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Sonohito

時々思う 2472 19年前の事である。インドネシアに来て、いきなり“心の友”っていう歌を知っているか、歌詞をアルファベットで書いてください、と頼まれた。暫くして、ネットで調べて書いてやった。インドネシアで一番有名で親しまれている日本の歌です。今でも、知っているかと聞かれる。歌ってみてくれと言われる。先日、五輪真弓さんが、インドネシアへきて、歌ったそうですね。

 

その当時、私は、インドネシアで売られているCDを買ってみた。その中に“雨宿り”という歌があった。まったく、知らなかった歌だった。詞を読んで、男女反対にすれば、若い時の私だと思った。

 

大学を出て就職し、就職先に向かうためにバスに乗って静岡駅に向かった。それから、いくつか先のバス停で、その人は乗ってきた。直ぐに、目があった。離れて座っていたが、彼女も駅で降りた。私は、ちょっと遅れて降りた。先を歩くその人に声をかけようかどうか迷ったが、声を掛けた。待っていたように、スッと振り向いて、私に向かって来た。時間がないので、今はどうしている?などと、話したかったが、出来ずに、何日か後に会う約束をして、別れた。その後、日本にいた30年、思い出を沢山作った。この歌を覚えて、口ずさみながら、日本での、ちょっと前までのことを思い浮べていた。

https://www.youtube.com/watch?v=srDOA-riP3Y

“駅のホームで見かけたあなたは昔の恋人、そのなつかしい横顔、思わず声をいかけた私、あなたは驚いたように、煙草を落としてしまった。砕け散った炎の日々が、束の間に蘇り、見つめ合う、どうしてる今は、あれから君は、元気にしてるは、いつだって私、お茶でも飲もう、少しの時間、電車は通り過ぎて行く、あなたはコーヒーカップに、角砂糖二つ入れて、今の僕はこんなものさと、笑いながら、神を掻きあげた、そう、だけど不思議ね、あの日分かれたことも、只、余りにも若すぎただけだと二人、互いに許しあえる。愛したわ私、あなたのことを、今は別々の、夢を追うけど、めぐり合いは、素敵なことね、雨宿りするように、二人、愛したわ私、あなたのことを、今は別々の、夢を追うけど、めぐり合いは、素敵なことね、雨宿りするように、二人”

 

あれから、19年、この間、その他大勢といっしょに、二回ほど、会っているが、もう、10年以上。会っていないし、話もしていない。ペースメーカーの人、今は、どうしているでしょうか、今年の7月、車で家の前を通りすぎた。家の中にいるのだろうか、と思いながらだけだった。電話をしたいが勇気がない。その人は、まだ、Surgaへ行っていないことを祈るだけ。

書いてしまった。今日、突然、蘇ったことでした。“我思う故に我あり“

 

桜祭りがリッポチカランなら紅葉祭りはジャバベカだというのでしょうか。

 

先ほど訪問したスルヤチプタ工業団地、ここのも日本食レストラン、大和?がオーピン?でしょうか・

あれから 元気 どうしてる

 

その人 2473 昨日の続き。中学に入って、小学校から引き続き、中学校に行っても、クラスの委員長任せられることが多く、生徒会の代表委員会にも出席していた。その人は、別の小学校からだったが、他のクラスの委員として、出席していたという、しかし、全く、二年間、知ることはなかった。三年になって、同じクラスになった。クラスの選挙で私が委員長に、その人が副委員長になって、初めて、存在を知った。その、初めての代表委員会に二人で出席した。そして、生徒会長と副会長の立候補を募ったが、誰もいない。そこで、出席者で選挙のようなことをして、選ばれた3人が強制的に立候補をさせられることになっていた。そして、その一人に私が選ばれてしまった。びっくりしたのはその人、私のことを何も知らない、初めて会って、一週間くらい後のことだった。選挙まで二週間、私は、全く、選ばれたくなかったので、何もしなかった。ところが、いらぬお世話だと思っている私を無視して、その人、私のために、ポスターや推薦文を書いて、掲示板に張ったり、他のクラスへ行って、私に投票するように頼んで回ってくれたりしてくれていた事を知っていた。それで、意識をするようになった。クラスの仕事、生徒会の仕事も一緒にやらされる機会が多かった。

 

しかし、中三の時は、あっという間に通りすぎ、卒業、私は、静高へその人は、直ぐ近くの女学校へ行ってしまった。私は、中学校からそのまま、卓球部に入った。何と、そのは、中学校の時には運動部に入っていなかったのに、卓球部にはいったのでした。それを知ったのが、中学卒業して二か月後に、クラスの卒業文集を完成させるために、担任の先生から二人が中学に呼び出されて、製本作業をしている時に、先生が、その人も卓球部に入ったということ私に話したのでした。本当?そうだよ。という会話をした。

その人と、個人的に会うことはなかったが、高校の時、その人と共同主催の一回だけの同級会の時と、卓球の中部大会や県大会の時には会場で必ず会っていた。互いに、自分が試合をしていない時には、コートサイドで応援もしあっていた。私たちの周囲の人達は、私達が中学で同級生だったということを知っていた。しかし、それだけだった。私は大学へ行かなければならないので、それが私にとっては最優先だった。特奨生だったし、それなりに恰好を付けることが優先だった。17の頃でした。一回だけ、その人の家を訪ねたことがあった。同級会の打ち合わせだった。質屋さんだった。初めて質屋というのはこういう作りをしているのかと、思った。兄弟や両親にも会った。静高生大歓迎といった印象だった。

記憶 遠い 他人

 

その人と 2474 その人も大学へ行くのかと思っていたが、就職をした。私は静岡から離れた。夏の最終の試合の時に、卒業してからも連絡先を知らせ合おうということになっていた。こんなことがあった。大学一年の秋、葡萄の季節、私が住んでいた甲府に行ってみたいという話になり、友達と一緒に、その日、何時の列車に乗って行く、駅まで迎えに行くという約束がった。

 その列車の到着を友人と二人で、ホームで待った。しかし、その列車に乗っていなかった。朝9時頃だった。次の列車が到着するまで、一時間以上ある。約束の列車に乗っていなかったということは、もう、来ないと判断してしまった。今なら、携帯で連絡をするが、当時は、連絡しようがなかった。友人の手前、彼も行ったことがない、その人が来たら一緒に行こうと思っていた昇仙峡へ2人だけで行ってしまった。全く、面白くない二人のブラブラ散策だった。彼には気の毒なことをしたと思っていたし、彼も、私の傷心を分かっていた。

夕方、下宿に戻ると、おばさんから、私を訪ねてきた人がいたよ。直ぐに、どこかへ行ってしまったが、という。ショック、その夜、その人が家に戻っただろうと思う時間に下宿の電話を借りて掛けてみた。

 

友人が遅れてきて、その列車に乗れなかった、次の列車で行ったが、あなたがいなかったので、住所の下宿を訪ねてみたが、そこにもいなかった。大学辺りと神社と街を歩いて、静岡にもどったという。

 

その年の暮れ、静岡で会って、その時の事を謝るとともに、何かの映画を一緒に見た。オリオン座(とっくになくなっているが、当時は洋画の封切館)だった。ジョージキャキリスとチャールトンへストンが出ていたことを覚えているが、映画の内容は上の空だった。それを最後に、その人と会うことはなくなったし、手紙のやり取りも、なんとなく、しなくなった。私の方は、身近なことで、かなり、忙しくなっていたし、その人の事を思う瞬間はほとんど無くなっていた。意識をしなくなった。

大学生活を謳歌した。クラブ活動や研究を自由な雰囲気の中で、充分にやったと思う。多くの友人、学芸学部との付き合いでは、多くの交際も生まれた。

 

その人も、多分、身の回りの事で、充実しているだろうと、思う。それぞれの世界があった。私に方は、卒業する時までには、何人かの学校の先生候補者の女性と知り合うようになり、スキーやスケートに一緒に出かけたり、家庭訪問をしたり、その家(ブドウ園の娘が多かった)の手伝いをしたり、付き合いも多かった。将来を語り合ったりもした。私を慕ってくれる後輩も何人かいた。

 

そして、静岡の東部にある会社に就職が決まった。そして、機会を見て、その人に同級会をするための手伝いを頼もうかなと思っていた。

 

蓮の花、ピンクは昼前に閉じてしまうが、白っぽい方は、閉じない事を、最近知った。

 

すれ違い 運命 意識  

 

Pergi Untuk Kembari” Elloの歌です。数年前に大ヒットした歌ですが、その20年以上前の他の人が歌っていたのを聞いたことがあった。これも、私に心境に似ていたと思った。しばらく、どこかへ行ってくるよ、また、会いましょう。といった内容です。

https://www.youtube.com/watch?v=4M9AC5cbhg4&list=RD4M9AC5cbhg4#t=62

Walaupun langit pada malam itu Bermandikan cahaya bintang Bulanpun bersinar betapa indahya Namun menambah kepedihan oh
 Ku akan pergi meninggalkan dirimu Menyusuri liku hidupku Janganlah kau bimbang dan janganlah kau ragu Berikan senyuman padaku
 Selamat tinggal kasih Sampai kita jumpa lagi Aku pergi takkan lama Hanya sekejap saja Ku akan kembali lagi Asalkan engkau tetap menanti

 

その人に 2475 大学を卒業したら、皆さん、お待ちかねだったと思っていた同級会を開くことにしていた。そんな時に、ばったり、同じバスでその人と会ってしまったのでした。その約、一か月後、5月だった。静岡のある喫茶店で、待ち合わせて、現状を話し始めた。その人、会社は止めた、結婚するためだった。職場結婚だという。9月何日に結婚式だという。あなたは、どうしてる?というので、就職をして沼津の方に住みだした。そして、決まっていたわけではないが、結婚を前提に付き合っている人はいて、これから、資金を蓄えなければならない、と、そんな話をした。かなりのショックだった。大学を卒業し、自立できる資金ができたら、その人に心境を打ち明けようと、心の一部で思っていたからだった。そのあと、同級会を一月にするつもりだが、その人に手伝いを頼めなかった。“15年後、皆さんの生活が落ち着いたころに次の同級会をする” と約束もした。他に何を話したか覚えていない、一時間ほど一緒にいて、“幸せにね”といって、別れた。後ろ姿を見送った。その人は振り返らなかった。9月何日、その日は会社で休日出勤をしながら、その人の幸せそうな結婚式を想像していた。56人中40人以上集まったが、全てが、まだ結婚していない人でした。その一月の同級会にその人は現れなかった。

 

それから、15年後 37歳、当然、皆さん、結婚し、小学生や中学生の子供もいて、家庭の事、仕事のことも、落ち着いて安定時期に入っているころだ。私も結婚をし、自分で仕事を始め、身の回りのことも順調に推移していた。案内状を出すために現住所を出来るだけ、知らなければならない、そこで、その人の実家に電話し、その人の苗字と電話番号を聞いた。静岡にいた。早速、電話をし、“約束した通り、同級会をするので手伝ってほしい”と頼んだ。待っていたかのように、声が弾んでいた。その声からすると、家庭や生活が順調だと感じたが、打ち合わせをしたいという。その人の方から、会いたいという気持ちが伝わってきような気がした。ちょっと、様子が違うかなとも思った。多くの人にとっては油に乗りきっっている時期だと思う。

 

まず、15年ぶりの再会、場所は覚えていない。目的の同級会を理由にして、二人きりで、同級会をやったようなもの、夫の事、子供のこと、私が聞いても仕方がない事ばかり、話したかったのでしょう。自分の境遇、環境を洗いざらい、話した。話す相手として、その人は、私からの連絡を待っていたように、でした。その人の中では、私は、そういう、存在になっていたのかな、と、ちょっと、複雑だった。

 

二人きりで会うのはそれが最期になった。女性の現住所のメモを貰って、私が二人の名前で、皆さんに案内状を送った。その半年後の同級会は先生も楽しみにしていただいたようで、30人ほど集まった。出席できなかったが、現住所が刑務所の奴もいて、かなり、中学3年1組同級生、ピンキリの人間模様になっていた。私は、会社も個人も新聞に紹介されるようになっていた。一応、太田君ならね、と言われる状態にはなっていたので、良かったと思うし、その人をがっかりさせることもなかったので、よかったと思う。

 

それから、約15年後、私が、インドネシアに行ってしまうことになるとは、その人、思っていなかったと思う。しかし、私は、50過ぎたら、社長を止めて、静岡の片隅から、外国、東南アジアに出ようと既に決めていて、それを実行した。その当時は妻にも話していなかった。

 

同級会 37歳 充実

 

 

その人が 2476 その人は、活動的な人だとは分かっていたが、ママさんバレーや水泳や卓球の大会に、良く出かけているそうで、その人の地区の、ママさん仲間ではリーダー的な存在だということが、話からわかる。なるほど、な、その人ならと思う。息子が、また、目だった存在らしく、陸上中長距離では、県で上位だという。その息子、それから二三年後に、高校の私の後輩になった。三千障害でインターハイにでた。ところが、二年の時に、中退して、アメリカのソルトレークシティへ行ってしまった。その人、息子を誇りに思っているが、かなり、拍子抜けで、寂しそうだった。その息子、日本に帰って来た時に二か月余り滞在し、資金稼ぎのために、私の会社でアルバイトをさせてやった。親からの援助は受けたくないというのだ。破格の時間給で、彼を使ってやった。母の中途半端な幼馴染だし、高校の大先輩の私の生き方について、興味があったようで、彼から、根掘り葉掘り質問を受けた覚えがある。その息子、アメリカ人と結婚して、アトランタに住みついてしまった。今はどうしているのか。

 

その人とは、何回かの同級会、そして、同級会をする幹事になる人がいなくて、同級会を開けないクラスの人から、同学年会をやってほしいという話があり、それではと、二人で、それを引き受けた。私達が、という理由は、1組と2組から、幹事役をしましょう、でした。11クラス、600人、名簿をかき集めて、静岡の中心地の会場を予約し、開催した。クラス平均、25人で約300人の出席、恩師は11人全員、見えられた。皆さんに、大変喜んでもらった。その後、もう一回、5年後に、本当は3,4組担当なのに、確か、結局、私たちも協力した。その後は、どうなったか聞いていない。同級会も5年毎ということで、インドネシアに来てしまってから、一度戻った時に開いた。その人と最後に会ったのは、その時で、2003年だったと思う。流れでカラオケに行った。その時に、インドネシアでよく歌っていた、広瀬香美“Dear-again”を歌った。

 

日本から離れる前、何年間か、その人とは、良く、スキーに出かけた。私はスキー仲間が何人かいて、毎年その人たちと数回、会社の連中とも二三回、出かけていた。その中に必ずその人が含まれるようになった。“私をスキーに連れて行って“の頃でした。八方、志賀には頻繁に行っていた。お気に入りはジャイアントだった。草津、湯沢、赤倉、斑尾などにも出かけていた。インドネシアに出発する年の春まで続いた。

 

その期間中、その人にアクシデントがあった。確か、乗鞍だったと思う。その人、スキー中に突然、胸が苦しい、と、座り込んでしまった。中間にある休憩所で休んだ。なかなか、苦しいのが直らなかった。大丈夫だから、あなた達は滑ってきて、というので、一時間ほど、その場を離れて滑って、戻った時には、もう、治ったという。しかし、気になるので、滑って車までもどって、その日は帰った。そういうことが、その次の時にもあった。病院へ行って検査をしてこいよ、と勧め、やっと本人その気なって、検査した。不整脈で、このままでは、スキーに行けなくなるどころか、危ない、直ぐに、ペースメーカーを入れた。直ぐに決心して良かったと思う。一級の身体障害者だそうだ。その後も、スキーは続けた。もう、気持ちが悪くなって坐り込むことは無くなったし、お陰で、その人が一緒だと、高速代が半額になった。変な制度だと思った。こんな元気で、どこも悪く見えない、心臓発作で亡くなる確率は、ゼロに近い。普通の人より強い心臓がより強固になったのだから。どこが、一級身体障害者だよ、と、思った。

 

それはそれとして、中途半端な幼馴染というか、気心が知れた友人の一人として、子離れの手伝いに一役かっていた感じだった。良い間柄だと思っていた。

 

不整脈 子離れ 活動的

 

その人へ 2477 妻や従業員人には、40才の時に50になったら、社長を止めて、どこか海外にいって技術指導をすると宣言してあった。そして、今年、4月に、妻や会長には、来年2月で、インドネシアの仕事はお仕舞いにすると伝えた。いずれも、意志がぐらつかないように、だった。しかし、その他、その人を含めた友人にも、取引先にも、銀行など関係者にも、一言も言っていなかった。言ってしまって、実現しなかったら、恰好が悪いと思ったからだ。そして、ぴったり50の年末一杯で社長を止めて、単なる顧問になった。その時に初めて、皆さん、なぜやめたのか、今後何をしたいのか、機会ある毎に説明をした。中には、太田化工で何かあったんじゃないの、大丈夫?と心配した人もあった。慌てて偵察に来る商社もあった。

会社は、順調そのもの、何の心配もない。突然、赤字に転落したとしても、数年は、借金をしなくても済む蓄えは充分あった。私も直ぐにいなくなるわけでもないので、経営者交替は突然だったかもしれないが、移行期間は充分あった。

 

その人のことだが、実際には社長を止めてから約2年半後に日本から出たのだから、少しずつ、離れて行く、そして、いつ戻るか分からない私をかなり意識していてくれたようだった。ボランティア的な仕事を多くするようになっていったようだった。自分が身体障害者(私はそう思っていないが)なのに、身体障害者の世話をするようになっていた。

 

ほとんど、すべてを、振り払って、突き放して、単身、日本から脱出なのだから、私が日本にいなくなれば、その人の行動を助ける人が一人、少なくなる。精神的にかなり負担だったと思う。そして、その日が来て、黙って、赴任してしまった。

 

妻や会長には4月に伝えてあったが、今日、先ほど、コミサリスに、私の来年の行動希望を伝えた。ビザが切れる二月に、延長はしない。要するに、インドネシアでの仕事はお仕舞にする。ただし、リタイアビザを個人的に取る。主な生活の場は、日本になる。やっと、踏ん切りがついた。この決心が変わらないように、ここに書いた。

 

生きていれば、色々なことがある。完全なる変化ではないが、また、次の何回か目の違った人生がある。