こんな人シリーズ 3
1996年 インドネシアへ赴任した、というより、外国で始めて仕事をし始めた時の話。
一人で準備を仕切り、いよいよ、会社立ち上げのためのその社長と私を含めて7人の日本人が勇躍現地に乗り込んだ。
その人は、トヨタのフィリピン工場など若い頃から海外工場の立上げを経験してきた人で、外国はなれたもの、だから、一緒の日本人の住処や生活ぶりも自分と同じようになれた人扱いで、最初から、田舎の方に安い住宅に住まわされたし、言葉についても、英語かインドネシア語で会議は仕切らされた。厳しい人だとは思ったが、私は現地になじむにはこの方が言いと賛成し、他の日本人に対しては、相談役、愚痴聞き役、手伝い役に自然になっていった。
まだ、工場は影も形も無く、資材が転がっている中にプレハブの掘っ立て小屋25㎡部屋が二つあり、その一部屋にこもって、なにやら会議の連続だった。インドネシア人も8人くらいすでに入社していたが、座るところも無いくらいだった。、
そんな状況に中、飛び上がらされ、こういう人だったんだと、印象つけられる事件があった。
三浦という、経理担当の35歳くらいの若者が、皆と一緒に出社できなかっが、会議中、遅れて到着した。社長、いきなり、「今頃まで、何をしてたんだ」と大声で怒鳴った。皆、飛び上がった。本人「下痢で、おなかが痛くて、」といいかけたとたん、また「自己管理がなっとらん、そんなやつはインドネシアへ来るな」と訳の分からないことを言ってどなった。「すみません」で終わったが、この空気は一辺に凍ってしまった。
それ以後、何度も何度も、怒鳴り声は聞こえてきた。また、その時、怒られた本人も怒りっぽい人だったことがしばらくして分かった。インドネシア人に対し、「なにやってんだ」とか「わかった?」「本当か?」「こんなこと、何でできないんだ」など、怒鳴り声がよく聞こえてきた。
日本で社長をやっていた時はこういう人を目撃したり、直ぐ側でこういう風景を見たことが無かったので、こういうことが普通なのかなと驚きだった。
滅茶苦茶怒りっぽい人、普段は温和な顔をしてニコニコしているが、ひとたびプッツンになると、是がまたすごい。突然大声を上げて怒り出す、周りは予測していれば飛び上がらないが、予測していないことが多いので、びくっと飛び上がってしまう。
話しを聞いていて、その内容によって、そろそろプッツンするかなと感じるように次第になってくる。そうなれば、そばにいる時は、顔を伺う。若干、おでこの筋が盛り上がってくる。そうなると引っ込むことはない。必ず、大声が発せられ、青筋の数が増え、太く出っ張る。ひとしきり大きな声が続き、だんだん収まってくるが、怒鳴られた相手はもう完全に萎縮してしまい。口を利けなくなる。私にも一度「余計なことをいうな」大声を上げたことがあった。「余計なこととは何事か」と怒鳴り返したのは私だけです。他の人は、勢いでも理屈でも負けるので、納得いかなくても引っ込むしかない。
その人はまた、海外での工場立ち上げの経験が豊富で、なんでも自分の言うとおりにやれば成功するんだという、仕事に自信を持っている。英語が達者。外国人に英語で怒鳴りつける。外国人も、意味が分からなくても、その勢いに飛び上がってしまう。
その人に、いつも怒られていた、日本人の若者で私は見込みがあると思っていた人は、怒られすぎて、登社拒否に、インドネシアでなってしまい。挙句は強行帰国をしてしまい。会社に居づらくなって、やめてしまった。その人がもし優しく指導していたら、今頃は、今の踏ん反り返りの仕事嫌いの社長の変わりに社長になっていたでしょう。人生とは人との巡り会わせで、大きく変わるものだと思う。
怒りっぽい人を見ると気の毒になります。人生が楽しくないのではないかと思う。体にもよくない、血圧も上がってしまうでしょう。周りにいやな雰囲気を与える。残念ながら、この方、後で話題にする当時の本社の常務との確執があって、設立から1年後には、本社へ戻された。その二年後、56歳で亡くなってしまったとか。
あの人に会ってよかったと思われるようになるには怒りっぽくないことが第一条件だと思う。