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     社会へ出て直ぐの職場、  人生の大半、仕事、生き方がここで決まった。
2017 8 jabotabek kawasan industri
2017 8 25 伊豆の旅 2

(^_-)-☆TPS7年間 1 3258 TPS(東洋プラスチック精工)窯業の業界に就職したかったが、どこも、採用ゼロだったので、赤尾先生の紹介で、一応、静岡に近いこと、設立間もない、日本では先駆的な技術を提携で受け入れている会社ということで、就職を決めた。私がOKなら、先方は、望んでいた。とにかく、国立大工学部新卒は私が初めてだったから、歓迎されたと思う。夏休み8月に、ぜひ、見にきてほしいという話があり、出かけたのが、北海道大学で、卓球の国公立大会に出場して、直接、札幌から、蒸気機関車で東京まで戻って、新幹線で三島という、旅の後だった。当時の社長さんが、待っていて、面談となった。覚えている話は、聞かれたので、私の卒論の話、品質管理の手法で品質テストと一種で、破壊強度テストの一種で、昇降法、(アップダウンメソッドゥ)と名付けた方法の確立についてだった。日科技連関連の赤尾先生の元だった。すると、社長さん、“そうか、TQCか、新興宗教の一種だな“と、言っていた。そして、入社まで、数カ月の間、プラスチックの現状に関して、私から頼んだのだが、どんな文献を読んで置いたらいいのかということで、紹介してもらい、一応、プラスチックについて勉強して入社した。

http://www.toplaseiko.com/corporate/corp_001.html

現在の会社(東レプラスチック精工)概要ですね。

関わってみると、プラスチックの成型には、プラスチックの知識より、機械、電気のこと、材料力学というか、物理学的な知識が必要だということが、分かった。私が入る二年前に、ドイツからの技術導入の装置を扱うことになったが、先に入って、現場三交代で製造している人達、三島の東レからの出向者、東北からの中卒者だった。年齢は私より二三歳上だった。その人たちが、製品を作っていたが、最初、どういう人が、ドイツへ行って、その装置を選んで、持ってきて、実際に製造したと思うのだが、そして、その人が、装置の使い方を指導したのだろうと思うが、それに、当たる上司?が見当たらなかった。それらしき人は、東レの名古屋のプラスチック研究所というとことにいて、時々、見かけてはいた。東大工学部出身だ。然し、その人が、実際、溶けたプラスチックを摘まんで、やってみる風景には、出会わなかった。私が入社してから二年ほど、毎月10日間ほど、来ていたが、何しに来ていたのだろうか、何も指導やアドバイスは受けなかった。実はその人が、この本がいいと、読んでおく本を紹介してくれた人でした。その人の紹介本は、全く、現場で役に立たなかった。

東レプラスチック精工(TPS)                         柿田

何とかしなければならない、いろいろな部門がある中で、押出が、一番ひどかった。ボビンスリーブという名前の製品、とにかく、糸を巻きとる機械の巻き取る部分の心棒に、そのパイプを差し込んで置いて、巻き上がったら、それを外し、また、パイプを差し込む、といった。糸をまいておくものだ。後に私が提案し設計したインサイドマンドレルという金型を使う、内径規制の金型だ。ABSの薄肉パイプ、東洋レーヨンのどこかで使うので、大量に必要だった。

 

この製品、とにかく、散々な、不良率、それでも、いい加減な状態で出荷するしかなく、当然、全品不良で返品、急いで、次の納品をすると、帰りのトラックは、不良品を持ち帰る。惨憺たる状態だった。

 

そこで、私は、押出部門の三交代、それも、チーフを、時の製造部長、三上氏に頼み込んで、了解された。チーフの一人が、何やら、休みがちだったし、その部長さん、手を焼いていた部門だったから、すんなり認められ、入社三か月後に、押出の三交代班長として配属された。中卒の先輩の方々に、教えてもらうことから始まった。180度以上の樹脂を摘まむことから始まった。

 始まり 押出 知らない

2017年12月19日  (^_-)-☆TPS 2 3259 敷地から、ちょっと狩野川側に下ったところに、独身寮があった。仕事場から2分ほどの距離だ。とにかく、会社の中に常にいたようなもの、仲間のほとんどは、一緒に仕事をする田舎からの先輩たち、そして、夏は沖縄からの、そして、冬は東北からの出稼ぎ者、そして、私の一年後には、山陰からの集団就職の若者、二三年は、毎年、5~7人入ってきた。様々な人種、言葉が、分からず、面白かった。入社して半年後の10月には、組合の教宣部長、(この時、後に独立して富士プラスチック精工の塩崎さんが組合長だった、押出の上司でもあった)そして、寮生の代表にさせられた。張り切って忙しく動き回りだしていた。仕事は勿論、組合のこと、そして、会社の総務がやる仕事の手伝いもした。会社の催しには全て関わった。安全週間、品質管理月間、社内球技大会、社員旅行、誕生日会といろいろなパーティーなどの準備、切り回し、なんでもかんでも、頼まれれば、コーディネートした。一年半後に副、二年半後に組合長、三年後に三交代から出て、押出部門の係長がいない係長補佐として、押出の全てを任せられた。

 

その間、仕事の方では、半年もしないうちに、私が技術的に一番になっていた。提携で当てが割れた装置を使って、チューブ、プロファイル、丸棒などの素材を作り出しでは、皆さんを指導できるようになっていた。次々と新しい樹脂が日本に現れた時期で、私にチャンスが、どんどん与えられた。enplaextエンプラエクストである。インジェクション、射出成型用の樹脂ばかりだったが、それを使って、押出成形をするのだった。原料を作る側も当時は、押出成形には、MI(メルト インデックス 溶融粘度)が、それ用でなければならないということを知っていなかった。ABSやナイロン6、66樹脂を作っていた親会社の東レに言っても、なかなか、作ってくれなかった。現場で、製造にかかわっていれば、そんなことは、直ぐに指摘できることだが、出向できている上司も、必要性を理解できていなかった。それで、何故、製品が出きないんだと、怒っていた。自分がやってみろよと、何度思ったことか。

 

とにかく、製品がうまくできるように、私自身ができるだけ簡単に製品ができるように、様々な改良をしていた。そのことで、打ち合わせをする場はなかったし、上司の許可をいちいち取ることはなかったし、金型のメンテナンスをする部門に、私からの頼みが、上司からの依頼書など、正規のルートを省いて、直接頼み込んでいたので、彼らは、戸惑っていた。いろいろな点で、技術導入した姿から、だんだん、別物にしていった。

 

http://otaenplaext.net/concept84.html  ナイロンとの出会い。

 

チューブなど、穴がある製品の基本的金型です。ノズル、マンドレルの組み合わせですね。
外径を真空で直接C,Dieの内側に付けて決めるやり方。

 

MI エンプラ 予知   

 

 12月20日  (^_-)-☆TPS時代 3 3260 品質管理の手法を使って、不良の種類と頻度をヒストグラムに表し、多いものから、少なくするための対策をする、なんていう、部外者がするようなことをのんびりしていても仕方がない。感覚的に、どんな不良が多いか、何が難しくて、製品がなかなかできないのか、感じるので、それらを、行きあたりばったり、解決していった。思い付きですべてをやっていた。指示をして、人にやってもらうのではなく、自分で納得できるやり方でやっていた。半年もしないうちに、私が一番、うまくなっていた。それでも、金型の改良をすれば、もっと楽に、歩留を上げることができると思い,実行していった。

 

チューブの製造方法は、密着型キャリブレーション(C.Cie直接バキュームで吸って、内壁に押し付けて外径を決める、外径に合わせた内径のC.Dieが必要)しかなかった。このタイプは、製品の硬度がある程度大きい樹脂、バキューム外径を周りから引っ張るので、引き取りで製品が伸びてしまわない樹脂、固まったときの硬さと、引っ張られて伸びてしまわないこと、が重要。硬さもそうだが、径と厚さの関係もある。要するに、限られた樹脂、限られたサイズのチューブしかできない。親会社の一つだった、近所の臼井国際という会社用にナイロン6で8φ×11φのチューブを作っていた。

 

C.Dieとそれを取り付けるキャリブラーの一種

 

その後、HDPEのチューブを頼まれた。これは、また、難しい。固まったときに硬いから、C,Cieは、6ナイロンと同じでよかったが、ノズルから出てきた溶融樹脂が、円錐状に伸びてくれない。キャリブに通すのが難しい、引き落としが三倍以上あってもその他樹脂は細くすることができるが、HDPEは、引き落としをほとんど無くす必要があったが、それでも、難しい。そして、もう一つの問題は、熱伝導率が早く、水を指に付けて引っ張ると、固まってしまって、伸ばせない、水を付けないで摘まんで引っ張るので、完全に摘まんでしまうと火傷をしてしまう。摘まむか、摘ままないか、微妙な摘まみ方を繰り返し引っ張る。それでも、普通に火傷をする。火傷の上に火傷を重ねる。誰もが、一回やってみて、その難しさに、手をださない。私がやるしかなかった。

 

そのうえ、この樹脂は、他の樹脂と馴染まないので、例えば、LDPEを流しておいて、置き換えるという手法もできない。

 

もう一つの問題は、C,Dieに通した後、バキュームをしっかり効かせて、外径を固まらせて、引っ張らないと、密着していないところが伸びてしまって切れてしまう。引取機で引っ張り始めるまで、渾身の力で、手で引っ張り続けなければならなかった。すこしでも、C,Dieの入り口で密着しないと、切れてしまった。手で引っ張るとき、速すぎれば、密着しなくなる、遅すぎると、C.Dieの前で膨らんでしまって、ついに引っ張れなくなってしまう。早すぎず、遅すぎず、一定の速さで引っ張らなければならない。そして、引取機で引っ張りだしたとき、直ちに、速度をいじるか、スクリュー回転をいじるかして、C.Dieの前で、適当なふくらみにしなければならない。

 

多分、今でも、HDPEの立ち上げをうまくできる人は、そういないと思う。HDPEとPOMのチューブの立ち上げとまともな製品ができるようになれば、溶融押出成形では、一人前と言えるでしょう。

 

そして、その他の樹脂、サイズ、プロファイルなど、あらゆる要求に対応できる成型方法を作り出すことになった。丸棒、板などの成型方法にも不満があって、それにも取り組んだ。義務や役というより、本能的なものだった。

 

感じ 勘 改良

(^_-)-☆TPS 4 3261  6ナイロン、66ナイロンに可塑剤入りの原料がない、11や12ナイロンには、可塑剤入りがある。当時、これらのチューブを作るとき、可塑剤が入っていないものは、密着キャリブで、できたが、可塑剤入りの11,12ナイロンのチューブは、うまくできなかった。柔らかいから、キャリブの抵抗で伸びてしまい、伸びが一定しないから、径も一定しなかった。そのうえ、表面が艶消し状態になってしまって、外観が悪い。また、何となく折り曲げをしていると、千切れてしまう。フランスからサンプルは艶があって、折り曲げてもちぎれることはなかった。つやを出すことに集中した。温度条件や引取速度などで、如何かとやってみたが、変わらなかった。出てくる溶融樹脂には艶がった。それがキャリブへの密着で艶消しになっていたので、キャリブの前に、小さな穴をあけて、水の膜を作ってみた。ちょっと、径が大きいところで冷やすので、縦しわが心配だったが、それはなく、問題は解決した。外径のバラツキも解決した。予備冷却の方法でした。大体、この方法で、PP各種、PS各種、ABSなどの共重合樹脂、PC,PBTなどなど、比較的、硬い樹脂はこの方になった。

 

その他にも、もっと、軟質の樹脂はどうか、例えば、LDPE,LLDPE、スピードの極端に遅くすれば、密着型で出来るが、それでは、採算が合わない、とにかく、スピードを上げなければならない。で、減圧というか減真空度、バキュームで金型の内壁に引っぱる力を調節できるようにしたかった。キャリブを箱の中に入れて、その箱の中を減圧することにした。間接キャリブということにした。キャリブに前の予備冷却はこれでも有効だった。バキュームボックスだ。

 

その後、PCチューブ、5φ×4,5φのチューブをやはりこの方法で作ったが、肉厚を一定させるために、サイジングプレート(当時がアルミ板に穴をあけて通すだけ、バキュームは使わない)だけを使って、密着で何とかやっていた。これが、技術がいる仕事で、私にしかできなかった。これは、辞めてから後の話に繋がった。http://otaenplaext.net/concept90.html

素引き法と言っていたが、密着型とただ通すだけで、非常に柔らかい樹脂は、ただ、通すだけで、水は、周りからちょろちょろ出てくる方法だ。一番単純だった。軟質塩ビのチューブは、20社ほどあるインドネシアのローカルでも、簡単にできる。PU(ポリウレタン)もこの方法だ。

 

技術的には、丸棒板の成型方法についてもドイツから来た技術の面影がなくなるほど変えていった。圧力調整弁からの樹脂も入れの問題、電磁クラッチ付きのモーターを使った押出機を考え出した。金型の内側へのテフロンコーティングも始めた。丸棒、板だけでなく、厚肉のパイプ、例えば、100φ×40φといった具合に、また、50mm厚で幅300mmの板に下駄の足が二本、50mm幅長、長さ100mm、下駄を横から見たようなもの、また、肉厚60mmのT字型 天狗の下駄を横から見たようなもの、切削部分が少なく成るようにと、客先からの特注品だ。そりを無くすことに苦労した。

 

私が50年前にやったことは、今でもそのまま使っているという。もっとも、変えようがない、全サイズの金型を、新しいデザインに変えるなどは、膨大な費用が掛かる。エクストロン系の会社も、今も,当時のままの成型法だ。

 

ガラス繊維ペレットの製造もした。ロービングとチョップドスプランドの二タイプがった。6ナイロンに、混ぜるやり方と、クロスヘッドで電線を作るような方法で、8芯や6芯などガラス繊維が長いまま、樹脂と一緒に押し出して,カットする方法だった。特に難しさはなかったが、環境的に厳しい職場だった。そのうち、炭素繊維を混ぜたペレットも始まった。つらいには時に夏、薄着で作業するので、体に繊維がチキチキ刺さる.当然、吸い込んでもいるはずだ。組合をやっていた関係もあって、服装のなど、防護に力を入れた。ガラス繊維手当も出してもらうことにした。

 

私の担当は、技術営業もあった。営業の人と一緒に、技術的な説明をしに行くことでした。関東、中部、関西と出張する機会も増えた。その上、新アイテムのトライ後、サンプルを持って、客先へ走る機会も多くなった。

 

原料 成型方法 夢中

 

12月23日  (^_-)-☆TPS 5 3263 溶融押出で、多分、日本で初めて作ったもの スパイラルチューブ、縦割りチューブ、コイリングチューブ、三次元曲げチューブ、フレアー加工、ラッパ加工、突起加工、蛇腹加工、両端径が違うチューブ、外径一定で内径が違うチューブ、これらはチューブの各種です。

PA6やHDPEで小口径棒(穴が開いていない)巣ができないように、溶融押出で作ること、また、それをスプリングに加工、

小型の異形品、開放型、エッジング,グロメット(切り込み加工もある)、ベルトコンベアーガイド、エスカレーターチェーンガイド、

小型の異形品、密閉型、マガジンケース、ICケースなどなど、

他人がやったこと、他社がやったこと、外国で作られているもの、一切、参考にしていない。というより、関係する文献がなかった。勿論、押出成形加工に関する日本の文献もなかったでしょう。自分で作ったりやったりした人がいなかったと思うから、私が日本で最初だと思う。

 

固化押出では、もちろん、電磁クラッチを使った押出機を使ったし、丸棒は6φ~200φ、PA6,PA66、POM,PBS,HDPE,LDPE、プレートでは、幅500と300で、厚さ5~50原料は丸棒と同じ。大型異形品(プロファイル)、万力や鉄道の枕木の両側につくリテーナーという名前の製品など、肉厚パイプなどなど、これらの品ぞろえも日本でトップだった。GL樹脂って、今でもあるのでしょうか。印象的な樹脂だった。神戸の三ツ星ベルトまで、届けた覚えがある。

 

チューブに成型方法では、バキュームボックスの前にそれ用に作ったキャリブを作ったが。それだけでは,うまくできない製品、樹脂もあって、アルミプレートやステンレスプレートを付けたり、その前にエアーや水のリングを付けたりもした。

プロファイルの冷却金型は、冷却用の水、空気の通りやバキュームで吸う場所を様々な、組み合わせができるようにした。どんな樹脂でも、どんなサイズでも、私ならできるようにした。デザイン、完全に私オリジナルである。

あれから、55年くらいの後の今でも、似たようなことをしていれば、インドネシアで誰もやれないことができている。

溶融 固化 加工

 

 12月24日  (^_-)-☆TPS 6 3264 給料対象の仕事以外のこと。看板つくり、垂れ幕つくり、何とか週間、何とか月間、その他、スローガンや目標など、何か催しがある時の案内書き、立てかける物、吊ったり張ったり、総務に頼まれたり,組合のことは自分からやっていた。大変重宝がられた。

碁や将棋の、他社との付き合いに突き合わされた。臼井国際や大東精機など、地域の会社との懇親や対抗戦などの催しに、休日や平日でも仕事が終わってから、人数合わせのために参加させられた。断れなかった。

社員レクレーション、忘年会、新年会、誕生日会、クリスマスパーティー、何とか会や慰安旅行、ハイキングや登山などのおぜん立てと、進行役。

そして、組合関連の仕事、7年の間、教宣部長、副委員長、委員長をした。社内だけでなく、上部団体にも引っ張りだされた。東レの組合長から、君、全繊同盟の専属にならないかと誘われたりもした、渡辺朗さん応援にも駆り出された。三年目に、組合員の平均給料が25000円くらいだった時に、8300円のベースアップを勝ちとったこともあった。たまたま、同業他社,地域他社の全体が、そういう環境だった。賃金事情という、雑誌が、それを表していた。ガラス繊維手当やテフロンコーティング手当など、環境改善と特別手当など、退職金制度も作ったし、社宅の建設も勝ちとった。社宅といえば、私が入居の第一号だったし、出てしまったのも第一号だった。現在駐車場になっていた。

 

このころ、学生運動が盛んな時で、学生時代から,共産党系民青と私たち穏健派(運動部系)との確執がって、就職しても、民青系の連中が、私から見れば、気に入らなかった。事実、頼まれたわけではないが、立候補したのは、民青系の外部からの介入で押された人が立候補したからだった。全繊同盟としては、会社としてはありがたかのだと思う。入社当時から、仕事以外にも、私的に、環境、生活面で気にかけてくれた総務部長と、24,5歳の若造が、個人的に予備交渉を重ねた。団体交渉で面倒なことにならないように、私なら、組合員を抑えてくれると、期待してくれていたのでしょう、私が要求したことに対し、無茶な要求ではないと、判断したのでしょう、ほとんど、満額回答で、工場長に進言をしてくれていた

 

 勤労 手入れ すっきり

 12月25日  (^_-)-☆TPS個人的 7 3265 どこかで,書いたが、休日、装置が止まっているとき、人や車の出入りがほとんどないとき、何かのメンテナンスで外部から、工事をする人が入ってきていた。平日でもよく見かける、契約をしている会社の責任者、その人達が仕事をしているとき、私がいつも出勤していて仕事をしている。あの人はいったい何者?と、聞いていたよと、工事などの外注の責任者から言われたことがあった。また、後に、その工事に来ていた人と、交渉したり、依頼したりする立場になったときに、その人(第一工営)から、太田さん、なぜ、いつも、会社に出てきていたのか、何をする人なのか、気になったといっていた。

 

三交代シフトに入る前、あまりにも不良が多いので、私が志願して、夜の20時から朝8時までの12時間勤務で、連続で、できている製品の検査をマシンサイドですることにした。月曜日の夜からはじめて、日曜日二回挟んで3週間、夜勤の休日出勤48時間、ちょっと間を置いて、二回やった。二回目には、最終土曜日、突然の腹痛に襲われた。我慢をしていたが、どんどん、ひどくなるばかり、先輩の一人が心配して、その人の車で近くの東静病院に運んでくれた。ところが、すぐそこの病院なのに、到着したころには、痛みがなくなってしまっていた。

 

大騒ぎをした手前、治ったから、帰るというわけにはいかず、診察を受けることにした。しかし、専門の医者が不在、専門外?の医者が、とにかく、入院して経過を見なさいと、痛み止めだけもらって、入院になってしまった。その日の夜、流動食、お腹がすいた、見舞いに来た人たちが持ってきた果物を全部食べた。次の日曜日、まだ、医者がいない。もう、我慢できない、車を持っている先輩が、バーベキューをご馳走してやるから、長岡へ行こうと誘ってくれた。言葉に甘えて、10時には、一応、外出をすると看護婦に行って、出かけた。たらふく食べて、戻ったのが、17時ころだった。私を見つけた看護婦が、かなりの剣幕で私に迫ってきた。あなたみたいな人は、初めてだ。病院を抜け出して行方不明になってしまう人は。平謝りに謝った。でも、その後、月曜の朝も、重湯だった。

10時ころ、医者の巡回が来た。その医者、君はここで何をしている、と聞く、とりあえず泊ってゆけと言われたので泊っていると答えた。なんでもいないなら、出なさいと言われた。多分、昨日ことを報告されていたのでしょう。

 

持ち込んでもらった毛布や洗面道具を持って、病院からでて、歩いて、会社に戻った。寮に帰って,作業服に着替えて、仕事場に入る前に、事務所に顔を出し、皆様に心配をおかけしてすみません、と、挨拶をした。病院から、問い合わせや報告があったのでしょう。皆さん、笑っていた。

 

この事件の後、二つのことが問題になった。まず、日勤者が日曜の夜から月曜の朝まで時間外出勤(残業、休日出勤)をして、月曜日は、明けで、続けて仕事をしないで、休すむのだから、私は年休を使った。こんな時でなければ、年休を使って休むことはないからだ。その後、代休という制度があるのだから、代休にしなさいと、総務から言われたが、それじゃ、休日出勤手当がなくなるわけで、後、組合長になったとき、労働協約を、この部分、本人の選択とすることにした。

 

私は、この時期、所定内給与の24000円の倍くらい受取っていた。納期が間に合わなくて、暮正月休みも、一日も休まず繋げた。事務所の裏側に、従業員の休憩、仮眠の和式の建物がって、そこで、みんなで飲み食いをしながらだった。囲碁や将棋も置いてあったが、麻雀部屋とも言っていた。上司が夕方5時過ぎから、出前を取って、麻雀をやっていたからだ。

 

もう一つ、誰が、太田みたいな無茶な勤務をすることを認めたんだ。誰が、させたんだ、ということが、上の方で問題になった。後に、やはり、労働協約を改定になって、最大、一か月100時間とし、申請と許可が必要ということになった。平日は、一日4時間の残業、24時間の休日出勤、これだけでも、44時間ですからね。それに、交代手当、夜勤手当もプラスだった。

 

 

連日の剪定作業、今日は主に柿の木だった。家を建てたときに、苗を植えた。幹は太さ80mmくらいになっている。小枝も短く切って袋に詰めてゴミの日に出せるようにするので、作業は大変だ。腰も痛くなる。

 

“茜い色しいた 夕べのお空に そびえる岩木の 山見ていいたら 春風え そよお風え 祈りいを込めてそおっと きいみいの名 呼んでみる“
 高校時代に、ラジオから何となく覚えてしまった歌です。この空を見ながら、つぶやいてしまった。聞こえたでしょうか。どうですか、知っていますか、60年前の歌です。

無茶 当たり前 自由気儘

 12月26日  (^_-)-☆TPS個人的 8 3266 25歳のころ、組合長をしていた、そして、三交代勤務を卒業し、日勤になっていた。入社して直ぐ三交代勤務になったとき、車の免許を取った。たまたま、IHIに就職していた大学の卓球部の先輩が、アメリカ勤務になるということで、車を使わなくなるから、免許証を取ったばかりの私にはちょうどいいといって、ルノーのポンコツを貸してくれた。二年間借りた。

 

その車で、箱根越えで横浜へ頻繁に通った。結婚の半年ほど前からだった。浦島町の下宿まで、箱根新道、小田原バイパス、第二京浜などを通って横浜に、また、東名で新横浜から南下して横浜に入った。所要時間2時間、到着が19時過ぎ、2~4時間ほど、一緒にいて、帰路に就く、会社の寮に到着は、23~1時だった。この頃から、今、日本でも、インドネシアでも長距離運転は苦になっていない。横浜の山下公園とか、その辺りが主にぶらつく場所だった。まだ、ランドマークタワーが無かった。

 

1970年2月に結婚し、長泉の中土狩の借家に住みこんだが、しばらく、横浜の学校に妻は通勤していて、お腹が大きくなっていた夏に、静岡の教員試験を受け採用になり、裾野の小学校に通うようになった、その間に、子供が生まれた。最初から、近所の家や会社の近所の家に頼み込んで子供を預けた。完全な共稼ぎをした。当時、スーパーマーケットが営業するようになっていたが、夫婦で買い物にきて、一週間分の買いだめをする姿は、他に見かけることはなかった。

 

そして、社宅に移ったが、一年住んだだけで、長泉下長窪の分譲住宅地に自前の土地と一軒家を買って移った。妻は、長泉小に移っていた、子供は、近くの保育園に3歳から入った。子供の送り迎えは交代だった。仕事が遅くなり、自分の日だったのを忘れていて、気が付いたときにすぐ迎えに行ったが、7時過ぎ、暗い中、玄関の前の階段で保母さんと並んで座って、迎えを待っていたこともあった。とにかく、HPがない時代だ。何の時でも、遅れる場合に連絡が難しかった。

 

車は、パブリカ、千ドルカーと言われた。36万円だった。土地の価格が急騰し始めた時代だった。無一文から結婚生活がスタートしたが、二人でためたお金で、頭金を払えるようになったので、社宅から一早く出ることができた。その時、間もなく、会社を辞めることになる可能性があるとも感じていたからだった。


12月27日  (^_-)-☆TPS 9 3267 静岡市は南アルプス、北岳、まである。日本で富士山が一番、ここが二番3192m、静岡市に雪が降ることは非常に珍しかったが、北岳など白根三山には、富士山とどちらが早いかというくらい、早く降る、そして積る。そして、今日、静岡に初めて雪が降った、風花も舞った、というニュースがあった。このニュース、ちょっと変、南アルプスにはとっくに雪が積もっているのに。市街地の北部に降ったのでしょうか、それとも、梅が島辺りなのでしょうか。場所を言ってもらった方がよかったと思う。

 

風花(かざはな)といえば、小学校の時、授業中、窓の外を見れば、風花が舞っていた。もう、授業どころではない。運動場に飛び出して、両手を広げて、受ける、すぐ消えてしまう。地面に落ちて、すぐ消えてしまう。空を見上げて、真っ青な中に、舞う粒を追う。静岡の平野部には、年に一回か二回だった。積もることはない。

 

 入社して5年目頃に、仕事の成果について虚しさを感じるようになってきた。やはり、親会社の東レや極貿から出向できている人たちに存在だ。35~50歳くらいで、各部署の係長、課長、部長、工場長、その間に、何人かの補佐もいた。創立間もないのだから、仕方がない、当然ながら、塩崎さん(当時、係長、私が5年目まで、直属上司、係長)以外、すべてが出向者だった。押出の課長は極貿からの出向者だった。係長補佐になっていた私は、塩崎さん(初代組合長でもあった、私は三代目)が独立してからは、その人が直上司になった。そして、私の係の範囲と課の範囲は同じだった。要するに、どちらかがいなくてもいい組織になっていた。塩崎さんが辞めて自分で始めてしまった経緯がはっきり読めてしまった。

 

会社全体の従業員からの頼られ方、私の部門の技術、取引先とのつながり、私がすべてを引き受けているという意識があった。35人の部下を纏めていた。しかし、課長さん、何もしない、給料は私の三倍、会社にいる時間も定時以下、現場にはほとんど来ない。偶に出てきて、製品がうまくできていないと、何やってんだ、というのが、口癖、自分では、何もできないのに、手を出さないのに。

 

新規の話が持ち込まれた時に、私が応対する。できるかできないか、私が返事をする、できないといったことはないが。そして、試作が始まる、うまくいかない、納期に間に合わない、どうしようと、悩んでいるとき、休日無しで、改良したり試作したりして、どうにもならないとき、お前が引き受けたからお前が悪い、と、あからさまに言う、何回か、頭にきて、その場を放り出して、工場の外に出て、会社の周りを何回か回って、頭を冷やして、戻ってきた、ということもあった。その時、その場に、その人はいなくなっている。また、挑戦をする。納期が間に合わないときは、出来損ないのサンプルを持って、客先に状況を話し、納期を伸ばしてもらう。時には、客先が様子を見に、工場に来る。その人が、私に頼んだ責任者だから、社内的に説明をしなければならないからだ。上司は知らん顔、というより、対応しても意味がないから、顔を出さない。

 

そして、やっと、これなら承認をえられると思う製品が出来上がったとき、その人が、自分が届けるといって、持ってゆく。感謝されてご機嫌で帰ってくる。その後、寸法公差や検査標準書、限度見本などを作ってからの打ち合わせは、私が行くことになる。

 

総合力が、私より少ない人が、その人が、私を評価する。たまったものではない。入社から6年過ぎた3月末日に、時の工場長に直談判、そんな事情を話して、その人を返して、自分から仕事を覚えようとする他の人に変えてほしいと。そして、一年待ちます、何も変わらなかったら、辞表を出します。自分でやりますと。それから1年、何も変わらず、何の話もなかった。そして、ピッタリ、一年後、入社して七年後、3月31日に辞表を工場長に出した。そして、4月1日は、もう出勤しなかった。その後、呼び出されて、会社へ行ったが、説得だけだった。お世話になった臼井国際の社長さんやそのほか、囲碁などで知り合いになった、他社の経営者に近い方々からも、頼まれたのでしょう、呼び出されて撤回するように説得されたが、一年、何の話もなく、辞表を出されて、慌てている工場長や製造部長の姿を見て、体裁を見繕いたいだけだと、寂しく思った。だめだ、こりゃ、私の真剣な頼みを放っておいて、決心を変えようがない。

 

半年後、やっと、離職票を受け取ることができた。晴れて、フリーになった。1966年 22歳で就職し、1970年 26歳で結婚 1973年 29歳で退職でした。7年半(実質7年)TPSに在籍した。時代だったのでしょう、新しいことに次々と挑戦ができた密度が高かった。

 程度 評価 辞表

 

 12月28日  (^_-)-☆TPS 10 3268 寒い、昨日、静岡のどこかで風花が舞ったという。しかし、私が移動した時間と範囲には、その雰囲気は全くなかった。

今朝、6時過ぎ、ゴルフに出かけようと外に出た庭に霜柱が立っていた。静岡市街では、霜柱も非常に珍しい。何日か前に、うっすらと、それらしきものは出ていたが、今日は、はっきりした霜柱だった。土を押しのけ、高さは5Cm以上だった。サクサクと踏んでみた。

  

TPSで、誰よりも生え抜きの従業員から頼りにされていると認識していたし、技術的にも、私がひっぱらなければ、何もできないとも思っていた、そして、入社の時には、この会社のトップになって引っ張ろうと決意していた、その私が辞めよう、いや、見放そう、放り出そう、放棄しようと決めたわけだが、その理由の主なものは既に書いた。要するに、腰掛出向で来ている上司の無責任さと手柄探しと給料の格差とその人が私たちを評価する、その状態が、人が変わっても10年、20年と続くだろう、ということにあきれて、自分が自分で無くなると思ったからだ。

 

しかし、やめた理由は、それだけではない。会社の経営というより、技術者が自分に向いていると思うようになり、将来、その道に進むと決めた。経営というか、人を束ねるということの難しさを、子供のころから、やっていたというか、その役目をやらされていた。しかし、それは、自分には向かないといつも思っていた。就職して、やめる前には、35~40人ほどの部下を束ねる立場になってしまっていた。このくらいの人数が限界だと思った。また、間接的(部下がその部下を束ねる)にしてもだ。この考えは、自分で会社を作ってからも同じで、社長を他の人に任せたのも、経営者にならざる得なくなってしまったことと、36人以上になってしまったのが大きな理由だった。

 

そして、もう一つ、望まない付き合いが苦手だったこと、客先との付き合い、社員同士の付き合い、酒を飲めないことが大きな障害だとは思うが、それだけではない。やはり、面倒なのだ。サラリーマンでいる限り、必要なことだと思うので、サラリーマンは向かないと思った。これからも、楽な方に逃げたかった。

 

国道150号を焼津から東に向かう、前方は、日本坂トンネルだ。右は新幹線の高架。

放棄 次の一手 技術者 

 

12月29日  (^_-)-☆TPS後 11 3269 逃げの一手、気ままの二手目、行き当たりばったりの三手目。逃げ人生の始まりだった。将来、背負ってたつ気で入った会社から、これじゃ、できそうもいない、持ちそうもないと諦めて、ほうほうの体で逃げ出した。逃げたはいいが、逃げだしてから、何をするのか、まったく、決めていない、手を打っていない、就職先を決めてから,辞めるなどという段取りなど全く考えていない。ただただ、その場から逃げただけだった。説得する人、すべてから聞かれた。それなら、決めてから辞めればいいとも言われたが、そんなことはできないというしかなかった。

 

さて、どうするか、やめてしまって、考えた。妻の収入があるから、生活にすぐ困ることはい。一応それは計算ずくで、妻からの了解は得ていた。しばらくすると、どこで知ったのか、富士のポリプラのプラ研の所長から、来ないかという誘いがあった。押出に関して研究や指導をしてほしいと。また、大田区の日本エクストロンからも誘いがあった。どちらも、面接には出かけた。しかし、やはり、勤め人は無理だと思った。そして、自分で会社を始めることにした。

 

貯金がない。どうしよう、親にどうするつもりか聞かれていたが、開業資金を出してもらう訳にはいかない。どうしたかというと、フジプラの塩崎さんのお世話になることにした。この会社、その、二年ほど前に、私が紹介した大学同級生の小山君が、すでに、大番頭として勤めていた。しかし、彼は、営業、そこで、私が現場の手伝いを引き受けることにした。といっても、三交代勤務の現場で、私は夜勤だけ12時間、昼間は工場長?の弟さんがいた。22時から8時までだった。給料か固定で20万円だった。当時の大卒初任給が10万円だったので、夜勤で残業4時間としては、普通だと思うが、当時の29歳の会社員としては、かなり多かった。それを資金に充てた。一年半で、200万円以上溜まっていた。あと半年頑張って、それから、開業準備にかかろうと思っていた。

 

ところが、ある程度、フジプラも現行の生産に関しては、技術が向上し、私の存在を必要なくなってきたのでしょう。取引先(御殿場のアオイなど)や押出成形関連の装置、例えば五十嵐機械(アイメックス)など、押出機、引取機を作っている会社から是非来てほしいという話を持ち掛けられて、どうか、ということになって、面接に行かされたりした。もう、フジプラ潮時かなと思って、逃げ出した。

 

東プラ時代の倉庫の係長で、沼津に住んでいる人から、自分でやるなら、貸工場を持っているから、どうだといわれていた。そして、沼津の志下というところで、始めることにした。押出ライン一式、中古、100万円で準備した。当初の原料費やその他設備、50万円、トラック5万円などで始まった。仕事は、お前がやるなら、すぐに、そちらへ回すよ、という、会社から、50万円の仕事(LDPEチューブ、スパイラルチューブ用、当時は、後工程でスパイラルチューブに加工していた)が、すぐに始まった。太田化工の始まりだった。1973年4月、30歳でした。一人で始めた。

 

茜色の富士山

 

ゴルフ場にあった木。

逃げ 気儘 行き当たりばったり

行動の記録
新入社員から7年、退職まで
日本滞在 2011 3~4
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