生い立ち
静岡県庵原郡富士川町岩淵(東海道在来線、富士川駅付近)で1943年11月2日に生まれた。父は静岡工業高等学校の電気科が最終学歴、地元の蒲原町の日本軽金属に勤務。母親は静岡市安西5丁目の金物屋の三女で、静岡城北高等学校出身でした。私から言うのもなんですが、当時としてはかなりの高学歴で頭のいい行動力のある両親でした。子供のころ、私自身は勉強で頑張った覚えはありませんが、いつも成績は学校で、トップクラスで自然に役員もしていた。生徒会などの役もさせられた。これは遺伝だ。と、小学校の頃から思っていた。
戦後すぐに現在、母親が住んでいた安西に移転、荒物屋を始める。母の実家が近くに土地を持っていたためでした。
私は、幼稚園には行っていない。静岡の三番町小、末広中学、静岡高校まで、安西に住み、山梨大学工学部応用化学科に入学した時から安西に戻って住むことはなかった。高校、大学は特別奨学金(将来、受け取った金額の三分の一を返すだけでいい。一般奨学生の三倍の金額)を受けていた。とっくに返し、はるかに多額の税金を払ったので、国は私を特奨生にしたのは正しかった。
部活は中、高、大学では、卓球部、大学ではキャプテンだった。小学校の時に、書道3段、そろばん1級になっていた。その当時、それが、最上級だった。
1965年に静岡県駿東郡清水町柿田(有名な柿田川湧水近く)の東洋プラスチック精工に入社。その時からエンプラ押出との付き合いが始まる。
インドネシアと言えば多くの方々はバリ島を思い浮かべることでしょう。ガイドブックの半分以上はバリ島に関して、であり、その他はまとめて半分以下である。1996年から9年間MM2100という工業団地内で、インドネシア人の若者に、エンジニアリングプラスチックの押出成型(Engineeling Plastic Extrusion Molding)の技術指導をしながら、インドネシア内の旅行や探検をしました。それらのことについて、ガイドブックに書いてない部分を書きたしていきたいと思います。今回は始めてホームページを立ち上げましたので、まずはご挨拶ということにしたいと思います。
体のメンテナンスの必要を感じ、現在、日本へ帰ってきています。何故この機会だったかといいますと、10年いたので、契約が切れたことと、新任の現地社長の無能力さに呆れたことと、現地の若者には技術を教えたが、日本人の若者には教えることが出来なかった。いつまで待っても、可能性のある若者が赴任してこないからだ。この技術に対する理解が会社全体として欠如していた。特に、海外担当重役の無理解がどうにもならなかった。1996年、海のものとも山のものとも分からない世界へ、勇躍、赴任した矢先、「あんたは、何もしないでくれ、あんたみたいな人は北川には何人もいる、何か問題が起きたときは俺が面倒見なければならないからな、あんたなら、分かるでしょ。内は自社製品だけで、ニーズ品はやらねえんだよ。下請けはやらない方針だから、それもわかっているでしょ。」と、仕事は取るなと言っているのだ。いきなり言われたのにはびっくりさせられた。それ以降、彼は、年に二回ほどインドネシアに来ていたが、一度も、食事に誘われたことはなかったし、こちらからの挨拶程度で仕事の話はしたことがなかった。来イするたびに、従業員の主だった人たちと、他の日本人と食事会をやっていたが、私は呼ばれたことはなく、押出のトップのインドネシア人も招待されたことはない。彼が来ている間はこちらに来ている他の日本人も私と話をしない。徹底的に、無視してくれた。それでないと、彼らたちの立場が悪くなるからだ。
もしこの雰囲気の中に優秀な日本人の若者が来て、技術を教えても、私がいなくなった後、孤立無援の状態どころか、無能、無知の上司が彼を評価することになる。こんな状態の中で、やれるのは私しかいない。
優秀な見込みがある、海外勤務をしてみたいという何人かの若者を知っている。私の後継者として推薦したい思ったが、状態を想像すると、犠牲者を作ることになってしまうのでやめた。
どうして、こうまで、私や押出を嫌うのか、よっぽど、私が知らない何かがあるのでしょう。それでなければ、これほど、最初から嫌うはずがない。
もう、終わったことですが、そういう方々が、気の毒でならないし、それに気に入られようと追随する大人が大勢いることが情けなし。派閥というか、出る杭は打ってしまいたいというか、パワハラというか、自己中心というか、その後の会社でも、日本人の醜さに、耐えることになる。
後日談、パワハラ セクハラの評判が立ち、常務は首にされたし、彼の腰ぎんちゃく的な人も辞めさせられたり、配置転換された。PT,KITAGAWAは、私が去って以後、立ち行かなくなって、閉鎖することになった。正解だったと思う。
写真の説明
1 Curug Ciawi Tali チアウィ滝 パンガンダラン
2 Bunga bangkai (Raflesia) ラルレシア インドネシア語では動物死臭の花
3 Mudik oleh Bajai sekitar Semarang レバランの帰省途中 ジャカルタから約400km地点
4 Pakisjaya Bekasi utara キジャンを一台運べる渡し舟
5 Cimpedak チンペダック、果物。外観はNangka,臭いはDurian 稀少果物で 日本人で食べたことがある人はいないのではないでしょうか。ドリアン以上に美味しい。
6 Kijang Mobil Saya 私の愛車 インドネシアの国民車的存在。トヨタキジャン2000cc 大変少ないオートマ車
せっかくの約10年の経験ですから、後に続く方々の参考になるかと思い。私の生活ぶり、多くの日本人の生活ぶり、インドネシアのエンジョイスポット、エンプラの押出成形の技術的な話などをごちゃ混ぜにし、多くのエピソードを紹介していきたいとおもいます。
エンプラの押出成型は日本でも隙間産業ですが、東南アジアでは全く未開の技術でした。今でも、私が指導した現地人の数人しかできません。日本人で出来る人はいないので、早晩、現在の客先に迷惑をかけることになるでしょう。責任上、再度インドネシアへ行かなければならないことが予想される。
Raflesiaの蕾
インドネシアに関する何でも質問、プラスチック押出に関する質問は何でもE-mailkota02@y6.dion.ne.jpまでどうぞ。 静岡市 太田勝夫
○ 押出成形との出会い
このことは押出成形技術とは大いに関係あると思いますし、現場人間のひとつの考え方がここから生まれてきていると思い、時々の思いを含めて、書くことにしました。
一口にプラスチックの押出成型といっても範囲は広い。押出機を使って製品を作る方法は多岐(専門書に書かれている)にわたる。ここで取り上げるのは、私が主に経験してきたパイプやチューブ、プロファイルなどの溶融押出(口金から溶融された樹脂を押し出し、再び、何らかの冷却金型内に通過させながら形状を固定させる成形方法)ついて主に触れます。
この中に出てくる道具、装置、金型の名前などは、私自身が適当に命名しているものが多い。他の専門書を見た人は名前が違うといわないでほしい、私は何も参考にしていないので似たようなものが、どう呼ばれているか知らないし、人から「これなんですか」と聞かれたとき、知らないものが多い。作業標準書を書くとき、適当に名前をつけるしかなかった。
A 1965年春 学生時代、化学を専攻した私が不況のあおりで就職した先は、東レの子会社、静岡県東部三島郊外の東洋プラスチック精工でした。東レが生産するナイロンやABSの成形、消化が目的で、1964年創業。射出、押出、コンパウンド、ベルト基材、シート、プレスの部門に分かれていた。ドイツから技術導入した射出成形機と丸棒や板などを作る固化押出(金型が溶融と冷却が一体になっていて、金型から出てきたときすでに表面は固化している)ラインとチューブを作る溶融押出ラインが設備されていた。超高密度PEの粉を厚板にする設備もあった。その他は東レの技術だった。いずれも初めて目にする代物で、装置、部品、工具などは名前さえ知らないものばかりだった。学生時代に勉強したことを生かそうという気持ちはすっ飛んで、ただただ、覚えることに総力を注いだ記憶がある。押出機を見たのはこのときが初めてでした。
会社へ就職してしばらく、工場のあらゆる部門で2〜3ヶ月ほどずつ実習をして回った。実習が終わった頃、どの部門に私を配属するか、上のほうで迷っていてなかなか決まらなかった。
実習中に学生時代の恩師の言葉を思い出していた。「不良品の山は宝の山と思え」という言葉だった。押出部門が一番その宝の山が大きかった。また、立ち上がりから製品に持っていける作業者が非常に少なかった。納品に出かけた車が、帰りには返品をいっぱいにして帰ってきたりした。ほかの部門はすでに作業標準通りにやれば、製品ができるようになっていた。そこで、押出部門が、一番力が発揮できそうだと感じて押出をやることに決めた。私から、時の製造部長に、押出の三交替の班長として配属してもらうように頼み込んだ。なぜ班長かというと自分にプレッシャーをかけたかったから。現場の三交替から入りたいというのが利いてか、すんなり受け入れられ、大学を出て一年半後晴れて押出成形部門の三交替の班長にいきなりなってしまった。すでに、そのころから人に「なぜだ」と聞かれることがおおくなった。「変わり者だ」と言われたとき、「変わり者ではなくて、超えている者と、思っている。」と、答えることにした。これが押出とのかかわりのスタートでした。以後、現在までで40年以上経過した。「私と同じだね」と言われることが、気に入らなかった。
B 中卒や高卒の先輩で部下の人たちに金型の解体整備組み立ての方法を教えてもらいながら、製品化の訓練をした。夜勤中、上司の直接の目が無いのでいたずらが自由にでき、一番、能力を鍛えることができたと思う。半年もしないうちに、テクニック的には皆さんを追い抜いてしまった。樹脂から出るにおい、燃やしたときのにおいと煙の様子で大体樹脂の種類は判別が付いたし、チューブなどの肉厚が何mmかも、見ればわたる。径も0.1mm違えばわかる。出てくる樹脂をつまめば、経験したことがない樹脂でも、温度条件が、適切かどうか判断が付く。どの成形方法が最良かも瞬時にわかるようになっていた。現有する装置を一番使いこなせるようになっていて、生産開始を私のシフトから始めることが多くなり、後のシフトに引き渡す。途中でトラブルが発生し再立ち上げができないときは、寮によく呼び出しがかかった。技術導入した装置の改善にも取り組み、特に、素材生産ラインの圧力調整弁に画期的な改良を加え、劇的にロスを少なくしたことは、労働協約改定交渉でも有効だった。
その頃、入社して二年半、皆さんからおだて上げられて、自分も嫌いではないので、組合の執行委員長をやっていたこともあって、仕事は頭を使うのは当たり前だが体力勝負だと感じた。その点でも負けることは無かった。仕事も趣味のひとつになった。その気持ちは独立してから、より強く感じ、今でもその気持ちは変わらない。独立してから、本人に聞いた話ですが、その人は、会社が休みの日、機械が運転されていない日に、新しい機械の据付とかメンテとかの工事をする業者でした。私の事を「工事に入った日に、必ず、現場にあの若い人が仕事をしているけれど、あの人はどういう人?」と変に思ったとか。
C 1970年三交替勤務を卒業し、日勤になったと同時に係長補佐、71年(28歳)には係長になっていた。そのころは押出機を使う現場すべて、丸棒、板、チューブ、プロファイルとガラス繊維強化ペレットの製造の責任者で部下が36人いた。実質は押出製造課長のようなもので、責任は非常に大きいと感じていた。このころ以後、現在でも、私がいる環境では、技術的にも価格的にも能力を示す意味でも、私ができるといえばできたし、それに取り組んで、その環境にも客先にも迷惑をかけたことはないし、これからも無いはずだ。私が難しい、無理といったことを、自分にやらせてほしいといって、名乗りを上げ挑戦したものも無かった。本当はそういう人間が登場するのを期待しているのだが。それほど皆さんが二の足を踏んでしまうもの、できるかできないか自分でも判断しにくいもの、それらは、ほとんどできるといってしまって、結局何とかしてしまった。
D そんな感覚と、同時に、自分の将来像について考えに変化があった。上の方たちは相変わらず2年周期くらいで入れ替わる。そのたびに、状況を説明しなければならなかったし、まじめに、聞いてもらったという印象は無かった。残念ながら、その人たちにとっては望んで来ているわけではないので、半分腰が浮いてしまっていた。仕方が無いと同情もしたが、そういう私の先に出ない人達が私を評価するというのは、不合理に感じた。次第に将来の自分像がこの会社では描きにくくなってきた。誰に相談することも無く、その頃やめる決心をした。辞めた後どうするかは決めていなかったが、まず辞めることが先決だった。とりあえず、辞めてしまって開放感がうれしかった。1972年3月末だった。
辞表を提出する一年前の三月末日、28歳のとき、時の工場長に自分の立場について説明した。押出部門はすべて私に任せてもらうこと、出向の上巳は工場全体の製造部長以上にしてほしいこと、一年待って、今のままの状態のときは私が会社をやめること、今考えれば、かなり、無茶だったと思うが、その時は心底、そう思って訴えた。しかし、聞いた側はそれほど深刻に受け止めなかった。
それから一年後、状況は全く変化なかった。私の立場について何の説明も説得もなかった。言った以上、ぴったり一年後の三月末日に辞表を提出した。翌日から出社しなかった。7年のサラリーマンでした。それから、説得が始まった。すでに遅い、予告をしてまで自分で決めたこと、いまさらの説得が効くはずはなかった。それでも許可が出なかった。結局、半年後9月末、30歳目前に離職票をもらうことができた。一生の問題について打ち明けているのに何の手も打たず、辞表を提出されて意味不明な説得をする会社や上巳のあわて具合が護身の姿勢が露骨で気の毒に見えた。今から考えても辞めたことは正解だったと思う。
サラリーマンの時もそうだったが、インドネシアに来ても、会社の責任者といわれる人の能力の低さと護身行動には、呆れる連続だった。KITAGAW TPR ASKA すべてである。特に贈収賄に関しては、それを指摘する私にパワハラを噛ましてくれた。
Nangka
インドネシアは、20年を過ぎたが、私のような仕事ができる日本人は、今も、いない。いれば、仕事は舞い込むが、そろそろ、終わりにしたいと思っている。2017年8月には、日本にいる。2018年1月 また、インドネシアだ。