この人 この人と初対面は、大学3年の前半だった。この人は、例の昇仙峡へ男二人でいった私の友人と親しくしていた。私は、この人の友人で石和のブドウ園の娘さんと、同じクラブでもあったので親しくしていた。それぞれ、一年後輩だった。はっきり、自分で青春だなと、意識していたころでした。勉強は適当に、家庭教師やアルバイトやクラブ活動やマージャンやスキーやスケートに明け暮れていた。その仲間には多くの学芸学部の男性も女性もいた。大学構内を移動する事が多かった、化学薬品で穴だらけの汚れた白衣をまとって、次々とすれ違う女性と挨拶をしながら、闊歩していた。その人の事を意識することはなくなっていた。もう、住む場所が違っていた。
学生時代には色々なことがありすぎて、何を書いていいか分からないくらいだ。二つだけ、その一、オリンピックの入場券の売り出しが始まっていた、夏休み、7月初め、例の友人と甲府の南の方にあったアイスクリーム製造工場に包装の夜勤のアルバイトに行っていた。ある日、夜勤開けの帰る途中、岡島デパートの外の宝くじを売る場所で行列が出来ているので、何かなと聞いたら、オリンピックの入場券の売り出しの日で、8時から売り出すという。その時6時半だった。じゃ、一緒に買おう、ということになって行列の後ろについた。友人、お金を持っていないという、私は千円持っていて、陸上競技の一番安い500円を二枚かって、例のブドウ園の子を誘うつもりだった。かれは、下宿へ行って、お金をもってくると言って、その場を離れた。しばらくして、戻ってきた。自分たちの番になった。私は国立競技場の第三コーナーの一番上に近い、一番安い、500円を二枚買った。彼、お金を無くしたと言い出した。ポケットに入れてきたはずのお金をどこかに落としてしまったらしい。がっくり、彼は、この人を誘って、四人で行くつもりにしていたから、私も大ショックでした。
結局、付き合っていたそれぞれの女性にこの話はしないで、私は彼を誘って、また、男二人だけで、東京オリンピックの見物に行くことになった。依田さんの80m障害レースを対角の一番遠い所から見た。それでも、深く記憶にのこる出来事だった。
その二、学友会と言って、大学の部活動を仕切る、役目をする機関があった。なんとなく、その幹部の人から後輩を指名して引き継ぐのが習慣になっていた。私は卓球部のキャップテンをしていて、指名された、そして、この人は、合唱部の幹事をやっていて指名された。学園祭や体育祭を仕切ったり、大学から出る補助金の配分を任せられたり、何か所かある掲示版の掲示物の管理をしていた。この人と話をする機会が多くなった。休日に集まるって打ち合わせやビラやポスターを作るなどの共同作業をすることもあった。この人は、家からおにぎりやサンドイッチなどの差し入れを用意して来てくれた。愛宕山の中腹のブドウ園の娘ということも知った。ブドウ液やブドウは当たり前のように、沢山、持ってきてくれた。ブドウの収穫時期には、何人かで手伝いにもいっていて、家の人から大歓迎を受けた。リックサック一杯のブドウを下宿に持って帰って、飢えている後輩に配った。私が付き合っていた石和の子より、友人が付き合っている、この人の方がいいなと思ってしまった。
もっとも、このブドウ園、卓球部や個人で気が向いた時のランニングで、愛宕山の中腹のレストハウスまで行っていた。その山道の途中にあって、金網フェンスの外から手を伸ばせば、摘まめる場所にブドウがなっていて、摘まみながら走っていた。手伝いに行った時に、“梨大の学生さん、ブドウを摘まむなら、房で持っていってくれればいいのに、沢山の房からちょっとずつ、摘まんで行くので、売れなくなる房が多くなって困る“と、言っていた。私だけでなく、摘まんで行くのは梨大性ということは、知っているのでした。そののちは、後輩に、一房だけ、頂くようにと、注意した。
そして、このブドウ園、何年か後に、何年間の間、収穫時期には、二三日、泊って、手伝いをするようになる。
この人に 2481 孫の眞弓さん、誕生日。おめでとう、間違いでなければ、9才になったのかなあ。何才になっておめでとうと言った時、歳を間違えて叱られたことがあった。ドッジボール大会で優勝した、私は6人に当てた、と、声を弾ませていた。おじいちゃん、明日、誕生日おめでとうとも。
卒業間際になって、二年、三年後輩の何人かから、付き合ってほしいという手紙は貰ったことがあったが、それらはお断りした。卒業をした時には、同級生や後輩の女性、他の何人かと繋がりがあって、連絡し合っていたが、特に、こちらから、交際を求めるような人はいなかった。皆さん、親しい間柄ということだったと思う。半年後の大学祭の時に同じクラブの仲間と集まる機会があって、近況を話す程度だった。そして、この時に学内で、この人を遠くから見かけた。そして、遠くのまま、得しゃく程度の挨拶をした。私は例の友人と一緒だったが、彼も同じような、挨拶だけで、この人の方に行こうとはしなかった。そして、この人は視界からいなくなった。そんなことで、友人に聞いたら、もう、大学の時に彼女とは、付き合いを止めたという。
それから、翌年、この人が卒業した年の暮れに、愛宕山の実家に手紙を送った。会ってほしいと。その返事の中で、横浜の小学校に勤務していて、横浜に住んでいることを知った。そして、会ってもいいというので、その何日か後の日曜日にマリンタワーで待ち合わせた。先ず、聞いたことは、誰か、付き合っている人はいるか、でした。いないという、私の友人とは、何もないという。それなら、暫く、僕と付き合ってほしいと頼んで、良いですよという返事を貰った。後に、この方のお姉さんや妹さんから、この時に、私のことを、いい人だと言っていたと、聞かされた。大学の時のつかの間の共同作業が、印象に残っていたのかなと思う。
卓球部の一年先輩で、IHIに就職し、カナダに二年ほど赴任するという人がいて、その人から、丁度、車の免許を取ったことを知らせた時に、使っているルノーを、向こうに行っている間、しばらく使ってほしいと頼まれた。これ幸い、早速、練馬の家まで受け取りに行って、その帰る途中、横浜のこの方の下宿によって、これからは、この車で来るからと、宣言した。
それから、押しかけデートが始まった。仕事は忙しく、毎週ほとんど、土日の夜勤12時間をしていた。月曜日に年休を取って休んだ。その内の月に一度か二度、昼まで寝て、2時ごろ、清水町柿田(湧水で有名な柿田川に近く)の独身寮から出発、箱根を越えて、小田原を通り、横浜の東神奈川に向かった、5時ごろには下宿に到着、その前で、車を止めて、中で居眠りをしていると、6時過ぎに、この人に起こされる。部屋に入って、食事をして、たわいない話をして、8時過ぎに、そこを出る。
下宿の前の路肩で駐車している不審な車を見て、近所の人が、気になったのでしょう。何をしているのか、聞かれたことがあった。私の説明に、笑いながら、納得してもらった。逆コースで寮に戻るのが、11時過ぎ、翌朝、元気に仕事。若かった。元気でした。何回、通ったでしょうか、数えていない。
この人を 2482 そして、私の誕生日、おじいちゃんは、72になったよ。還暦+一周ですね。もう一周できるでしょうか。という年齢ですね。インドネシア人で一人だけ、SMSを送ってくれた人がいる。ブリタールのマリアさんからでした。彼女の中に、まだ、私は生きていたようだ。会社の連中に言うと面倒なことになるので、いわない。
その内、この人の一番上の太平醸造に勤めていたお兄さんが、出張で横浜に来た時に彼女の下宿に泊るといって来ていて、初対面の挨拶をした。また、お父さんが、沼津の知り合いの娘さんの結婚式に招かれてくいるとうので、私と会ってみたいといい、その結婚式が終わったころ、会場で挨拶をした。学生時代に、お互いに顔を合わせたことがあって、私は覚えていたが、お父さんの方は、全く、覚えていなかった。酒を飲めない私は麦茶だったが、お父さんは、大酒のみ、手酌で、やっていた。その数年後、肝臓を患って、亡くなってしまった。
秋にはブドウの収穫、ブドウ狩りのシーズンが終わって、ブドウ棚に残っているブドウは、ブドウ酒用に纏めて出荷してしまう、その手伝いを毎年するようになった。
正式に結婚の申し込みはしていないが、私もこの人も結婚する流れに乗っていると意識していて、付き合いながら、周囲の人達に紹介するようになっていた。この人の学校の同僚や校長とも会ったし、私の会社のクリスマスパーティーにも来てくれて、私の上司や同僚にも紹介したし、静岡の私の家にも来て、私の両親にも会ってもらった。その内、この人の大学の先生や私の研究室の先生にも紹介しあった。自然の流れだった。何の障害もなかった。
この人、翌年の三月まで、横浜の学校に通ったが、その年の夏に、静岡の教員採用試験を受け、合格し、4月から、地元の長泉南小へ赴任した。夏の採用試験の時には静岡の県庁まで行って、面接試験を受けた、既に,大きなお腹を抱えてだった。私が当然、送り迎え付添いでした。良く、うかったなと思った。横浜の小学校の校長先生からの強力なコネがあったからだと思う。その後もこの先生とはずっとお付き合いがあった。
仕事は、日本にはまだないという製品を次々に完成したし、その頃初めて登場した樹脂を色々な製品を試すこともした。原料メーカーから、日本で新しく売り出そうとする樹脂で、どんな製品ができるか、丸棒や板やチューブを作ってみてほしいという依頼が次々と入ってきていたのです。今では聞かない、GL樹脂や名前は忘れたが水に溶ける樹脂、PA11,12,などなどでした。EVAやPA6,10それにガラス繊維や炭素繊維で強化した樹脂も、だった。いたずらで、PAとPCを混ぜて真珠のような光沢の板も作ってみた。今で言う、アロイです。当時は、その言葉は無かった。
公私ともに充実とはこのことか、そして、幸い、日本にいる間、ずっと、何もかも上手くいきすぎていたと、今になって、思う。体力的に良く持つなと言われたり、凄い努力だな、と、いってくれる人が多かったが、自信は、努力をしていなかったし、体力もあまり使っているとは思っていなかった。流れるままに行動していた。
結婚して、三年足らずの時に会社を止めた、そして、資金稼ぎのために、夜勤専門12時間(18時から6時)の仕事を1年半やった。フジプラ精工でした。給料は当時、破格の月20万円稼いだ。その時期は、案外、家の仕事の分担は、上手くいった。子供の送り迎えは。全面的に私がした。
そして、沼津の志下シゲという干物の産地の真っただ中の50坪の貸し工場で太田化工という会社を立ち上げた。それからが、また、順調過ぎて大変、仕事は増えるし、納品時間を含めて、朝、6時前には家を出て、家に帰って来るのは12時を回っていることが多かった。最初は1ラインからだったが、3年後には3ラインになっていた。装置の償却を特別50%にしても、月600万円売りあげて、200万円の利益だった。それは、それでいいのだが、沼津の工場は狭くなってしまったので、どこか新工場をと考えていた時に、親がいる静岡にもそろそろ、戻らなければならないと思うようになっていた。そして、用宗港の脇の貸し工場に本社工場を移した。子供が小学校の5年になったころでした。私は、1日おきに、車で通勤、安西と下長窪、交互に寝泊りした。沼津の仕事はそのままに、静岡で新しい仕事も増やした。東プラ時代に手伝った北川工業や南部化成、地元の葵プラスチックなど直接取引も始まった。東京や名古屋の電材屋さんからも頼まれた。V0−PPやVO−PAのプロファイルは、日本で初めてだったと思う。
この人がいたから、独立開業ができたし、静岡に通うこともできた。お陰さまでというところでしょうか。
感謝 お陰さま 相互作用
正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。
パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。
そろそろ 潮時 間もなく
この人へ 2487 インドネシアで仕事をしている時には、日本へ帰るのは、年平均2、5回、合計で50日間くらいだ。そして、冬の寒い時と、夏の暑い時が多い。私の部屋は、自分であると思っていて、帰れば、その部屋に落ち着く、南の庭に面した明るい広い部屋だ。畳一畳の掘り炬燵が真ん中にあり、冬は、勿論、炬燵として使うが、その他の時期には、単なる机として使う、北側の襖の向こうが台所と食堂になっていて、その食堂は、孫たちの勉強部屋にもなっている。襖を開けておけば、それらの全てが見通せる。しかし、私が部屋にいる時には、きっちり締めて置く場合が多い。というのは、開けておくと、私の部屋の温度を私が思うように保てないからだ。夏は暑すぎるから、冷房を利かす、冬は寒すぎるから、暖房を利かす。開けておくと、その効果を保てないからだ。
だから、ご飯だよと、呼ばれて、襖を開けると、冬は寒すぎるし、夏は暑すぎる。そちらの部屋も私と同じように調整してくれればいいのだが、意見は平行線、私がこの点では孤立状態。
私が外に出かけると、私の部屋の温度を他の部屋と同じにしてしまう。空気を入れ替えると言って、襖も窓の開放してしまうからだ。帰ってきて、部屋に入ると、周りの開けてある全てを閉じて、エアコンをオンにする。冬はコタツもオンにする。冬は、水蒸気発生装置もオンにする。嫌がられる。
庵 思うように 心地良く