日本 インドネシア

おめでとう 思わぬ朗報
 私が保証人になって6年間面倒をみた。インドネシアのユニーさんが先週結婚した。その相手が、なんと太田化工の従業員の一人だった。彼女は去年の四月からインドネシアへ戻って、スミタマスのJICAで契約社員として働いていたはずだった。私は、彼女の家がボゴールの田舎なので、また、平日の昼間、会うこともできず。知らん顔していた。
 ところが、昨日、突然、彼女から電話があり、今どこにいるの、と、聞いたら、日本だという、日本で仕事、見つかったの、と、聞いたら、結婚した、という。誰と、きいたら、Kさんだという。思っても見ない組み合わせで、びっくりしている。そんな間柄になっていたとは、両方から全然、感じさせる言動や行動は見られなかった。
 それにしても、何はともあれ、おめでとうです。24日に多分お二人さんに会えるでしょう。
彼女のお姉さんも日本人と結婚し、福島に住んでいるので、そんなに寂しくないと思う。日本語は勿論達者だし。
 人と人の出会いや運命はどこでどう動くか分からないものです。まさか、1996年に始めてあった彼女が、12年後、日本人と結婚して日本に住むとは誰が予想するでしょうか。


 2019年正月に彼女と子供二人にあった。

                突然の訃報  寂しい

外国にいるとこんなこともあります。突然、大変悲しい話が舞い込んだ。 
 
私にとって貴重な先輩を亡くした。一昨日、訃報を日本の元私の会社から受け取った。静岡県吉田町の南部化成()の田中牧さん65歳である。もう、日本へ帰っても合うことができない。死因は聞かない。

殆どインドネシアにいるので、今は年に一回か二回しかあっていなかったが、インドネシアで仕事をする前は、田中さんが会社の事情で、出社することができなくなり、私のところへ逃げてきたというか、朝、家を出て行くところが無いので、太田化工の第二工場にいた私の所へ出勤してきて、一日中、私の前の空いてた机で書き物をしていた。半年近く続いたでしょうか。

田中さんは、南部工業という沼津にあった会社に勤めていた。しかし、倒産してしまい、現会長の佐々木さんらと何人かで吉田工場だった現地に南部化成を作った。大番頭として、大車輪の活躍、会社が成長するにしたがって、英語が堪能なこともあり、上海やフィリッピンの工場をリーダーになって立ち上げた。その活躍は一静岡の小さな会社の社長としては、傍目で見ていてまぶしかった。自分にはできないなと思った。そのころ、彼は経営者だはなく技術者、技術者だと思った。私と同じだなと思った。

しかし、会社が大きくなりすぎて、本社に戻ったとき、経営という点では、やはり技術者であった。それを一番知っているのは彼自身だった。社長の大番頭として大きな会社のナンバー2には向かなかった。やさしさだけでは無理だった。悩んで、私の所へきたのでした。すでに社長をやめていた私は喜んで迎えた。同じ、一技術者として、十分、気持ちを理解できたからです。

酒が好きで、タバコはすわなかった。私とは全く逆で、食事を共にするときは奇妙な光景だったと思う。しかし、よく、一緒に食事をし、将来を語り合った。同じプラスチックの押出の技術者としても、人の使い方にしても、考えるレベルが同じだった。それが、心地よかった。新潟大学の機械工学科卒である。

会長が、南部の本社にテクノセンターを作って、彼を所長として呼び戻した。会長は、一緒にゴルフをしたときに、田中君、お前のところに行っているだろ、しばらく、頼むよと言っていた。
網目のパイプは、南部の大井川工場で作っているが、私と田中さんの共作品だ。

インドネシアで貴重な人の訃報を受け取るのはつらい、悲しみを分かち合う人がいないからだ。このことで、誰にも話ができないからだ。インドネシアは今朝も大雨。

ご冥福を遠くから祈ります。

こんな人シリーズ 2

太っている人の特徴か、そうでもないと思うが、この人はとにかく座りたがる。そして、必ず踏ん反り返る。私より10歳若い。PT,KITAGAWA四代目の社長だ。

会社内では疲れるほどの仕事はやっていないし、移動でも、車の後ろで居眠りしているだけなので、(単語を覚えれば今ではかなりの数覚えていると思うのだが)疲れるわけがない。現場で、従業員と話すわけでもなく、冷房の効いた部屋で、ふんぞって座り込んでいるだけ。

 周りに誰がいようとお構いなしにふんぞり返って座る。事務所では誰が前に立った時でもそっくり返りながら話す。前社長と大違い。前社長の時は、いすを前において、座ってもらって話しをしたが、H社長はそんなことは思いつかない。立たせたままである。

サンヨーMさんが私の客としてみえた時、呼ばれてロビーに向かった、そのとき見た光景が、ソファーでH社長がふんぞり返って、新聞をかぶるように大きく広げて読んでいる。 その後ろで、Mさんが、見本パネルを立ったまま見ていた。ひどい構図だと思った。挨拶した後の構図とは考えられない。Nは無視している構図だ。Mさんに声をかけ、応接室に移ってもらった。5分ほど後、工場を案内するために応接室を出た。Hは全く同じ構図で新聞を読んでいる。恥ずかしくて、紹介し、工場に入る許可を取る雰囲気ではない。「あの人は社長?」と聞かれたが、「お客さんでしょう」と返事した。

Mさんが帰って、しばらく後、H社長、私に近づいてきて「部外者を工場に入れる時には、私の許可を取ってください。K本社社長からも言われているから」といってきた。自分の態度は棚に上げて、言ってくるだろうなと予想していたので、「そうですか」と返事して終わりだった。

「社長なら、また、営業の仕事をしてきたなら、知らない顔をしていないで、せめて、挨拶して、パネルの説明をするとか、私が来る前に応接室で待っているように案内するとかしなさいよ」こういうことが出来ない人が、状況に気が付かないで注意するという、頓珍漢にも呆れる。一事が万事ということでしょう。態度のでかさだけが目立ち、気遣いは無い。サラリーマン社長の悪い見本、権力に対するゴマすりの気遣いだけだ。「首をかけてでも、やらなければならないと思ったことはやるから」と威勢のいいことを最初だけ言ったが、首をかけるほどのことは何もやっていない。それに近いこともやっていない。せいぜい、事務所内に似合わない壁を作っただけ。何もしない、できないから、首になるのではないかなと思わされる。ロビーで来客(何人であろうと)にたまたま会ったときは、挨拶か自己紹介ぐらいしなさいよ。ふんぞり返ったままでいてもいいとK本社社長が言ったのですか。

病院へ私を見舞いに来た時も、私が起きて立って応対しているのに、彼は、私より10歳も若いのに、いすを探し出して、どかっと踏ん反り返りながら、保険が利かないインドネシアの病院へなぜ来るの、早く日本に帰りなさいよ。と、のたまった。もう、あきれて返事ができなかった。

自分より位が高い人の前ではそういうことはないでしょう。自分より位が低いと思っているからふんぞり返るのでしょう。多分、親の育て方が悪かったのでしょうか、それとも、遺伝でしょうか。こういう人を治療しようがないと思う。

自分で会社を興してから、20何年間、色々な人と出会ってきたが、付き合う人々は社長として見るので、違い関係や上下関係、損得関係ははっきりしていた。だから、だれも私に対して文句を言ったり、怒鳴ったりしなかった。そういう経験が私にはないのです。だから、インドネシアで始めて、53歳にして、怒鳴られるということを経験した。大変ショックだった。怒られると、この人、頭がおかしいいんじゃないのと思う。怒られて、なるほどと思ったことは一度もない。
 事実、どう見ても、私のほうが能力は上だし、結果も私のほうが出しているし、第三者からの評価も私のほうが上である。しかし、冷静さを欠いて私を叱る。自分は何様と思っているのでしょうか。総じて、インドネシアで同じ会社で出会った人は怒りっぽい。私より若い人からも怒鳴られた。これには本当に参ってしまった。言って聞かせてやろうと思っても本人冷静さを欠いているし、私の言うことを彼らの頭の中身が理解できないのだから仕方が無い。本当に参ってしまった。
 そういう人は私より会社では責任ある立場だし、私が処理(日本へ返すとか、他の人と変えるとか)出来ない立場だし、かといって、直ぐ逃げ出すわけにも行かないので、なお弱ってしまう。
 オタンウータンはインドネシア語で森の人ですが、96年からインドネシアで仕事を始めて、出会った人々は私にとって初体験の変わった人が多かった。これが一般社会の普通の人たちかもしれないが、私にとっては、オランウータンに会うように新鮮だったし、ショックだった。これほど、人間はいろいろな種類があるのかと。余りにも世間知らずだった。
 私と一緒にやりましょうよと、言われた時などは、まったく返事にこもってしまう。この人の発言や行動の裏付けは何だろうと考え込んでしまう。私と一緒にやれる何も持っていないのに。
             

誰のこと

こんな人シリーズ 1

三連休(バリのNyepi ヒンドゥーの休日)を利用して、今、スマトラのブキットティンギ(Bukittinggi)“高い丘”という意味の町に来ています。この旅行のことは後日、投稿します。

あちこち、旅をし、ブログやウェブサイトも毎日、大体決まった時間に書いている。日本時間03:00ジャカルタタイム01:00 これにも投稿をしている。土日には買い物、ゴルフ、ドライブ、たまには休日出勤、平日は勿論仕事、こんな調子で、本当にちゃんと仕事をやっていけるのか疑問に思う人もいるかもしれません。ちゃんとやっています。それも、他人より頼りきられて、私でなければできないことを引き受けてやっています。私がいなくなったり、放棄したりしたら、たちまち多くの人の仕事も止めてしまいます。責任重大です。それに、技術を教えて後継者を作らなければなりません。私がいる時間は限られています。誰かに、引き継いでやってもらわなければ、また、多くの人に迷惑をかけてしまいます。

その対象人物をやっと見つけ出した。4月から、その人に教える時間がまた必要になり、今よりもっと忙しくなります。こんな生活をしているから、パニック障害にかかって、大変なめにあったにもかかわらず、すっかり、よくなったと自分では判断しているし、動いて何も心配事がないので、また、元の無茶な生活に戻ってきてしまっています。医者に報告したらとんでもないと言われそうなので、黙っています。

今度三月二十日から十日間日本に滞在ですが、その間も大変忙しい。その合間をぬって静岡県立総合病院へ行きます。パニック障害のチェックです。何をチェックするかというと、世間話をするだけです。それでも、医者に会って、お互いの顔を見れば安心です。

とにかく、その医者に、薬を飲むのを止めていいといわれるまで、薬を飲み続けている病人です。何にも具合が悪いところがない病人です。2008年以降、薬は持っているだけになっている。
 
 パニック障害にご理解を!!!!!
 貴方の身の回りにも悩んでいる人がいるかもしれません。

 PT、KITAGAWA初代社長
 大間違いの見積もりを出す人
 噂話の扱いを知らない
 Dihiさん 筑紫
 無責任はあんたでしょ
 危ない人
 危ない人達
 厄介だった 助かった
 生きていけるのかな
 機内 隣の席の人
 大学の同級生
 気の毒な人たち