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胃癌とその後の付き合い

手術以前~術後
 1992年48才 4月15日頃 お腹が痛いと感じた。今までのお腹の痛さと違うと感じていた。そして、今までは下痢の痛さで、トイレに何回か行けば治ってしまっていた。この時は治らなくて、三日過ぎた。様子が変なので、大島胃腸外科へ行ってみた。その次の日、胃を空っぽにして、胃カメラを飲んだ。モニターを見ながら、胃の下部に潰瘍が見つかった。直径1Cmくらいだった。その周りから、五つサンプリングをするのを眺めていた。
 一週間後にそのサンプルの検査結果が分かるので、ニ週間後の何日に来なさいと言われた。潰瘍の周りに万が一、悪性のがんがあるかどうかを確認するためである。私は、まさかと、そんなことはないと、思っていたので、単なる胃潰瘍に注射を何回か打てば治ってしまうと思っていた。その日に潰瘍を治す注射をして帰った。また、一週間後に二回目の注射を受けた。
  
 ゴールデンウイークの後、結果を確信しにゆくことにして、その足で、何となく青森の恐山へ行った。大間、仏が浦や竜飛崎などにも行った、薬研温泉では、何時間も温泉に浸かって、おいしいものを腹いっぱい食べた。強力な痛み止めを処方されたのでしょう、潰瘍の薬と痛み止めの薬を飲みながらだった。万が一、もう、お腹いっぱい食べられなくなるかもしれないという意識があった。
 
 私は逸見正孝というTBSのアナウンサーにそっくりだと言われていた。高校の同級会などに行くと必ず言われていた。丁度、そのころ、逸見正孝さんが胃がんの告白をし、何日か後に無くなったばかりというニュースがあった。アナウンサーがテレビで告白して闘病ということは初めてのことだったので、衝撃的な事柄だった。

 青森から戻って、医者へ確認に行ったら、「5個のうち、一つが癌だった、再検査しますか、それとも切除しますか」と聞かれた。いきなり癌の告知である。再検査しますかと聞くことは変だと思った。再検査して無かったから癌ではないと言えないでしょう。一つ見つかったのだから、運がよかったのだと思った。もしかしたら、見つかっていなかったかもしれないからである。直ぐに切除手術をするように決めた。そして、お願いした。即日、入院した。手術前の体力検査が一日必要なので、体力OKなら、明後日に手術をすることに決めた。
 妻には伝えた。伝えないと不都合だからだった。何の心配も恐怖も無かった。それは、潰瘍の状態を自分の目で確認してあったので、癌も初期中の初期だという確信があった。早く取ってしまいたい、伸ばす理由は何もなかった。癌を宣告され、壮烈な闘病生活というのは全くなし。体力チェックは全く何も問題なし、76kgの健康優良児だった。
 
 前日、何か希望はあるか医者に聞かれ、部分麻酔でやってくれと頼んだが、気が散るので全身でやらせてほしい、と、返事。残念。

 結果を聞いた二日後の朝、あっさり、手術室に向かうことになった。ベッドから運ばれる前に、軽い、麻酔を打たれた。後で、聞いた話だが、この麻酔を打たれ、ベッドカーに移される時に、逃走してしまった患者がいたとか。すこし、もうろうとしながら、ベッドカーに移されて、手術室に運ばれた。入ってすぐにチームが入場してきた。頭の上のライトがまぶしかった。軽く深呼吸をしてください、と言われ、半呼吸したかしないかで、死の世界に入ってしまった。5月8日10:00頃だったと思う。
 
 手術後~退院

 生の世界に戻ったのは、集中治療室だった。13:00頃だった。それほど時間は経過していなかった。ICUのベッドに移されて直ぐに麻酔が覚めてしまったということで、正気に戻ったのは痛さのためだった。物凄く痛かった。頭の付近に妻とおふくろがいた。おふくろには言うなと言っておいたのに妻が知らせてしまったのだ。一人では心細かったのでしょう。

 まず、頼んだことは、痛み止めの処置をしてほしいということでした。座薬を入れて、肩付近に注射をしてくれた。痛みが薄れて、睡眠剤が効いたのでしょう。また、眠りに入った。次に目が覚めたのが18:00頃だった。それは、痛さではなかった。睡眠剤が切れたことと、もうひとつ隣のベッドにおばあちゃんが手術を終わって入ってきたことでした。それが、どうして?ということですが、そのおばあちゃんの鼾が半端じゃない。物凄い。ガーガーピューピューと往復いびきである。それを一晩中聞くことになるとは思わなかった。というのは、痛みがひどくなってきた。看護婦を呼んで、座薬を入れてもらった。しばらくすれば痛さがなくなると思っていたが、一向に、痛みが治まらない。どんどんひどくなっていった。しかし、座薬を入れたばかりなので、我慢するしかない。隣のおばあさんは痛みを感じて目が覚めることなく相変わらず鼾を書き続けている。うるさ~~~い。

 看護婦も夜勤の人に交代した。00:00過ぎにあまりにも痛くて、看護婦に頼みこんで痛み止めの座薬を入れてもらった。これで、眠れると思ったが、一向に治らない。痛くて痛くてたまらない。眠れないし、我慢をするだけでした。04:00ごろにも、痛み止めを打つか座薬を入れてほしいと頼んだが、看護婦から、叱られた。「太田さん、そんなはずないでしょう。我慢ができない人ですね。薬は限度があるので、もうだめです。」といわれた。痛いものは痛い。私は我慢強いと人から言われているので自尊心を傷つけられた。もう我慢するしかなかった。
 
 鼾は続いている。全く、目を覚まさない。明るくなって、看護婦が変わって、挨拶にきた。07:00過ぎでした。一晩中、いびきと痛さで、一睡もできなかったことを言い。座薬を入れるように頼んだ。足元を見ながら、看護婦の方を見ていた。看護婦さん目を丸くして「太田さん、座薬が出てしまっている、二つもあります。入っていなかったですね。太田さん、よく我慢できましたね。こんな人は初めてです。我慢強い人ですね。はい、これで、痛みは取れますよ」と言われた。冗談じゃないよ。ぎゃふんである。其のとおり、今度は痛みがなくなって、やっと眠りに入った。20cmくらいの切腹をした後、20時間近く、痛み止めなしで、我慢させられていたのでした。
 

目が覚めたのは、手術、翌日の15:00頃だった。痛みがあったが、以前ほどではなかった。肩に痛み止めの注射を打ってもらいながら、隣のベッドに異変を感じた。鼾が聞こえてこないどころか、カーテンが開かれてベッドに人がいない。「昨日のいびきがうるさかったおばあちゃんはどうしたの。」と。「亡くなってしまった。癌で手術をしたのですが、手の施しようが無くて、切開して、閉じただけでした。麻酔を強力にして、眠ってもらっていたのですが、今朝、亡くなったのよ。」麻酔で眠っていても鼾はかくのだなと知った。ひどい目にあってしまった。

 二日後ICUから出て、一般病室に移動。大島院長の説明では、胃を90%以上切除した。そして、転移はないことも確認した。心配はしていなかったが、確認してなお、ほっとした。
 あっという間の数日だった。闘病のトの字もない。単なる怪我である。怪我を回復するだけの話である。癌のことなど、どこかへ行ってしまった。後は、傷の回復を待つばかり、二週間後、重湯から食事も始まった。順調に回復し、6月10日に退院した。非常に順調だった。病院にいてあまり暇だったので、後半の二週間は病院抜けだして、碁会所へ行って碁を打っていた。お見舞いをと、人が会社に訪ねてきたら、断るか、どうしてもという人には時間を聞いておくように頼んだ。それでも、何人かは、私が病院に居なくて会えないまま帰った人がいた。

その間、10kg軽くなって65kgになっていた。その後、退院しても、食べる量が少ないから、60kgくらいまで落ちていた。


 退院の時、親しくなった看護婦から、「太田さん、必ず戻ってきますよ」と、意味の分からないことを言われた。


 再入院
 退院してから約三週間後、経験がない痛みが遣ってきた。胃がないので食べる量が限られている。少しずつ何回も食べる。それは仕方がないことです。そのうち胃が大きくなってくると多くの人から言われていたので、できるだけ早く、大きくなるように、たくさん詰め込むように心掛けてはいた。
 お腹の真ん中が何かで強く挟まれたような痛みだった。最初はひどくなかったが、食べている内にだんだんひどくなった。食べるのを止めた。夜になってどんどん痛くなってきた。我慢強い私も、自然に治るとは思えなくなり、これはただ事ではないと思った。妻は運転ができないので、痛みを堪えながら、私が運転して病院に向かった。急患用入口から入っていったら、看護婦は心得たもの私を知っていて、腸閉塞だといった。痛み止めを注射してくれて、そのまま入院してしまった。

 それから、小腸の休息が始まった。医者の説明では、というより看護婦の話で、お腹の切開手術をした人は、手術のとき小腸を触ったり掴んだりするので、粘膜がはがれて、その部分が擦れて滑らず癒着し、閉じてしまうのだそうです。それならそれで、退院の時言ってくれれば良いのにと思った。80%以上は、戻ってくるそうです。
 絶食、二週間過ぎて閉塞が解けなければ切開を考えると言われていたが、一週間で痛みがなくなって、X線でも回復が確認できた。退院である。

 それでは終わらなかった。それから半年後くらいに、また、注意していたのに腸閉そくで一週間入院した。体重が15kg以上痩せて、55kgになってしまった。手術前から20kg上、ダイエットだった。

 その後、たびたび、腸閉塞になりかけの痛さがやっきた。その痛みがちょっとでも感じられたときには、水を飲んで,無理やり吐いて、十二指腸までからっぽにし、一日は絶食した。それをするようになって、腸閉塞まで至らずに済んだ。インドネシアで仕事をするようになってからも、二回ほどなりそうになったが防いだ。腸閉塞の痛さは胃を切って取ってしばらくの痛みよりひどかった。

 2008年 癌の再発などということは、心配するような症状は、まったく無い。ただ、甘いものを食べた後、タン液(胆汁)が大量に登ってきて、お腹が苦しくなり胸やけのひどいのになる。その時は、とにかく水を大量に飲んで吐き出してしまう。苦い、黄色い液体が出なくなるまで吐き切ってしまう。その後はすっきりする。我慢をしても胆汁が下がることはないことを知った。そして、もうひとつ知ったことは、胃は大きくならない事である。十二指腸が蛇腹状にラッパ状に広がって容量を大きくしているのです。
 
 今は2006年に自覚させられたパニック障害の方が深刻である。

 エピソード 1 仲人
 お腹が痛くなる二週間前に仲人として二組の結納を済ませてあった。その時、記念写真を撮ってあった。結婚式は6月末だった。二組は一週間違いである。入院中、両方の親が大変心配して、式の日を延ばそうか、という提案もしていたが、予定通り大丈夫ですと返事。事実、予定通り、二組の仲人をこなした。その時の写真はげっそり。それはそうです。16kgも強制ダイエットでしたから、完全に別人のよう。亡くなってしまった。逸見正孝のやせ細った最後の姿とまたそっくりだった。その時も、皆さんにそう言われた。
 妻は、その、三か月の間、私のために、振り回されたと思う。しかし、性格でしょう。私に従うしかないと彼女なりによくやってくれたと思う。
 
 エピソード 2 大腸ポリープ

 胃をとってから、半年後、お尻の穴の付近に膨らみができて、便が出にくくなった。出ても丸くなく扁平なものだった。痛くはないが、膨らみが大きくなってきたので、肛門科へ行った。それは、クスリを塗っただけで二週間もかからず引っ込んでしまった。その折、大腸の検査をした方がいいと勧められ、何もないことを確認するために大腸カメラで検査した。その時、ポリープが五つ見つかり全部取った。朝の手術は下半身麻酔だったので、モニターを眺めながら、医者の説明を聞きながら、処置を受けた。終わって、麻酔が覚めるまで、数時間横になった後、車を自分で運転して家に戻った。入院をしなかった。
 やはり二週間後に検査結果が知らされた。これらは四個が一度で、一つが三度ですべて良質だった。もう半年、チェックが遅かったら、危なかったかもしれない、あなたは運がいいと思います。と言われた。私もそう思う。大腸と云い、胃と云い、命を救われたと感じた。運がよかったと感じた。
 それから、一年半後、50歳になった年の暮れに、社長を辞め、相談役になり、それから、かねてから計画していた通り、二年後にインドネシアで仕事をすることになった。それから、13年、今もインドネシアで仕事をしている。

 と、ここまで、2008年に書いた。その後、いつだったか、何の症状だったか覚えていないが、近所の内科で、カメラを飲んだことがあった。その時には、十二指腸のラッパがきれいに開いていたことを確認しただけだった。

 

 それから25年後

 そして、2017年11月 インドネシアにいるときには、時々あったが、それほど気になることはなった。手術以来、当たり前にするように、3Lくらいの水を、何回かに分けて飲んでは吐き出し、黄色が消えるまで、繰りかえした。初めのうちから、つい最近までは、しばらく、我慢していれば、そのうちに下がるかもしれないと、我慢をしていたが、結局、自然に下がらず、吐き出すしかなかった。そして、ずっと以前から、上がってきて、吐ける環境にいれば、直ぐ、出してしまうことにした。長時間運転なら、必ず、アクアのボトルを3L以上、載せていた。

 パニック障害の時以来の今回の長期日本滞在で、食生活が変わったからでしょうか。ほとんど、毎夕方、食道を胆汁が這い上がってきていた。眠ってから、真夜中に、上がってきて、目が覚めてしまうことも度々になった。そのたびに、トイレに駆け込んで吐き出す。その後は眠れない。
 そのうえ、食堂?喉?に、ヒリヒリとした痛みを感じるようになった。戻って、二か月余り、そんな日が続いた。たまりかねて、先日、専門ではないことは分かっていたが、定期検診を受けた整形外科医に、相談に行った。一応、一週間分の中和剤を出してもらった。効くなら、すぐ効くといっていたが、直ぐには、効かなかったので、内科、以前、何か記憶がないが、胃カメラを飲んだ医者の所へ行った。それが、大島さんは、今やっているから、行った方がいいといわれ、20年以上ぶりに,行って会った次第。そして、今日 22日の胃カメラになった。


  採血と採尿の後、エコーで腹部をチェック、次いで、胃カメラ、鼻から入れるといい、両方の穴に滑り材を入れ、どちらが入りやすいかチェックの後、入りやすい方に麻酔薬を射した。ずっと以前、喉の麻酔のために飲んだ麻酔薬と同じという、匂いがした。

  直ぐに、始まった。口の時もスムーズに入ったが、鼻からでも、喉を通るのだから、通過するときには、ちょっと飲み込むような気持になった。スムーズである。

  私にとっては、何故鼻から入れるのだろうかと思うほど、違いはなかったが、違いは、話ができることだった。食道の荒れが、はっきり分かった。その他には、異常なし、昔見たような潰瘍のように、色違いの丸もなかった。きれいなものだ。荒れの原因は、胆汁の逆流によるものだという。納得である。

  直しには、胆汁の逆流を無くすことだと言い、例のこの前処方された二種類の薬を一か月分、再び処方された。一応、二カ月ほど、日本にいる間に、なんでもなければ、これで終わりになる。とにかく、しばらく、様子見だ。

 

 血液や尿の検査結果は危機に行かない。26年前に切ってしまって正解だったと思う。大島先生のお蔭で、インドネシアで自由な、気ままな、生活と行動と技術伝達といろいろな会社や人の手伝いができている。先生も、健康に気を付けて無理をしないで下さいと伝えて分かれた。次がある地すれば、いつになるでしょうか。いつか、気が向いたら、挨拶くらいには行きたいと思う。