会を期待しながら別れた。グッドゥラックである。スモガ プルヤラナンニヤ ムニュナンカンだ。

手本 別格 再会

 

 

 

4月4日  (^_-)-捏造STAP細胞? 1905 理化学研究所の結論は、STAP細胞など無かったということでしょうか。あった、発見した、という論文は、小保方晴子博士単独の捏造なのでしょうか。1日の会見では、小保方さん一人に世界中の関係者の科学者がまんまと騙されてしまったのでしょうか。単独といったって、誰も彼女の研究を知らなかったといことなどあり得ないはずで、どう考えたって、一人で勝手に論文を書いてネーチャーに送るわけがない。理化学研究所の会見では、STAP細胞の存在を否定しきっているのではなく、わからないとして、今後、一年かけて、検証するとしているらしい。

 

ここの一連に関して、小保方さんが、表に出ていない。論文発表以来、マスコミに登場していない。なぜでしょうか、なんとなく、大きな圧力というか、権力が介入しているような気がしてならない。本人は、しゃべりたいことが一杯あるような気がする。言いたいことを公表できない、させない何かがあるのでしょう。

 

それと、間違っていた、あるいは、本当はSTAPを確認していなかった。御確認していたかもしれないが、STAP細胞に関して、検証を後まわしにして、一人を悪者にする、結論を出してしまうほど、何故、結論を急いだのでしょうか。何か、理由があるような気がする。これにも、何か、結論を急げという、圧力がかかったような気がする。自分たちの身内の人の発見を大喜びし、誇りに思うなどといっていた人たちが、手のひらを返すように、自分達はなにも知らなかった、関係者ではないというのだから、科学者としても道をはずしているし、それ以前に人間として道をはずしていると思う。ノーベル賞が泣く。

 

小保方さんを今後、どうするのでしょうか、理研を首になるのでしょうか。STAP細胞の検証の機会を本人に与えるのでしょうか。もしかしたら、論文を取り上げれば、研究を続けさせる、そんな、条件を本人に示しているのかもしれない。

 

世間から、小保方さんに対する非難の声が少ないのはなぜでしょうか。世間的には、もし、誤りがあるにしても、彼女一人に責任を被せることに違和感を持っているからなのでしょうか。理研の会見に本人は欠席に、自分の考えを示す機会を与えられなかったことにも違和感をもっているからだと思う。それと、STAP細胞の発見が再現されることを期待しているのです。嘘だったと思いたくないのです。彼女にチャンスを与えたままにしておきたいのです。

 

私も、STAP細胞を存在を再現されることを望む一人です。アメリカで研究の継続が出来れば、いいと思う。

 

藤枝ゴルフコースの様子、平日でしたが、ゲストプレー費、8000円くらいでした。高齢者(70歳以上)割引きを適応でした。

捏造 改ざん 嘘

 

 

4月5日  (^_-)-孫と桜とゴルフ 1906 それだけではない。日本最終日、三週間の休日だった。ところが、触れなかったが、インドネシアの仕事に関して、問題山積、二週間過ぎたころ(3月末)には、インドネシアへ戻ろうかと思ったくらいだ。私がいない状態で、何が、どうなっているのか、彼らの報告では、はっきりしない。戻って、まず、それらのチェックから、始めなければならない。

 

今を象徴する今日の記憶。孫の相手で、街に出かけたが、彼女たちにずっと付き合っている必要がなかったので、一時間ばかり、車で、春の風景を辿ってみた。

グランシップからの富士山、くるっと回って、駿府城内堀の桜、そして、私が4歳から18歳まで過ごした家の跡。ゴルフ場のすばらしい桜も、今日、廻った景色も、触れるのはこれが最後なるかもしれないと思いながら、記憶に残そうと思っていた。

 

今回の日本はそんな気持ちで、桜やゴルフだけでなく、私の足跡廻りもしてみた。清水町、長泉町、沼津方面をめぐるのは、恐らく、30年ぶりではなかったかと思う。大学を出てすぐのサラーリーマン時代、結婚して妻と子供と暮らしたころ、会社を作って、仕事的に自立を始めたころ、そして、その場所から、離れ、生活拠点と会社を、親が住んでいる静岡に移し、沼津の工場は、従業員に譲った、その工場付近をツアーしてみた。そのあたりの町や人々から私は30年以上間に遠ざかり、そのあたりからは私は死んでいた。今日めぐった場所からもすでに死んでいる。私が訪れれば、私だけ勝手に生き返るが、その辺りで、私を覚えていてくれる人に会えば、その人にとっても私は生き返るが、会わなければ、ずっと死んだままである。

 

蟹江敬三さん、探偵や刑事の女性主役を脇で支える役が多かったような気がする、名脇役、私より、ちょっとだけ若い、胃がんで亡くなったとか、先ほど、彼が出演している刑事ドラマをなんとなく、眺めながら、これを、書いていた。

 

マー君、たいしたものだと思う。今朝、中継を見始めて、二回途中で、これはだめだ、見ていられないと思い、見るのを止めてまった。

回顧 現状 記憶

 

 

 

 

4月6日  (^_-)-現実に戻る 1907 インドネシアにいる。例によって6:20に家を出る。6:45こだまで東京まで、8:00くらいに東京着、成田エックスプレス8:30 9:30ころ成田空港到着、11:30搭乗、ジャカルタ時間18:00スカルノハッタ、着陸、バゲジの受け取りに時間が掛かり過ぎる、19:00空港から出る、20:30会社に到着、自分の車に乗りかえ、21:15(日本時間23:15)家に入った。

 

バゲジに重さが32.5kgあった。ガルーダシルバーは30kgまで、2.5kgオーバー、2.5kg取り出してほしいという。液体が多いので、納豆、バター、マーガリンなどを取り出すしかないと言ったら、ペースト状の物はX線チェックで、持ち込めないから、他の物で減らしてほしいという。重いものは出汁や酒類だから、もっとだめでしょう、2.5Kgくらいは何とかしてほしい、と、頼み込んだ。そして、そのままでOKということになった。実は、工具など仕事で使う小物が入っていたので、その気になれば、それほど大きくないもので2.5Kgは減らすことができた。

 

また、ジャカルタのカスタムで、今回は珍しく、キョークのチェックが書かれていなかった。しかし、数え切れないほどの過去のチョーの跡が、薄くはなっているが見える。係官が、X線チェックに通してしまった。そして、本当に珍しく、開けてほしいと言われた。心当たりは米麹1kg×5真空パックのことでした。案の定、これは、何かと聞かれた。今まで、見たことがない状態で見えたのでしょう。見てみれば明かに米だ。だから、正直に、米(ナシ)だよ、これは、インスタント食品の一つで、お湯を加えれば3分でおいしいご飯になる、と、説明した。ご本人すぐにうなずいてくれた。銅鑼焼きが入っていたので、子供さんにと、三つ渡しておいた。説明がしどろもどろだったり、酒を作る素だと知っていれば、多分、取り上げられたと思う。米麹を持ち込むことは、大丈夫とは言いません。

 

今回、初めて気になったことではないが、どの航空会社も同じでしょうか、気流の状態が悪くて、機体が揺れることを予想されるときに、シートベルトの餌が点灯され、揺れが予想されるので、席についてシートベルトを締めてください、そして、トイレの使用しないでください、という、アナウンスがある。問題は、その状態が解除になったときの話、ベルトのサインが消えれば、トイレに行っても良いと思うが、その、アナウンスがない。行きたくても、我慢してほしいというのだから、我慢をいなくて良くなれば、そのことを、アナウンスをいなければならない、と、思うのだが、そう思うのは私だけでしょうか。

 

成田エクスレスのホーム、誰もいない。

 

いつものジャカルタ、そして、たまたま、日本メーカーのお茶ボトルの宣伝、富士山が見える。

そして、明日から、短くても一週間、気が抜けない日々になる。

復帰 現実 試練