1月13日 どうにも動けず

1094 水分の点滴だけで何とか生きているが、その水分を尿として体の外に出せなくなり体中に水が溜まり膨らんでいる場所が多くなってしまっている。口や鼻やその回りに湿疹ができ、膿んでいる箇所もある。呼吸は普通のおようだが酸素の吸収能力が落ちでいるので酸素吸入を強くしている。目を時々開いて上を見ている。視力は十分あるようだ、誰が来ていて、何を話しているのかも分かるようだ。口を閉じたり開いたりするが言葉を発することは出来ない。腕や脚はゆっくりだが少し動かすことができる。医者の話によると、以前と同じで、苦しみや痛みは無いでしょうという。夢の中にいる状態でしょうという。

 ただ見ているだけの私としては、心苦しい。見た目だけではつらそうに見える。水を抜きだす方法はないものかと思う。水分の補給を止めてとか酸素を送ることを止めてとは言えない。医者に任すしかない。かなり複雑な心境になっている。

 

先日亡くなった二谷英明さんも肺炎が死因だったとか、高齢者にとって肺炎は命取りになるようだ。肺炎にだけは掛らないように回りの人は注意してやらなければならないと思う。一種の老衰で、酸素を取り入れる能力が急に無くなってしまうらしい。肺炎が治る回復力も無くなっているらしいのです。

1月19日 ターニングポイント

1100 02:00頃 無言で病院からでた母親は、私に人生の三分の二以上に大きな影響を与えた人です。私はこの母親から生まれて良かったと、小学校のころから思っていた。勉強も運動も自分では余り努力をしたことはないが、ずっとどちらも平均点より上をいっているなという、自覚というか,自信というか、そういうものを持つことが出来た。  

 

こんな思い出がある。二つ年上の姉が小学校卒業の時に式で卒業生300人くらいの代表として答辞を読んだ。次の年の卒業式では在校生代表として私が送辞を読んだ。私が四年生の時、学校の先生が私の母親にお姉の送辞の原稿について頼みに来ていた。母親は文章というか、文句というか、そういうものを考えて作って、自分で巻き紙に筆で書いた。それを姉が呼んだのでした。次の年私が5年生の終り前にやはり、教頭が家へ来て母親に私が送辞を読むための準備を頼みに来た。それを私が読んだのでした。

母親が几帳面に書き残したものを読むと、生活の記録が多いが、死んでからのことについても15年前から書いてあった。終始一貫、葬儀は質素にということが強調されていた。

 隣近所や会社の人には知らせないでほしい。家族だけの家族葬にしてほしい。

花輪など、飾り物は一切無しにして、香典は受け取らないでほしい。

 母が書き残したものには、坊さんも一人で葬式は静かに質素のものに、家の前に葬式と分かるものは一切張ったり飾ったりしないように、短時間で全てを終えて、子供達は現在の状態に早く戻ってほしい、そんなことも書いてあった。

と言うことで、このブログをよんで知った知人や会社の方たちにも、葬儀の具体的なことは一切おしらせしません。妻が関連しているグループの人々や場所が離れている親戚の方、私の姉(あるものの営業販売)、妹(ある保育園の理事)達の勤め先の方やお付き合いがあるかたにも知らせないので、私も正式には誰にも、どこにも、時間や場所など予定を知らせません。どなたにも、です。

会社の人達はブログで知ったわけですが、私からは会社に報告はしません。忌引きとかそういうことも関係ないので必要が無い。事実今日も、あまり仕事は無かったが、出勤していた。今日は“友引“だったしね。

葬儀屋も20年以上前から互助会に入っていて、毎月会費を積み立てていた。その葬儀屋に任せることにもした。とにかく、私たち子供に負担を掛けないように心がけていたようで、私の母親としてはそのくらいの事をしていても特に驚かない。

大正5年生まれ、数えで96歳の天寿を全うして安らかに眠ったのですから、そのまま、母の書き遺したことに従って、静かに見送りたいと思っている。

自分もこういう死に方が出来れば良いと思うが、筋書き通りに行くかどうか。

1月22日 静かにそっと

1103 火葬場もお寺も大忙しで順番待ち。今日まで母親には待たせたが、今晩から一連の流れが始まった。

 本当に内々なので集まる人は20人にも満たない。かなりの質素だと思うが、気を使う必要が無いので気が楽である。

 坊さんとは初対面だと思うが、こちらの雰囲気を理解してくれてかどうか、形式ばらずに、迅速にやってくれるし、自分が車を運転して機動的に動いてくれるので助かる。余計なことをせずに、葬儀屋と坊主に任せておけばいいと思う。

 10人足らずで、母親を傍らで食事

  質素 簡素 内々

 

 

2012年1月23日 夫婦再会

1104 いとこの集合になってしまった。いとこ同士の中では、私の父母共に末っ子に近かったので、従兄弟の中でも若い方で、一番上は80歳以上、子供の頃は上のいとこは既に立派な大人だったこともあり、付き合いをしたという感じはなく、偶に話しをするときは可愛がられていたという感じだった。平均年齢は75を超えているかもしれない、それでも二人欠けているだけでした。昔話に話しが咲いたというところでしょうか。母親が久しぶりの従兄弟会を開催する機会を作ってくれた。

 この従兄弟達の中に、肝心な女性がいなかった。私の憧れのお姉さん的存在の東京のマサコちゃんでした。亡くなっていたのでした。当時高校生だった彼女の日本舞踊の姿は小学生の私にとっては眩しい存在でした。

 小学校の夏休みお盆の頃毎年、富士川町岩淵の私が生まれた場所の近くのおじさんの家に一週間ほど泊って、富士川で魚とりや水浴び、山に入ってセミやカブトムシを捕まえに行っていた。毎年いっていたのは、彼女の姿を見たかったのも理由の一つでした。

 

出棺、火葬、葬式、納骨、精進落まで流れるような行程を一日で終了、しきたりで初七日以降は日を変えることになっているらしくて今日は出来なかった。ともあれ、親父が一人きりで20年待っていたお墓にやっと二人目が収まり、夫婦再会。2人とも、御苦労さま、お疲れさま、でした。

 順番通りなら、自分が作った墓に、次に、無言で入るのは自分である。

 

粛々 再会 懐かし

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母親との別れ

1月17日 

           腎臓の機能がほぼなくなってしまったので、点滴している水をおしっことして排泄しなくなり、体中の皮膚の下に溜まってきてしまって、全体がぶよぶよになり、どこか、皮膚に穴が開くと水が流れ出す。その箇所にパンパースを巻いてある。溜まってしまうばかりなので昨日から水の点滴は溜めている。 痛みや苦しさはないらしいので、それらを和らげる麻酔のようなものもいれていない。只、待つのみ。

困難の後には必ず解放感が待っている。人の世の常である。私が高校まで住んでいた家のトイレ(便所)にしゃがみ込むと壁の目の前に達筆な鉛筆書で“この世の中”と書いてあった。小学校の低学年の時からずっとトイレで大をする度に読まされていた。誰が書いたの?と何度も母に尋ねたが、私じゃないと、答えた。しかし、それは紛れもなく母が書いたものだったと確信している。

生活の記録

2011年12月27日 (^_-)-入院した母

 先ほど01:00頃母親を病院へ運んで、そのまま、入院させた。

 会社を早引けして母親の見舞いに行ったが、睡眠薬が効いていて完全に眠ってしまっていて話しは出来なかった。しかし、熱は平熱に下がっていたし、呼吸も平常に戻っていた。顔色もよく、先ず、安心でした。

とにかく、96歳なので、医者も、どうしますか、処置をしますか、このままにしておきますかと聞いてきた。そのままにしておくとはどういう事?何を云っているんだ?悪いところが有れば治してもらいたいのは当り前でしょう。それを、何も、しないでおきましょうか、とは、何を云っているのだ。結局、肺炎なのです。その治療のための抗生物質を投与してもらうことと、熱を下げてもらうように頼んだ。一週間の予定で入院し、様子を見る。その結果に依って、また、次の手を考える、ト、返事をした。母のカルテはこの病院に20年前ほどからお世話になっている事を証明している。今回の医者は、寝ているところを、呼び出された、若手で、母を始めて担当することになってしまった。こちらにしても、彼を頼りにするしかないので、丁重にお願いした。

空いていたので、ナースステーションに一番近い、個室で、一週間、面倒を見ていただくことにした。まだ、葬式は出したくないので、もうしばらく、我慢して、この世にいてほしい。

1月6日 

 母が個室へ移されたと聞いてびっくり、もうだめかと思って慌てて病院へ掛け付けたら、個室が開いたので移しただけだという。理由は見舞いに頻繁に来るし、妹が泊まり込む日が多いので大部屋より個室が良いだろうと判断したらしい。完全に目を開けてこちらの云うことが分かる。何か言いたくて口を動かそうとするが、声にならない。そこで、今言ったことはこうか?と聞くとうなずく。突然、ガクッといくかもしれないが、症状は改善しているように思う。二週間ぐらいは日本を離れても大丈夫だと思うようになってきた。

1月4日 生きる力

1085 担当医とつい2週間前まで私のことを心配していた母親の様子について話をした。苦しんでいる様子は無い、痛がっている様子も無い、様子として、目は見えている、話は聞ける、しかし、話そうとしているが殆ど口は動かせないし、声にならない。体は動かせないが、手足は多少動かせる。血液検査の結果は正常、悪くなる傾向は無い。ただし、只一つ、慢性骨髄性白血病は15年以上前に診断されていて5年くらいまで薬を処方されていたが、今は、改善しようとしていなかった。今回の入院は高熱(40℃近かった)で病院へ運びこみ、肺炎と分かった。 超老人の肺炎は命取りになることは知っている。

 

その治療をするために入院させたが、肺炎に依って、体力の衰えを急激にさせてしまって、今の状態になってしまっただろうと医者は言う。「体調は安定しているが、改善するにしても、車いすの生活まで回復することは無いでしょう。このままの状態で家に帰るということも考えにくい、何週間、何カ月持つとは言えないし、半年以上ということも無いでしょう。」「ある日、看護婦から、呼吸が止まっているという報告があるかもしれません、ただし、今、点滴をしている水分などと肺炎治療のための抗生物質の補給は継続します。血液検査は定期的にしますが、これは、治療のためではなく、現状を分析するためです。」「もう、痛みも感じません、苦しみもしないでしょう、眠るように天寿を全うすることになるでしょう。」

 こう言われたら、皆さんなら、どう答えますか。

 私がここ1週間ほど毎日観察している限りでは、入院時より徐々に回復方向にいると思っていて、この調子で行けば、2、3週間後には、話ができるようになるのではないかと希望を持てるようになっていた。だから、このまま、ある日眠るように亡くなるということは考えない。ただ、医者の考えに反発して、何かをしたいとか、してほしいとかいう程の資料も知識も経験も無い。医者が話してくれたこと納得し、静かに病院で過ごしてもらうしかない。「よろしくお願いいたします」というしかなかった。また、それが、最善だと思う。

 ま、もし、苦しみもせず、痛みも感じず、眠るように、この世から去るというのは私もそうありたいと思っているので、母親が天寿を全うし、永遠の眠りに就くなら、私自身も納得できる。いつかは、こんな時が誰にでも来るのだから。

 2週間に一回ほど、ドクターから様子を伺うことにした。

 インドネシアへ行く日は決まっているが、そう長い間、向こうにいることは出来ないでしょう。日本にいる時間の方が長くなるでしょう。

 私の深層心理はこんな感じ。

 母親 天寿 まだ