TOP
この人とはずっと

この人  この人と初対面は、大学3年の前半だった。この人は、例の昇仙峡へ男二人でいった私の友人と親しくしていた。私は、この人の友人で石和のブドウ園の娘さんと、同じクラブでもあったので親しくしていた。それぞれ、一年後輩だった。はっきり、自分で青春だなと、意識していたころでした。勉強は適当に、家庭教師やアルバイトやクラブ活動やマージャンやスキーやスケートに明け暮れていた。その仲間には多くの学芸学部の男性も女性もいた。大学構内を移動する事が多かった、化学薬品で穴だらけの汚れた白衣をまとって、次々とすれ違う女性と挨拶をしながら、闊歩していた。その人の事を意識することはなくなっていた。もう、住む場所が違っていた。

 

学生時代には色々なことがありすぎて、何を書いていいか分からないくらいだ。二つだけ、その一、オリンピックの入場券の売り出しが始まっていた、夏休み、7月初め、例の友人と甲府の南の方にあったアイスクリーム製造工場に包装の夜勤のアルバイトに行っていた。ある日、夜勤開けの帰る途中、岡島デパートの外の宝くじを売る場所で行列が出来ているので、何かなと聞いたら、オリンピックの入場券の売り出しの日で、8時から売り出すという。その時6時半だった。じゃ、一緒に買おう、ということになって行列の後ろについた。友人、お金を持っていないという、私は千円持っていて、陸上競技の一番安い500円を二枚かって、例のブドウ園の子を誘うつもりだった。かれは、下宿へ行って、お金をもってくると言って、その場を離れた。しばらくして、戻ってきた。自分たちの番になった。私は国立競技場の第三コーナーの一番上に近い、一番安い、500円を二枚買った。彼、お金を無くしたと言い出した。ポケットに入れてきたはずのお金をどこかに落としてしまったらしい。がっくり、彼は、この人を誘って、四人で行くつもりにしていたから、私も大ショックでした。

 

結局、付き合っていたそれぞれの女性にこの話はしないで、私は彼を誘って、また、男二人だけで、東京オリンピックの見物に行くことになった。依田さんの80m障害レースを対角の一番遠い所から見た。それでも、深く記憶にのこる出来事だった。

 

その二、学友会と言って、大学の部活動を仕切る、役目をする機関があった。なんとなく、その幹部の人から後輩を指名して引き継ぐのが習慣になっていた。私は卓球部のキャップテンをしていて、指名された、そして、この人は、合唱部の幹事をやっていて指名された。学園祭や体育祭を仕切ったり、大学から出る補助金の配分を任せられたり、何か所かある掲示版の掲示物の管理をしていた。この人と話をする機会が多くなった。休日に集まるって打ち合わせやビラやポスターを作るなどの共同作業をすることもあった。この人は、家からおにぎりやサンドイッチなどの差し入れを用意して来てくれた。愛宕山の中腹のブドウ園の娘ということも知った。ブドウ液やブドウは当たり前のように、沢山、持ってきてくれた。ブドウの収穫時期には、何人かで手伝いにもいっていて、家の人から大歓迎を受けた。リックサック一杯のブドウを下宿に持って帰って、飢えている後輩に配った。私が付き合っていた石和の子より、友人が付き合っている、この人の方がいいなと思ってしまった。

もっとも、このブドウ園、卓球部や個人で気が向いた時のランニングで、愛宕山の中腹のレストハウスまで行っていた。その山道の途中にあって、金網フェンスの外から手を伸ばせば、摘まめる場所にブドウがなっていて、摘まみながら走っていた。手伝いに行った時に、“梨大の学生さん、ブドウを摘まむなら、房で持っていってくれればいいのに、沢山の房からちょっとずつ、摘まんで行くので、売れなくなる房が多くなって困る“と、言っていた。私だけでなく、摘まんで行くのは梨大性ということは、知っているのでした。そののちは、後輩に、一房だけ、頂くようにと、注意した。

 

そして、このブドウ園、何年か後に、何年間の間、収穫時期には、二三日、泊って、手伝いをするようになる。


この人に 2481 孫の眞弓さん、誕生日。おめでとう、間違いでなければ、9才になったのかなあ。何才になっておめでとうと言った時、歳を間違えて叱られたことがあった。ドッジボール大会で優勝した、私は6人に当てた、と、声を弾ませていた。おじいちゃん、明日、誕生日おめでとうとも。

 

卒業間際になって、二年、三年後輩の何人かから、付き合ってほしいという手紙は貰ったことがあったが、それらはお断りした。卒業をした時には、同級生や後輩の女性、他の何人かと繋がりがあって、連絡し合っていたが、特に、こちらから、交際を求めるような人はいなかった。皆さん、親しい間柄ということだったと思う。半年後の大学祭の時に同じクラブの仲間と集まる機会があって、近況を話す程度だった。そして、この時に学内で、この人を遠くから見かけた。そして、遠くのまま、得しゃく程度の挨拶をした。私は例の友人と一緒だったが、彼も同じような、挨拶だけで、この人の方に行こうとはしなかった。そして、この人は視界からいなくなった。そんなことで、友人に聞いたら、もう、大学の時に彼女とは、付き合いを止めたという。

 

それから、翌年、この人が卒業した年の暮れに、愛宕山の実家に手紙を送った。会ってほしいと。その返事の中で、横浜の小学校に勤務していて、横浜に住んでいることを知った。そして、会ってもいいというので、その何日か後の日曜日にマリンタワーで待ち合わせた。先ず、聞いたことは、誰か、付き合っている人はいるか、でした。いないという、私の友人とは、何もないという。それなら、暫く、僕と付き合ってほしいと頼んで、良いですよという返事を貰った。後に、この方のお姉さんや妹さんから、この時に、私のことを、いい人だと言っていたと、聞かされた。大学の時のつかの間の共同作業が、印象に残っていたのかなと思う。

 

卓球部の一年先輩で、IHIに就職し、カナダに二年ほど赴任するという人がいて、その人から、丁度、車の免許を取ったことを知らせた時に、使っているルノーを、向こうに行っている間、しばらく使ってほしいと頼まれた。これ幸い、早速、練馬の家まで受け取りに行って、その帰る途中、横浜のこの方の下宿によって、これからは、この車で来るからと、宣言した。

 

それから、押しかけデートが始まった。仕事は忙しく、毎週ほとんど、土日の夜勤12時間をしていた。月曜日に年休を取って休んだ。その内の月に一度か二度、昼まで寝て、2時ごろ、清水町柿田(湧水で有名な柿田川に近く)の独身寮から出発、箱根を越えて、小田原を通り、横浜の東神奈川に向かった、5時ごろには下宿に到着、その前で、車を止めて、中で居眠りをしていると、6時過ぎに、この人に起こされる。部屋に入って、食事をして、たわいない話をして、8時過ぎに、そこを出る。

下宿の前の路肩で駐車している不審な車を見て、近所の人が、気になったのでしょう。何をしているのか、聞かれたことがあった。私の説明に、笑いながら、納得してもらった。逆コースで寮に戻るのが、11時過ぎ、翌朝、元気に仕事。若かった。元気でした。何回、通ったでしょうか、数えていない。

 勿論、土日が休める日もあって、その時は、朝から出かけて行って、八景園や山下公園界隈、港の見える丘公園、外人墓地辺り、当時はまだ、さびれていた中華街、伊勢佐木町、桜木町辺りも歩いた。磯子のこの人の学校へも行ったことがあった。みなと未来やランドマークタワーなどはまだない。

 

この人を 2482 そして、私の誕生日、おじいちゃんは、72になったよ。還暦+一周ですね。もう一周できるでしょうか。という年齢ですね。インドネシア人で一人だけ、SMSを送ってくれた人がいる。ブリタールのマリアさんからでした。彼女の中に、まだ、私は生きていたようだ。会社の連中に言うと面倒なことになるので、いわない。

この人は、私の妻です。

その内、この人の一番上の太平醸造に勤めていたお兄さんが、出張で横浜に来た時に彼女の下宿に泊るといって来ていて、初対面の挨拶をした。また、お父さんが、沼津の知り合いの娘さんの結婚式に招かれてくいるとうので、私と会ってみたいといい、その結婚式が終わったころ、会場で挨拶をした。学生時代に、お互いに顔を合わせたことがあって、私は覚えていたが、お父さんの方は、全く、覚えていなかった。酒を飲めない私は麦茶だったが、お父さんは、大酒のみ、手酌で、やっていた。その数年後、肝臓を患って、亡くなってしまった。


秋にはブドウの収穫、ブドウ狩りのシーズンが終わって、ブドウ棚に残っているブドウは、ブドウ酒用に纏めて出荷してしまう、その手伝いを毎年するようになった。

 

正式に結婚の申し込みはしていないが、私もこの人も結婚する流れに乗っていると意識していて、付き合いながら、周囲の人達に紹介するようになっていた。この人の学校の同僚や校長とも会ったし、私の会社のクリスマスパーティーにも来てくれて、私の上司や同僚にも紹介したし、静岡の私の家にも来て、私の両親にも会ってもらった。その内、この人の大学の先生や私の研究室の先生にも紹介しあった。自然の流れだった。何の障害もなかった。

 1969年2月1日 26才、この方が25才、静岡駅前のクーポール結婚会館で結婚式、披露宴だった。この会館、オープンして間もないころだったと思う。仲人は、私の大学時代の恩人で、日科技連、日本の品質管理の草分け的存在で有名な赤尾洋二先生(当時梨大助教授)ご夫妻にお願いした。非常に短期間でしたが、先生から受けた影響は大きい。卒業直前に受けた言葉、“不良の山を見たら、宝の山と思いなさい“この言葉は、その後、肝に銘じていると共に、多くの人に言っている。

 余談だが、卒業間際に赤尾先生と茨城県の水戸へ行ったことがあった。偕楽園で、二人で食事をしたことは、私の人生の途中の重要なポイントになっている。丁度、梅の季節だったが、涙ぐんでいて、全く、梅の事は、楽しめなかった。

 この人と 2483 文化の日 日本国憲法が公布された日でした。戦前は明治節 明治天の誕生日でした。日本国憲法に施行日を5月1日にしようとしたが、メーデーなので、施行の日としてはまずいと考え、5月3日とした。憲法記念日になった。その半年前の11月3日を公布日とした。明治節と重なって休日だったので、文化の日ということにした。5月5日の施行にしたいという説もあったが、端午の節句だったので、中間の3日にしたらしい。

 ですが、私の誕生日は2日、その日は、まだ、明治節の一日前、なぜ、私の誕生日を一日遅らせて、明治天皇と同じ3日で届けなかったのか、子供の頃、両親に不満を言ったことがあった。その時は、文化の日にしなかったのかと,言った。父親は、お前の誕生日の次の日が必ず休みになるからいいだろう、と言っていた。私は、休みの日になり、文化の日、生まれが、自分にふさわしいと思っていたからだ。

 5月1日メーデーが、施行日にまずいということは分かるが、2日にしなかったのだろうか。そうすれば、明治節と公布日が重ならなかったのに。

 静岡県東部の長泉町という所に、フジプラ精工の塩崎さんが世話をしてくれた借家で新婚生活をスタートさせた。この人は、横浜の学校まで通った。毎朝、毎晩三島駅まで送り迎え、日曜日に農協のスーパーに一週間分の食料品や菓子類を買い出しに行く、当時は、まだ、共稼ぎという夫婦はそういなかった。大きなカート一杯に一週間分買う人は私達しかいなかった時代でした。1週間分で4000円でした。私たちの給料は合計8万円くらいでした。家賃が2万円、結構、スタートから余裕がある生活ではあったが、時間的には厳しかった。

この人、翌年の三月まで、横浜の学校に通ったが、その年の夏に、静岡の教員採用試験を受け、合格し、4月から、地元の長泉南小へ赴任した。夏の採用試験の時には静岡の県庁まで行って、面接試験を受けた、既に,大きなお腹を抱えてだった。私が当然、送り迎え付添いでした。良く、うかったなと思った。横浜の小学校の校長先生からの強力なコネがあったからだと思う。その後もこの先生とはずっとお付き合いがあった。

 子供が生まれたばかりの3月末には、学校勤務がはじまった。私も仕事が忙しい、3交替から抜け出して、押出部門のトップになっていたので、出張も多くなっていたし、早く帰ってしまうわけにもいかなくなっていた。それでも、近所の家に子供を預けたり、静岡の私の実家に預けたり、あちこち、たらい回しにして、生まれたばかりの子供も面喰らったと思う。

 1.5才になって、保育園にお世話になることにした。交替で送り迎えをしたが、時には、夜、遅くまで、迎えに行けなくて、暗くなって迎えに行くと、保母さんと娘が二人きりで、出口付近の階段で座って外を眺めている様子が見えた。私を見つけると駆け足で、飛びついてきた。3才から幼稚園に。

 家事は分業、洗濯、掃除は私、台所関係は妻、子供に関しては交互に、といった具合。これは、静岡に引っ越すまで続いた。金銭の負担は、食料品や日用品など現金支払いは妻が負担、支払いが通帳から自動でできる物は、全部、私が負担、これは、現在でも続いている。日本にほとんどいない今でも、私の通帳から引き落とされている。地方税、所得税、年金、新聞もガスも電気も妻の固定資産税も、である。完全分業、そして、自立です。負担を掛けない、頼らない。私がサラリーマンを止めて独立開業した時にも、その気持ちだったが、私が余りにも忙しかったので、家にいる時間が極端に少なくなった。3年間ほどは、私は妻に近所付き合いなどで大きな負担を掛けたと思う。

 この人が 2484 労働組合の仕事の中で、雇用促進住宅制度を使って、社宅を建てもらった。2年後、社宅の入居者、第一号で、建ったばかりの社宅に入った。会社の敷地内だったので、妻の学校は遠くなってしまった。保育園も変わった。私がほとんど、子供の送り迎えをするようになった。近所の世話好きの、奥さんに面倒を見ていただくこともあった。社宅に入ったのが1号なら、出てしまったのも1号でした。結婚して、二年半後には、20年ローンで2300万円の分譲住宅を購入、そちらに移ってしまった。長泉北小学校の丘の下でした。

仕事は、日本にはまだないという製品を次々に完成したし、その頃初めて登場した樹脂を色々な製品を試すこともした。原料メーカーから、日本で新しく売り出そうとする樹脂で、どんな製品ができるか、丸棒や板やチューブを作ってみてほしいという依頼が次々と入ってきていたのです。今では聞かない、GL樹脂や名前は忘れたが水に溶ける樹脂、PA11,12,などなどでした。EVAやPA6,10それにガラス繊維や炭素繊維で強化した樹脂も、だった。いたずらで、PAとPCを混ぜて真珠のような光沢の板も作ってみた。今で言う、アロイです。当時は、その言葉は無かった。

公私ともに充実とはこのことか、そして、幸い、日本にいる間、ずっと、何もかも上手くいきすぎていたと、今になって、思う。体力的に良く持つなと言われたり、凄い努力だな、と、いってくれる人が多かったが、自信は、努力をしていなかったし、体力もあまり使っているとは思っていなかった。流れるままに行動していた。

 その長泉北小学校に子供が入学した。学校まで丘を上って5分くらいの近い場所、妻の学校もその学校の時があって、随分、家庭での忙しさは少なくなった。ただし、授業参観や運動会など学校の行事には私が参加した。卒業式も私でした。

 結婚して、三年足らずの時に会社を止めた、そして、資金稼ぎのために、夜勤専門12時間(18時から6時)の仕事を1年半やった。フジプラ精工でした。給料は当時、破格の月20万円稼いだ。その時期は、案外、家の仕事の分担は、上手くいった。子供の送り迎えは。全面的に私がした。

そして、沼津の志下シゲという干物の産地の真っただ中の50坪の貸し工場で太田化工という会社を立ち上げた。それからが、また、順調過ぎて大変、仕事は増えるし、納品時間を含めて、朝、6時前には家を出て、家に帰って来るのは12時を回っていることが多かった。最初は1ラインからだったが、3年後には3ラインになっていた。装置の償却を特別50%にしても、月600万円売りあげて、200万円の利益だった。それは、それでいいのだが、沼津の工場は狭くなってしまったので、どこか新工場をと考えていた時に、親がいる静岡にもそろそろ、戻らなければならないと思うようになっていた。そして、用宗港の脇の貸し工場に本社工場を移した。子供が小学校の5年になったころでした。私は、1日おきに、車で通勤、安西と下長窪、交互に寝泊りした。沼津の仕事はそのままに、静岡で新しい仕事も増やした。東プラ時代に手伝った北川工業や南部化成、地元の葵プラスチックなど直接取引も始まった。東京や名古屋の電材屋さんからも頼まれた。V0−PPやVO−PAのプロファイルは、日本で初めてだったと思う。

 私と入ったばかりの男性とパートのおばさん3人で2ラインを稼働していた。ある日、30m/分で引っ張っていた製品のベルトに左の親。人指し、中指を挟まれた、隙間は2mmほど、慌てて、引っ張ってしまった。親指の爪がついている部分が千切れてしまった。左手を頭に載せて運転して近くの外科医に飛び込んだ。直ぐに、離れた指先を縫い付けて貰った。爪を取って縫ったので、しっかり、爪があった側を間違いないように練ってほしいと頼んだ。二週間ほどして、ちゃんと、上から爪が出てきた。人指し、中指も裂けた場所を10針ほど縫って閉じた。

 入院して一週間ほど点滴をしなさいと言われたが、三日ほど、点滴に通うという条件で入院しなかった。包帯をぐるグル巻きにしながら、休まず仕事をした。しかし、何日間は痛かった。痛くて眠れない日もあった。包帯は水浸し、通院で、医者に叱られた、膿んでも知らないよと。そのための点滴でしょ、と、言い返した。十日後には、抜糸、その後は、仕事に差し支えるので包帯もしなかった。私は、その方が、直りが早いと思っていた。妻は呆れるばかり。

この人がいたから、独立開業ができたし、静岡に通うこともできた。お陰さまでというところでしょうか。

感謝 お陰さま 相互作用

 この人も 2485 子供が小学校卒業時期に合わせて、長泉の田舎から、家族で静岡に引っ越そうと考え、先ず、敷地が50坪ほどの丸子の中古住宅を手に入れた。家の前は100坪ほどだったが田んぼが、まだ残っていた。1982年、私も40歳前、静岡に引っ越した。子供は近くの中学校、妻は、先ず、どこだったか、静岡市の北の方の麻機(あさばた)小学校だったと思う。一時期、ちょっとここを離れたが、直ぐ戻って、現在に至っている。

 お互いに、それぞれで忙しかったが、別に不満がなかった。転居も多かったが、それはそれで、発展的だったと思っていた。夏の家族3人の旅は恒例だった。海外にも多く出かけた。娘が小学校に入ったころから、国内旅行、山陰地方、北海道や沖縄、星の砂の与論島、そして、“坂の上の雲“の松山地方など、4年の時に、初めて海外へ、香港、広州、桂林、次の年は、シンガポールだったか、その次は、スイス2年連続、山歩き、その次が北欧三国とデンマーク、それから、モスクワ、ポーランド、東ドイツ、この年の10月に壁が崩壊した。直前のブランデンブルク門やポイントチャーリーを東西から見た。家族3人で自由行動、毎年の夏が楽しみだった。二人にとっても、良い思い出になったと思う。こういうことが、娘がその後、ヨーロッパ滞在のツアーコンダクターになった要因の一つだったと思う。ブロンズの髪の孫がいる遠因にもなっている。

 バブルの真っただ中、仕事は求めなくても入ってきた。値下げなど言ってくる客先は一軒もない。儲かってしょうがない時期でした。しかし、私は、リクルートという雑誌に、将来の社長募集というコピーで広告を出した。1983年には、大卒工学部を出た人を3人入社させ、条件は、この3人の内、誰かを10年後に社長にする。と宣言した。その後も仕事は増える一方、貸し工場から自前の工場に移った。それが、今の場所である。それでも、パートの女性約20人を含めて、全員で30名の規模だった。毎年、社員海外旅行を敢行した。スキーや食事会を全額補助で、希望者で実施した。大崩海岸の松風閣で忘年会も恒例だった。

家の方はというと、妻も中堅の教師、子供は、高校、大学(東京に下宿)と進学、波風なしの安定期、中古住宅を新築に立て替えた。土地も目の前にあった田んぼを購入し、150坪くらいになった。土地建物の名義は妻と半々にした。妻もそれなりの収入があったので、何の問題もなかった。それが、今の家である。既に築25年になるが、未だに、そう、古くは見えない。ここが、“終の棲家”になるだろう。100坪の庭の3分の1は妻の趣味の家庭菜園にしている。趣味だが、上手ではないと思う。出来あがった野菜は、食べさせられるが、姿形は今イチだし、味もいまイチ、近所の人も配られても、困ってしまうのではないかと思う。偶に学校の子供が収穫を手伝いに来て、持って帰って行った。今でも、続けている。さつま芋、ジャガイモは、保存してあるので、いつ帰っても、それを食べさせられる。庭の次郎柿は、私が楽しみ、熟柿が大好き。石和から送ってくる山梨のコロ柿が好きだ。

 娘は、長泉町の田舎から、静岡市に移動し、東京の青山へ、そして、ヨーロッパへと家から遠くなっていた、そして、今は、孫と静岡の家にいることが多くなった。

 行動的 共通 忙中閑

 この人の 2486 癌で胃の摘出手術を受けた後、仲人をいくつか二人で務め、社長を辞め、弐年半ほど準備期間があったが、1996年、52才半ばで、この家から、そして、日本から出た。インドネシアへきてしまった。娘は海外勤務、妻は、静岡市内の学校に勤めている時でした。妻を一人残して、単身赴任、断続的に日本にいたこともあるが、今になって、足掛け19年、実質は17年くらいだと思う。

 暮れ正月の2週間ほどは、毎年欠かさず、日本にいた。インドネシアで正月を迎えたことは、一度もない。新年は必ず、身内の集まりにいるようにした。結婚前から、クリスマスイブの仕事帰りにケーキ屋に寄って、買うのは、モンブランに決まっていた。今でも欠かさない。当時は50円だったが、今では250円もする。昔も今も高いと思いながら買う。これも、欠かしたことは無い。そして、スイスからフランスに入り、シャモニー、エギーユ・デュ・ミディから本物のモンブランを眺めに連れて行ったのは結婚して12年後だったと思う。

正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。

妻は7年前に中田小を最後に退職し、二年間ほど、天下り的にどこかの図書館の職員をしていたが、そちらも辞めて、完全な年金生活に入っている。しかし、歩いて5分もかからない地元の長田西小でも教鞭を取っていたことがあって、地元ではかなり知られた存在になっているし、今では、孫が、時々、その小学校に通っているし、また、本人、何かと世話をするのが嫌いではないし、町内や学区の催しには引っ張られるし、役員もいくつかやっているようだし、その上、染め物とか生け花とか、家庭菜園とか、趣味のようなものも熱心にやっている。体の具合も、万全というわけではないが、寝込むようなことはないらしい。私も土曜、日曜教室などの準備を手伝わされることがある。

 娘がドイツで結婚してからは、日本から、インドネシアから、ドイツの家に何回か行っている。向こうで、妻とも合流する。そして、ドイツ各地やオーストリア、スイスは、婿殿や孫と一緒の旅のコースになっていた。昔、訪れたことがある場所が多かったが、孫が一緒なら、また、別格だった。三世代で、フィルストまでハイキングなんて、思ってもみなかった。サンモリッツからイタリアのティラノ散策も、フランクフルトでソーセージをほおばったことも、全て、記憶に仕舞いこんである。ほとんど、夢の中にいるようだった。

太田化工のカレンダーを毎年、貰ってくるが、それに妻の予定がびっしり書き込んである。私はゴルフの日を書き込むだけ。私が偶に帰った時でも、家にいないことが多く、私が、留守番役になる。それでも、最近は、孫の世話も加わって、非常に忙しい様子で、私に手伝いのために、そろそろ、帰って来てほしいようなことをほのめかすようになった。私も、そろそろかな、と思って、来年の二月からは、日本主体の生活にすると決めている。その事を話してある。ゴルフの予約のための帰国日程を、先日、会長に送ったついでに、二月からの予定も伝えた。

パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。

 気の赴くまま、結構、自由に生きさせてもらったこれまで、私のような、人生を過ごす人は少ないと思う。自分の性格や能力もさることながら、自由にさせてくれたこの人に、大感謝。

 妻は出かけて行っていない、冬の日だまりの縁側で、ぼやっと、庭を眺めている、将来の自分を想像する。

そろそろ 潮時 間もなく

この人へ 2487 インドネシアで仕事をしている時には、日本へ帰るのは、年平均2、5回、合計で50日間くらいだ。そして、冬の寒い時と、夏の暑い時が多い。私の部屋は、自分であると思っていて、帰れば、その部屋に落ち着く、南の庭に面した明るい広い部屋だ。畳一畳の掘り炬燵が真ん中にあり、冬は、勿論、炬燵として使うが、その他の時期には、単なる机として使う、北側の襖の向こうが台所と食堂になっていて、その食堂は、孫たちの勉強部屋にもなっている。襖を開けておけば、それらの全てが見通せる。しかし、私が部屋にいる時には、きっちり締めて置く場合が多い。というのは、開けておくと、私の部屋の温度を私が思うように保てないからだ。夏は暑すぎるから、冷房を利かす、冬は寒すぎるから、暖房を利かす。開けておくと、その効果を保てないからだ。

だから、ご飯だよと、呼ばれて、襖を開けると、冬は寒すぎるし、夏は暑すぎる。そちらの部屋も私と同じように調整してくれればいいのだが、意見は平行線、私がこの点では孤立状態。

私が外に出かけると、私の部屋の温度を他の部屋と同じにしてしまう。空気を入れ替えると言って、襖も窓の開放してしまうからだ。帰ってきて、部屋に入ると、周りの開けてある全てを閉じて、エアコンをオンにする。冬はコタツもオンにする。冬は、水蒸気発生装置もオンにする。嫌がられる。

12月中旬から帰るが、脛に赤い斑点が出来てしまう。オロナインやメンタムを塗っても、あまり効果がない。ということで、私の部屋の中の状態は、私が望むようにしたいので、協力してほしい。

庵 思うように 心地良く


New Top